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14-5話 Still on My Way(5)

 ◇◇ 十一月二十七日 ◇◇


 目が覚めた瞬間、ついに今日が来たなと思った。


 それは、よくある受験漫画みたいに飛び起きる感じではなかった。

 むしろ逆だ。

 体はまだ布団の中に沈んだままで、頭だけが先に現実へ引っ張り上げられる。

 天井はいつもと同じだった。

 白くて、少しだけ味気ない。

 カーテンの隙間から差し込む朝の光も、普段ならただの朝で終わる程度の明るさしかない。

 なのに、今日だけはその光がやけに冷たく見えた。


 枕元のスマホに手を伸ばす。

 画面をつけると、アラームが鳴る三分前だった。


 眠れなかったわけじゃない。

 でも、よく眠れたとも言えない。

 浅いところを行ったり来たりしているうちに朝になった、というのがいちばん近い気がする。


 目を閉じる。

 もう一回寝直したいわけじゃない。

 ただ、今ならまだ、今日が始まる前の数秒を引き延ばせる気がした。

 けれど、そういう小細工で日付は変わらない。


 十一月二十七日。

 筑波大学推薦入試一日目、小論文当日。

 その日はちゃんと、来ていた。


 当たり前だけど、逃げ道みたいに見えていた昨日の夜は、もう終わっていた。

 さよりと通話したあと、少しだけ楽になった気がしていた。

 実際、あの時は救われた。

 でも、救われたことと、本番が消えることは別だ。


 布団をめくって起き上がる。

 足を床につけた瞬間、冷たさが一気にくる。

 十一月の朝らしい温度だった。


 机の上には、昨日まで開いていたノートがそのまま重なっている。

 英語面談用の想定問答。

 志望理由の整理。

 医療用ロボット関連のメモと語句集。

 小論文対策で使ったルーズリーフ。

 さよりの細かい字。

 多江ちゃんの論点整理。

 夏村さんの赤字修正。

 井上さんの容赦ないツッコミ。

 那奈の励ましの形をした感情の跡。

 全部ある。

 準備してきた証拠みたいに、ちゃんとそこに積み上がっていた。


 だからといって、不安が消えるわけじゃない。

 受験ってたぶん、準備不足だから怖いだけじゃない。

 準備してきたからこそ、その結果が問われるのが怖い。


 立ち上がって、洗面所へ向かう。

 顔を洗う。水が冷たい。

 眠気を飛ばすというより、皮膚を現実に慣らすための作業だった。

 鏡を見る。

 目の下にひどい隈があるわけではない。顔色も悪くない。むしろ、見た目だけなら普通だ。

 ただ、口元が少し固い。


「まあ、そうなるよな」


 誰に聞かせるでもなく呟く。

 この日に平常心でいろという方が無理だ。

 むしろ平然としていたら、そっちの方が少し怖い。


 リビングに行くと、もう母さんが起きていた。台所から味噌汁の匂いがする。

 昨日の夜から、今日の朝だけは妙に遠く感じていたのに、家の中は普通にいつもの朝だった。

 その普通さが、ありがたい。


「おはよう」

「おはよう。早いわね」

「今日はいつもの基礎英語を聞く気にもならなかった」

「習慣癖の和也でもそういう日もあるってことね」


 母さんは、それ以上大げさな顔をしなかった。

 心配していないわけじゃない。たぶんめちゃくちゃしている。

 高校入試を俺が失敗した時寝込んだくらいだ。

 でも、今回は変に励ましモードに入らない。

 今の俺にはその距離感が助かった。


「ご飯、食べられる?」

「もちろん」

「無理しなくていいけど」

「空腹で頭が回らない方が怖い。食べなかったことを失敗の理由にしたくないし」


 自分で言ってから、少しだけ可笑しかった。

 なんだその理屈と思う。でも、わりと本音だ。

 母さんも小さく笑う。


「そういう日は、量より食べた事実の方が大事ってことね」

「事実の摂取かな」

「訳の分からないこと言ってないで食べなさい」


 そのやりとりだけで、少し肩の力が抜けた。


 食卓に座る。

