14-2話 Still on My Way(2)
共通テストの申込み締切――十月九日。
その日付が、プリントの右上でやけに存在感を放っていた。
放課後の進路指導室前。廊下に立っているだけで、空気が一段重い。
教室では「学園祭の出し物どうする?」なんて声が飛び交っているのに、ここだけ別の季節みたいだった。
ドア横の掲示板には、国公立志望者向けの注意事項、総合型のスケジュール、模試の結果表の張り出し。
数字と〆切と、人生を二択にする言葉が、遠慮なく並んでいる。
国公立志望とはいえ、うちの高校で多いのは近所の埼玉大だ。
俺と井上さんの筑波、小倉さんの国立狙いは、ちょっとイレギュラー。
夏村さんみたいに私立受験のために共通テストを使う人も多い。
学年の三分の一が大学・短大、三分の一が専門、三分の一が就職――当時の偏差値50前後の高校の、だいたいの進路だ。
六月の時点で、推薦の話は終わっている。
先生方から「推薦、狙える」と言われ、俺も頷いた。
そのときは、まだ“可能性”だった。
でも今は違う。
……“合格する”が、前提になっている。
決めたつもりだった。決めたはずだった。
なのに締切が近づくほど、胸の奥が静かにざわつく。
自分の人生のことなのに、妙に実感がない。
受験って、こんなに現実味が薄いまま始まるものだったか。
「高松くん、どうぞ」
部屋の中から岡田先生の声がして、俺は背筋を伸ばして進路指導室へ入った。
古い木の机が二つ。壁際に進学関係の書類棚。ファイルの背表紙がびっしり並ぶ。
教室の蛍光灯より少し白い光が、妙に肌を現実に引き戻す。
岡田先生は三十代後半。背が高く、メガネの奥の目が鋭い。
授業のときもそうだが、進路の話になるとさらに研ぎ澄まされる。
……この視線に、俺は何度背筋を伸ばされてきたことか。
机の上には、俺の成績表、模試の推移、推薦の提出書類チェックシート。
そして――TOEICのスコアのコピー。
岡田先生がペンを回しながら言った。
「まず確認。共通テストの申し込みは済んだか?」
「はい。夏村さんと、持ち物チェックを交互にやったので」
「おまえら夫婦かよ……。まあいい。筑波の推薦を一発で決めたいなら、共通テスト捨てて背水の陣って手もあるが」
「捨てません。推薦落ちたときの保険です。私立医学部なんて、学費払えませんし」
「よし。推薦の願書受付は今月二十七日からだ。そこは絶対ミスるな」
岡田先生は俺の顔を見たまま、さらっと刺してくる。
「で、お前、ビビってるな」
「……いや」
「“いや”って顔じゃない。筑波の医学部、埼玉の公立で推薦合格出してる高校、偏差値高いからな」
俺は思わず苦笑した。
「県立浦和で74、大宮で75、越谷北で68……ですよね」
「よく調べた。で、高松。八月の模試の偏差値」
「72です」
「なら、土俵には立ってる。小論文も上位だろ。体育と美術まで揃えて評定4.8。やることはやった」
岡田先生はそこで一拍置いて、TOEICのコピーを指で軽く弾いた。
「問題はここ。英語面談」
「……簡単に言いますけど、地頭が違いますよ。浦高の4.8とは」
「ばか。浦高で4.8なら東大だ。比較対象が狂ってる。推薦の基準は4.3以上だ。権利がある。お前は、その上にいる」
俺は返す言葉を失って、曖昧に息を吐いた。
「高松。ここまで、平日何時間勉強してきた」
「五時間。休みは十時間とか……」
「中学の基礎からやり直して、青も赤もやり切った。そこは評価される」
俺は小さく頷いた。
誇りはある。
ただ、それが“面談”で武器になるかは別の話だ。
岡田先生がペン先で机を軽く叩く。
「最終確認だ」
その音だけで、心拍が一つ増えた。
「六月の時点で決めた。今さら揺れるな――と言いたいが、人間は揺れる。だから確認する」
「……はい」
「落ちた場合、どうする」
「一般で受けます。共通テストも受けますし、私立も」
「どこ」
「……私立理系も残してます。第一志望は筑波ですけど」
