14-8話 Still on My Way(8)
朝、目が覚めた瞬間に分かった。
——今日は、身体が拒否している。
起きているのに、現実と噛み合っていない。
頭だけが先に覚醒して、身体がそれに追いついていないような感覚だった。
ゆっくりと上体を起こすと、遅れて心臓が強く打ち始める。
指先が冷たい。喉の奥が乾いている。
(……面談だ)
その言葉を頭の中でなぞった瞬間、現実が一気に輪郭を持った。
筑波大学の推薦入試。
昨日は小論文だった。
自分の中で言いたいことは、あの紙の上に出し切ったつもりだ。
だが、今日は違う。
紙ではない。
言葉だ。
しかも相手は初対面の大人で、正解があるわけでもない。
自分の人生を、その場で切り取って見せる。
それが評価される。
その事実が、じわじわと身体の奥に広がっていく。
カーテンを開けると、空は異様に澄んでいた。
冬の手前の、硬い青。
街はまだ眠っているのに、空だけが先に目を覚ましているようだった。
「まだ6時前か……」
やはり習慣は怖いものでラジオの基礎英語が始まる前には目が覚めてしまう。
(時間つぶしに基礎英語でも聞くか? まぁ、気がまぎれるかもな)
ラジオから流れてくる『英語』がこれからの戦いの舞台になるとは聞き始めた中学一年の時には考えもしなかった。
洗面所で顔を洗う。
冷たい水が頬に当たり、ようやく意識がはっきりする。
鏡に映った自分の顔は、いつもより少し白く見えた。
目の下にわずかな影が落ちている。
(……ここで落ちたらどうなる)
考えないようにしていたことが、勝手に頭の中で形になる。
一般入試に戻る。共通テスト。私立の出願。
スケジュールが一気に詰まる未来。
それはただの可能性のはずなのに、妙に現実的だった。
考えれば考えるほど、逃げ場が狭くなる。
俺は一度目を閉じて、意識的にその思考を切った。
階段を降りると、いつもの味噌汁の匂いが広がっていた。
母が振り返る。
「おはよう。……食べられそう?」
その問いに、少しだけ間を置いてから答える。
「……うん。食べる」
嘘ではない。
むしろ、今は食べないといけないと思った。
食卓に座る。
ご飯、焼き鮭、味噌汁。
箸を持つ。
一口、口に運ぶ。
噛む。飲み込む。
それだけの動作なのに、身体が少しずつ現実に戻ってくるのが分かる。
父が新聞を畳み、こちらを見た。
「緊張してるのか」
「……してないって言ったら嘘になる」
正直に答えると、父は短く頷いた。
「それでいい。緊張は、準備した証拠だ」
淡々とした口調だったが、その言葉は不思議と胸に残った。
「準備してないやつは、緊張しないか……。そういえば高校受験の時は緊張ってあまりしてなかったなあ」
「その結果が今につながっていく。結果を出すのはお前だ。精一杯やってこい」
父は俺の高校受験の失敗をとがめることはしなかった。
結果として大鳳高校に入学し、首位の成績を守り抜いた。
模試の成績も受験者上位となり受験を迎えている。
多分、受験でほかの高校に合格していれば全く異なった高校生活を過ごしていたのだろう。
人生は結果論だ。
父はそのことを理解して俺のことを責めることはしなかったのだ。
「今までのケリをつけてくる」
味噌汁を一口飲む。
その落ち着いた動作を見ていると、呼吸が少しだけ整う気がした。
玄関で靴を履く。
鞄の中を確認する。
受験票、筆記用具、時計、ハンカチ、のど飴、生徒手帳、スマホ、財布……。
全部揃っている。
分かっているのに、指が勝手に何度も触れて確認してしまう。
そのとき、スマホが震えた。
画面を見る。
……通知は、ない。
ロック画面のまま、静かに光が消えた。
(……あれ)
少しだけ、違和感を覚えた。
昨日までは違った。
誰かしら、連絡が来ていた。
夏村さん。井上さん。多江ちゃん。那奈、さより。
それぞれが、それぞれの言葉で、何かを伝えてきた。
だが今日は、何もない。
意識して止めているのか、それとも偶然なのかは分からない。
けれど、その『何もない』のが、妙に気になった。
(……気を使ってるのか)
そう考えると、納得はできる。
今日が本番だと分かっているからこそ、あえて連絡を控えている。
それは優しさだ。
分かっている。
分かっているのに……。
(……なんで、少し不安なんだよ)
自分でも、情けないと思った。
家を出て、駅へ向かう。
朝の空気は冷たく、頭が少しだけ冴える。
足を動かすたびに、身体がようやく現実と一致していく感覚があった。
