14-7話 Still on My Way(7)
バス停へ向かう人の流れに混じる。
顔ぶれは朝と似ているはずなのに、みんな少し違って見えた。
明るい顔のやつもいる。無表情のやつもいる。保護者と何か話しているやつもいる。
自分がどんな顔をしているのかは分からない。
スマホを見る。通知がいくつか来ている。たぶん五人だ。
『終わった』とだけ送ろうか迷って、やめた。
今はまだ、文字にする元気がなかった。
バスが来る。
帰りも混んでいた。座れたが、朝とは違う種類の疲れがある。
緊張のまま固まっていたものが、終わったことで急に重さを取り戻してきた感じだ。
窓の外を流れる景色を見ながら、小論文のことを考えようとして、やめて、また考える。
切り替えた方がいい。
明日面接がある。分かっている。
でも、今日の出来が宙に浮いたままだと、頭の中で整理がつかない。
良かったのか、悪かったのか。
たぶんその問い方がもう雑なんだと思う。
個人採点はそんなに明確なものでない。
崩れてはいない気がする。
しかし、すごく良かったとも言えない。
今の俺に言えるのは、そのくらいだ。
バスが駅へ着く。
つくば駅の改札へ向かう流れに乗る。
朝より人が多く見えるのは、疲れているからかもしれない。
電車に乗る。
今度は行きより帰宅客が増えていた。
スーツの人、買い物帰りの人、スマホで動画を見ている中学生。
俺の今日がどれだけ大きくても、周囲にとっては普通の夕方だ。
その当たり前が、少しだけ残酷で、かなりありがたい。
世界が受験に合わせて息を潜めたりしないからこそ、こっちはこっちで踏ん張るしかない。
つり革広告をぼんやり見る。文字が頭に入ってこない。
眠いわけでもないのに、思考が少し鈍い。
今日の出来を決めるのは、もう俺じゃない。
なのに、明日の出来はまだ俺に残されている。
休みたい。
でも休みきれない。
安心したい。
でも安心するにはまだ早い。
受験の一日目って、たぶんこういう中途半端な場所なんだろう。
戦いの途中の休憩所みたいな顔をして、人を座らせるくせに、寝かせてはくれない。
ようやくスマホを開く。
『終わった』
五人にそれだけ送る。
語彙が死んでいるなと思ったけど、今の俺にはそれが限界だった。
返信は早かった。
『おつかれ』井上さん。
『生還確認』夏村さん。
『詳細は帰宅後でいい』多江ちゃん。
『えらい』那奈。
『一日目が、ですね』さより。
最後の一文に、思わず少しだけ笑った。
そうだ。一日目が終わっただけだ。全行程終了みたいな顔をするのはまだ早い。
乗り換えをして、浦和へ戻る。
ホームに降りるころには、足が少し重くなっていた。
朝はただの緊張で感じなかった疲労が、今になって順番を取り戻してきた感じがある。
駅から家まで歩く。朝より暗い。
街灯がついていて、コンビニの明かりが妙に暖かく見えた。
甘いものでも買おうかと思って少しだけ足を止める。
井上さんのメッセージを思い出したからだ。
でも店に入る元気がなくて、そのまま家へ向かった。
玄関を開ける。家の空気が暖かい。
その温度差だけで、体のどこかがやっと帰ってきたと理解した。
「ただいま」
「おかえり」
母さんの声がする。その声を聞いた瞬間、今日ずっと張っていた何かが、少しだけ下がった。
「どうだった?」
聞き方がやわらかい。答えを迫る感じじゃない。
「分かんない」
靴を脱ぎながら答える。それ以外に言いようがなかった。
「じゃあ、悪くはないのかもね」
「その理屈、雑じゃない?」
「受験直後の自己評価なんて、どうせみんな雑よ。あんたの高校受験で学んだから」
それもそうかと思う。
高校受験の時の自己採点も当たっていなかったのだから。
部屋に戻って鞄を置く。
肩が軽くなる。その軽さで、逆にどれだけ力が入っていたか分かった。
ベッドに座ると、体が沈む。
疲れている。思っていたより、ちゃんと疲れていた。
スマホを握る。
最初に夏村さん。
『で、死んだ顔してるか?』
雑だなと思いながら、少しだけ笑う。
「半分くらい」
送ると、すぐ返ってきた。
