火影②
朝から雨が降っていた。笛村真織は『A大学』の授業を終えて、一旦、自宅に帰ってから、神田神保町にあるアルバイト先のバー『火影』に出勤した。チイママの高山百合子とアルバイトの朝倉由美が先に来ていてテーブル席などの掃除をしていた。その後に江口恵子や秋川スミレが顔を出した。月曜日なのに営業時間と同時に『松川書房』の目黒課長と小寺係長が来店した。どうも松川社長や岩井部長の仕事上の指示に対し、彼ら2人は不満いっぱいみたいだった。そんな2人にチイママの百合子が、訊いた。
「どうしたの2人とも。月曜日から、そんな暗い顔をして?」
「サラーリーマンは気楽な稼業ときたもんだなんて、言うけど、実際は厳しんだ。岩井部長が、松川社長にペコペコでね。俺たちに無理難題を押し付けるんだ」
「まあっ。イワちゃんが。貴男たちに、そんな無理な事を」
「そうなんだ。雑誌の広告部分を、もっと増やせと言うんだ」
「そんなことしたら、購読者が反って減ると目黒さんが言ったら、社長が、目黒さんを激しく怒鳴りつけて大変だったんだ。岩井部長は怒る社長を鎮める事も、諫める事もせず、社長と一緒になって、広告を増やせと言うんだ」
「それは大変ね」
『松川書房』の仕事のことで、ワイワイ、ガヤガヤしていると相原小雪ママと国枝マスターが出勤して来た。小雪ママはチイママたちが騒いでいるので、何事かと確認した。すると目黒課長が、泣き顔をして、今日、『松川書房』であった事を話した。それを聞いて、小雪ママは笑った。
「残念だけど、松川社長は、もっと利益を上げたいから、そう言うの。でも読者の気持ちを理解しないと、目黒さんの言う通り、広告で得る利益より、読者減少での減益の方が大きくなるかもね。世間知らずの2代目社長の言う通りになるか、やってみなさいよ。それに従うには議事録を書いて社長とイワちゃんのハンコを押してもらっとくのよ」
「ハンコをもらうなんて出来ませんよ」
「もらわないと駄目よ。そうで無いと、失敗した時、目黒さんと小寺ちゃんの責任にされてしまうわよ」
「成程。そういうこともあるかも・・・」
目黒課長と小寺係長は小雪ママのアドバイスを受け、胸に詰まっていた鬱憤が吹き飛び、元気になって、ビールをがぶ飲みした。真織たちは、そんな2人を見て笑った。そうこうしていると、『C大学』の角田豊造や『赤松商事』の横山課長などがやって来て、『火影』の中は、賑やかになった。一方、吉岡昇平は『М大学』の教室で、船木省三や手塚秀和が現れるのを待っていたが、彼らは雨が降って、学校の授業に出るのが嫌になったのか教室に現れなかったので、寂しい気分になった。そこで教室に来ていた小平義之と下村正明が、麻雀メンバーも、そろわないのでパチンコしに行こうと言い出した。それで3人で神保町に繰り出した。神保町のパチンコ店はネオンを輝かせ、ジャラジャラ音をさせて、繫盛していた。だがパチンコ店に入った3人ともパチンコに挑戦したが玉が出なかった。頭に来た小平義之が昇平と下村に言った。
「頭に来た。気晴らしに俺の知ってるバーに行こう。綺麗な姉ちゃんたちが、沢山いる店だ」
「神保町にそんな店があるのか?」
浅草界隈で遊んでいる下村は小平のいう事に半信半疑だった。だが昇平は『火影』などがある飲み屋街を知っていたので、どんなバーに案内されるのか興味を持った。広告代理店『博報堂』に勤める小平たちが利用するバーとはどんな店だろうか。そう思って先に立って歩いて行く小平の後を付いて行くと、何と小平は紅いランプの灯るバー『火影』の前で立ち止まった。昇平はびっくりした。時々、『火影』に来ていたのに、今まで小平と会う機会が無かったのが不思議だった。ドアを開けて中に入ると、小雪ママをはじめ、ホステスたちが、いらつしゃいませと言った。真織は昇平だと気づくと、変な顔をしてカウンター席に移動した。小平はチイママ、高山百合子と江口恵子に案内されたテーブル席のソフアに昇平と下村を座らせると、偉そうに言った。
「百合ママ。今日は俺の純情な友達2人、連れて来たよ。こちらが下村、こちらが吉岡」
「チイママの百合子です。よろしく」
「恵子です。よろしく」
3人に応対する百合子と恵子が挨拶すると、下村が挨拶した。
「下村です。よろしく」
昇平は、既にチママたちとは知り合いだったので、挨拶をしなかった。すると、小平が昇平に言った。
「おい、吉岡、何しているんだ。挨拶しろよ」
「あっ、済みません。吉岡です。よろしく」
「こちらこそ、よろしく。純情な吉岡さん」
チイママの百合子は、そう言って、恵子と一緒にクスクス笑った。小平は首を傾げた。
「何が面白いんだよう?」
「だって、2人とも小平ちゃんと違って、とても純情そうだから」
「じゃあ。俺は何なんだ?」
「恵ちゃんの占いでは邪心のある男じゃあなかったかな」
「そう。悪質な女殺しだったわね」
そんな会話を始めた所へ、昔、軍曹だったという男が『火影』に転がり込んで来て、由美が、その相手をした。その年配男は、戦場に赴いた時の経験談を若者に話したくって、昇平たちの席に移動して来て、彼は軍隊の厳しさと、戦場での残酷さを得意になって話した。昇平は、その軍曹の話を真剣な目をして聞いて上げた。年配男は自分の話したいことを喋り終えると、今の若者にしっかりしてもらいたいと言って、ぐでんぐでんになって『火影』から出て行った。その年配男が出て行ったのを見送るや、小雪ママは昇平に視線を向け、一瞬、ニコリと笑った。昇平も笑い返した。そんな昇平の学生服を着た笑いを、小雪ママは可愛いと思った。もし真織に少しばかり燃え始めている青年の純潔を破り、彼を征服することが出来たなら、自分は強い喜びと刺激に酔いしれることが出来るに違いない。純情な青年の愛欲を受け入れられれば、自分は頽廃的な自分の生き方から脱皮することが出来るかもしれない。小雪の胸に、一瞬、悪魔的欲望が、黒い風のように横切った。小雪は昇平を誘惑することを夢見た。真織は真織で、昇平の事を気にしながら、常連の新聞記者との会話をカウンター席で楽しんだ。小平は昇平と下村の前で、恥ずかしげもなく百合子ママを口説いた。
「百合ママの作ってくれる洋酒は、とても甘いね。この世に、これ以上に甘いものがあるだろうかと思うくらいに甘くて、俺を酔わせる」
「それは良かったわねえ。でも私、何も入れていないわよ。世の中には、もっと甘いものがあるわよ」
「分かっている。それは百合ママの唇だ。俺は百合ママの唇が欲しい。俺は百合ママのことが好きだ。この上なく甘い百合ママの唇を俺に吸わせてくれ」
「駄目よ。純情な男の人でなくては駄目」
「下村や吉岡のようにか」
「ヨッちゃんて、そんなに純情かしら?百合子には、そう見えないんだけど」
「吉岡は純情さ。彼は高校時代から坂百合弘子という女性に片思いしていて、まだ忘れることが出来ないでいるんだ、羨ましい程、純情で、その思いは美しい」
「まあっ」
小平の言葉に百合子は黙ってしまった。真織はカウンター席で新聞記者と話しながら、百合子や小平の会話に聞き耳を立てていたが、坂百合弘子の存在を知ると、蒼白になった。無理して新聞記者に笑いかけて、心の動揺を隠した。小雪ママは小平に片思いの女性の名を暴露され俯いてしまっている昇平を見て、昇平の事を、一層、可愛いと思った。小平は『火影』の女たちに、囲まれ、ちやほやされ、まるで殿様気分になって、昇平と下村に言った。
「吉岡。そう照れるなよ。初恋は実らぬものだ。彼女のことは忘れろ。それが良いよなあ、下村」
「うん。その通りだ。吉岡、縁が無かったと思って諦めろ」
下村は小平に同調し、昇平の肩をポンと叩いた。昇平は笑って、カウンター席にいる真織の後姿を見た。小平は昇平と下村に、自分のモテぶりを自慢したくてか、百合子ママの手を握ったり、百合子ママと乾杯し、歌まで唄い出した。昇平も下村も、かくも酒に酔い、豪放磊落に振舞える小平を羨ましく思った。10時半を過ぎると、下村が昇平に合図した。
「もう、帰ろうや」
「うん。そうだな。小平。帰るぞ」
「分かった。明日も仕事だから帰ろう。飲み代は、俺に任せろ」
小平は、そう言って、カウンター席の国枝マスターの所へ行って、伝票にサインした。『博報堂』の交際費扱いにするらしい。3人が立ち上がり、『火影』を出るのを、百合子と恵子が見送った。
「傘を持ったわね」
「うん。今日は有難う」
小平が代表して、百合子と恵子に手を振った。雨が止んで、来店時の霧も晴れて、黄色い半月が天空に浮かんでいた。
〇
昇平が『立花建設』で、図面管理の仕事をしていると、外線電話がかかって来た。電話交換手から繋いで良いか確認され、了解し、昇平は受話器を取った。
「吉岡です」
すると、女性の声がした。
「お元気ですか」
相手が誰であるか、電話交換手から苗字を聞いていたので、直ぐに分かった。『若菜病院』の看護婦、大橋花江からだった。
「あ、大橋さん」
「仕事中に御免なさいね。あれ以来、どうしているかと思って」
「ああ、元気ですよ」
「そろそろ、12月になるので、貴男にダンスを教えて上げたいと思って」
「ダンスですか」
「船木さんは元子さんに教えてもらって、随分、上達したわよ。貴男もダンスの練習をしないと」
「でも」
「でもも無いわ。兎に角、踊って練習する事よ。私が教えて上げるのだから、安心して。土曜日、午後5時、新宿の東口の交番の所で待っているわ。良いでしょう」
「は、はい。では5時に行きます」
昇平は一方的に約束させられ、了解した。そして、約束の土曜日の午後5時、新宿駅東口の交番前に行った。花江は水色のセーターに紺色のスカート姿で、昇平を待っていた。
「やあ、お待たせ。先ずは何処かで、食事をしようか」
「食事には、まだ早過ぎるわ。先にダンスに行きましょう。私に付いて来て」
昇平はウキウキしている大橋花江の案内に従った。彼女は新宿駅前から、ショッピングセンター『二幸』の前を通り、靖国通りを越え、歌舞伎町へと向かった。先に立って案内する大柄で背の高い花江の姿はお尻を振り、官能的だった。細い飲食店街を進んで行くと、突き当りに、『美空ひばりショー』などで有名な『コマ劇場』があった。昇平は、初めて見る歌舞伎町の中心部の煌びやかさに圧倒された。花江は慣れたもので、昇平を『コマ劇場』の地下にある『コマダンス』に案内した。窓口で入場券を買い、ロッカーに荷物を預け、中に入ると、薄暗い大ホールに幾つものミラーボールが回転していて、初めて『コマダンス』に足を踏み入れた昇平には妖しい雰囲気だった。派手な衣装で着飾った女性ダンサーがホールの隅の椅子に座り、黒い衣装に靴を光らせた男性ダンサーが壁際に立って客を求め、ホール中央では沢山の男女が、ダンスミュージックに合わせて、楽しそうに抱き合って踊っていた。
「さっ。踊りましょう」
花江が昇平に両手を差し出し、昇平を迎えた。昇平は、花江の豊かな青いセーターの胸に抱かれ、花江の指導に従って踊った。予備練習をしていた事と、周囲が薄暗かった事もあって、踊りに失敗しても恥ずかしく無く、花江と楽しく踊ることが出来た。マンボでは『闘牛士のマンボ』や『マンボ№5』,ブルースでは『月の砂漠』や『夜霧のブルース』や『雨のブルース』、ワルツでは『テネシーワルツ』や『魅惑のワルツ』や『ムーンリバー』、スローでは『雨に唄えば』、ルンバでは『コーヒールンバ』や『椰子の実』、チャチャチャでは『サントワマミー』や『東京ナイトクラブ』など、花江にリードされ、何とかこなすことが出来た。だがタンゴの『ラ・クンパルシータ』や『碧空』、『真珠とりのタンゴ』など、素晴らしい、曲なのに、踊ることが出来なかったのが残念だった。花江は情感に潤んだ目で、昇平を見詰めながら、腿の肉を昇平に擦り付けて踊った。昇平はターンするたびに、花江の股間に右足が入ることになるので少し興奮した。渋谷のホテル『ムーンリバー』での稽古を思い出した。ダンスホールで制限時間たっぷりに踊り終えると、2人は『コマダンス』のホールから外に出て、食事をすることにした。花江が入ったことがあるという、居酒屋『あぐら屋』に入り、刺身や天ぷらを注文し、ビールを飲みながら、ダンスの楽しさを語り合った。昇平は親友の船木省三が、今まで以上にダンスのコツを覚え、上達していると聞いて、自分もダンス教室にでも通って、ダンスを上手に踊れるようになりたいと思った。酒が入ると、花江は昇平に身の上話をした。福岡の八女という所で生まれ、看護婦になろうと頑張って来た苦労話で、以前に聞いた話が、主だったが、面白い事を言った。
「私が看護婦になったのは、イギリスの看護婦、ナイチンゲールに憧れたからよ。私は彼女のように貧しい人たちを助け、病気に苦しんでいる人たちに奉仕する為に看護婦になったの」
「それは素晴らしい考えだ。まさに白衣の天使だね」
「ナイチンゲールは、天使と呼ばれて、こう言ったそうよ。天使とは美しい花をまき散らす者でなく、苦悩する者の為に戦う者であると」
「素晴らしい考えをする人だったんだね」
「そうよ。でもナイチンゲールは大変よ。女性の多い職場で生活するのだから。節ちゃんみたいに、瀬川先生を捕まえたような人はアルチンガールになれて仕合せよ。元子さんも船木さんを捕まえて、アルチンガールになれたから、ハッピーよね。私は一応、貴男と知り合いになれて、ナイチンガールからアルチンガールになれそうで、嬉しいわ」