「うん。そこまではテンプレ。じゃあ次。受かった場合」
「筑波に行きます」
「それを、英語で言えるか」
……来た。
俺は息を吸う。
「I will go to the University of Tsukuba.」
「棒読み。誠意を込めろ」
「If I am accepted, I would very much like to enroll in your university.」
「“必ずお世話になります”の意思を込めて」
「I am committed to enrolling in your university if my application is successful.」
岡田先生が即座に畳みかける。
「行く理由」
「……学びたいことがあるからです」
「英語」
喉が乾く。頭の中で単語が散らばる。
「Because I want to……」
「止まるな。止まったら負ける」
「……My mission is to contribute to the treatment of incurable diseases through the development of medical robots, and I am convinced that your university is the best place to pursue this mission.」
岡田先生は淡々と言った。
「英語面談は“待ってくれる”と思うな。沈黙を作った瞬間、主導権は相手に移る。日本語でも同じだが、英語だと顕著だ」
俺は唇を噛む。
TOEICは走った。
夏村さんが参加する流れになって、俺も当然のように巻き込まれて、結局――夏村さんが俺のスコアを超えた。
同士、って言葉が似合う背中だ。
でも、スコアが出ても“面談が余裕”にはならない。
試験の英語は答えがある。
面談の英語は、答えを作って投げなきゃいけない。
「お前は勉強はできる。だが面接は“別競技”だ。自分の言葉で自分を語る力。推薦の本体はそこだ」
岡田先生が言い切る。
「スコアは悪くない。努力も見える。だが本番はそこじゃない。対策を生活に組み込め。毎日短くていい。英語で“自分の一日”を説明する練習。価値観を言う練習。単語帳じゃなくて、言葉の筋肉を鍛えろ」
そこで岡田先生が少しだけ声を落とした。
「高松。お前は背負い癖がある」
「……え?」
「一人で抱える癖。全部、自分で整えようとする癖」
胸が少し痛む。
自覚より先に、人に見えていたらしい。
「背負うなとは言わん。だが背負うなら、背負い方を覚えろ。支えを使え。今のお前には、支えがあるだろ」
支え。
頭に浮かぶ顔は、勝手に五人分並んだ。
「提出書類は、最後にもう一段だけ“自分の言葉”に寄せろ。正解っぽい文章は、読む側は一発で分かる」
「……はい」
「最後に。落ちた場合のプラン、今週中に紙に書け。感情じゃなくて行動で整理しろ。不安は“書く”と減る」
俺は立ち上がって頭を下げた。
「ありがとうございました」
廊下に出ると、空気は軽い。
なのに心の中は逆に重かった。
英語面談。沈黙を作ったら負け。
自分の言葉で、自分を語る。
……できるのか、俺。
そんなことを考えながら帰宅して、部屋のドアを開けた瞬間――見慣れた光景があった。
俺の部屋。
俺たちの勉強会の定位置。
机が寄せられ、ノートと問題集が広がっている。
そこにいたのは、夏村さん、井上さん、小倉さん、那奈、さより。
夏村さんが俺を見て、開口一番。
「おせぇ。来週の中間のまとめ、早く頼むぞ」
「岡田先生が長くてさ」
「ふーん。で、何言われた」
俺は椅子に座りながら、岡田先生の話をざっと伝える。
英語面談、沈黙を作るな、言葉の筋肉――。
夏村さんは黙って聞いて、短く言った。
「正論だな」
「……うん」
「じゃあ今日からやるか。英語で喋る練習」
「え?」