 ご飯、味噌汁、卵焼き、少しの焼き魚。特別なものは何もない。勝負飯でも、受験応援メニューでもない。

 いつもの朝食だ。

 でも、今日だけは箸の重さが少し違う。


 食欲がないわけじゃない。

 けれど、胃の奥に薄い膜みたいなものが張っていて、そこへ食べ物を一つずつ落としていく感じがある。


「受験票は?」

「鞄の前ポケット」

「筆記用具」

「ある」

「時計」

「ある」

「スマホ」

「今見てる」

「じゃあ大丈夫ね」


 確認だけして、それ以上は言わない。

 『頑張って』、『合格祈っているわよ』、『落ち着いて』、そういう言葉を使わない。

 俺の高校受験失敗とその後の高校時代の変化が母さんをある意味成長させ、このようなやりとりになったんだと思う。

 たぶん、今の俺は『大丈夫』と言われると、その言葉に責任を感じてしまう。

 だから、物理的に必要なものだけ確認してくれる方がずっとありがたい。


「行きは何時の電車?」

「予定通りに行けば会場には一時間以上余裕があると思う」

「そう。余裕があるなら、余裕ごと持っていきなさい」

「なんだそれ」

「受験の時って、余裕をギリギリの時間になったら買うことできないでしょ。持ってけ、持ってけ」


 それは、たしかにそうだ。

 母さんはたまに、妙にまともなことを言う。


 朝食を食べ終えて、食器を流しに置く。

 自室に戻って、鞄をもう一度開ける。

 受験票。筆箱。腕時計。ハンカチ。ティッシュ。飲み物。財布。昼用の軽食。英語面談用のノート。

 全部ある。

 ちゃんとあるのに、もう一回見る。

 見たからといって合格率が増えるわけじゃないのに、確認だけはしたくなる。


 英語面談用のノートに手が止まる。

 今日使うものじゃない。

 いらないと言えばいらない。

 でも、明日がある以上、持っていかない選択肢もない。

 小論文だけ受けて帰って終わりじゃない。

 今日の先に、明日がちゃんと控えている。

 その事実が、ノートの薄さに似合わない重さを持っていた。


 表紙を親指でなぞる。

 昨日、さよりと最後にやったやりとりが頭の中で再生される。


 Why should we choose you?


 今日の試験科目じゃないのに、頭のどこかで常に待機している。

 小論文。面接。発表。結果。大学。

 それぞれ別の日にやって来ればいいのに、今の俺の中では全部がまとめて胸の奥に置かれていた。


 服を着替える。

 鏡の前で制服姿を確認する。うわべだけ着飾ってもしょうがないとは思う。

 だが人は外見で判断する。

 益か害かを認識するための最も容易な判断方法だからだ。

 とは言えこの識別方法は意外と当たる。

 同じ趣向を持つ人は同じ外観に同調を感じるからだ。

 だから俺はあの夏、ヤンキーたちに容姿を最初に変えさせた。

 一般市民はヤンキー姿より制服姿を益と判断するからだ。


 いつもなら外しているカラーの留め具も止めてみた。

 昨日の俺より、少しだけ受験生っぽく見える。

 でも同時に、役を着せられたみたいでもあった。


 推薦入試。

 筑波大学医学群医学類。


 口の中でだけ言ってみる。

 音にすると、やけに立派だ。

 立派すぎて、自分のことじゃないみたいに聞こえる。


「……行くか」


 言っても、すぐには動かなかった。

 鞄を持つ。部屋を出る。玄関へ向かう。靴を履く。

 そこまでやって、一度だけ止まる。


 忘れ物を思い出したわけじゃない。

 大事な確認事項が残っているわけでもない。

 ただ、ドアを開けたら始まると思った。

 始まったら、今日は途中で止められない。

 駅に行って、電車に乗って、大学へ行き、知らない教室の知らない席に座り、小論文を書き、帰ってきて、それでもまた明日がある。

 それが嫌だ、と言うほど子どもでもない。

 だが、まだ始まっていない今だけは、失敗もしていない。

 何も起きていないこの数秒だけは、受かる可能性も落ちる可能性もまだ同じ形で宙にある。

 その曖昧な安全地帯が、少し惜しかった。


 スマホが震える。

 時間を見るとみんな登校したころだ。

 完璧なタイミングすぎて、少し笑った。

 