『なら上出来だろ。本当に終わってたら連絡返す余裕ねえだろうし』
妙に説得力がある。少なくとも、今こうして話している時点で、完全に終了となったわけではないからだ。
『どうだった』
「うまく書けたと思う。でも、もっとうまくできたかもって気もする」
『全員そう思うやつだな。で、結論としてそこまで悪くないってやつな』
「雑な分析ですね」
『今のおまえはそういうの求めてねえだろ。細かく振り返ったって今日の答案の成績は良くなんねえし』
その通りすぎて返す言葉がない。
『明日あるんだから今日はさっさと寝ろ。変な反省会すんなよ。あと、朝送った通り、変にいいこと言おうとしなくていい。おまえの悪い癖、緊張すると急に優等生ぶるところあるから』
「ひどい言われようですね」
『事実だろ』
否定しにくかった。
『おまえはちゃんと考えてる時の方がマシなんだから、見栄張るな』
最後の一文が、夏村さんらしかった。
ぶっきらぼうなのに、変なところでまっすぐだ。
「……分かりました」
『分かればいい。今日は寝ろ。以上』
そこで終わる。余韻を作らない切り方まで含めて、夏村さんだと思った。
次に井上さん。
『どうだった?』
「分からないというのが正直なところ」
『受験の感想として一番信用できるやつ来た~!』
「でしょ」
『うん。たぶん本当にやばかったら、逆に「やばい」って言うじゃん。分かんないってことは、少なくとも戦えてるってことだよね』
言い方がうまいなと思う。無責任に大丈夫と言わない。でも、ちゃんと沈まない位置には置いてくれる。
『電車で変なこと考えすぎなかった?』
「考えた」
『だよね』
「でも、考えすぎてはいない……たぶん」
『えらい! かずくんは考え始めると、いけるとこまで行くから』
「俺ってどう見られてるの?」
『めんどくさい方向に真面目な人』
「悪口っぽいな」
『半分褒めてる』
少し笑う。
『今日はあったかいもの食べて、風呂入って、反省は最小限。あと甘いもの』
「甘いもの推しが強いな」
『受験期の糖分を信じろ』
「宗教?」
『経験則』
そこから少しだけ、やりとりが続いた。
帰り道のこと、駅の雰囲気、つくばの空気。井上さんは試験の中身を深く掘らない代わりに、周辺の話題をさせることで俺の気持ちをほぐしてくる。
『つくば寒かった?』
「思ったより」
『でしょー。あのへん風抜ける感じあるもんね』
「行ったことあるの?」
『大会で行ったし、オープンキャンパスの時にも行った』
「なるほど……。てか、オープンキャンパスってあったの? 俺、行ってなかった。今回が初めて」
『らしいよね。明日も同じくらい寒いかもだから、首元ちゃんとして行きな』
その一言が、妙に生活の続きとして聞こえた。
受験日を受験だけの一日にしない人なんだなと思う。
「ありがとう」
『うん。今日のかずくんはもう十分がんばった。だから今日は、がんばりの続きをしないこと』
それは多分、俺が一番できないやつだ。
でも、言われるだけで少し楽になる。
多江ちゃんからは電話が来た。
「もしもし」
『お疲れさま』
いつも通りの声。落ち着いている。
「お疲れ」
『設問の意図は読めた?』
「たぶん。少なくともズレたことは書いてないと思う」
『なら大崩れはしてないね』
即答だった。その断定が、多江ちゃんらしい。
「でも、もう少し書けた気もする」
『それは全員思うもの』
「慰め?」
『統計』
さらっと返してくる。
『小論文は、終わった直後の「もっと書けた」はだいたい正常反応。本当に危ないのは、何を書いたか思い出せないとき』
「それは一応、大丈夫」
『なら十分』
十分、という言葉が少しだけ引っかかった。満点でも最善でもなく、十分。でも今日の俺に必要なのは、たぶんそういう単語だ。
『構成は崩れなかった?』
「たぶん」
『たぶんが多いね』
「終わった直後の人間に精度求めるなよ」
『そういう反応ができるなら、まだ余裕がある』
見抜かれている感じがして、少し黙る。
『今やるべきは今日の再現じゃなくて、明日の調整』
「分かってる」
