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14-4話 Still on My Way(4)

 ◇◇ 十一月二十六日 ◇◇


 通路側の最終列、その席だけが、やけに明るかった。


 机の上には何もない。

 椅子は軽く引かれたまま。

 朝の光が斜めに差し込み、空いた机の木目をくっきり浮かび上がらせている。

 そこに人がいないという事実が、教室のどこよりもはっきりしていた。


「今日から休みだっけ」


 井上が鞄を置きながら言う。


「前日だし、調整で休むって」

 

 多江ちゃんが淡々と答える。

 口調はいつも通り。

 けれど、視線は一瞬だけ空席に向いていた。


 (ちゃんと寝てるかな)


 口には出さない。

 出す必要もない。


「体力温存だろ」

 

 夏村が椅子に腰を下ろす。

 短い。

 それ以上言わない。


 (やることはやったんだ。あとは結果を出すだけだぞ)


 その確信は揺れていない。

 むしろ、揺れないことを自分に言い聞かせているようでもある。


「でも昨日ちょっと表情固かったんだよな」

 

 那奈がぽつりと言う。

 声に心配は混じっていない。


(でも、大丈夫)


 那奈の中ではもう決まっている。

 かーくんは、やる人だと。


「緊張して逃げたとか?」

 

 井上が笑う。冗談。

 でもその目は、まっすぐ空席を見ていた。


 (逃げる人じゃない。だから余計に、明日が怖い)


 誰も『受かるよ』とは言わない。

 言葉にするほど不確かではないからだ。

 このクラスで、この三年間で、俺が積み上げてきたことを、全員が知っている。

 だから、合格は『予想』ではない。ほとんど『前提』だ。

 問題は、結果ではない。その過程だ。


 チャイムが鳴る。

 担任が入ってくる。


「高松は推薦入試のため今日から三日間だが欠席だ」


 淡々とした説明。だがその一言で、教室の空気が一段締まる。

 欠席。推薦。筑波大学医学部。

 単語が並ぶだけで、現実味が増す。

 教室内中央部で誰かが小さく言う。


「すげえよな……。でも高松、入学からずっとがんばってきたもんな」


 その言葉が生み出した雰囲気が教室内をぴんとした空気に切り替える。

 羨望でも嫉妬でもない。ただの事実の確認だ。

 偏差値五十前後のこの高校で大学受験の空気を作り、先頭を走り、医学部推薦試験を受験。

 学校での先鋒であり大将役である俺の勝利を願っていた。

 俺が勝てば次は俺だと活気づく。

 負ければあんなにがんばっても所詮その程度の学校ということで意気消沈するだろう。

 

 教室の窓の外には、冷たい風に揺れる銀杏の葉。

 黄色く色づき始めた葉が、ひとつ、ひとつと落ちていく。

 冬は近い。



 英語の授業が始まる。

 黒板に書かれる構文。チョークの擦れる音。

 さよりはノートを取っている。


 正確に。いつも通り。

 でも、思考は別の場所にあった。


 (今日、先輩は何をしているのだろう)


 暗記ではなく、整理。

 単語ではなく、意図。


 推薦面接は能力の試験ではない。説明責任の試験だ。

 さよりはそれを知っている。

 どれだけ正しい英語を並べても、『あなたでなければいけない理由』が言えなければ意味がない。


 先輩は言える。あの人は、自分の過去を隠さない。痛みも、失敗も、選択も。

 だから、受かる。

 さよりの中で、それは疑問ではなかった。

 ただ、願いはある。


 (かずやさんが、ちゃんと『自分のために』受けられますように)


 チャイムが鳴る。窓の外では風が強まっていた。雲が速く流れていく。

 空は高い。

 明日、その下で俺は一人で立つ。

 でも、まわりの人たちは俺を一人だとは思っていない。

 受験と言えばその人の人生を決める岐路ともいえる。

 ただ今回の試験は俺の人生だけではなく高校の今後を決める岐路であるのだろう。

 『結局、俺、最終的にいろいろなことを背負ってるじゃん』

 俺はただ笑うしかなかった。



 同じ空の下にいるはずなのに、教室の時間と、自分の時間は、どこかずれている気がした。

 十一月二十六日。

 静かな家。

 机の上には、英語面談用のノートが積み重なっている。

 そのノートには、さよりの細かい文字、多江ちゃんの要点をまとめた事柄、夏村さんの赤字修正のなぶり書き、井上さんの鋭い指摘、那奈のはげましの繰り返しに隠された自分もがんばるという意思。

 全部が詰め込まれていた。

 準備はしてきた。


 なのに、胸の奥のざらつきが消えない。

 ノートを開く。

 “Why do you deserve to be admitted more than other candidates?”

 さよりの声が、脳内で再生される。

 “deserve”

 その単語が重い。


 俺が、選ばれる理由。

 俺が、医学部に行く理由。

 俺が、筑波でなければいけない理由。

 それを言語化する。

 英語だから難しいわけじゃない。

 日本語でも、怖い。

 

 (本当に、推薦でいいのか。本当に、医学部に行きたいのか)


 自分の言いたいことは英語で表現できるようにはなった。

 ただ、自己説明するため今までの自分の行いの棚卸をすればするほど、自分がふさわしくない人間に思えてしまう。

 その点を追求された場合の回答は準備した。

 しかし、その準備した回答は言い訳にしか思えなくなっていた。

 ……お前より進学校で努力してきた人の方が世の中に有益じゃないのか?