改札の前で立ち止まり、もう一度スマホを見る。
やはり通知はない。
(……別にいいだろ)
そう思って、ポケットにしまおうとした瞬間だった。
画面が震えた。
〈さより〉
一瞬、呼吸が止まる。
開く。
『先輩。面談で一番やってはいけないのは“答えを整えすぎること”です』
励ましの言葉ではなかった。
『準備した文章をそのまま話すと、必ず深掘りで崩されます』
『怖くてもいいので、その場で考えて答えてください』
『沈黙しないこと』
短い。
だが、必要なことだけが書かれている。
読み終えた瞬間、胸の奥にあったざわつきが、少しだけ形を変えた。
(……そういうことか)
さよりは、励ますのではなく、支える方法を選んだ。
余計な言葉はない。
ただ、必要なことだけを渡してくる。
それが、あいつらしいと思った。
電車に乗る。
席に座り、窓の外を眺める。
景色が流れていく。
昨日までの自分の言葉が、頭の中で静かに転がる。
怖い。逃げたい。でも、それでも行くしかない。
(……逃げない)
そう決めたはずだ。
つくば駅に到着する。
ホームに降り立った瞬間、空気が少しだけ変わった気がした。
ここから先は、もう“日常”ではない。
昨日とは異なり、集合時間が各受験者で設定されているため、つくば駅に受験生らしき姿はほとんどなかった。
駅を出て、大学へ向かう道を歩く。
バスに乗れば容易に目的地にたどり着けるが、車内にはノイズが多い。
受験生の陰、乗客の会話、本・新聞をめくる音、スマホの画面をスクロールする指の動き、もちろん車の騒音も含めてノイズだ。
俺はそれをあえて選らなばなかった。
ノイズは緊張を増幅させるからだ。
昨日とは違い、妙な緊張感がない。
それが逆に、不安を強める。
(……本当に、ここでいいのか)
そんな考えがよぎる。
だが、足は止まらない。
歩きながら、さよりの言葉を思い出す。
『答えを整えすぎるな』
『沈黙するな』
その二つだけが、やけに強く残っていた。
(……じゃあ)
準備してきた答えは、どうする。
全部捨てるのか。
いや、違う。
あれは土台だ。
ただ、そのまま出すものじゃない。
その場で、組み替える。
(……できるか)
一瞬、不安がよぎる。
だが同時に、別の感覚もあった。
(……やるしかない)
大学の門が見える。
門の前にある警備室の制服を着た人にあいさつをする。
必要がないことと考えがちだが、ここまで俺を見守ってきてくれたのは挨拶だった。
中学の一件で商店街の人たちからは白い目で見られたが、俺は変わりなく挨拶をつづけた。
そのことが今の関係を構築できたと思ったからだ。
また、商売人の息子であることから自然と変わらぬ毎日の挨拶につながったのだろう。
大学の門をくぐると、空気がさらに引き締まったように感じた。
案内板の前で立ち止まり、指示された方向へ進む。受付で受験票を提示し、係員に案内されて廊下を歩く。
すべてが淡々と進んでいく。
まるで自分が機械の部品になったかのように、決められた動作をなぞっているだけの感覚だった。
だがその一方で、一つひとつの行動がやけに現実的に感じられる。
(……ここが本番か)
控室の扉を開ける。
中は静まり返っていた。
数人の受験生が間隔を空けて座り、それぞれノートや資料に目を落としている。誰も会話をしない。ページをめくる音だけが、時折小さく響く。
空いている席に座る。
鞄からノートを取り出す。
さよりがまとめてくれた想定質問集。
開こうとして、手が止まった。
(……今から全部見たら、たぶん決心が崩れる)
そう直感した。
今の自分は、何かを詰め込める状態じゃない。
むしろ余計な情報を入れれば、頭の中が散らかってしまう。
だから、最後のページだけ開いた。
そこには「がんばれ」とだけ書かれている。
……はずだった。
だが、よく見るとその周りにいくつかの文字が増えている。
夏村さん。井上さん。多江ちゃん。那奈。さより。
それぞれの字で、短い言葉が書き添えられていた。
(……いつの間に)
気づかなかった。
彼女たちと会ったのは二日前の教室だった。
(表紙しか見てなかったのか……。注意が足んねぇな)
それを気づけただけでも、少しだけ胸の奥が軽くなる。
ゆっくりとノートを鞄にしまった。
(……もういい)
やるべき準備は、全部やった。
立ち向かう勇気を彼女たちも奮い立たせてくれたのだ。
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