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14-6話 Still on My Way(6)

 つくば駅に着いた。

 逃げ場は、もうない。


 改札へ向かう流れの中で、自然と受験生の群れができていく。

 誰かに誘導されているわけでもないのに、同じような歩幅で同じ方向へ進んでいくのが少しだけ面白い。

 人間は目的地が同じだと、それだけで集団っぽく見える。


 改札を出ると、案内板や臨時バスの表示が目に入る。

 筑波大学方面。受験生らしい人の流れが、その文字を読む前からもう答えになっていた。


 少しだけ立ち止まってスマホを見る。時間は予定通り。遅れてはいない。

 その確認をしただけで、また現実感が増した。

 早すぎても遅すぎても不安になるのに、ちょうどいい時間だと今度は逃げ場がない。


「すみません」


 横から声をかけられて振り向く。

 同じくらいの年の男子だった。俺と似たような服装で、手には受験票らしきものが少し見えた。


「筑波大学行きのバス、これで合ってますよね」

「たぶん。受験ですか。私もです」

「そうなんですね。ありがとうございます。お互いがんばりましょう」


 それだけの会話だった。

 でも、相手も緊張しているのが分かった。声が少し乾いていた。

 俺が案内できるほど余裕があるわけじゃない。けれど、外から見れば多少は落ち着いて見えたのかもしれない。


 列に並ぶ。前にも後ろにも、それらしい受験生がいる。

 少し後ろでは、さきほどの母親らしい人が「筆箱出しやすいところにあるの?」とまた確認していた。

 別のところでは、二人組の男子が「小論文の課題、マジで回答できるやつ出てくれ」と小さく笑っている。


 同じ試験を受ける人間なのに、抱えている背景はそれぞれ違う。

 当たり前だけど、その当たり前が、逆に少し怖い。

 全員、ここまで来ている。

 努力したやつだけが来ている。

 俺よりずっと賢いやつも、俺よりずっと『ふさわしい』と自分で信じているやつも、たぶんこの中にいる。


 deserve.

