ジンベエザメはあぶくとなった
これは、私が中学生の頃のお話です。
当時、私のクラスには、『木村優摩』と言う男の子がおりました。
彼は普通よりちょっと背が低く、女の子みたいに髪が長かったものですから、クラスメイト達からは、たびたび、いじめの標的にされていました。
いじめと言っても、そんな大層なものではありません。
体育の時にグループに入れてもらえないだとか、話しかけても無視されるだとか。その程度のものです。
そんなこんなで、一学期の終わりには、彼はすっかり空気のような存在になってしまっていました。
——私がそんな彼と親しくなったきっかけは、本当に些細なものです。
彼はいつもひとりぼっち。
誰かと一緒にいるところなんか、見た事がありません。
きっと、『友達』なんて言える存在はいなかったのでしょう。
毎日毎日自分の席で、家から持って来ているのであろう、ボロボロの図鑑を読んでいました。
もちろん、始めはそんな事、気にも留めていませんでした。
私も、彼をいじめていた人達と共犯。
『傍観者』の一人でしたから。
……だから、最初はそう。これは本当に、ただの気まぐれでした。
ある日、私はふと気になって、さりげなく彼の手元を覗き込んでみたのです。
『小学生の図鑑”魚”——サメ目——』
すっかりよれて、折れ目のついたそのページを、彼は静かに眺めていました。
それからしばらく、私は彼を観察してみる事にしました。
毎日、チラリと。
横を通るときに、さりげなく、手元を覗くだけ。
でも、いつ見ても彼は同じ。
あの図鑑を、ただじっと、見つめているだけでした。
「サメ、好きなの?」
彼に話しかけたのは、ほんの好奇心からです。
他に意味はありません。
彼は少し驚いたような顔でこちらを振り向くと、本のページを撫でながら、小さく答えました。
「……うん。かっこいいから」
か細く、消えてしまいそうな。
それでいて、透き通った声でした。
この時の彼の表情は、今となっても忘れられません。
虚ろな瞳に感情は無く、私はなぜか、彼を”ガラス”のようだと感じました。
「他に好きな魚はいるの?」
「へぇ、こんなサメもいるんだ」
「このサメとか、かわいい顔してるね」
それから数日。
私は、昼休みに彼の席を訪れては、こんな会話をするようになりました。
はじめは全く笑わなかった彼も、しだいに、私に心を開いてきてくれたのでしょう。
わずかに口角を上げるだけではありましたが、二週間もすると、少しだけ、笑顔を見せるようになってくれました。
そして私は、そんな彼に、だんだんと惹かれるようになりました。
「さめまる、聞いて聞いて」
「さめまる、昨日、”ラブカ”ってサメが……」
『さめまる』、親しくなるにつれて、私が彼につけたあだ名です。
サメが大好きで、彼の透き通った雰囲気が、綺麗な丸いガラス玉みたいだと感じたから『さめまる』。
初めてそう呼んだ時、彼は、『なんだよ、その雑なあだ名』と言って笑っていました。
でも、特に嫌がるそぶりも無く、そう呼ぶ私を受け入れてくれました。
——さめまると会話をするのが“当たり前”となってから、しばらくの事。
「僕ね、大阪の大きい水族館で、ジンベエザメを見るのが夢なんだ」
夏休み直前、さめまるはそう、私に告げました。
この頃の私はもう、胸が締めつけられるくらいに、さめまるに惹かれきっていました。
私はもう、ただの傍観者ではありませんでした。
どこに惹かれたの?
なんで惹かれたの?
……理由は、ありません。
私自身、自らの感情に、戸惑っていました。
私は、数秒口に出すか思い悩んだ後、思い切ってこう答えました。
「……じ、じゃあさ。夏休み、私と一緒に見に行かない? ジンベエザメ」
この時の、胸がじんわりと熱くなっていく感覚は、今でも覚えています。
耳にざあざあ血が流れる音も、今でも時々思い出します。
私が答えると、さめまるは一瞬丸く目を見開き、そして少しだけ頬を赤らめ、顔をくしゃっとして笑いました。
彼の笑顔は、まるで朝焼けのように、私の心を薄紅色に染めました。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
八月中旬。
私はさめまると、例の、大阪にある水族館へ行きました。
かわいいワンピースに、お気に入りのポーチ。
側から見れば、少々浮かれているように見えたかもしれません。
それでも私は、びっくりするほど真面目でした。
私は駅で待ち合わせをして、さめまると一緒に東京から大阪まで、新幹線に乗りました。
彼と一緒にいる時間は、何もしていなくても幸せでした。
——さめまるは、どうだったのでしょうか?
今となっては、もう分かりません。
確かめる術は、もうありません。
電車に揺られ、少し歩くと、水族館に到着しました。
他の魚達やイルカ、ペンギンには目もくれず、私達は、まっすぐ大水槽へと向かいました。
人の波をかき分け、手を繋いで辿り着いたその先。
大きな大きなアクリルガラスの向こうで、二頭のジンベエザメがゆうゆうと泳いでいました。
青い水玉模様の巨大なサメは、それはそれは大層美しく、私は時を忘れてうっとりと見入っていたものです。
しばらくして、私は、さめまるの手が震えているのを感じました。
はっとして隣を見ると、さめまるは静かに泣いていました。
ジンベエザメを見つめ、肩を震わせ泣いていました。
ポーチからハンカチを取り出し彼に渡すと、彼は涙声で”ありがとう”と言い、キラキラとこぼれる涙をそれで拭いました。
帰りの新幹線、東京に着くまで、私は穏やかに寝息を立てるさめまるを見つめていました。
閉じた目から時々流れる涙を、何度も、何度も、私はハンカチで優しく拭いました。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
時は流れ九月一日、一学期の始まりです。
私は淡い期待を胸に秘め、いつも通り学校に向かいました。
しかしどこかおかしいのです。
いつも朝早くから来ているはずの、さめまるの姿がどこにもありません。
(風邪でもひいたのかな?)
そんなことを考えながら教室で待っていると、あっという間に朝のホームルームの時間になり、教室に担任の先生が入ってきました。
先生を見て、私は(あれ?)と思いました。いつもだらしなくシワのついた服を着ている先生が、今日に限って、黒いスーツとネクタイをきちんと着こなしているのです。
それを見て、私は、だんだんと血の気が引いていくのを感じました。
一体何があったのか、先生の態度と雰囲気で、私は漠然と理解しました。
「今日はみなさんに悲しいお知らせがあります。木村優摩君が亡くなりました。自殺だったそうです。」
(ああ、やっぱりそうなんだ。)
先生の言葉を聞き、私は目の前が真っ暗になりました。
後の事はあまり覚えていません。
家に帰ってからも、私はずっと泣いていたような気がします。
(あの時私が、話を聞いていれば。たった一言、何で泣いているの? って聞いていれば)
私はさめまるを思い出しては、何度も後悔しました。
なんで何も知らないふりをしていたのだろうかと。
そう、私は気づいていたのです。
理屈はありません。
二人でジンベエザメを見に行ったあの時、さめまるはもうすでに、死ぬ事を決意していたのです。
ですがいくら後悔したところで、もう遅いのです。
何で死んじゃったの?
辛いなら何で相談してくれなかったの?
そんな事考えたところで、今更答えなんか返って来ません。
さめまるも、帰っては来ません。
それでも私は、あの日彼の涙を拭ったハンカチを握り締め、いつまでいつまでも泣いていました。
涙が枯れ果てるその時まで。
これで私とさめまるの、淡い恋の物語はお終いです。