「えっ、ナイチンガールとアルチンガールなんて言葉があるの」
「そう。看護婦仲間の業界用語よ。ではうどんをいただいて、外に出ましょうか」
花江は、ずっと昇平をリードしっぱなしだった。『あぐら屋』を出た2人は行く当てもなく手をつないで、夜の歌舞伎町を歩いた。『大久保病院』の近くに、旅荘『エーゲ海』というホテルが目に入ると、花江が言った。
「あそこで、食後の腹減らしのダンスをしましょうか」
「うん。そうしよう」
予想していたことなので、昇平は直ぐに同意した。女でありながら男を誘う花江に呑み込まれて行こうとする自分に危険を感じたが、ギラギラした自分の欲望を昇平は抑えきれなかった。相手が白衣の天使であろうが、淫乱な魔女であろうが、最早、関係なかった。『エーゲ海』の部屋に入ると、花江は水色のセーターを脱ぎ、紺色のスカートを外し、妖しい微笑を口元に浮かべた。昇平は急いで服とズボンを脱ぎ、パンツをかなぐり捨て、ベットの上で待つ花江に跳び付いた。そしてエーゲ海の波にもまれて溺れた。
〇
12月になった。吉岡昇平はアルバイト先の『立花建設』の窓から冬空を眺めた。空が一面に晴れ渡り、東京の空なのに今日はどうして、こんなに青く澄んでいるのだろうと思った。今日は金曜日。1限目の授業を終えてから、クラスコンパのある日だ。大学1年の時からお世話になっている阿川史郎教授が同席のクラスコンパなので楽しみだった。『立花建設』でのアルバイトを終えてから、昇平は駿河台の『М大学』に行き、1限目の阿川教授のドイツ語の授業を早めに終え、その後、船木や手塚らと神保町にある料亭『三十番』でのクラスコンパに出席した。クラス委員の勝又邦男が司会を務め、阿川教授の挨拶で、コンパはスタートした。昇平は友人たちに飲め飲めと勧められたが、控え目にした。昇平は直ぐ赤面するが酒に負けることは無かった。船木や手塚や下村や久保たちも結構、飲んだが顔に出さなかった。その酒席で、初めの内、阿川教授に酒を注いでいた渡辺仁美と高宮城英子が昇平の所へやって来た。先ず渡辺仁美が切り出した。
「吉岡さん。こんなこと言いたくないけれど、高宮城さんに冷たいんじゃあない?」
「冷たいって、僕が?」
「ええ、そうよ。貴男が先に彼女に年賀状を出して、付き合いたいと言ったんじゃあないの」
「あ、あれは年賀状だよ。沖縄から来ている高宮城さんを激励する為の・・」
「そうかしら。高宮城さんに気があったんじゃあないの」
「そ、それはごめん。皆に聞かれるとまずいから、ここで、その話は」
昇平は酒をあおり、小さな声で謝罪した。すると、今まで黙っていた英子が呟いた。
「私をからかってみたかったのでしょう。こちらこそ、御免よ。では失礼するわ」
英子はそう言い残すと仁美と一緒に阿川教授の所へ戻って行った。何か変だと気づいた船木が、昇平に訊いた。
「どうしたんだ?」
「いや。女性陣に余分なことをしたと叱られた」
「そうか。彼女たちは教養がある上に高慢だから、気を付けろよ」
「そうだよな」
昇平たちが、そんな会話をしている時、日本酒を沢山飲み過ぎた手塚が悪酔いし始めた。猿の尻に夕陽が当たったような真っ赤な顔になった手塚が、初め歌など唄っていたのに、突然、酔いつぶれ、小平のトレンチコートを顔に被り、縁側で寝ころんでしまった。下村は酒に強く小平と一緒に上手に酒を飲んだ。久保は酒を沢山飲んでも顔色に出さず、底なし沼のような男だった。クラスの仲間は、この時とばかり酒を飲み、喰い、喋り、歌を唄った。三浦玲子、高宮城英子、渡辺仁美の女性3人組は賑やかなクラスの仲間たちを見て、阿川教授と笑っていた。8時半、クラスコンパは勝又邦男の挨拶で終了した。『三十番』でのコンパが終わると、クラスの何人かは新宿へ行くと言った。酔いつぶれた手塚秀和は船木省三と梅沢哲夫が手塚と同じ、小田急線なので、連れて帰るから、心配するなと昇平たちに言った。酒に酔った昇平たちは阿川教授を見送ってから、更に酒を飲もうと、神田の街を校歌を歌って、ふらついた。その途中で、下村が小平に言った。
「小平。前に連れて行ってくれたバーに行こう。俺たちも金を払うから」
「そうか。じゃあ、久しぶりに『火影』に行ってみるか」
下村が、美人がいるからといったものだから、久保厚志と松崎利男が喜んだ。5人はМ大学の『神田節』を唄いながら、神保町のバー『火影』に向かった。
♪ここはお江戸か 神田の町か
神田の町なら 大学はМ大
大学М大の 学生さんは
度胸一つの 男伊達
度胸一つで神田の町を
歩いて行きます 学生服で
学生服なら М大の育ち
ボロはおいらの旗印
ボロはまとえど心は錦
どんなことでも 恐れはしない
どんな事にも恐れはせぬが
可愛いあの娘にゃ敵わない
『火影』の小雪ママたちは昇平たちが、『神田節』を唄いながら入って来たのでびっくりした。だが、『博報堂』の小平がいるので、取りっぱぐれが無いと思い、騒がしくても、我慢した。『火影』に入った昇平たちは秋川スミレ、笛村真織、今井春香を相手に、酒を飲んだ。普段、大人しい久保厚志が多弁なのには驚いた。昇平は女性が加わると、こうも人が変わるものかと思った。松崎利男は隅の方で黙り込んでチビリチビリ飲んでいた。それを見て朝倉由美や江口恵子らと接客していたチイママ、百合子が、松崎に近づいて来て言った。
「ちょっと、イカスわね。日活の俳優にしても良いくらいね」
「百合ママの言う通り、松崎は美男子だよ。だけど男らしさでは、俺は負けんよ。松崎に鞍替えしようなんてこと考えちゃあ駄目だよ。あっちに行っててよ」
小平が百合子を追い払った。『火影』のホステスたちは何時もと違って、昇平など子供扱いだった。昇平の横に座っている真織までが、そうなので、昇平は、若干、不満を感じた。百合子に入れ替わり、今度は小雪ママが昇平の所に来て言った。
「学生さんて、良いわね」
相原小雪にとって、それは本音だった。彼女も国枝マスター同様、大学中退組だった。大学の進学率、男子10人に1人、女子50人に1人の時代にあって、最高学府で学べることは、最高の仕合せといえた。時刻が10時半を過ぎると久保が帰りが遅くなるというので、『火影』での飲み会はお開きになった。昇平は真織と帰りたかったが、松崎と一緒に帰った。
〇
笛村真織は『A大学』に行き講義を聞きながら、母、和代のことを思った。母は中原誠人医師と仕合せに暮らしているのでしょうか。たまには青山の家に来て欲しいのに、東麻布の中原家が余程、気に入って住み心地が良いのか、移ってから青山の家に来たのは真織の留守中に、2度、来ただけだ。真織は大学での講義を受けるのと『火影』のアルバイトで、毎日が忙しいので、孤独を感じる時は少ないが、それでも土曜日の夜あたりになると、流石に孤独に耐えられなくなり、寂しくなって、朝倉由美を家に招いたりした。朝倉由美は神田の『K女子大』に通っているが、高校時代付き合っていたボーイフレンドと遠距離恋愛なので、とても辛いと心情を語った。そして最近、『C大学』の学生と付き合い始めていると告白した。真織は自分が悩んでいる『A大学』の磯田賢治と『R大学』の山岡達夫に強姦されたことを、由美に告白しようかと思ったりしたが、反って更に自分が傷つくことになると考え、悩みを語ることが出来ず、1人で苦しんだ。昇平に会いと思ったが、彼は忙しそうで、何故か会う機会が無くなった。『火影』に現れる顔ぶれは、ほとんど決まっている客だった。そんな金曜日の夜の9時過ぎ、突然、『R大学』の山岡達夫が『火影』に顔を出した。山岡は真織を指名して、ウイスキーを注文して飲みながら真織を口説いた。
「これから横浜の夜景を眺めに行かないか」
「何よ。突然。こんな寒い夜に横浜なんて、行きたくないわ」
「磯田の車に乗せてもらって行くのだから、大丈夫だよ」
「磯田君、来ているの?」
「うん。外で待っている」
磯田の名を聞くや、秋川スミレが『火影』から外へ跳び出して行った。小雪ママはスミレが磯田と付き合い始めていることを知っていて、フフンと笑った。山岡は、カウンター席で、国枝マスターが傍にいるのに、熱心に横浜へのドライブに誘った。真織は、今夜、用事があるからと断り続けた。すると、突然、外でクラクションが鳴った。山岡は慌てふためき、『火影』から外に跳び出した。そして、大声で叫んだ。
「おーい。磯田。どうしたんだよ。待てよ。俺を置いて行くのか。待てよ。どうしたんだ。磯田!」
山岡が大声を上げても、最早、ジャガーをスタートさせた磯田には、山岡の叫びなど聞こえなかった。スミレを乗せて磯田が運転する赤いジャガーは呆然とする山岡を残して、神保町から走り去って行った。山岡は憤慨し、畜生と叫びながら店に入って来ると、国枝マスターに飲み代を払って『火影』から逃げるように出て行った。小雪ママは、山岡が消えてから、スミレはどうしたのかと百合子ママに訊いた。すると百合子はこう答えた。
「好きな男に、さらわれたのよ」
「さらわれた?」
「そうよねえ、マオちゃん」
「はい。スミレちゃん。磯田君と夜のドライブに横浜に行ったみたいです」
「まあっ。あの子ったら」
小雪ママは、そう言って笑った。真織は山岡と飲んでいたウイスキーを一口飲むと、カウンター席から、テーブル席の客の所に移動して、接客した。
〇
12月14日、土曜日、吉岡昇平がアルバイトをしている『立花建設』のダンス愛好社員たちが集まって新宿の『厚生年金会館』でダンスパーティを開催することになった。その為、昇平は、普段、社内の仕事でお世話になっている竹本君子と中野純子から、パーティ券を売って欲しいと頼まれて困惑した。そこで昇平は『М大学』の仲間、船木省三らに声をかけてみた。すると船木、手塚、梅沢が、パーティ券を買ってくれると言ってくれた。更に手塚が『若菜病院』の浅野洋子たちに声をかけてみたらと提案し、『若菜病院』の看護婦6人がパーティ券を買ってくれることになった。昇平は船木たちに感謝した。昇平は社内の昼休み、ダンスパーティのチケットを竹本君子から5枚、中野純子から5枚、均等に購入した。2人とも昇平のパーティ券の販売能力にびっくりすると共に昇平に対する好意をちらつかせた。彼女たちは、夜間大学に通う苦学生に密かに思いを寄せているみたいだった。そして、ダンスパーティの当日がやって来た。昇平は船木、手塚、梅沢と一緒に新宿『二幸』前で、『若菜病院』の看護婦たちと待ち合わせをした。パーティ券を買ってくれた看護婦たちは浅野洋子、岡田元子、大橋花江、川北節子、篠山優子、今井美雪の6人で、皆、それぞれに着飾って、ダンスパーティを楽しみにやって来た。全員、そろったところで、都電乗り場に行き、12番線の電車に乗り、新宿2丁目駅で下車し、『厚生年金会館』のダンスパーティ会場に行った。受付に行くと、竹本君子や中野純子や『立花建設』の男性社員たちが、昇平の率いる一行を見て、目を輝かせた。女性社員の少ない『立花建設』の人たちにとって、ダンスパーティに詰めかけて来る女性が、予想以上に多く集まって来たので、主催者たちは大満足だった。ダンスパーティは『立花建設』の親睦会の会長の挨拶で、6時丁度に始まった。初め、昇平たちは男性4人対女性6人なので、カップル選びに迷った。取り合えず、交替でカップルを組むという約束でスタートした。まず手塚が浅野洋子に声を掛けると、元子が船木を指名し、花江が昇平を指名し、節子が梅沢に誘われた。昇平は節子と踊りたかったが、スタートなので、流れに従った。セミプロが演奏するダンス曲は素晴らしかった。昇平は花江と『コマダンス』などで踊った経験もあり、ダンスパーティの雰囲気にためらいは無かった。『浜辺の歌』の曲に乗って花江と楽しそうに踊った。ダンス曲はいろいろだった。『旅愁』や『夜のプラットホーム』などの曲に合わせ、花江は大柄な身体で、昇平を上手くリードしてくれた。だが『立花建設』の設計部員男性たちに声をかけられると、昇平から離れて、そちらの方へ浮気した。お陰で昇平は解放され、篠山優子や今井美雪とも踊った。昇平はワルツが好きだった。『白鳥の湖』や『乙女の祈り』を優子と踊った。今井美雪とは『エデンの東』や『ともしび』を踊った。会社の女性、竹本君子とは『雨に唄えば』や『美しき青きドナウ』などを踊った。中野純子とは『トロイメライ』や『冬の旅』を踊った。そしてやっと川北節子と踊るチャンスが訪れた。昇平は緊張した。『水色のハンカチ』や『浜千鳥』や『エリーゼの為に』などを踊りながら、節子を口説いた。
「節ちゃん。僕は念願叶って節ちゃんと踊ることが出来て、とても仕合せだ。ずっと願って来た夢が叶えられて、今夜は最高だよ」
「まあっ。お上手な」
「嘘では無いよ。僕の事は船木から聞いているだろう」
「フランス帰りよね」
「そうじゃあ無くって、僕が君のことを毎晩、思っているってことを・・・」
「お気持ちは有難いけど、私には学ばなければならないことが、まだ沢山あって」
「僕だって、そうだよ。でも節ちゃんの愛らしい笑顔にふれると、僕は生きる勇気を得られるんだ」
「吉岡さんて、小説を書いているだけあって、本当に口説き上手なのね」
「まあ、良いさ。真実であると信じてもらえる日が来ると願って、君と踊るよ」
昇平は節子を口説きながら『ウエストサイド物語』の『トゥナイト』や『可愛い花』などを踊り満足した。すると船木が元子が『峠の我が家』を踊りながら近づいて来て言った。
「吉岡。元ちゃんとも踊ってくれ。俺は節ちゃんと踊りたいから」