 


 俺は椅子から立ち上がり、窓を開けた。

 目の前には隣の家の壁しか見えない。

 その間を通り抜けてきた風が冷たい空気となって入ってくる。


 逃げ。

 その言葉は、過去に何度も向けられてきた。

 中学のときも。

 事件のあとも。

 噂が立ったときも。


 でも、逃げなかった。

 その代わり、背負った。

 全部、背負ってきた。

 今回も、背負っている。

 夏村さんの未来。

 井上さんの期待。

 多江ちゃんの信頼。

 那奈のまっすぐな目。

 さよりの努力。

 みんなの期待。


 もし落ちたら、失望させるかもしれない。

 でも、それよりも怖いのは。

 

 (受かったらどうなる)


 筑波大学医学部。

 偏差値の高い環境。

 優秀な人間だらけの場所。

 そこで、俺はやっていけるのか。

 今は『特別』に見られている。

 でも、向こうでは普通だ。

 それどころか、下かもしれない。

 努力して追いつくのは慣れている。

 でも、またゼロからだ。

 今の居場所を、手放すことになる。


 みんなと並んで歩く道も。

 放課後の勉強会も。

 教室の空席も。

 全部、変わる。

 その変化が、少しだけ怖い。


 俺は机に手をついた。

 呼吸が浅い。

 英語でつぶやく。

 “I am ready.”


 軽い。もう一度。

 “I am not perfect.”


 これは本当だ。

 沈黙するかもしれない。

 言い直すかもしれない。

 詰まるかもしれない。


 でも、完璧じゃなくても、進める。


 不意にスマホが鳴る。


『起きていますか』


 時間は二十三時前。


「起きてる」

『少しだけ、よろしいですか』

「どうした」

『確認です』


 いつもの声だ。

 落ち着いている。感情を削いだ声。


「面接の練習、最後にもう一度」

「今?」

「今です」


 英語で質問が飛んでくる。


 “Why should we choose you?”


 短い。核心。

 俺は答える。

 途中で一瞬詰まりかける。

 でも止まらない。

 数秒の沈黙。


「……今の、二秒です」


 さよりが言う。


「悪くありません」


 その言い方が、ほんの少し柔らいだ。

 俺は息を吐いた。


「なあ、さより」

『はい』

「なんで、ここまでやるんだ?」


 少し、踏み込んだ。

 他の四人には聞けない問いだった。

 支えられているのは分かる。

 でも、その理由を、真正面からは聞けない。

 期待が怖いから。


 さよりは、少しだけ間を置いた。


『後輩だからです』


 即答。でも、それは表向きだと分かる。


「それだけ?」

『……』


 彼女の沈黙。わずかに、呼吸が乱れる。


『年下で、受験生でもなくて、立場も違います』


 淡々と。


『だから、余計な感情を混ぜずに支えられます』


 理屈。きれいな説明。でも。


『……先輩』


 声が、少しだけ低くなる。


『負けないでください』


 命令でも、お願いでもない。

 ただの本音。

 それを聞いた瞬間、胸の奥がわずかに痛んだ。

 俺は気づく。

 さよりは、少し違うのだと。

 夏村さんには強く出られない。

 井上さんには本音を見抜かれる。

 多江ちゃんには評価される。

 那奈さんには期待される。


 でも、さよりには、少しだけ、弱音を出せる。

 年下だから、ではない。

 責任の線が、ほんの少しだけ違う。

 さよりは、俺の未来を直接共有する位置にいない。

 同じ大学を目指しているわけでもない。

 同じ合否で揺れる立場でもない。

 だから、俺は一歩引いた場所から、素直に言える。


「……怖いんだよ」


 言ってから、驚いた。

 他の四人には、ここまでまっすぐ言えない。


「英語じゃなくて、自分を出すのが」


 通話の向こうで、小さく息を吸う音がした。


『はい』


 肯定だけ。


『怖くて、当然です』


 それだけ。慰めない。励ましすぎない。


『でも、逃げないんですよね』

「……うん、逃げない」

『なら、十分です』


 簡単に言う。簡単に言われると、逆に響く。

 俺は、無意識に考えていた。

 他の四人とは、常に『並んでいる』。

 横に立つ。同じ高さで戦う。同じ未来を語る。だから、無意識に格好をつける。強く見せる。失望させないように。


 でも、さよりには、少しだけ、後ろを見せられる。

 背中を預けるというより、背中を見せられる。

 その違いが、自分でも説明できない。


 (俺は、距離を選んでいるのか)


 四人とは、あえて強い自分でいる距離を。

 さよりとは、少しだけ、弱い自分でもいられる距離を。

 それは逃げか。

 それともバランスか。

 答えは出ない。


『先輩』

「ん?」

『絶対に受かります』


 断定。理屈でも、分析でもない。


「なんで言い切れる」

『……努力量が、統計的に十分だからです』


 理屈に戻す。でも、声がほんの少し震えている。


『それと』


 一拍。


『かずや先輩が負ける姿、想像できません』


 今度は理屈じゃない。静かな確信。年下の、後輩の。

 でも、それだけでは説明できない温度。

 俺はしばらく言葉を探して、やめた。


「……ありがとう」

『お礼は、結果で』


 いつもの調子に戻る。


「おやすみなさい」


 通話が切れ、部屋が静かになる。

 俺はスマホを握ったまま、天井を見た。

 五人は、全員、合格を疑っていない。

 でも、俺は、それぞれに違う顔を見せている。

 それが、少しだけ怖い。

 でも同時に、救いでもある。

 全部を一人で背負わなくていい。

 強い自分だけでいなくていい。

 

 俺は、ゆっくり息を吐いた。

 明日からは一人でやる。

 でも、一人で戦うわけじゃない。


 Still on my way.

 まだ途中だ。

 だから、逃げない。

当作品をここまで読んで頂き、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
背負いすぎ背負いすぎ!! 他人の期待を背負うと言う感覚自体は悪くないんですが。 それが今の様に過度に成ってしまったら、それは呪縛に成っちゃいますからね。 大体にして、受験なんてものは他人の為にやる物…
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