 その主は夏村さんだった。

『遅れんなよ』

 それだけ。

 句点も絵文字もない。

 でも、たぶん今の俺にはいちばん効く。

 頑張れ、でも、信じてる、でもない。ただ、いつも通り行けという一文。

 余計なことを言わないからこそ、そこに込めたものがはっきりする。


 続いて井上さん。

『おはよー』

『電車で変なこと考えすぎないように』

『終わったら甘いもの食べな』

 最後の一行が妙に生活感あって、逆にありがたい。

 受験の朝に糖分の話をされるとは思わなかったけど、井上さんらしい。

 緊張をほどくために、わざと一段だけ生活へ引き戻してくる。


 多江ちゃん。

『持ち物再確認』

『受験票、筆記具、時計』

『小論文は最初の五分で設問の要求を分解してから組み立てて』

『書きたいことではなく、問われていることから入って』

 応援というより作戦指示だ。

 でも、こういうのが助かる。大丈夫という感情は信用できなくても、やることの順番は信用できる。


 那奈。

『おはよう、かーくん』

『だいじょうぶ』

『だいじょうぶじゃなくてもだいじょうぶ』

『ちゃんと息してね』

『顔のこわばりはその人の雰囲気を変えるから、気づいたら少し笑って』

 最後の一行を見て、思わず口元が緩んだ。

 こういうのを狙って入れてくる。理屈じゃなくて、体の方から緊張をほどこうとしてくる。


 メールが続けてきたことから、四人集まって順番を決め送ってきたのだろう。

 