「分かった。じゃあ、元子さん、節ちゃんと交替して、僕と踊ろう」
「嬉しい。フランス帰りと踊れるなんて・・」
踊る相手が岡田元子に交代すると、急に音楽が軽快なテンポになった。『赤鼻のトナカイ』や『サンタが街にやってくる』や『ジングルベル』など、クリスマスソングに変わった。昇平は覚えたてのジルバを元子と踊った。『ラストダンスは私に』になって、昇平は、元子に船木の所に戻って船木と踊るよう伝えた。
「そうね。貴男は節ちゃんとラストダンスを踊りたいのよね」
元子は、そう言うと直ぐに船木の所へ行き、節子と変わってくれた。昇平は再び戻った節子と『夜想曲』を踊った。その後、ダンスパーティの終わりを告げる『清しこの夜』の曲がホールいっぱいに流れた。昇平は憧れの川北節子を抱いて、夢を見ているようだった。だが、それも束の間、本当に終わりの『蛍の光』の音楽が流れ、ダンスパーティの幕が下りた。かくして『立花建設』の愛好会のダンスパーティは終了した。ダンスパーティの参加者は、皆、満足し、ゾロゾロと『厚生年金会館』の大ホールから外に出て、四方八方に散らばった。昇平たちは、そこから、新宿三丁目まで歩き、百貨店『伊勢丹』の裏手にある台湾料理店に入り、円形テーブルで、お疲れさん会の食事をした。沢山、踊ったので、皆、空腹だったのか、身を乗り出し、積極的に酒を飲み、中華料理をいただいた。10時半、皆、満腹になり、店を出た。昇平は新宿駅東口で西口に向かう、皆と別れた。
「じゃあ、僕、ここから山手線の電車に乗って帰るから。皆さん、ここで、さようなら」
「さようなら」
「吉岡、今夜は実に楽しかったよ。有難う」
「こっちこそ。気を付けて帰れよ」
「ああ、じゃあまたな」
昇平以外、全員が小田急線組だった。昇平は皆と別れて新宿から渋谷に向かった。昇平は、川北節子とダンスを踊れて、大満足だった。
〇
あっという間に、クリスマスイヴの日となった。大学が冬休みになり、昇平の夜の外出は、不可能となった。『立花建設』の仕事を終えるや、昇平は居候先の深澤家に帰り、従兄の忠雄や従妹の高子と一緒に夜の時間を過ごす毎日となった。この頃のテレビ番組は音楽バラエティ番組に人気があり、特にハナ肇とクレージーキヤッツの人気が高く、夕食後、それを観るのが深澤家の習慣になっていた。昇平は晩酌を楽しむ喜一郎叔父や歌の好きな利江叔母に気を使いながら、従兄妹たちとクリスマスケーキをいただき、拘束された時間を過ごした。一方、笛村真織は、年末の掻き入れ時とあって、バー『火影』のアルバイトに専念した。そんな真織ではあるが、12月中旬以降、全く『火影』に顔を出さなくなった吉岡昇平のことが気になって仕方なかった。何故、顔を見せてくれないのか、理由が分からなかった。数日前から、『火影』の入口や室内に、サンタクロース人形や花や星や旗や靴下などクリスマスの飾り付けを行い、待っているのに。神保町には朝からジングルベルが鳴り響き、夜が待てないという雰囲気だった。夕刻になると『火影』の中は『松川書房』などの雑誌社の人たち、書籍店の店主たち、『赤松商事』などの商社の人たち、『博報堂』の人たちや大学生など常連が集まり、大変だった。アルバイトの女子大生も雇ったから、『火影』の中はギューギュー詰め状態だった。そんなお客の中に『A大学』の磯田賢治と『R大学』の山岡達夫もいた。磯田は秋川スミレを横に座らせ、シャンペンの栓を開ける音を楽しみ、周囲に憚ることなく、スミレにキッスした。山岡は、それに真似ようとして、真織の手を取ったが、真織は、それを跳ね除けた。真織はいたたまれなくなり、『赤松商事』の横山課長の所へ移動した。大勢のお客を迎えて、小雪ママや百合子ママや国枝マスターは上機嫌だった。真織は江口恵子や朝倉由美、今井春香、小田美紀のはしゃぐ姿を見て、はしゃげない自分が変人に思えた。磯田のスミレとの戯れはひどいものだった。磯田は『火影」の片隅のソフアにスミレを押し付け、愛撫を続けた。それを見ていた、商店街の主人が、磯田たちに指を向けて狂喜した。
「これこそ、性夜だ、ウッハハハハ・・・」
クリスマスイヴ。聖夜の『火影』の中は熱狂的だった。酒と歌と踊りと金と男女が入り乱れ、炎のように燃えて狂い、渦巻いた。まさに『火影』は燃える火のようだった。夜は長く、短かった。10時半になると、商店街の店主たちが引き上げ、『火影』の熱狂も次第に冷めた。11時になると、ほとんどの客が帰った。磯田と山岡は何時の間にか、スミレたちと消えていた。酔いつぶれた『松川書房』の目黒課長と小寺係長だけが、まだ残っていた。小雪ママと朝倉由美と国枝マスターと真織の4人は酔いつぶれている2人を『火影』から外に運び出すと、四人だけで、簡単な後片付けをして、店の灯りを消した。
〇
学業とアルバイトで、バタバタしているうちに1年が過ぎ去ろうとしていた。笛村真織は、アルバイト先の『火影』での忘年会などの接客疲れで、やっと目覚めたところだった。自宅の縁側から眺める冬の空は冷たい程に青く綺麗に澄み渡っていた。東京の空とは思えなかった。歯磨きを終え、朝食の準備をしていると、食事部屋の電話が鳴った。母の和代からの電話かと受話器を取ったら、電話の主は吉岡昇平だった。懐かしい声だった。
「もしもし。マオちゃんですか。昇平です」
「はい。マオです」
「まだ眠っていたの?」
「そんなこと無いわよ」
「だって、中々、電話に出なかったから。僕は今、スーツケースとボストンバックを持って上野駅にいるんだ。これから10時43分発の電車に乗って田舎に帰るところだ。発車時刻まで、まだ20分程時間があるので、君に電話したんだ」
「まあっ、そうなの」
「実を言うと故郷を捨てて、上京した僕にとって、故郷は帰りたい所では無いのだが、僕を育ててくれたのは故郷だし、両親や兄弟がいるもんだから、正月に合わせて帰らなければならないんだ。居候している麻布の家からの土産物なども預かって、大変なんだ」
真織はふと、『博報堂』の小平が以前に言っていた、昇平の高校時代の恋人、遠山美帆のことを思い出した。
「でも、田舎にいる友達や恋人にも会えるから、楽しんじゃない」
若干、皮肉をこめて真織が言うと、昇平は笑って答えた。
「恋人なんていないよ。出来る事なら、田舎に帰らず、君と2人の正月を迎えたかった」
「駄目よ。両親との関係は切っても切り離すことが出来ないものよ。今の私には両親がいないけど、心の中には、ちゃんと両親がいるから、頑張っていられるの」
「マオちゃんは偉いなあ」
「ところで何時、帰って来るの?」
「今日、行って、正月の三ヶ日を過ごしたら、4日には東京に帰って来る。そしたら電話する」
「そう。電話待ってるわ。では気を付けて行ってらっしゃい」
真織は昇平の声を聞いて、明るい気持ちになった。昇平も、真織の元気な声を聞いて、幾らか明るい気持ちになった。昇平は電話を切るや信越線のホームに向かった。真織は、食卓に向かい、コーヒーを飲みながら、昇平の事を思った。彼は私の事をどう思っているのかしら。
〇
昭和39年(1964年)正月、故郷に帰省した昇平は忙しかった。元日は群馬の実家で親戚を迎え、2日目は近くの神社に初詣、3日目は同窓生との飲み会で、小池早苗と会う機会など無かった。4日目には、ちょっと寂しい気持ちで、東京の深沢家に戻り、群馬の実家の状況を叔父夫婦や従兄妹に話した。そうした忙しい正月休み中の5日、昇平は笛村真織に電話した。
「もしもし、マオちゃんですか。昇平です」
「どちら様でしょうか?」
「あっ、済みません。吉岡と申します。真織さんは、いらっしゃいますでしょうか?」
「少々、お待ち下さい」
昇平は、予想していた真織では無く、別の女性が電話口に出たので、びっくりした。昇平がドキドキしていると、真織が電話に出た。
「あらっ。帰って来たのね。今日は、母が帰って来ているのよ」
「そう。今日、会えるかな?」
「今日は、無理ね。これから東麻布に行く事になっているから」
「そう。じゃあ、また別の日に電話するよ」
「そうして。ごめんね」
昇平は真織の都合を訊き、今日のデートを断られたので、真織と会うのを諦めた。その後、船木省三に電話した。すると船木が、こう言った。
「丁度、今、お前に電話しようかと思っていたところだ。これから手塚と梅沢が、俺の所にやって来て、一緒に勉強会をする事になっているんだ。吉岡も来ないか」
「うん、そうか。じゃあ、今から行くよ」
昇平は、そう答えて、麻布から渋谷に出て、渋谷から井の頭線に乗り、下北沢で小田急線に乗り換え、『若菜病院』へ行った。『若菜病院』の船木の部屋に『磯部せんべい』を持って訪問すると、既に手塚と梅沢が来ていて、クラスの優等生、安岡則彦から借りたノートを丸写ししていた。彼らは年末、冬休みになってから、安岡のノートを借り勉強しており、正月も集まって勉強しているのだという。それを知って昇平は、自分がクラスの仲間より、遅れをとっていると気づいた。船木たちとの勉強会が終わってから、岡田元子や浅野洋子、大橋花江、川北節子たちとの卓球での遊びになったが、昇平は月末から始まる、学年末試験のことで、頭がいっぱいだった。向学心に燃えて、大学に入学して夜間通学を重ねて来た筈なのに、何時しか勉学を軽視し、怠慢になっている自分に気づいた。だから『若菜病院』の看護婦たちとの卓球にも身が入らなかった。昇平は、その日、麻布の宮沢家に戻ってから直ぐに、試験勉強を開始した。語るまでも無く、昇平は昼間、『立花建設』に勤務、夜、『М大学』での受講という生活であったことから、昼間、アルバイトをしていない手塚秀和や松崎利男らと違って、非常に大変だった。彼は教科書を何回も読み返し、自分のノートと安岡のノートを比較し、正解を把握し、学年末試験に備えた。1日に5時間程度しか眠らない日々が、続いた。真織もまた、学年末試験準備に追われ、昇平と会う余裕など無かった。昇平は『立花建設』での昼間の勤務中にも教科書を持ち込み、隠れて、授業の復習をした。そんな無理をしていた為、昇平は1月27日の月曜日、『立花建設』で、突然、眩暈を感じ、気を失い、床に倒れ込んだ。昇平は男子社員により、医務室に運ばれ、10分程で意識を取り戻した。それから直ぐにタクシーを呼んでもらい、麻布の深沢家に戻り、『済生会病院』で診察してもらった。診察の結果、急性肝炎ということだった。そう言えば、食欲不振に陥り、全身に倦怠感があった。それに黄疸が始まり、皮膚や眼球が黄色くなり始めていた。『済生会病院』の医師は、直ぐに入院するよう勧めたが、昇平は利江叔母に懇願し、学年末試験を終えてから入院させてくれと、病院の手配をお願いした。昇平は病院で注射をしてもらいつつ、病気を押し切って、『М大学』の期末試験を受けた。1月29日から始まった期末試験は、我慢に我慢を続け、2月6日に終了した。昇平は6日、夜間の試験を終わらせ、深沢家に辿り着くや気を失った。
〇
試験が終わった翌日、昇平は利江叔母と『済生会病院』に行って、注射をしてもらい、入院を申し込んだ。だが『済生会病院』は、2月になるや否や病室が埋まってしまい、入院する部屋が無く、個人病院を紹介するしかないということだった。すると喜一郎叔父が、自分の勤務する会社の保険組合と関係する高輪の病院にかけあってくれた。昇平は、8日、土曜日、その高輪の病院に行き、診察を受け、肝臓病であると確認され、その病院に入院させてもらえることになった。2月10日、月曜日、昇平は入院する為の荷物を持って、深沢家から外に出た。何と、朝から霙が降つていた。昇平は利江叔母に付き添われ、麻布から34番線の都電に乗り、古川橋で、4番線の都電に乗り替え、白金猿町で下車し、凍えながら高輪の丘の上にある『東京船員保険病院』に行った。そして利江叔母立会いの下、入院手続きを終わらせ、『10号室』に入院した。『10号室』は6人部屋で、患者の他、付添人もいて、結構、賑やかだった。利江叔母は昇平が看護婦に指定された窓際のベットに、寝ころぶのを確認すると優しい声で言った。
「昇平。また来るから、先生の言う事を良く聞いて、ゆっくり、ここで休みなさい」
「叔母さん。有難う。いろいろ御面倒をおかけして、御免なさい」
「何を言うの。悲観的になっては駄目よ。頑張るのよ」
「はい」
昇平は、ちょっと心配そうな顔をして立ち去って行く利江叔母を見送った。それからはベットに寝ころんでいるだけで、昇平にはやることが無かった。猛勉強して期末試験を受けた後の、精神的疲れと倦怠感が混交して、虚ろな時間の中に沈潜しているしか方法がなかった。自分は、この患者たちのいる病室に、どの程度の期間、入院していなければならないのだろうか。アルバイトの仕事は、どうなってしまうのだろうか。真織はどうしているだろうか。船木や川北節子は・・。昇平はいろんなことを考えた。だが故郷の両親や坂百合弘子のことなどは、遠い所にいる人たちなので、頭には浮かんで来なかった。窓の外では紅い椿の花が霙の結晶を張り付けて冷たく震えていた。
〇
2月14日の金曜日の午後、従妹、高子が病院にやって来た。高子は母、利江から教えてもらった『10号室』に入って来て昇平を見つけると、目を細めて微笑した。
「昇ちゃん。着替えを持って来たわよ。着替えた物を、持って帰るから、汚れている物を、この袋に入れて」
「有難う。ここまで来るの大変だっただろう」