『分かっていても、人は勝手に今日へ戻るから言ってる』
その通りだった。
『面接の答えを全部見直す必要はないから。核だけ確認して、あとは睡眠。声に出して練習しすぎると逆に削れる』
「はい、はい」
『雑に返さない』
「分かったよ」
『それと』
「ん?」
『面接で、今日の小論文の自己評価を引きずらないこと。今日が百点じゃなかったとしても、明日の評価軸は別』
「……分かってるつもりなんだけどな」
『つもりで十分。完全に切り替える必要はない。混ざらなければいい』
言い方が上手い。
全部捨てろと言われると無理だが、混ぜるなと言われると少しだけできる気がする。
『とにかく、今夜は明日の核だけ。余計な枝葉は見ない』
「了解」
通話を切ったあと、頭の中が少し整理されていた。
感情に手を突っ込むんじゃなく、棚に戻してくれる感じがある。
那奈は、というと、開口一番、
『おつかれ、かーくん』
と元気よく言われた。
「疲れた」
『うん、知ってる』
「文で分かるのかよ」
『分かるよ。いつもより句読点が少ないもん』
「そこ見てるの」
『好きな人のことだから』
さらっと言う。こっちが一瞬止まるくらい軽く。
「……そういうの、今さらっと言うなよ」
『今さらだから言うんだよ』
笑っている声がする。でも、からかっているだけじゃないのも分かる。
『ねえ、ちゃんと書けた?』
「書けた。たぶん」
『たぶんじゃなくて』
「書けたよ」
『ならよかった』
少しの間、沈黙がある。重くない沈黙。
『つくば、広かった?』
「広かった」
『だろうね。なんか、つくばって未来都市って感じするよね』
「未来って科学万博があったからだろう。雑だな」
『だって科学万博から大学へって将来へつながる未来って感じじゃん』
那奈は理屈で整理しようとしない。その代わり、感覚のところへ直接触れてくる。
『かーくんってさ』
「ん?」
『頑張った日ほど、自分に点数つけるの下手だよね』
図星だった。
「そうかも」
『だから今日は、自分で採点しないで。がんばったで終わりにしていいから』
「それ、小学生みたいだな」
『受験生って、追い込まれるとだいたい一回ぐらいは小学生になるもんよ』
「おまえ、受験経験あるのかよ」
『馬鹿にすんなって。同じ高校の同級生だぞ」
なんだその理屈、と思ったけど、少しだけ救われる。
『朝さ、笑ってって言ったじゃん』
「うん」
『ちゃんとできた?』
「家出るとき、一回だけ」
『えらい』
「褒め方が幼児向けだな」
『今のかーくんにはそのくらいでちょうどいいの』
否定しづらい。
『だいじょうぶじゃなくても、だいじょうぶ』
朝と同じことを言う。繰り返しなのに、朝より深く入る。たぶん今の俺の方が、そういう言葉を必要としているからだ。
『あとね』
「ん?」
『今日はちゃんと、自分がしんどいって認めていいよ。強いままでいようとしなくていいよ。抱きしめてやろうか? 姉さんの方がいい?』
「ば~か」
少しだけ胸が詰まる。
他の四人には、どうしてもどこかで格好をつけてしまう。
那奈にも、もちろん全部は見せていない。でも、こういう言い方をされると、強く見せ続ける必要のない場所が一瞬だけできる。
「でも、ありがとう」
『うん。じゃあ、今日はちゃんと休んで』
通話が切れる。
四人とやりとりしただけで、今日一日の重さが少しずつ違う場所に分散されていく感じがあった。
夏村さんは、平常に戻してくれる。井上さんは、気持ちを緩める。多江ちゃんは、頭を整理する。那奈さんは、感情を肯定する。
同じ応援でも、役割が違う。
たぶん俺は、その全部に助けられている。
夜、風呂を出て、机に向かう。英語面談用のノートを開く。でも、最初のページを見ただけで集中ができない。
疲れている。それもある。でもたぶん、今日の小論文が完全に頭から抜けていない。
切り替えろ。
そう思うほど、切り替わらない。
スマホが震えた。さよりからだった。
『お時間よろしいですか』
「少しなら」
『今日は、お疲れさまでした』
静かな声。いつも通り、少し温度が低い。でも今日はその低さがありがたい。
「終わった」