 数分遅れて最後に、四人とは別の場所にいるであろう、さよりから。

『おはようございます』

『一次情報だけをまずは頭に想像してください』

『周りではなく、設問に集中してください』

『先輩が考えるべきことは、会場に着いてからも減りません』

『だから今は余計なことは増やさないでください』

 余計な言葉が一つもない。

 いつも通りの文面。だからこそ落ち着く。

 たくさん考えたうえで削った感じがする。

 応援の熱量を足すんじゃなく、思考のノイズを削る方へ寄せてくるのが、さよりらしい。

 一次情報、要するに自分自身が体験して得た加工されていない生の情報を頭に浮かべる。

 さよりが何度も繰り返すので自然と頭に浮かんでくるようになった言葉。


 五人とも言っていることは少しずつ違う。

 でも、その違いがそのまま五人との距離だった。


 応援されているというより、見られている。

 それは少し重い。

 でも、重いだけじゃない。

 行ってこいと背中を押される重さだった。


「……よし」


 今度は止まらなかった。

 ドアを開けて、冷たい朝の空気の中へ出る。


 空の色は薄く、吐く息は白い。

 歩き出すと、靴底の感触がやけにはっきりした。

 今日の俺は、たぶんいろんなものを過剰に認識している。

 駅へ向かう道は、いつもの通学路と似ていても少し違う。

 いつもの神社の猫たち、同じ交差点、同じコンビニ、同じ信号の待ち時間。

 それなのに、今日は学校へ向かう日じゃないだけで、景色の意味が変わる。


 通勤の人、自転車で走る学生、犬の散歩をする人。

 朝の街は平常運転だった。

 俺の今日だけが特別でも、世界は別に速度を変えない。

 その当たり前が、少しありがたくて、少しだけ残酷だ。


 JR浦和駅が見えてくる。

 改札へ吸い込まれていく人の流れの中に、自分も混じる。

 改札を通って、ホームへ向かう階段を上がる。

 電光掲示板の文字、ホームに流れるアナウンス、コートの擦れる音。全部いつも通り。

 でも、今日はその『いつも通り』の中に自分だけ違う目的を持って立っている気がした。


 電車が来る。

 乗り込む。

 電車通学ではないので朝のラッシュの状況を知らないが、オフピークの時間のためか混んでもいなければ空いてもいない。

 中途半端な混み方だった。

 吊り革を掴みながら、鞄の位置を直す。

 しかし、ノートを開く気にはなれなかった。


 今さら何かを覚えたところで、今日の小論文に都合よく出るわけじゃない。

 逆に、見たページに知らない単語や浅い理解を見つけてしまったら、その方が厄介だ。

 そういう判断はできる。

 できるけど、だからといって落ち着くわけじゃない。


 勉強すれば安心する時期は、たぶんもう終わっていた。

 ここから先は、知らないことを増やす時間じゃなくて、持っているものを崩さない時間だ。


 窓の外を見る。

 見慣れた街並みが流れていく。

 普段ならただの通過点なのに、今日だけはやけに一つ一つが目についた。

 コンビニの看板、マンションのベランダ、朝日を受けたガードレール。

 人間は緊張すると、こんなふうにどうでもいいものまで細かく見えるようになるらしい。


 途中で乗り換える。

 人の流れに合わせて歩き、別のホームへ向かう。朝の駅は、みんな自分の速度で急いでいる。

 ぶつからないけど、譲り合いもしない。その冷たさが、今の自分にはちょうどよかった。

 受験の日だからって、誰かが道を開けてくれるわけじゃない。

 大げさでもなんでもなく、今日はそういう日の延長にある。


 秋葉原のつくばエクスプレスのホームに着いたとき、空気が少し変わった。

 社会人の姿が減り、学生の姿の比率が高くなる。

 ホームのベンチでノートを見ている女子。

 壁にもたれて目を閉じている男子。

 母親と小さな声で話している受験生。

 どれも見覚えのない他人なのに、今日だけは妙に近い世界にいる。


 電車が来る。

 乗り込んだ瞬間、さらに分かった。

 受験生が多い。


 あからさまではない。でも、同じ方向を向いた空気がある。

 みんな静かだった。喋っていても小声で、笑い声はほとんどない。

 朝の電車なのに、通勤とも通学とも違う沈黙があった。


 俺は座れた。

 座れたけど、落ち着くわけじゃない。

 膝の上に鞄を置く。

 前ポケットの中にある受験票がオーラを放ち、布越しに少しだけ手に触れたように感じた。


 車内を何となく見回す。

 蛍光ペンで参考書を追っている女子。

 隣の席の男性は寝たふりをしているのか、本当に寝ているのか分からない。

 少し離れたところでは、母親らしい人が「受験票、出しやすいとこに入ってる?」と確認していた。


 その声を聞いて、再度、俺は鞄に手をやった。

 ちゃんとある。


 少し前の方には二人組の男子がいた。

 進学校っぽいという言い方は雑だと思う。

 でも、なんとなくそう見える。

 髪型や服装じゃなくて、受験の空気に慣れている感じ。

 昨日も今日もその先も、同じレベルの競争の中で生きてきたような雰囲気がある。

 小声の会話が耳に入る。

 それだけで、自分の立ち位置を思い出した。


 この人たちは、同じ高校や塾の仲間と来ているのかもしれない。

 同じくらいの目標を持つ人間が何人もいる場所から来ているのかもしれない。


 俺は違う。

 大鳳高校という高校で、この学校の空気の中で、ここまで来た。

 先頭を走ってきたと自分で言うと少し気持ち悪い。

 でも実際、そういう位置に立たされてきた部分はある。

 俺が受かれば、次は自分もと思うやつが出る。

 落ちれば、あれだけやっても無理なのかと思われる。

 重いなと改めて思う。

 でも、その重さに今さら文句を言う時期でもない。

 受けると決めた時点で、ある程度は引き受けたつもりだ。


 景色が少しずつ変わっていく。高い建物の密度が減り、空が広くなる。

 つくばに近づいているのだと分かる。

 近づくほど、胸の奥が静かに固まっていった。

 不安が増えるというより、現実が濃くなる感じだ。


 『一次情報だけを見てください』


 再度、さよりのメッセージを思い出す。

 周りの雰囲気、進学校っぽい空気、自分より落ち着いて見える受験生。そういうものは全部ノイズだ。

 本番で見るべきは設問だけ。

 分かっている。

 分かっているけど、人間は分かっているだけじゃ簡単に割り切れない。

 考えがまとまらないうちに目的駅はすぐ近くにまで迫った。

当作品をここまで読んで頂き、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
受験をする人間と言うのは、誰しもが同じプレッシャーを抱えているもの。 だから、そんなに気にする必要性はないと思うんですがね。 それが例え、人よりも多くのものを背負っているのだとしても、結局は、それでも…
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