「ううんん。途中までは高校の通学圏だから、慣れたものよ」
「そうか。洗濯物はベットの下だ。今から出すから、ちょっとどいて」
「ああ、なら良いわ。私が新しい物と入れ替えるから」
高子は、そう言うと、しゃがみこんで、昇平のベットの下の籠を引っ張り出し、汚れ物を布袋に詰め、使用していない物と今回、持参した物を整理して、再びベットの下に格納してくれた。それから水仙の花を花瓶に挿して袖机の上に置いてくれた。
「家の庭の水仙の花を持って来たの。寂しいんじゃあないかと思って」
「有難う」
昇平は高子と10分程、話すと、高子に言った。
「暗くなるといけないから、もう帰りなさい。叔父さんや忠雄さんに、大分、良くなったと言ってくれ」
「ええ。そう伝えるわ。元気になった昇ちゃんの顔を見て、私も安心したわ。じゃあ、昇ちゃん、また来るわね」
「うん。ご苦労さん」
高子は病室の人たちにジロジロ見られながら、帰って行った。隣りのベットの大城仁志の付添婦の小松夏江が、高子の姿が見えなくなってから言った。
「あんたの恋人かい?」
「いえ。従妹です」
「中々、可愛いね。伊東ゆかりが現れたのかと思ったよ」
「はい。時々、間違われるんです」
昇平は高子が女子高生なのに、男性の下着を届けに来させる仕事をさせてしまい済まないと思った。彼女は恥ずかしいが、母親の命令に従い、我慢して、高輪の病院に男性の下着を届けに来たに違いない。高子は昇平にとって、自慢の従妹だ。昇平は、その日の夕食後、短歌を作った。
病院の花無き部屋に 水仙の
花持て来たり セーラーの君
女学生 水仙の花 持て来たり
挿すべき 花瓶無くて 迷いき
女学生 帰りし後の病室の
窓辺に匂う 水仙の花
その様子を見て、小松夏江が訊いた。
「何を書いているんだね」
「はい。ちょっとした日記のような短歌です」
「まあっ、そうなの。この人も詩を書いたりする人なのですよ」
「そうですか。どんな詩ですか?」
「現代詩です」
大城が、そう答えた。昇平は大城仁志の付添婦、小松夏江と雑談をするうちに、大城とも親しくなった。大城は沖縄生まれで、東京の会社に勤めていたのだが、腎臓病になり、1年前から入院しているという。何でも詩人を目指しているとかで、小説や哲学書を持ち込んで読んでいる昇平に興味を示した。またインド人のように黒い顔をした鬼頭次郎はアジソン病という副腎ホルモンが不足する病気なのに、良く動き回った。山田兼造老人は昇平と同じ肝臓病で、奥さんが付き添っていた。佐藤雅也少年は腎臓病で、母親が付き添っていた。同室の患者たちは、病気はしているものの、皆、裕福そうだった。昇平が浴衣姿なのに、皆、パジャマ姿だった。従って、専門医師が、看護婦や、医学生を連れて回診に来ると、昇平は何故か浴衣の裾が乱れて恥ずかしかった。
〇
高輪の病院に入院して1週間程、経過すると、昇平は病院生活に飽き飽きし始めた。病状はいくらか快方に向かっているが、まだまだという事だった。昇平は、『若菜病院』の船木省三に電話し、自分が高輪の『東京船員保険病院』に入院していることを伝えた。すると船木は驚き、土曜日に級友、手塚と松崎と3人で、高輪の病院にやって来た。彼らは病室に入って来ると、お見舞いの果物を袖机の上に置き、ベットに寝ている昇平の顔を見て言った。
「元気な顔をしているじゃあないか。心配したよ」
「うん。大分、良くなった。普段、勉強しないで、遊んでばっかりいたから、罰が当たったんだ」
「そうかもな。賭け麻雀、パチンコ、バー通い、ダンスなど、遊び過ぎたんだよ」
「聞こえの悪い事を言うなよ。徹夜に近い状態で期末試験の勉強に励んだのが、原因なんだから」
「それだけじゃあ、無いだろう。お前の病気は、女もからんでいる」
「ここは病室だ。ここで、そんな話は止めてくれ。外に出て、面会室で話そう」
昇平は、ベットから起き上がって、3人を病室から追い出し、面会室に移動した。そのテーブル席で、3人と近況を話した。彼らは、もう3年生になった時のことを考えていた。昇平は、どのゼミナールに入るか考えているのかと聞かれ、戸惑った。貿易商になろうとして大学に入ったのだから、貿易のゼミナールに入る積りでいた。
「僕は貿易の『石田ゼミ』に入りたいと思っているが、競争倍率が高いので、他のゼミになるかも」
「そうか。下村も、貿易のゼミナールに入りたいと言っていたよ」
「俺たちは証券市場か物流市場のゼミナールに入る積りだ」
皆、それぞれに希望を膨らませていた。昇平は早く病気を治して、学業に戻りたいと思った。3人は面会時間が終わると、早く退院出来るよう頑張れと言って帰って行った。昇平は元気な学友たちのことを羨ましく思った。
〇
笛村真織は、正月以来、吉岡昇平から、連絡が無いので、思い切って、『立花建設』に電話してみた。すると電話交換手の女性がこう答えた。
「吉岡は今月から出社しておりません」
「どうされたのですか」
「お答え出来ません。個人的なことですので」
「何日頃、出社しますか」
「お答え出来ません」
「何か分かっている事でも」
「お答え出来ません」
「そうですか。では、また後日、電話します」
真織は、電話交換手に冷たくされて愕然として、電話を切った。期末試験も終わり、恋する昇平と会い、去年の悪夢を消し去って、新しい年を彼と共に進んで行きたいと思っていたのに。なのに、音信不通とは。真織は麻布の昇平の親戚の家に行ってみようかと思ったりしたが、住所の詳細が分からず、成す術が無かった。何とか昇平の情報を得ようと、バー『火影』に出勤し、昇平を知る者の来店を待ったが、『М大学』は入学試験期間であり、大学生が春休み中で、昇平を知る者は姿を見せなかった。そんな或る日、『博報堂』の小平が仲間と一緒に『火影』にやって来たので、小平に昇平の事を訊いてみた。
「小平さん。この前、一緒に来た吉岡さん、最近、ここに見えないんだけど、何か知つてる?」
「何かって」
「何かあったのかと思って」
「今は、もう春休みだから、田舎に帰っているのだろうよ」
「でもアルバイトの仕事がある筈よ」
「そうだよな。『立花建設』はオリンピックで忙しい筈だから、休んでなんかいられないよな。そのうち顔を見せるだろうよ」
小平は、そう言って笑った。小平は百合子ママから真織と昇平の関係を聞いていたので、2人の間に何か問題が起こっているのかもしれないと思った。真織は、真織で、昇平について、小平に質問出来たことで、少し憂鬱な気分から解放された。真織は百合子ママたちと一緒に、小平義之、稲垣克己、玉木安夫たちの相手をした。彼らは競合相手の『電通』の話などをした。
「敵は、長谷川龍生という詩人を専属のコピーライターに起用し、テレビコマーシャルで利益を増やしているようだ。我々も優秀なコピ-ライターを探さないと」
「なら、文学部の先生に相談してみたらどうなの?」
「俺、文学部の連中との付き合いが無いから」
「マオちゃんは文学部じゃあないの?」
「一応、文学部だけれど、日本文学専攻じゃあないから。英文学の仲間に詩人らしき人はいないわ」
「英文学なんだ。道理で、吉岡と気が合うんだ。あいつは貿易商を目指しているからね」
「でも、英語、余り喋れないわよ」
「うん。フランス帰りだからな」
「ええっ」
小平の言葉に、皆、驚いた。すると小平は漫画『おそ松くん』に登場するイヤミに似ているからだよと説明した。すると皆が、ドッと笑った。真織は、そんなことないわと思ったが、皆に合わせて笑った。彼は今、何処で一体、何をしているのかしら。真織は百合子ママや小平たちと酒を飲みながら、昇平の事を恋しく思った。
〇
船木省三は遊び相手の吉岡昇平が入院してしまい、春休みの時間を持て余し、今度は1人で高輪の病院に見舞いに行ってみようと考えた。吉岡昇平が思いを寄せている川北節子には、彼が入院している事を秘密にしていた。節子の何処かに昇平への好意があるように思われたが、節子は時々、顔を合わせる『若菜病院』の瀬川清昭医師と親しかったので、昇平に退いてもらう事を考えていた。昇平に節子を紹介したことは、失敗だった。去年、昇平に節子を紹介するや、昇平は数日後、彼女にラブレターを出し、彼女の清純な心を動揺させた。だが節子は、彼の気持ちが分かっていて、返事を出さず、看護婦の元子たちと同様の付き合い方をするだけだった。節子の気持ちは昇平や船木には無く、瀬川医師に傾いているに相違なかった。だから船木は昇平が入院していることを節子に話さなかった。話してはいけないと思った。船木は、そんなことを考えながら品川駅から高輪の丘の上の病院に向かった。『高輪プリンスホテル』の脇を通り、登って行く船木に吹き付ける風は、まだ冬だった。船木が『10号室』を訪ねると、昇平は仰向けになって読書をしていた。袖机の上には緑の水玉模様の花瓶に真紅の椿の花が飾られていた。その前にドイツ語の本や哲学書などが積み重ねてあった。昇平は、予告も無しに、1人で見舞いに来た船木を見てびっくりした。
「おう、また来てくれたか」
「うん。元気そうだな」
船木は、そう言いながら昇平の寝ている布団の上に広げてあるノートに歌が書いてあるのに目をやった。そこには短い歌が書かれていた。
病める日に見舞いに訪れ 優しくも
レモンを剥きて 与う人無し
そのノートを船木が手に取り見ようとすると、昇平は慌てて、そのノートを奪い取り、顔を曇らせた。そのノートは昇平の闘病生活日記のようなもので、他人に見せるものでは無かった。昇平は、奪い取ったノートを、布団の下に隠すと、明るい顔に戻って、船木に訊いた。
「節ちゃんは元気か?」
「ああ、元気だ。元子たちと、元気に夜間学校に通っている」
「皆、偉いなあ。看護婦をしながら、学校へ通うなんて」
「この病院にも、そういう人いると思うよ」
そう言われてみれば、それらしき若い看護婦が数人いた。検温に来る看護婦、木下綾子が、そんな1人だった。彼女は検温に来ては、佐藤雅也少年に声をかけ、勉強で分からない箇所があれば、昇平に教えてもらえと言った。何やかやと佐藤少年を仲介に、昇平に接近して来た。その佐藤少年が、船木の所にやって来て質問した。
「お兄ちゃん。吉岡さんの好きな人、知ってる?」
船木は思わぬことを少年に質問され、戸惑った。
「なんで、そんなこと訊くの?」
「だって、吉岡さん、何時も女の人の絵を描いているんだもん」
「ああ、そうなんだ。こいつは、絵が上手なんだ」
「それは分かっているよ。僕に鉄腕アトムや鉄人28号の絵を描いてくれるから」
「それは良かったな」
「だからさ。吉岡さんの所に、好きな女の人が見舞いに来てくれたら良いのになあと思って」
「お前はませているなあ」
船木は佐藤少年の頭を撫でて笑った。佐藤少年の話を聞き、船木は昇平が節子の事を、いまだに思っているのだと推測した。船木はそこで昇平に言った。
「この次は、元子たちも冬休みになるだろうから、見舞いに連れて来るよ」
「それは止めてくれ。退院してから、僕が『若菜病院』に遊びに行くから」
「早く、そうなるよう養生してくれ。じゃあ、また来るから」
船木は昇平との面会を短時間で済ませると、沈丁花の咲く『東京船員保険病院』から、去って行った。
〇
病院での生活は、規則正しい生活だった。毎日、決まった時刻に起きて朝食を済ませ、薬を飲み、その後、検温をし、担当の阿部康弘先生に足を曲げて腹部を撫でてもらう診察を受け、昼食を食べてから、昼寝して、午後2時から読書。3時に注射。夕方になると直ぐに夕食。薬を飲んで、9時に消灯。暗い病室の中で、いろんな事を考えながら、眠りにつく。兎に角、病気回復に対応した食事を3度、しっかり食べて、休むことが第一。だが人間は我侭。不本意な入院による鬱積により、一日中、ベットで静かにしていることが出来なくなる。特に佐藤少年は母親が付き添う日中は元気に動き回った。隣りの病室に行って、同年齢の少年と遊んだり、時には、その少年を部屋に呼んで来て、昇平に漫画を描かせたりした。そんな事で、昇平は少年たちの人気者になっていた。部屋の入口の佐藤少年の相向かいのベットの藤井信二は中年の独身者で、彼は蒼白い顔をして、何時もじっとしていた。部屋の中央の山田兼造老人は、何時もニコニコしていて病人とは思えなかった。奥さんが来ると、何時も亭主関白ぶりを、発揮した。その向かいの大城仁志は詩人ということであるが、精神的に不安定だった、御機嫌の良い時もあれば、不機嫌になる時もあった。不満が極限に達すると、昇平たちが見ているのに付添婦の小松夏江に不服を爆発させた。だが夏江は病んでる大城の気持ちを理解し、母親のように、ひたすら看病に尽くした。始末が悪いのは、昇平と同じ窓際のベットの鬼頭次郎だった。インド人のように黒い顔をした体格の良い鬼頭は、昼間、ぐっすり、死んだように寝ているが、消灯の夜9時を過ぎると、寒いのに、窓から庭に跳び下り、2メートル近いコンクリート塀を乗り越え、夜の品川や五反田の街に飲みに行った。そして真夜中の2時頃、酒の臭いをぷんぷんさせて帰って来た。それに対し、部屋の者は誰も文句を言わなかった。昇平は熟睡途中なのに突然、窓を開けられ、冷たい夜風に目を覚まされたが、彼が泥棒のような侵入者で無いと分かっていたので、彼の無作法な乱行を我慢した。ある時など、彼は昇平を誘った。
「吉岡の兄さん。これから、五反田の盛り場に行くが、一緒に行かねえか。良い女がいるぜ」