 ――ここにいていい理由。


 昨日見た単語がまた浮かぶ。

 俺が選ばれる理由。俺がここにいていい理由。

 それを考え始めるとろくなことにならない。

 分かっているから、そこでやめる。


 バスが来た。

 乗り込む。思ったより混んでいた。座れたのは運がよかったと思う。

 窓側の席に座って、鞄を膝に置く。すぐ近くの手すりには、立ったまま小論文対策の参考書を眺めている受験生がいた。

 そこまでしてやるかと思ったが別に否定はできない。人によって落ち着き方が違うだけだ。


 発車する。


 駅前を抜けて、道が広くなる。

 車窓の向こうの景色は、見慣れた通学路とはまるで違った。大学のある街、という感じがする。道幅も建物の配置も、東京とも地元とも違う。整っているのに、少し余白が多い。


 ここに通うかもしれない。

 その考えが、急に具体的になる。

 パンフレットの写真やネットの情報じゃなく、実際の景色として目の前にある。だからこそ怖い。


 ここは俺が来るべき場所だ。

 そのために勉強してきた。

 推薦に向けて準備してきた。

 なのに近づくほど、自分が場違いに思える。


 数分も走ると進路方向右側にロケットの実物が見える。

 そのそばには博物館らしきものも見える。

 かつてこの辺は以前つくば万博の会場であったことを思い出す。


 ここでは、努力することは別に珍しくない。

 優秀であることも、たぶん特別じゃない。

 俺が今の学校で『できる側』に見えていたとしても、向こうに行けば普通か、下かもしれない。

 努力して追いつくのは慣れている。でも、またゼロからだ。


 それが嫌だから受けない、なんて選択肢は最初からない。

 怖いのは、間違っているからじゃない。たぶん、まともな方向へ進んでいるから怖い。


 バスの中でスマホを開く。返信まではしない。ただ、朝のメッセージをもう一度見る。


 『遅れんなよ』夏村さん。

 『終わったら甘いもの食べな』井上さん。

 『書きたいことではなく、問われていることから入って』多江ちゃん。

 『ちゃんと息してね』那奈さん。

 『周りではなく、設問に集中してください』さより。


 誰一人、派手なことは言っていない。

 でも、その普通さがありがたかった。

 受験なんて、最後はたぶんそういう普通でしか支えられない。


 大学の案内が見え始める。キャンパスの広さが車窓越しにも分かる。

 歓迎されているようには見えなかった。むしろ、淡々とそこにある。

 入るかどうかはそっちで決めてくれ、という顔をしている。

 いい大学ほどそうなのかもしれない。

 来たいならどうぞ。でも、選ぶのはこっちです。

 そんな顔をしている気がした。

 胃の奥がまた少し固くなる。


 バスを降りる。

 空気が朝よりさらに冷たい気がした。

 気温が下がったのか、俺の体温が落ちたのかは分からない。

 人の流れに乗って歩く。受験票を出して、掲示を見て、建物を確認する。

 どれも特別な動作じゃないのに、一つずつが妙に機械的だった。


 受験番号を探す。

 自分の番号を見つけたとき、安心というより、ちゃんとここにいるんだなと思った。

 いていいかどうかはまだ決まっていない。

 でも少なくとも、今日この席に座る資格はある。


 会場の建物に入る。暖房が効いていて、外との温度差で少しだけぼんやりする。

 廊下には係の人の声、紙をめくる音、靴音。私語は少ない。まったくないわけじゃないけど、全員、無意識に声量を下げている。


 掲示板の前で足を止める受験生。

 受験票と教室番号を見比べる人。

 トイレの場所を確認する人。

 壁際で深呼吸しているやつ。

 みんな、何かしらの『自分なりの整え方』をしていた。


 俺もトイレの位置を確認して、水を一口だけ飲む。

 飲みすぎると落ち着かない。

 飲まなさすぎても喉が気になる。

 こういう日に限って、人間の体は繊細だ。


 教室に入る。

 机と椅子が、受験番号順に並んでいる。

 自分の席を見つけて座る。


 前の席の男子は、ずっと手を組んだまま俯いていた。

 斜め前の女子は、膝の上で指先だけを動かしている。

 左隣のやつは、筆箱のファスナーを開けて閉め、開けて閉めを二回繰り返したあと、やめた。


 みんなそれぞれ、緊張の出方が違う。

 それを見て少しだけ落ち着く。自分だけが変じゃない。


 机の表面を指で軽くなぞる。

 受験会場の机って、どこも似たような顔をしている。

 TOEICを受験した芝浦工業大学の教室もそうだった。

 木目、少しの傷、前の誰かの筆圧の跡みたいなもの。

 ここで何人もの人間が緊張したんだろうと思う。


 監督者が入ってくる。

 説明が始まる。

 事務的で、平坦で、よく通る声。

 注意事項、開始時刻、記入方法。

 どれも大事なはずなのに、頭の中では情報というより音に近い。


 俺は筆記具の位置を直し、時計を机の右上に置き、受験票を確認した。

 手はまだ震えていない。

 そこだけは救いだった。


 深呼吸しようとする。

 うまくいかない。

 深く吸おうと意識した瞬間、呼吸が下手になる。


 『ちゃんと息してね』


 那奈さんの文面が頭をよぎって、少しだけ肩の力が抜けた。

 別に、完璧な呼吸を求められているわけじゃない。

 吸って吐ければ、とりあえず人間はやっていける。


 開始。


 問題冊子を開く。

 分からない、ではなかった。

 読める。

 でも、簡単じゃない。

 最初の一読でざっくり把握する。

 二度目で設問の要求を拾う。

 三度目で、どこを軸にするかを考える。


 なるほどと思う。

 同時に、面倒だなとも思う。

 その面倒さは悪い意味じゃない。

 ちゃんと考えさせる課題だということだ。

 薄い準備で誤魔化せるタイプではない。


 小論文は、知識の量だけじゃない。

