お江戸に恋して ~ 市之助 と おはま の ある夏の日の物語 ~
それは夏の暑い日だった。
昼下がりの江戸の町はまくわうりの行商の声が風鈴の音に乗って響き渡り、
夏がまだ終わらないことを告げていた。
いつになく大工仕事が早く終わった市之助は、足早に家路へとついた。
江戸へ来てこの秋で早一年が経とうとしていた。
幾度となく通ったこの道は
もうカラダが勝手に覚えているようだ。
先週、大工の親方に酒を飲みに連れ出され、
呑めゝと言われ少し羽目を外し大いに酒が回った状態でも、
市之助はしっかりと家にたどり着いたのだから
おはまと暮らすこの貧乏長屋が『住み慣れた我が家』となった事を否定できない。
市之助が家路へと急ぐのには理由があった。
それは、おはまの様子がこの間から変なのだ。
この間、というのは市之助が
江戸で初めて記憶を飛ばした酒の夜の翌朝からなのだが…。
翌朝目が覚めると、市之助は寝間着を着て布団に入った状態であった。
枕の横には見覚えのない乾いた手ぬぐいがはたりと落ちている。
昨日来ていた綿の着物はキレイにたたんで寝床の横に置かれてあった。
朝日の差し込む狭い部屋を見渡すと、すぐにおはまの後姿が飛び込んできた。
何やら繕い物をしているらしい。
「おはまさん・・・」市之助が声をかけると
細い肩をびくっと肩を震わせておはまは固まった。
そのすぐ後に、取り繕うように
「あ、目が覚めましたか。お、おはようございます…わたし、ちょっと…お使いに行ってまいります!」
と目も合わせずにバタバタと飛び出したと思ったらすぐに戻ってきて
「あ、あの、朝ご飯はそこに置いてますから!」
そう言い残して夕方まで帰ってこなかった…
なんて事があった。
それ以来、ずっとよそよそしい態度のおはまに市之助は困惑していた。
あの夜に介抱してくれたおはまに自分が『何か』やらかしてしまったとすれば、
おはまの態度にも説明がつく。
しかしそうすると、今度は困惑と同時に焦りも出てくる。
一刻も早く事の顛末を確認し、
もしも市之助が思うような事をしでかしたのであれば
詫びを入れなければならない。
しかしおはまは目も合わせず、当たり障りのない会話をしては早々に寝床についてしまう…。
どうにか話すきっかけをと、くる日も来る日も足早に家路についているのだ。
急に江戸にタイムスリップしてしまい、成り行きでおはまと長屋生活をする事になってからこの秋でもう一年が経とうとしている。
だが、いつか現代に帰れた時のことを思ってか、
二人はずっとどこか他人行儀な態度を崩さず、
ある一定の距離感をお互いに感じながら日々を過ごしていた。
おはまが自分の事を決して嫌いではないのは態度で感じられるし、
市之助自身もおはまの事は嫌いではない。
いや、むしろ、これまで知らなかった彼女の一面を見るたびに好ましく思う事が増えている自分がいることは否定できない。
でも…
「だめだ、俺には待っている家族がいる。どうにか現代に帰らなければ…」
つい、心の声がのどを通ってぽそりと出てしまった事に気づいたと同時に、
市之助は自分の家の前に誰か男がいる事にも気が付いた。
玄関先で、おはまがなにやら楽し気にその男と談笑している。
男は後ろ姿で顔が見えないが、
おはまはしっかりと相手の顔を見て時折楽し気に声を立てて笑っている。
もや、とした感情が湧き上がるのを市之助は感じた。
…おもしろくない。
自分とは近頃目も合わせてくれないのに…。
その場に突っ立ちながらそんな事を考えていると、
おはまが市之助に気づき、ぺこりと頭を下げた。
その男もそれに気付き、こちらに向かって軽く礼をした。若い男だった。
半刻遅れて市之助も礼をすると、男はじゃあとおはまに言い去っていった。
その場に残ったおはまは、またいつものぎこちない態度に戻り、
歩いてくる市之助に向かって
「お、おかえりなさい…」
と言った声はか細く今にも消え入りそうだった。
その時自分が何を考えていたかよく解らない。
ただ、おもむろにおはまの手首をぐいと引き二人の住む長屋に引き込んだ。
今日こそはあの夜の事を聞くのだ。そしてあの男は誰なのかも聞くのだ。
こんな衝動にかられたのは生まれて初めてだった。
聞いてどうするかなど今は考えられない。
この感情の正体も解らない。
ただ只管に一刻も早くおはまが笑顔で自分を見てくれる事ばかり考えていた。