「声をかけてもらって、有難う御座います。でも僕には、まだ、その元気がありません」
「なあに、酒を飲みながら女の内股にでも手を入れれば元気が出るよ」
「僕には、そんなこと出来ません」
「元気になるのに、じっとしているなんて、勿体無いぜ。我慢は身体に毒なんだがなあ。じゃあ、行って来るぜ」
昇平は、病室の窓から跳び下り、コンクリート塀を乗り越える鬼頭次郎を見送ってから、自分が交接した女たちはどうしているのだろうかと思った。笛村真織や大橋花江や中山理枝の事が思い浮かんだ。彼女たちの事を考え、眠りにつくと、何時の間にか、夢精していた。情けなかった。病気は悪の根源であり、一時も早く、心身の健康を取り戻さなければならないと思った。そんな悩みを抱える昇平の所に従妹の高子は、面倒臭がらずに、定期的に汚れ物を取りに来てくれた。昇平は精液で汚れたパンツが臭うのではないかと、気になったが、知らん顔をするしか無かった。
「今日は、ポリアンサの花を買って来たから、ここに置くわね。綺麗でしょ」
「うん。綺麗だ。有難う」
「どうなの。身体の調子は?」
「うん。少し、だるさが抜けて来た感じだ。来月には退院出来るんじゃあなかな」
「そうだと良いわね」
「うん。早く忠雄さんと3人でボーリングに行きたいよ」
「そうね。昇ちゃんが、そう言ってたと、お兄ちゃんにも言っとくわ」
高子はちょっぴり照れ気味だったが、起き上がった昇平をベットに寝させると、洗濯物を持って周囲の患者たちに挨拶して帰って行った。小松夏江は、また同じことを言った。
「何度見ても、伊藤ゆかりに、そっくりだよ。あんたの恋人なんだろう」
「いえ、違います。僕は振られっぱなしの駄目男です」
「嘘を言いなさんな。そうには見えないよ。ここの病院にもあんたに興味を持ってる看護婦がいるんだから」
夏江は、そう言って、昇平をからかった。昇平の入院生活は単調の中にも面白さがあった。
〇
笛村真織は、吉岡昇平の事が、気になって仕方なかった。そこで、何時もより早く起きて、青山1丁目に出かけ、『立花建設』の正門近くで、昇平が出勤して来るのを待った。コートの襟を抑え、冷たい風の中に立って待っていれば昇平と出くわす可能性が高いと考えての行動だった。都電の駅の方からやって来る小柄な若い男性を発見するや、心を躍らせた。だが、どの男性も昇平では無く、茶化すように『立花建設』の正門から中に入って行った。真織は午前7時半から9時近くまで、『立花建設』の辺りをうろつき、愕然として家に帰った。一体、何があったのか。真織は居間の炬燵に足を入突っ込み、寝ころんで、天井に向かって呟いた。
「昇平さんは学年試験が終了し、春休みになったので、田舎に帰ったのだわ。きっと、そうよ。だから4月まで待つしかないわ」
真織はクラスメイトの杉本愛子や渋沢文江が帰省したように、昇平も帰省したのだと判断した。と、突然、天井を見ていて、昨年の11月、この部屋で磯田賢治と山岡達夫に強姦された時のことが思い出された。真織は悪夢にうなされた。磯田と山岡に交替でのしかかられ、犯された過去に苛まれた。今は炬燵に足を突っ込んで、1人だけなのに、何故か、あの時の悪夢が蘇り、真織の陰部を火照らせた。何故か誰もいないのが、もどかしくて仕方なかった。真織の手は何時しか蛇のようにくねって、真織の股間に入り、猥褻な動きに真織を誘った。
「昇平さん。早く来て!」
真織は昇平を求め、譫言を繰り返した。その妄想が終わると、真織は、部屋掃除をした。それから田村明子に電話して、渋谷の喫茶店『フランセ』で田村明子と麻生理枝の3人で会うことにした。午後2時に『フランセ』に行くと、既に田村明子が来ていて、先にコーヒーを飲んでいた。真織もコーヒーを注文し、明子と休み中の話をした。明子は本郷卓也と、長野にスキーに行って、2日前に帰って来たばかりだと、得意になって話した。そこへ麻生真理がやって来て、話は盛り上がった。麻生理枝は野口睦彦と『突然、炎の如く』を観て来たと、そのストーリーを語った。
「兎に角、奇妙なラブストーリーだったわ。私たちの傍にでもありそうな内容だけどね」
「ジャンヌ・モローの出るフランス映画よね」
「そう。モンパルナスで出会って親友になったジムとジュールの物語。共に美しい娘、カトリーヌに恋をするの。フランス人のジムは女性に大もて。結果は熱烈に真面目にアタックした誠実なジュ-ルの勝ち。ジュールはカトリーヌと結婚し、彼女を祖国、オーストリアに連れて帰るの。それから戦争が始まったりして大変なの」
「そこで終わりじゃあないの」
「うん。戦争が終わってジムとジュールはまた再会するの。ジムがジュールの家を訪ねるとジュールは作家になったけど、カトリーヌとの仲が上手く行っていないの。自由奔放なカトリーヌに、3人の愛人がいたりして、彼女は遊び放題。ジムはジュールを気の毒に思う。ジュールはそれでもカトリーヌを手離したくないので、カトリーヌが厚意を寄せている親友、ジムに、自分の家に同居し、カトリーヌと結婚してくれないかと頼むの」
「まあ、異常だわ」
「そうなのよ。三角関係で、6才の娘と、4人の奇妙な暮らしをするのよ。ところがジムはカトリーヌにギター弾きの愛人がいると知って、彼女に失望し、パリに帰っちゃうの」
「カトリーヌは淫乱な女性ね」
真織が、そう言うと、明子が笑って言った。
「そういう女性、何処にもいるのよ。1人の男に絞り切れない欲張りな女性」
「そうなの。彼女は瞬間しか人を愛することが出来ない、移り気で多情な女なの。ところが、数ヶ月後、3人は映画館で再開しちゃうの。ジムに会い、松ぼっくいに火の点いたカトリーヌは映画館を出ると、突然、ジムを車に乗せて走り去っちゃうの」
「まあっ」
「取り残されたジュールが、その車を見送ると、2人を乗せた車は壊れた橋から転落し、2人は死亡。ジュールは2人の棺を火葬場に運ばせ、2人の遺灰を混ぜて埋葬して、物語はフィン。ジュールはジムと一緒に死んで浮気の出来なくなったカトリーヌを自分の心の中に閉じ込めて、完全に自分の所有物に出来たと安堵するの。男心って、そんなものなのかしら」
理枝は、映画のストーリーを語り終えると、溜息をついた。理枝は何故、溜息をつくのか。男にも女にも独占欲があり、それが薄れた時が危険信号なのは分かるが、理枝もそんな境地にあるのか。そこで明子が真織に質問した。
「ところでマオちゃんは磯田君とどうなっているの。『R大学』の学生と三角関係らしいけど」
「誰が、そんなことを言ったの。私、磯田君とは付き合っていないわ。彼には恋人がいるのよ」
「そうなの。どんな人?」
「細っそりした人。彼が赤いジャガーに乗せて走っているのを見かけたわ」
「そういえば。愛子が、そんなこと言ってた」
真織は自分の事を磯田の彼女と思われるのが嫌だった。自分と磯田とは何の関係ないと否定した。そして、自分は『М大学』の商学部の学生と付き合っていると説明した。将来、結婚しようと考えているとも語った。今まで真織が隠していた恋人の事を打ち明けると、明子と理枝は目を丸くした。真織はモンブランケーキを食べながら、明るい気分になった。それから3人で新宿に移動し、『新宿東急文化会館』で、ボーリングゲームを楽しむと更に悩みが吹き飛んだ。
〇
3月になった。東京の街の片隅に、紫菜の花やスミレの花が咲き、樹々の梢も緑色に芽吹き、吹く風も柔らかく春らしくなった。だが吉岡昇平はまだ高輪の『東京船員保険病院』に入院していた。病室のメンバーも変わらず、ほとんど同じような治療を受けて、病人同士、適当に接して過ごしていた。四六時中、同じ人たちを見て暮らす生活は、各人の人生模様が分かって来て、小説を書く昇平にとって参考になった。しかし昇平は、何時までも、のんびり入院している訳には行かなかった。昇平は病状が一向に良くならず、退院時期が予想より遅くなっているので、少し焦り始めていた。だが焦っても、どうになるものでも無かった。ただひたすら、三度三度、病院の食事を食べ、薬をいただき、病気の回復を願うしか無かった。今の自分には、病気を治すこと以外、考えてはならない。昇平はアルバイト先から届けられた封書を高子が持って来たので、その中に入っていた『立花建設』の離職届けにサインし、高子に投函を依頼した。自分は、これからどうなるのか。どうしたら良いのだろうか。昇平は、今後の事が心配になり、麻布の喜一郎叔父と利江叔母に相談しようと、阿部康弘医師に外泊許可を求めたが、阿部医師は、昇平の外泊を許可してくれなかった。何の心配もするなと阿部医師は言うが、気が気でならなかった。また笛村真織のことや川北節子のことが頭に浮かんだが、彼女たちへの思いを消し去ろうと、ノートにさよならの文字を幾つも書いたりした。そんな憂鬱な昇平のことを気にして、日曜日の夕食後に検温に来た看護婦、木下綾子は、昇平をじっと見詰めた。昇平は何故か、その綾子の視線に愛しさを感じ、彼女の手を強く握った。すると綾子も昇平の手を強く握り返し、直ぐに昇平の手を突き返した。そして、体温計を見て、小さな声で言った。
「36度5分。熱無し。後は新鮮な空気を吸う事ね」
「はい」
「皆が寝静まった頃、玄関で・・・」
綾子は、そう、そっと言って、全員の検温を終えると、嬉しそうに『10号室』から出て行った。昇平は綾子の言葉に何か秘密を暗示するするものがあると感じた。午後9時、消灯になってから1時間後の10時、昇平はトイレに行く恰好をして、病室から抜け出し、病院の玄関に行ってみた。すると暗い玄関内のフロアで、昇平が現れるのを綾子が待っていた。白衣の彼女は勤務中であるのに、昇平を来客用トイレに連れ込み、昇平の鬱積していたものを処理してくれた。
「何か緊張しますね」
「ええ。でも良かったでしょう。私、吉岡さんのこと好きだから、誘ってしまったの」
「こんな経験、初めてです」
「良かったわ。このことは2人だけの秘密よ。誰にも言わないでね」
「勿論、誰にも言いませんよ」
「誰かに気づかれるとまずいから。じゃあ、部屋に帰って」
綾子は早く病室に戻るよう昇平を突き返した。昇平は人に気づかれぬようトイレから出ると、静かに廊下をそっと歩き、『10号室』に戻り、こっそり自分のベットに横になった。何処で遊んでいるのだろうか、隣りのベットの鬼頭次郎はアジソン病だというのに、今夜も消灯後、病院を抜け出したまま、まだ帰っていない。
〇
晴れたり曇ったりの日が続いた。今日3月10日、火曜日は天候が晴れて、空に雲一つ無く、青空だった。そんな青空を見ていると、一時も早く退院したいと思った。意識がはっきりし、体力も回復していることから、何もすることが無く、ベットで寝たっきりの入院生活は辛かった。3月が過ぎれば、大学の新学期。そう思うと昇平は居ても立っても居られない気持ちになった。田舎の家族は、昇平のことなど他所事で、昇平の面倒を広尾の宮沢家に任せっきりだった。誰も東京まで様子見に来ようとしなかった。昇平は、それはそれで良いと諦めていた。昇平は気の強い性格だったが、寂しがり屋でもあった。幼い時から忍耐を身に付けて来ているから、どんなに辛い事でも我慢することが出来た。今、自分を取り巻いている状況は厳しいが、悲観して逃げる訳には行かなかった。成るように成れと呟いてみると気持ちが軽くなった。そんな所へ船木省三が見舞いにやって来た。それも1人では無かった。川北節子と一緒だった。昇平は船木と一緒に川北節子が目の前にいるのを見て赤面した。
「おう。元気か」
「ああ、元気だ」
幻では無い。憧れの黒髪が長くて、色が白く、つぶらな黒い瞳をした節子が、以前にも増して輝いて、美しい姿で目の前にいる。それも昇平がプレゼントした薔薇のブローチを付けて。昇平は見舞いに訪れてくれた船木たちを見て照れた。そんな昇平に、船木が笑って言った。
「お前が落ち込んでるのじゃあないかと思って、今日は節ちゃんを連れて来て上げたぞ」
「ああ、川北さん」
昇平が、更に赤くなって、節子に声をかけると、彼女は深く頭を下げて挨拶した。
「吉岡さん。お久しぶりです。どう、お身体の具合は?」
「良くなって来ています。心配かけて済みません」
「吉岡さんが入院していることを、船木さんが教えてくれなかったから、見舞いが遅れて済みません」
「良いんです。僕の事など」
「そんなことないわ。私たち友達なんですから。これ食べて頂戴」
節子はそう言って、買って来たバナナとイチゴの包みを脇机の上に置いた。それから、いろんなことを訊いた。
「肝炎ですってね。大変だったでしょう。無理し過ぎたのね」
「はい。普段、遊んでいて、勉強していなかったので、無理をしたのがいけなかったようです」
「顔色に黄疸は見られないわね」
「はい。入院して半月ほどで消えました」
「疲労感は?」
「まだ、若干、あります」
「体温は?」
「36度5分です」
「正常ね」
川北節子は看護婦だけあって、容態を細かく訊いた。昇平は、そのたびに恥ずかしそうに笑って答えた。節子の微笑んだ時のえくぼは魅力的だった。そこへ佐藤雅也少年たちがやって来て、顔見知りの船木に訊いた。
「お兄ちゃん。この人が、僕が前に質問した絵の人だよね」
「うん。そうかもな」
「綺麗な人だね。良かったね。嬉しいね」
「良かった。良かった」
佐藤少年たちがやって来て、賑やかになると、節子が船木に言った。
「船木さん。もうこれ位で失礼しましょうか。吉岡さんが疲れてしまうわ」