 読解、整理、論理、立場の置き方、時間内での判断。

 分かっていたことなのに、いざ紙の上に現れると急に重くなる。


 『最初の五分で設問の要求を分解して』


 多江ちゃんのメッセージが、そのまま手順になる。


 何を問われている。

 どこまで答えればいい。

 論点は一つで足りるか、二つ必要か。

 自分の志望と無理なく接続できるか。

 倫理、社会、医療、技術、そのどこに軸足を置くか。


 パニックにはならない。

 そういう意味では、ここまで積み上げてきた時間はちゃんと残っていた。

 ただ、落ち着いていることと、余裕があることは違う。


 俺はまだ書き出さない。

 メモ欄に短く骨組みだけを置いていく。

 主張、理由、一つ目、二つ目、反対意見に触れる位置、最後の結び。


 この時点で、書けないわけではないと分かる。

 でも同時に、良い答案になるかは別だとも分かる。


 推薦だからこそ、無難すぎても弱い気がする。

 かといって、背伸びして薄いことを書くのはもっと危ない。


 書き始める。


 最初の一文だけ、慎重になる。

 ここで変に格好をつけると全体が死ぬ。派手な言い回しより、読み手に負担のない入口を作る方が大事だ。

 文字を書きながら、頭の別の部分では時間を見ている。

 序盤は遅くてもいい。

 中盤で詰まらないこと。

 最後にまとめを急がないこと。


 隣の席から筆記音が聞こえる。

 前の席からも聞こえる。

 みんな書いている。それが気になる。

 でも、他人の速度は情報にならない。

 速いから良いとも、遅いから悪いとも限らない。


 『周りではなく、設問に集中してください』


 さよりの一文が、そのまま視線を戻す力になる。

 紙面へ戻る。今ここで見るべきものは、自分の答案だけだ。


 書き進める。

 途中までは悪くない。

 少なくとも、自分が何を書きたいのかは見失っていない。

 けれど、半分を過ぎたあたりで、一度、自分の論の弱さに気づいた。


 このままだと一般論で終わる。

 いいことを言っているようで、結局何も言っていない文章になる。

 嫌な汗が少しだけ背中ににじむ。

 でも、まだ間に合う。

 書きながら軌道を修正する。

 論点を広げすぎない。自分が責任を持てる範囲まで絞る。

 受験の小論文で一番怖いのは、賢そうに見せようとして空中戦になることだ。


 俺は天才じゃない。

 全部を見通したふりはできない。

 だったら、自分の立場から届く範囲を丁寧に書くしかない。


 それは逃げじゃない。

 少なくとも今は、そう信じるしかない。


 書いている間、怖さを忘れる瞬間があった。

 文章のつながりを整えているときだけ、受験というより作業になる。問題解決に近い。

 俺らしいと言えば、たぶんそうなんだろう。

 目の前の課題が形を持つと、少しだけ平常に戻れる。


 でも、ふと我に返る瞬間が来る。

 残り時間。周囲の音。自分の分量。結びの弱さ。

 そのたびに、呼吸が浅くなりかける。


 『変にいいこと言おうとすんな』


 夏村さんの短い一文が、不思議とこの場面でも効く。

 別に答案で笑いを取りに行くわけじゃない。

 でも、妙に立派なことを書こうとした瞬間、自分の文章は自分から離れていく。

 だったら、多少地味でも、自分の言葉で押した方がいい。


 ふと、井上さんの『変なこと考えすぎないように』も浮かぶ。

 考えすぎると、筆が止まる。止まったら、それが一番危ない。

 今は完璧な考えじゃなくて、書き切る判断の方が大事だ。


 終盤に入る。

 まとめへ向かう。時間配分はギリギリではないが、余裕とも言えない。

 ここで焦ると、結論が急に薄くなる。だから、語尾だけは乱さないように意識する。


 結びの一文を書きながら、これで良かったのかという感覚がもう始まっていた。

 書いている最中に反省するのは悪い癖だ。でも止まらない。


 見直しに入る。

 論理の飛びがないか。主語が曖昧になっていないか。言い切りすぎていないか。逆に逃げすぎていないか。漢字。助詞。段落の流れ。


 もう一度読む。

 さっきより悪く見える。

 受験の見直しってたぶんそういうものだ。

 もっと良く書けた気がする。でも、もっと悪くなっていた可能性もある。その間にいる答案だと思うしかない。


 終了。

 回収される。


 その瞬間、ふっと体の力が抜けた。

 できた、じゃない。

 もう触れない、だった。


 紙が自分の手を離れた時点で、評価権は完全に向こうへ移る。

 どれだけ反省しても、どれだけ思い出しても、書き足すことも消すこともできない。

 それが受験の怖さだ。


 周囲が少しずつ動き出す。小さく息を吐くやつ。無言でペンをしまうやつ。誰かと小声で何か話すやつ。反応はそれぞれ違う。

 俺はしばらく席に座ったまま、机の上を見ていた。

 今さら設問のことを思い返しても意味はない。分かっている。でも頭は勝手に戻ろうとする。


 あそこ、もう一段具体例を置けたか。

 結び、少し弱かったか。

 いや、あれ以上広げたら崩れたかもしれない。

 こういう自己評価が一番信用できないのも、分かっている。

 終わった直後の感覚なんて、だいたい当てにならない。それでも考えてしまう。


 教室を出る。

 廊下の空気が少しざわついている。

 でも、高校の定期テスト後みたいな開放感はない。

 誰もが、まだ途中だと分かっているからだ。

 明日がある。面接がある。むしろ本命はそっちだ。


 外へ出ると、空気が冷たかった。

 朝より日が傾いていて、同じキャンパスなのに景色の色が少し違う。

 来たときよりも現実感が薄い。

 試験が終わると、疲労感のためか世界が一枚膜を挟んで見える。

当作品をここまで読んで頂き、ありがとうございます。

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