『一日目が、ですね』
「分かってる」
『なら結構です』
そこで少しだけ笑う。さよりのこういうところは、たぶんわざとなんだろう。甘やかしすぎない。緩みすぎた気持ちを、少しだけ正しい位置に戻す。
『小論文はどうでしたか』
「分からない。問題ないと思う。でも、もっと書けた気もする」
『正常です』
「みんな同じこと言うな」
『まともなことだからです』
少しの沈黙。通話の向こうで、紙をめくるような音がした。たぶん俺のために何かを確認しているわけじゃない。ただ、さよりの部屋の音だ。
「……明日に心を切り替えたいんだけどさ」
『はい』
「今日の出来が悪かったら、明日も崩れそうで嫌なんだよ」
言ってから、少しだけ自分は情けないと思った。でも、今さら格好をつけても仕方ない。
「うまく切り替えられる自信、そんなにない」
さよりはすぐには答えなかった。
でも、それは言葉を探している沈黙じゃない。受け止めてから返すための間だった。
『小論文は、もう先輩の手を離れました』
静かに言う。
『明日の面接は、まだ先輩の手の中にあります』
短い。でも、それだけで頭の中の境界線が少しはっきりした。
今日と明日。終わったものと、まだ触れられるもの。
ごちゃごちゃになっていた二つが、少しだけ分かれる。
『今日をなかったことにする必要はありません』
さよりが続ける。
『不安でも、引っかかっていても、そのままでいいです。ただ、それを明日の邪魔にしないでください』
「簡単に言うなあ」
『簡単ではありません』
即答だった。
『難しいです。だから言っています』
そこで言葉が切れる。少しだけ、呼吸を整えるような気配がした。
『先輩は』
「うん」
『答えを上手く言う人じゃなくて、答えから逃げない人です』
胸の奥が、少しだけ痛む。
褒められているのか、見抜かれているのか、分からない。たぶん両方だ。
『明日、必要なのはその方です』
その一言で、昨日の夜の通話が少しだけ重なる。逃げないんですよねと言われたこと。怖いんだよと素直に言えたこと。
俺はしばらく黙ったまま、机の上のノートを見ていた。
英語の想定問答が並んでいる。完璧な答えはまだ作れていない。
たぶん明日も少し詰まる。言い直すかもしれない。
でも、それで終わりじゃない。
「……ありがとう」
『お礼は、明日が終わってからで結構です』
「相変わらず厳しいな」
『先輩の後輩ですので』
少しだけ、声が柔らかくなった気がした。
『今日は、核だけはしっかりと持っていてください。そして、全部を完璧にしようとしないでください』
「分かった」
『それと』
「ん?」
『明日、ちゃんと自分の声で話してください』
その一言が、いちばん深く残った。
受かるための答え。好かれるための言葉。正解っぽい表現。
そういうものを全部通り越して、最後に必要なのはたぶんそれなんだろう。
自分の声で話すこと。
誰かの期待をなぞるんじゃなく、自分の意志として言葉を出すこと。
「……うん」
『では、おやすみなさい』
「おやすみ」
通話が切れる。
部屋が静かになる。でも、さっきまでとは違う静けさだった。
不安が消えたわけじゃない。小論文の出来も分からない。
明日の面接が怖いのも、そのままだ。
ただ、少しだけ整理された。
小論文は終わった。
良かったか悪かったかは、もう俺には決められない。
でも、明日の言葉はまだ俺のものだ。
逃げないだけじゃ足りない。
明日は、話さなきゃいけない。
自分の声で、立たなきゃいけない。
ノートを開く。一問目だけ確認する。答えを丸暗記するんじゃない。俺の思いを再度を見直す。
なぜ医学なのか。なぜ筑波なのか。自分は何をしてきて、何をしたいのか。
完璧じゃなくていい。
でも、他人の言葉じゃだめだ。
窓の外は、もうすっかり夜だった。
今日という一日は終わる。でも、受験はまだ終わらない。
Still on my way.
まだ途中だ。
だから、明日も俺は前を見続ける。
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