「うん、そうだな。じゃあ吉岡、また来るから」
船木と節子は30分程すると『10号室』から出て行った。昇平は何故、元子を連れて来なかったのか不思議でならなかった。2人は出来ているのか。昇平は良からぬことを想像した。入院していると、正常時より猜疑心が強まるようだ。異常な懐疑心が胸に迫って、昇平を苦しめた。なんということか。自分が入院している間に、いろんなことが変化して行く。自分は何時までこの冷たい牢獄のような所に閉じこめられていなければならないのか。早く退院したい。昇平は苦悩した。
〇
笛村真織は吉岡昇平のことが気になり、『立花建設』の終業時刻の夕方5時から『立花建設』の正門の近くで、昇平を待ち伏せした。しかし、彼は現れなかった、結果、『博報堂』の小平が言うように、群馬の田舎に帰っているのだと判断した。真織は寂しくて仕方なかった。先日の日曜日、母、和代が家に来たが、昼飯を一緒に食べて直ぐに東麻布の中原家に帰って行った。中原誠人医師と、余程、上手く行っているらしい。たまには泊まって行っても良いと思うのだが、家を出てしまったら、青山の家の事は真織に総て任せっきりで、泊まって行こうとしない。ひとりぼっちは寂しい。真織は1人で思い悩んだ。これから、どうやって暮らして行ったら良いのか。1人は余りにも寂し過ぎる。私の保護者はいなくなってしまった。頼れるのは、あの多摩川の河原で青酸加里を一緒に飲もうとしたのを拒否し、別の死に方があるだろうと言って、生きる勇気を与えてくれた彼だ。彼こそは明子たちに話した将来、結婚しようと考えている恋人だ。自分のもとに早く帰って来て欲しい。出来る事なら、4月から、青山の家で一緒に暮らしたい。真織は過去の暗い忌まわしい記憶を捨てて、昇平との幸福に満ちた未来を夢みた。真織は、そんな思いを募らせ、青山1丁目の都電乗り場から10番線の電車に乗って、神保町のバー『火影』に出勤した。神保町の通りを『火影』に行くと、早くもチイママの高山百合子が今井春香や小田美紀の先頭に立って、店のドアを開け、開店の準備をしていた。真織は、それを見て、慌てて開店の準備を手伝った。開店の準備を終え、6時半過ぎになると、『赤松商事』の大森亮介部長と横山伸一課長と広畑英夫係長の3人が、『日清製紙』の橋本啓太郎専務と現れた。百合子ママが素早く指示した。
「マオちゃん、美紀ちゃん」
真織は慌てて美紀と、4人をテーブル席に案内し、おしぼりを出し、いらっしゃいませの挨拶をした。『赤松商事』のメンバーは馴染み客だったが、恰幅の良い橋本啓太郎専務は、初めてだった。橋本専務は皆に囲まれ、中央にドカッと座ると、大森部長に向かって言った。
「神保町に、こんな店があったなんて、びっくりしたよ」
「本当ですか」
「だって、ここは学生の街じゃあないか。若い美人がそろっていて、まるで銀座みたいだ」
「お褒めいただいて有難う御座います。チイママの百合子です」
百合子ママが満面の笑みを浮かべて、橋本専務を歓迎した。先ずはビールとおつまみで、『赤松商事』の接待が始まった。そこでの打合せは、アメリカから最新型のコーティング機械を輸入する裏話だった。今日の午後の会議で、大方の方針は決まったらしいが、輸入方法を検討しているらしい。機械金額も数億円するという。真織は貿易商を目指している昇平も、将来、同様の商談をすることになるのだろうかと、4人の話を興味深く聞いた。それから、しばらくすると、小雪ママと国枝マスターが現れ、小雪ママが橋本専務に挨拶すると、橋本専務は小雪ママに言った。
「なかなか良い店だね。これから利用させてもらうよ」
「有難うございます。よろしくお願いします」
そんな会話を小雪ママが始めると、4人が立ち上がったので、小雪ママはびっくりした。
「どうなされました。もう、お帰りになるのですか?」
すると大森部長が小雪ママに言った。
「これから、『寿司銀』へ沼津の寿司を食べに行くんだ」
「まあ、私も食べたいわ」
「私も・・」
そんなことを言って、小雪ママたちが『赤松商事』の人たちと橋本専務を送り出すと、他の客が『火影』に入って来た。真織は、また小雪ママの指示を受けて、接客した。『赤松商事』の大森部長たちのように、客がお客を連れて来た時の接待は疲れなかったが、ホステス相手に飲みに来た客との応対は疲れた。特にプライベートのことを訊かれると、神経を使った。水道橋から来た弁護士、岡野峰雄と小泉幸作に秋川スミレと一緒に接客していて、住所を訊かれた。
「君たちは何処に住んでいるの?」
質問されて答えない訳にはいかない。そんな時は、ぼんやりした答えを返すことにしている。まず、スミレが答えた。
「私は浅草橋です」
「ほう、ひな人形の街だね。わりと近いよね」
「はい。お茶の水から電車で1本です」
「君は?」
「私は渋谷です」
「忠犬ハチ公か。ちょっと遠いな。俺たちも中野でだから、似たようなものだが」
弁護士たちとの会話は、まるで刑事に質問を受けているみたいで嫌だった。
「俺たち、春めいて来たので、この間、富士山を見に河口湖に行って来たけど、素晴らしかったよ。君たちは最近、何処かへ行たりしたかな?」
「はい。私は熱海に行って来ました」
「ほう。新婚旅行客が多かっただろう」
「はい。梅の花とアロエの赤い花が咲いていて綺麗でした。海もカモメが飛んでて、素敵でした」
「誰と行ったの?」
「熱海出身の彼氏とよ」
「ふう~ん。スミレちゃん、聞かせてくれるね」
「マオちゃんは何処かへ行ったの?」
「私は、遠くに行く時間もお金もないから、友達とボーリング場に行ったくらいよ」
「どこのボーリング場?」
「新宿の『東急文化会館』よ」
「ああ、映画館やスケート場のある」
客の質問にいちいち答えなければならず、大変だったが、得るものもあった。河口湖の美しさ。熱海が新婚旅行のメッカであることなど。またスミレが磯田の故郷に行ったことなど。スミレは磯田の両親と会って来たのだろうか?ちょっと気になった。
〇
3月24日の検診時、吉岡昇平は阿部康弘医師から、今月いっぱいで退院可能だと説明を受けた。そのことを、着替えを持って来た従妹の高子に話すと、彼女は大喜びした。高子が持って来てくれた窓辺のポリアンサの花も喜んでいる風だった。昇平は、朗報を友に知らせる為、喜び勇んで船木省三に手紙を書いた。
〈拝啓、船木省三様。
この間は寒い中、川北さんを連れて、
お見舞いに来てくれて、有難う。
貴君の心使いに感謝しています。
2人の笑顔を見て厳しい冬の日の憂鬱も吹き飛び、春の訪れを感じている今日、この頃です。お陰様でやっと3月31日、火曜日に退院出来そうです。
退院したら、田舎に帰ります。
田舎に帰って、2週間程、ブラブラする積りだ。
大学の授業は4月16日、木曜日から始まるが、その時の体調により、出席出来るか分からない。
もし『原書』の時間に僕が出られなかったら、僕の成績表を貰っといてくれ。貴君も出られなかったら、手塚君に頼んでおいて欲しい。
身体の調子は九分九厘、良好である。
だが美人を見ると、まだフラフラ眩暈がする。これは昔からの持病だ。
3月10日は、どうも済まなかった。バナナとイチゴ、とても美味しかったよ。
田舎から帰ったら、『若菜病院』に行こうと思っています。
僕は病気になって、ある面、良かったと思っている。これは負け惜しみかも知れないけど。
でもトルストイの奴も、こう書いていたよ。
*少しも苦しんだことの無い人間。一度も病んだことの無い者。健康な人々。余りにも健康な、常に健康な人々。それは怪物だ*
トルストイも負け惜しみを言ったのかな。
実は入院中にも良い事があったよ。面白い話をしてやろう。
看護婦さんが、夜、検温の記録をしに病室に来た時、ある入院患者が看護婦さんに、こう言った。
「看護婦さん。寒いから暖房入れてよ」
すると看護婦さんが甘い声で言ったんだ。
「消灯後は暖房がストップするの。分かっているでしょう」
「分かっているけど、寒いんだもの」
「なら私が暖めてやるわ」
これには全く驚いたね。流石の僕も攪乱されてね。
では、その看護婦さんが、そろそろ検温に来る頃だから、手紙をENDにするよ。
貴君に会える日を楽しみにしている。
敬具
1964年3月24日
吉岡 昇平 〉
船木省三は翌日夕方、その吉岡昇平からの手紙を『若菜病院』の食堂で受け取り、その場で読んだ。そこへ川北節子が通りがかり、船木が読んでいる手紙の封筒の文字が、かって何通か手紙をくれた男の文字であると気づいた。そして船木の周りをウロウロした。節子は船木が読んでいる手紙の差出人が誰だか分かっているので、その手紙に書かれている内容を知りたかった。それに気づくと船木は節子に言った。
「節ちゃん。良かったよ。吉岡から手紙が来て、今月いっぱいで退院出来るって」
「まあっ、良かったわね。4月から、また机を並べて勉強出来るのね」
「うん。その前に田舎に帰るらしい」
「そうなの。また戻って来るのよね」
「当り前だ」
「ねえ、吉岡さんの手紙、見せてくれない」
節子に、そう言われ、船木はうっかり、昇平の手紙を、節子に渡そうとして、途中で、引っ込めた。手紙の文中に看護婦のことなど、読まれては困ることが書いてあったからだ。
「駄目だよ。悩み多き青年の手紙だから」
「何で」
「節ちゃんに見せたら、元ちゃんたちも見たがるから」
「ふ~ん、そう。船木さんのケチ」
節子は、そう言うと食堂から病棟の方へ出て行った。節子は吉岡昇平の事が、矢張り好きなのだろうか。船木は気になった。
〇
吉岡昇平は3月31日、火曜日、午前中の検診を終え、昼食をいただいてから、病室の人たちや看護婦たちに見送られ、従兄の忠雄に付き添われ、高輪の『東京船員保険病院』から退去した。この日の天気は朝方、曇っていたが昇平の退院を喜ぶように午後から晴れて、ポカポカ陽気になった。昇平には陽光が眩しく、眩暈がしそうだった。高輪白金通りに出ると、目の前を走る車が恐ろしかった。長い間、高速で走る物を目にしていなかった所為に違いなかった。昇平は忠雄に連れられ、白金猿町の都電乗り場から4番線の電車に乗り、古川橋で金杉橋行き34番線の都電に乗り替え、中ノ橋で下車した。東麻布の深沢家に辿り着くと、利江叔母が待っていて、直ぐに家に入れてもらえなかった。洗面器とタオルと石鹸を渡され、きつい言葉で、命令された。
「銭湯に行って来なさい」
深沢家に風呂があるのに、何故と思ったが、昇平は素直に『森元湯』に行き、身体を綺麗にして、深沢家に帰った。懐かしかった。夕方、喜一郎叔父が帰って来ると、深沢家の家族が、昇平の快気祝いをしてくれた。高子がケーキを買って来てくれて、皆で美味しくいただいた。昇平は深澤家の人たちに感謝し、涙を見せてしまった。喜一郎叔父は涙もろく、昇平と一緒に涙を光らせた。翌日4月2日、昇平は故郷に帰った。祖父と両親と、姉、兄、弟の6人が病み上がりの昇平を迎えた。皆、東京に放り出したまま、痩せて帰って来た昇平を見て、涙した。
「兎に角、退院出来て良かった。これからの事は、じっくり考えよう」
まだ元気だった祖父、慶次郎が、そう言って昇平を慰労した。昇平は群馬の家に帰り、ぐっすり寝た。不思議だった。何故か、東京より熟睡出来た。大自然に囲まれた山村の澄み渡った新鮮な空気の所為だろうか。翌日、昇平が起床すると、もう、父と姉と兄と弟は出かけて、家にいなかった。昇平は遅い朝食を祖父と母と3人で済ませると、故郷の村を散策してみた。故郷の風景は、昇平が故郷を離れた時と余り変わっていなかった。夕方、父や兄弟たちが帰って来て、夕飯の時、昇平は実家の現状を確認した。すると酒の入った父、大介が得意になって言った。
「去年、知らせたと思うが、政夫は、4月から高崎の自動車販売会社に就職し、今週から通っている。好子は農協を辞め、嫁入り修行を始めた。広志はこれから就職活動だ。これでお前が復帰してくれれば、万々歳だ。俺も会社と野良仕事に精を出し、頑張るから、お前も頑張れ」
「は、はい」
昇平は兄、政夫が大学を卒業し、就職したので、実家が経済的に楽になることから、姉、好子が農協を辞めたのだと知った。そういえば、昇平が上京時、酒を控えていた祖父も父も酒を嗜むようになっていた。昇平が尊敬する祖父、慶次郎が、父に続いて昇平に言った。
「人生、七転び八起きだ。いろんなことがある。苦しくとも努力すれば、きっと良い事がある。お前はこれからだ。頑張れ」
昇平は自らの現況と思い合せ、これから自分に襲い来る艱難辛苦を想像し、涙ぐみそうになった。何故、自分1人が苦しまねばならないのか。昇平は久しぶりに故郷に帰り、暗澹たる気持ちになった。
「これではいかん」
昇平は誰にとも無き憤懣に耐え、歯を食いしばった。3日目になると、母の味噌づくりの仕事を手伝った。その時、母、信子が昇平にポツリと言った。
「お前を、放りっぱなしで、済まないねえ。麻布の家に迷惑をかけっぱなしで、お前も肩身が狭いだろうが、大学を卒業するまで、我慢するんだよ」
「分かっています」
昇平は母に心配させてはならぬと軽く笑い頷いた。病み上がりの昇平にはやることが無かった。でも土曜日、日曜日は家族の者と墓参りをしたり、兄弟で軽井沢までドライブに行たり、楽しく過ごせた。ところが月曜日になると、兄弟たちは勤めや学校に行き、昇平はまた時間を持て余した。幼馴染の中山理枝は遠くに嫁いでしまい、坂百合弘子の消息も分からない。それでも町に出れば友達に会えるかも知れないと、町に出て、母校の高校の辺りを徘徊してみたが、知る人はいなかった。そこで繁華街から少し離れた駅に行ってみた。すると、そこの駅の売店で親戚の吉岡文子が仕事をしていたので、雑談をした。親戚の近況を知ることが出来た。皆、それぞれに頑張っているという。昇平は、そこから再び碓氷川の上にかかる橋を渡って、街中に戻り、家に帰ることにした。その中瀬橋を渡っている途中で、昇平は図らずしも、高校時代の後輩、寺川晴美に出会った。
「あらっ」
「あっ。寺川さん。こんにちは」
「お久しぶりです。大学の春休みですか?」
「まあ、そんなところかな」
「来週から私も東京へ行くんです。板橋の短期大学です」
「そう、東京で会えると良いね。そうだ、僕の東京の住所と電話番号、教えておくよ」
昇平は、何時も持ち歩いている小さなノートの1ページを破り取り、そこに麻布の深沢家の住所と電話番号を書き込み、晴美に渡した。すると晴美は明るく笑って言った。
「ありがとう。では東京で会いましょう。私、これから友達に会うので、ここで失礼します」
「そう。では、さよなら」
「さようなら」
昇平は駅の方へ向かって歩いて行く、白いワンピース姿の寺川晴美を見送った。
〇
故郷での自然を眺める休養は昇平を、また都会への意欲に駆り立てた。それは学友と再会出来る期待からか、真織と再会出来る期待からか、川北節子と再会出来る期待かからか、寺川晴美と再会出来る期待からか、昇平には分からなかった。ただ郷土愛の精神一点張りだけでは、自分は生きて行けないと感じた。つまり、故郷にとって、自分は不必要な人間だと自覚した。昇平は早く東京へ戻りたいと思った。そんな或る日の夕飯時、祖父、慶次郎が昇平に言った。
「昇平。東京に戻ったら、議員会館の矢野さんの所を訪ねなさい。わしが、お前の次の仕事を頼んでおいたから」
「えっ。議員会館の仕事ですか」
「わしの手紙を持って行けば分かるから、行って相談しなさい」
「はい。分りました」
昇平には、良く理解出来なかったが、『立花建設』のアルバイトを失った自分に、次の仕事探しをさせようとしているのだと分かった。それは可愛い孫の苦渋や絶望を希望に変えてやろうとする、祖父、慶次郎の愛情だった。昇平の祖父は年老いているが、長年、教育界に関与しており、顔が広く、多くの人脈を持っていたので、昇平のアルバイト先を当たっていたようだ。いずれにせよ、自分の学費は自分で働いて稼げというのが、実家の考えだった。兄への教育費の注ぎ込みようとは異質の考えだった。兄は東京の大学を卒業し、有名な『トヨタ自動車』の販売店に黒塗りの『クラーン』に乗って通う,田舎ではエリートだった。その将来はバラ色に相違なかった。だが、大都会、東京で生きて行かねばならぬ昇平は家なき子同然だった。苦学して就職先を見つけ、結婚相手を見つけ、結婚し、自分で自分の家を持て。それが家族の考えだった。冷静に考えれば、それは一般的なことだったが、昇平には嵐の中に放り出されるような理不尽な仕打ちに思えた。それは貧困という環境から生じる考え方だった。昇平はそのようなことを考える実家に、何日も滞在してはならないと思った。そこで昇平は4月10日の金曜日、兄、政夫の車で高崎駅まで送ってもらい、上野行の電車に乗った。これから何が待ち構えているか分からないが、故郷という鎖にまた縛られそうになっていた自分が、再び鎖を解き放たれたような気分になった。昇平は、田舎からの土産物を沢山持って、麻布の深澤家に戻った。そして田舎で過ごした日々の事を深沢家の家族に話し、13日の月曜日、衆議院議員会館に行くと説明した。すると深沢家の人たちは、昇平は頭がおかしくなったのではないかと疑った。事実、頭がおかしくなったと言われても仕方ない。余りにも突飛すぎる。国会議員会館という所は、一般庶民には関係ないと所である。田舎の修学旅行の生徒たちやおのぼりさんが国会議事堂を見学に行く近くにあって、東京の人が近づかない所だ。そんな所へ何故、病み上がりの昇平が訪問するのか、深沢家の者には全く理解出来ない事だった。
〇
4月13日、月曜日の天気は曇り空だった。吉岡昇平は学生服姿で午前8時に麻布の深沢家を出て、中の橋の都電乗り場まで行き、中目黒からやって来た8番線の都電に乗った。女性車掌から、15円の切符を買い、吊革につかまると、都電はゴトゴトと芝方面に向って走り出した。電車は赤羽橋で左折し、東京タワーの丘を越え、飯倉を経て、皇居方面へと進んだ。昇平は、虎ノ門の次の霞が関で下車した。周囲は大蔵省、文部省、農林省、外務省などの古めかしいビルが建ち並び、何処に議員会館があるのか、分からなかった。大蔵省の守衛に訊くと、坂の上だと言われ、ハアハア言いながら、坂道を上がった。すると、丘の上の平地に出た。前方に教科書に出て来る国会議事堂が堂々と威容を放っていた。そう言えば、小学生の時、祖父、慶次郎に連れられ、国会議事堂に入った記憶が蘇った。昇平は道路の角に警備員が立っていたので、衆議院第2議員会館は何処かと尋ねた。すると警備員は議員会館を指で示した。
「あの白い建物です」
「あの学校のような」
「はい。第2議員会館は、あの建物です」
「有難うございます」
昇平は第2議員会館を見つけ、ほっとした。胸がドキドキ緊張したが、その第2議員会館の受付に行き、そこで訪問先と自分の氏名を記帳した。すると係員が議員室に連絡を取ってくれて、入館の許可をいただき、昇平に胸バッチを渡してくれた。昇平は、そのバッチを胸に付け、尾形憲三代議士の部屋に行った。部屋のドアが開放されていたので、昇平は入口に立って挨拶した。
「失礼致します。吉岡昇平と申します。矢野五郎様にお会いしたいのですが」
すると、体格の良い、矢野五郎が笑顔を作って、部屋の入口に現れた。
「やあ、吉岡昇平君。御苦労さま。まあ、中に入り給え」
「はい」
昇平は議員事務室の中に入って、びっくりした。そのスペースが校長室程度で、国会議員の事務室とは思えぬ程の狭さだったからだ。目を丸くしている昇平に矢野五郎秘書が、部屋にいる男女2人に言った。
「では皆に紹介しよう。今度、事務を手伝ってくれる吉岡昇平君だ」
「吉岡昇平です。よろしくお願いします」
「よろしく」
「よろしく、お願いします」
「吉岡君。こちらは『W大』法学部の船田宗行君。こちらが田島道子さんだ。これから2人が依頼する細かな仕事を手伝ってくれ」
「はい」
「私は、橋本先生の所へ行って来るから、後は船田君に教えてもらってくれ」
「はい。分かりました。これ、ささやかな物ですが、お受け取り下さい」
「有難う。船田君、受け取っといてくれ」
矢野五郎秘書は、そう言って、事務室から出て行った。昇平は船田に『磯部せんべい』の土産を渡してから、船田助手に訊いた。
「私は何の手伝いをしたら良いでしょうか?」
「そう言われても困ったな。そうだ。朝、一番にする仕事を教えておこう。先ずは事務所内の掃除。掃除道具はここの中にある。その四角い缶とモップとバケツを出してくれ」
「はい」
「ではバケツを持って僕に付いて来て」
船田助手は昇平を事務棟の奥にある洗面所に案内し、バケツに水を入れさせた。昇平は水道の蛇口をひねった。水道水がバケツの八分目近くなると、船田が言った。
「そこで、ストップ」
昇平はバケツの八分目まで水が入ると、水道の蛇口を閉めた。そして水の入ったバケツを事務所まで運んだ。結構、重かった。事務所に戻ると、バケツの水をローラー付の四角い缶に入れ、その缶の中の水にモップを浸らせるよう指示された。その後、ローラーでモップをニップして水を絞って、昇平は、そのモップで床掃除を始めようとした。すると船田助手は昇平にアドバイスした。
「ローラーで絞るだけでは、床がびしょびしょになるので、モップはローラーで絞った後、自分の手で強く絞りなさい。これがモップを使うコツです」
昇平は手が汚れるので、モップを手で絞るのは嫌だったが、実際に手で絞って床掃除をすると、とても綺麗に床掃除が出来た。ついでに事務所の窓ふきをすると、田島道子が喜んだ。掃除を終えると船田助手は、船田に尾形憲三代議士のスケジュールが書かれている黒板を示し、尾形代議士が、今、何処で何をしているかを教えてくれた。その後、住所録の書き写しを依頼された。昼食は、田島道子が売店で買って来てくれたパンをいただいた。午後になると、矢野秘書が事務所に戻って来た。彼は午前中の仕事を終え、少し余裕が出来たのか、自分が富岡出身で、柔道部だったなどと話してくれた。彼も尾形代議士と同じ『W大』の弁論部だったそうで、口が達者だった。午後3時過ぎになると、これまた牛みたいに武骨な格好の青年が事務所に入って来た。尾形憲三代議士だと直ぐに分かった。
「ああ、一汗かいたよ」
彼は、そう言うと、ドカッと代議士席に座った。田島道子が直ぐにお茶を出した。すかさず矢野秘書が尾形代議士に言った。
「先生。こちらが吉岡昇平君です」
そう言われ、昇平は直立不動で挨拶した。
「吉岡昇平です。よろしくお願いします」
「ああ。光一兄さんから聞いているよ。君の祖父さんには、父が生前、大変、お世話になったと聞いている」
「これ、祖父からの手紙です」
「おう、わざわざ手紙まで」
尾形憲三代議士は、昇平の前で、昇平が渡した封書を開け、祖父からの手紙を読んだ。尾形代議士はその手紙を一読すると、昇平に言った。
「君の御祖父さんのように、日本の若者に期待し、激励してくれる人がいることは、私のような若輩者にとって実に有難く勇気をいただける。私はスタートしたばかりで、私を押し上げてくれる若い力が必要だ。矢野秘書や船田君や田島さんと一緒に、この事務所で、若い意見と情熱をもって私を盛り上げてくれ」
「は、はい」
「私は、まだ26歳で、分からない事が沢山ある。3人寄れば文殊の知恵。群馬出身の大学生が集まれば、船出した尾形丸は、すごい馬力を得たことになる。今日から、よろしく頼むよ」
尾形代議士は、そう言って、昇平が事務所に持って来た『磯部せんべい』をかじり、一休みすると事務所から出て行った。かくして、昇平は尾形代議士の議員会館事務所で、アルバイトをすることになった。このことを、宮沢家に帰って話すと、喜助叔父をはじめ、皆がびっくりした。
〇
4月16日、木曜日、吉岡昇平は衆議院第2議員会館の事務所での仕事を終え、霞が関で8番系統の都電、築地行き電車に乗り、御濠端の日比谷で、三田から来た37番系統の電車に乗り替え、小川町で下車した。そこから、二コラ御堂方面へ向かい、途中で左折、『М大学』の3年生らしく、胸を張って『М大学』正門から登校した。教室に行くと船木省三をはじめ、手塚、梅沢、勝又、小平、下村、松崎、安岡、久保といった面々が、笑顔で雑談していた。三浦玲子たち女性3人組も明るい顔をしていた。昇平は病み上がりの顔を無理矢理、元気そうに見せた。
「大丈夫か?」
昇平が入院していたことを知っている船木や手塚たちが、心配して、声を掛けてくれた。
「ああ、元気だ。初日に登校出来るか、不安だったが、何とか退院出来て良かったよ」
昇平は仲間の笑顔を見て、すっかり、学生気分に戻った。だが、担任教授、清村先生が教室に入って来て、新任の挨拶をしてから、受取った自分の成績表を見て、昇平は愕然とした。優が倫理学と地理学程度で少なく、経済学、英語、ドイツ語など、ほとんどが良で、法学と心理学が可だった。不可が無かったので助かった。だが、これから卒業までに専門科目とゼミナールで好成績を取らなければ優良企業に入社出来ないと、昇平は褌を締め直さなければならないと自覚した。また万一の事を考え、教職科目にも挑戦してみようと思った。大学3年生になった昇平は、自分の前途を見定めた。貿易商になる夢と文筆家になる夢が交錯したが、生きて行く為には、貿易商になるしかないと思った。ゼミナール試験では貿易の『石田ゼミナール』の試験を受けたが、英語の成績が優でなかったので不合格となった。そこで中国からの引揚者の下村正明と中国貿易の『王ゼミナール』に入ることにした。ゼミナール教室での初回の自己紹介の時、皆、現在の昼間の仕事などを説明することになった。下村は蔵前の貿易会社で、アメリカへの玩具輸出の仕事をしていると話した。昇平は『立花建設』での仕事の話をせず、現在、『衆議院第二議員会館』で働いていると話した。六馬一夫は自衛隊、佐藤陽介は経理事務所、辻本康之はカメラの『リコー』、中川正樹は都庁、浅沼純一は印刷会社で働いているなどと話した。その他、文学部から数名の男女が加わって、ゼミナールは始まった。このようにして、昇平の大学3年の生活が始まった。昼間は、矢野秘書たちの指示に従い、郵便物や新聞の整理、地元団体の陳情の対応、選挙対策の検討、地元協力者集め、パーティ企画、セミナー会場の準備、国会質問文章作成などの仕事に頑張った。そして夕方から『М大学』に行き、クラスの仲間やゼミナール仲間と共に学び、夜、遅く、麻布の家に戻った。昇平は若い尾形憲三代議士に感化された。近隣国との融和による日本の発展、男女共同参画による未来志向、祖国防衛の安全保障の推進など、尾形代議士の強い信念を聞かされ、成程と思った。
「吉岡君。これからは田中角栄先生の時代だよ」
昇平は、尾形代議士に、肩をポンと叩かれ、田中角栄代議士の名前を教えられたが、田中角栄は昇平の全く知らない人物だった。尾形代議士は教えるだけでは無かった。矢野秘書や船田助手たちからも、いろんなことを訊いた。昇平はベトナム戦争についての考えや、『王ゼミナール』で学んだ台湾のことや高宮城英子から得た沖縄の話など、尾形代議士に伝えた。そんなであるから昇平は大学の仲間に、自分が仕える尾形代議士の素晴らしさを自慢した。すると、仲間は、そんな代議士がいるのかなどと疑った。
〇
笛村真織は大学3年生になった。今年になって、正月にデートを断ってから自分の前から忽然と姿を消した吉岡昇平が、どうしているのか気になって仕方なかった。その為、毎日、バー『火影』に昇平が現れるのではないかと、ひたすら時を待った。だが待ち人来たらず。大学が始まって何日も過ぎたというのに彼は姿を見せなかった。小雪ママも国枝マスーターも真織が昇平に振られたに違いないと想像した。そんな或る日、『博報堂』の小平義之が、会社の仲間と『火影』に飲みに来た。真織は待ってましたとばかり、小平の席について、緊張した目で小平に質問した。
「お久しぶりです。新学年スタートしたのでしょう」
「うん。16日から」
「吉岡さん、田舎から帰って来た?」
「ああ、帰って来たよ。まだ会ってないの?」
「今年になってから、1度も店に来てくれていないの」
真織の言葉に、小平は自分が責められているような気分になった。そう言えば、吉岡昇平は後期の試験が終わってから入院していたとか言っていた。詳しい事は知らないが、その事を真織に伝えるべきか否か、小平は躊躇した。真織が昇平に厚意を寄せていることが想像出来たからだった。田舎に帰っていたことで済ませるのが賢明に思えた。だが何か情報を提供しなければならなかった。そこで小平は吉岡昇平の近況を、こう語った。
「あいつは、兎に角、忙しいんだよ。今まで勤めていた『立花建設』を辞め、今は国会議員秘書の見習いをしている。吉岡の夢は、俺たちと、ちょっと違うんだ。議員会館の代議士事務所に来た陳情団体を相手にして、国会議事堂内を案内したり、国会での質問文を作成したり、兎に角、忙しいらしい」
「そうだったの。そんなこと全く知らなかったわ」
「だから、あいつは、ここに来ようと思っても、来られないのさ。多分、政治家と銀座、赤坂に行って忙しいんだろうよ。だから神保町には、もう来ないよ」
「まあっ」
「ヨッちゃんも冷たいわね」
百合子ママが、昇平の悪口を言った。すると真織が何か言いかけた。
「あの人は」
そこまで言って真織は口ごもった。すると朝倉由美が、真織に同情するような顔をして言った。
「ヨッちゃんは冷たい人では無いわ。好きだとか愛しているとか口に出さなかった人だし、多分、『火影』はヨッちゃんの息抜きの場所だったなだと思うの。そうよねえ、小平さん」
「うん。そうだと思うよ。今度、吉岡に会ったら、たまには『火影』に顔を出せよと言っとくよ」
「言っとくだけじゃあ駄目。連れて来てよ」
真織の代わりに由美が小平に強く言った。だが、それから何日、経っても昇平や小平からの反応は無かった。真織は昇平には真織を受け入れられない何か秘密があるに違いないと推測した。また彼には故郷に帰って生じた何か秘密が出来たのではないかとも疑った。自分が描いて来た昇平との甘美な夢は独りよがりの空想だったのかもしれない。もしかすると彼は政治活動に夢中になり、自分とのことなど、余り深く考えていないのかもしれない。真織の昇平への思いは揺らぎ始めた。今までの自分の昇平への思いは自分勝手で、独りよがりだったのかもしれない。相手がどう思っているかに関係なく、自分が思っといるのと同様、相手も自分を思っていてくれていると錯覚していたのかもしれない。愚かと言えば愚かだった。真織は自分の昇平への思いが、季節と反対に凍結して行くのを感じた。そんな心境でいる日曜日の事だった。青山の自宅に、『赤十字病院』の中原誠人医師と母、和代がやって来た。2人はバー『火影』でアルバイトを続けている真織の生活を変えようと説得に来たのだった。まず母、和代が自分たち夫婦の前に1人娘の真織を座らせて言った。
「真織。今日は、今までお前に苦労をさせて、来たけど、これからは、お前が無理をせずに生活出来るように、この人と相談してやって来たの」
「何、言っているの。私は無理などしていないわ。今は1人暮らしで自由に生きているわ」
「だって、まだ神田のバーでアルバイトしているのでしょう」
「ええ、そうよ。お客さんが沢山来るから」
「もう、そんなアルバイト、辞めなさい。お前の授業料は勿論の事、生活費の面倒を、私たちがみてやって上げているのだから」
「友達と遊ぶ、お小遣い稼ぎよ」
「私たちが送金している金額で遊ぶお金だって賄える筈よ」
言われてみれば、母、和代の言う通りだった。だが、真織は『火影』を辞めたく無かった。確かに今までは母子家庭に育ち、バーでアルバイトをして生活費を稼ぎ、苦学生だった。しかし、母が再婚して、義父と一緒に学費は勿論のこと娘の生活費まで面倒をみてくれるようになった今は、苦学生ではなかった。真織は反論出来ず、黙り込んだ。すると義父の中原誠人が、真織に言った。
「真織ちゃん。お母さんは、君の将来の事を考えて、今のアルバイトを辞めるように言っているのです。これからの女性は、お母さんのように家事と仕事を両立出来るようになるのが理想です。真織ちゃんが、大学で学んでいるのも専業主婦になる為では無く、職業婦人となって、社会で活躍する為なんじゃあないのかな」
「はい」
「今の日本社会は学歴社会になりつつあり、優良企業に就職するには、今まで以上に競争倍率が高くなっている。その為、優良企業では銀行同様、身元調査を採用しているらしい。もし、真織ちゃんの就職試験応募中に、真織ちゃんが、酒場でアルバイトしているなんて事が判明したら、直ぐ、不採用になっちゃうよ。だから、お母さんの言うように、今のアルバイトは辞めるんだね」
真織は実の父親でも無い中原医師に、『火影』でのアルバイトを悪事でもしているかのように言われ、カッとなった。自分を見放した母も母だ。自分から家を出て行った母、和代なのに、何故、自由に生きよと放り出した娘の心情が分からないのか。自分たち夫婦の思惑を最良と信じて、一方的に自分たちの考えに従わせようとする考えは愛情では無い。自分の娘に枷をかけて、娘の自由を束縛しようとする母の我欲だ。真織には母の心が理解出来なかった。母は娘と『火影』との縁を切らせようと懸命だった。
「夜の時間をもてあますようだったら、市ヶ谷の『江上料理学院』に通い、料理の勉強でもしなさい。料理が上手になれば結婚して、より仕合せになれます」
母はそう言って、中原医師と顔を見合わせ笑い合った。真織は、そんな2人を見ていられなかった。早く目の前から消えて欲しかった。
「分かったわ。何時か辞めなければならないのだから」
真織は、自分に言い聞かせるように答えた。それを聞くと、母、和代と中原医師は納得して、青山の家から出て行った。
〇
夕方、6時を過ぎると、神田神保町の商店街には無数の灯りが点灯し、まるでゴッホの『夜のカフェテラス』の絵のように輝いて眩しかった。真織は中原医師と母、和代に言われ、『火影』でのアルバイトを辞める事にした。理由は、それだけでは無かった。もしかすると、中原医師が言っていたように、吉岡昇平も酒場でアルバイトをしている自分の事を軽蔑しているかもしれないと思ったからだった。『博報堂』の小平が、あいつはもう神保町には来ないよと言った言葉が、頭から消えなかった。真織は今まで妄想が先行して現実と区別がつかなくなっていた自分に気づいた。自分は中原医師が言うように、大学を卒業して一流会社に勤め、良き伴侶を得て幸福を掴まなければならない。バー『火影』に勤め、多くの男たちに、ちやほやされ、取り巻かれ、有頂天になっていたが、それは本質的に裏打ちされたものではなく、生まれながらにして美貌に恵まれた女によくある錯覚そのものだった。真織は『火影』を辞める決心をして『火影』に行き、接客した。『赤松商事』の横山課長と広畑係長が、今日は『日清製紙』の金井部長と石野課長の接待で、気を使っていた。
「兎に角、安心して下さい。私たちが、ニューヨーク支店の菊池と対応しますので」
「俺たちは、英語が全く駄目だから、技術資料は、俺たちに分かるよう日本語で、まとめてくれよ」
「はい。我社で仕様書、取扱説明書等、日本語に翻訳しますので、心配いりません」
「俺たちにとっては橋本専務の御使命を受けての海外出張だ。帰国後、社内での箔がつく」
「その通りです。輸入機が活躍して業績に貢献すれば、金井部長は取締役に、石野課長は技術部長に昇格です」
「そんな幸運に恵まれるだろうか」
「何、言っているんです。私たちとアメリカに出張出来ること自体が、チャンスの始まりです」
『赤松商事』の横山課長たちと『日清製紙』の金井部長たちの話は弾んだ。会話の途中で、横山課長が金井部長に冗談を言った。
「金井部長。このマオちゃんは『A大学』の英文科です。通訳としてアメリカに連れて行ったらどうです」
「ええっ、英語出来るの?」
金井部長は真織の顔をびっくりした顔をして確認した。本当に『A大学』の英文科の学生かと、疑っている目つきだった。真織は自信をもって答えた。
「はい。英文科ですから、大丈夫です。将来、貿易の仕事につきたいと思っています」
「じゃあ、卒業したら『赤松商事』に入社するんだね」
「それは難しいのじゃないかしら」
百合子ママが横から口出しして笑った。今井春香や秋川スミレも笑った。金井部長は百合子ママたちが何故笑うのか不審に思った。
「何故だよ」
「だって、店に来て、足を触ったりしている人たちが上司だなんて考えられます?」
「うん。それもそうだな。ハッハッハ・・・」
『火影』での接客は、大学の授業で得られない知識を得る事が出来た。だがプラス面もあれば、中原医師の言うようにマイナス面もあった。辞める決心は揺ぎ無かった。11時前、客が少なくなったところで、真織は小雪ママと国枝マスターに言った。
「小雪ママ。私、今月いっぱいで、お店のアルバイト辞めさせていただきます」
「ええっ。突然、どうしたの。何があったのよ」
「一身上の都合です」
「待ってよ。百合ちゃん、百合ちゃん」
小雪ママは、今まで真織と接客していた百合子ママを呼んだ。百合子は何事かと、客席から離れ、カウンター席に寄って来た。
「何ですか、ママ?」
「マオちゃんが、辞めるっていうの。お客さんと何かあったの?」
「何も」
「なら何で、急に辞めるなんて」
小雪ママは真織を見詰めた。真織は小雪ママに見詰められると、急に目から涙が溢れ出した。この人にお世話になったことを無視することは出来ない。お金を貸してもらったこともあった。旅行にも連れて行ってもらった。理由を、どうに話せば良いのか分からなかった。すると国枝マスターが小雪ママに言った。
「オリンピックが始まるので、銀座の高級クラブで英語力を発揮して、金を稼ごうとでも思っているのじゃあないの。最近、銀座、赤坂あたりで、英語力のあるホステスの引き抜きが活発になっているらしいから」
「そうなのマオちゃん?」
「いいえ、違います」
「じゃあ、何なの」
真織が黙っていると百合子ママが言った。
「分かっているわよ、マオちゃん。店を辞めて、モヤモヤしている気持ちを、すっきりさせて、新しい気持ちで、次の恋を探そうっていう、その気持ち」
「そ、そんなんじゃあ無いです」
「マオちゃん。しっかりしなければ駄目よ。ヨッちゃんが来なくなったから辞めるなんて、我慢が足りないわ。半年ばかりの恋で、もう終わらせちゃうの。店を辞めるなんて言わないで、『火影』のカウンターで、ヨッちゃんが来るのを、待っていてあげないと・・・」
百合子が、そう言うと、真織はいっぱいためていた涙を拭いて言った。
「あの人は、もう来ないわ。そう小平さんが言っていた」
「穏やかで優しくて、マオちゃんとあんなに意気投合していたヨッちゃんが、来ないなんてこと無いわよ。必ず来てくれるから、辞めないで」
「私は母に辞めるよう言われたから、辞めるのです。吉岡さんが来ないからではありません。私の母は私が、ここでアルバイトをしていることに強く反対しています。義理の父も同じです。ですから今月いっぱいで辞めさせてもらいます」
真織は小雪ママに、はっきりと辞めることを伝えた。もし、昇平が自分に会いたくて、『火影』に来て、自分の姿が見えなければ、青山の自宅の住所も電話番号も分かっているのだから、連絡して来る筈だ。真織は小雪ママに、思い切って『火影』を辞めると伝えて、ホッとした。だが小雪ママは真織を引き留めようと、逆にヒステリックになって、泣き出しそうになった。由美やスミレたちも何事かと、集まって来そうになった。すると、国枝マスターが周囲のホステスたちを、ちらりと見て、小雪ママに言った。
「無理して引き留めることはないですよ」
小雪ママは国枝マスターに、そう言われ、納得した。真織は辞めないで欲しいと、その後も小雪ママに頼まれたが、4月いっぱいで『火影』を辞めた。『火影』を辞める事によって、昇平に会えない憂鬱が解消されると思った。一旦、別れた水の流れは再び一緒になることは無いというが、そうとも思えなかった。真織は5月の連休を迎えた。何処へも行く気になれなかった。何処にも行かないで、自宅の庭の花を眺めて、ひたすら吉報を待った。
『火影』 終わり