夏村さんは平然と俺のノートを指で叩いた。
「俺、慶應第一志望だからって言い訳できねぇ。筑波の面談、お前だけにやらせねぇ」
“同士”って言葉が、今の俺には一番効く。
「ありがとう」
「礼はいらねぇ。どうせ俺の勉強にもなる」
夏村さんがペンを持つ。
それだけで、胸の奥の不安が少し薄まる。
そこへ井上さんが口を挟む。
「進路室帰り? 顔、硬っ」
井上さんは明るい。明るすぎて、こっちの内面を勝手に照らしてくる。
「岡田先生、怖いよね。私もこの前やられた。『元気だけで生きるな』って」
「言いそう」
さよりがさらっと言う。
「で、何言われたの?」と井上さん。
「英語面談がやばいって」
「あー……“沈黙は死”ってやつでしょ。聞いたことある」
どこで聞いた。
「井上さん、情報網どこですか」
「交友関係。私は顔が広いの。あと先輩から聞いた」
井上さんは笑って、机の端に腰かけた。
「でもさ、高松くん。真面目に言うと、あんた“人の目見て話せる”でしょ。あれ強いよ。黙らないで、言葉探せる人の顔してる」
意外だった。
井上さん、軽いノリで人をいじるタイプなのに、こういうとこでちゃんと応援を投げてくる。
照れくさい。
「……ありがとう」
「うん。で、冗談。今“受かったら筑波行く”って英語で言える? ……あ、顔が死んだ。冗談だって」
空気が少し緩む。
小倉さんが淡々と口を開いた。
「質問に対して、答えの型を作った方がいい。自己紹介、志望理由、将来像、学びたいテーマ、失敗経験。……それを英語で短く言えるようにする」
言いながら、もうノートを開いて型を書き始めている。
相変わらず、強い。
その数分後、那奈が入ってきた。
転校してきた元アイドル――というラベルは、本人が一番嫌がってる。
最近の那奈は、妙に“普通”になろうとして、その分だけ言葉が必死だ。
「かーくん! 進路室行ってたの? 顔、暗い。大丈夫?」
「……まあ、英語面談がな」
「英語……。うん、怖いね。でもさ」
那奈は小さく息を吸って、真剣な目で言った。
「この前、うちの親に説明するとき、一緒に来てくれたじゃん。あれ、ほんと助かった。……だから今度は私が、かーくんの味方する。ちゃんと“隣”にいる」
その言い方が、ちょっとだけ――彼女らしくないくらい、まっすぐだった。
「……ありがとう」
「うん。だから、やろ。練習。私、英語は強くないけど、かーくんが“詰まった顔”したら、そこは止めないように支える。テンションで」
「テンションで英語は伸びないぞ」
夏村さんが即ツッコむ。
「え、伸びない? じゃあ……根性で!」
「根性も万能じゃない」
笑いが起きる。
最後に、さよりがプリントを一瞥して言った。
「かずや先輩。提出書類のチェックリスト、作りましたか」
「まだ」
「……でしょうね。作りました。ここに置きます」
さよりが一枚の紙を机に置く。
項目が細かい。抜け道がない。
「英語面談用に、よく聞かれる質問リストも。英語の先生に聞いて、私なりにまとめました。使うかどうかは任せます」
事務的なのに、心配だけは隠しきれてない。
「ありがとう」
俺が言うと、さよりは一瞬だけ目を伏せ、すぐに顔を上げた。
「合格してください。……みんなのためじゃなくて、自分のために」
その言葉が妙に胸に残った。
みんなのためじゃなくて。自分のために。
岡田先生の「自分の言葉で自分を語れ」が、頭の中で同じ方向を向く。
俺は五人を見渡した。
夏村さんは同士として、当然のように横に立つ。
井上さんは明るさで背中を押してくる。
小倉さんは距離を保ちながら、型で支える。
那奈は“隣にいる”と言って、心を温める。
さよりは準備で、足元を固める。
……支えがある。
だから少し怖い。
失望させたくない、とか。余計なことを考えてしまう。
俺はその考えを振り払うように、さよりの質問リストを手に取った。
「……今日から、毎日やるか」
声に出すと、決意は少しだけ形になる。
「英語で、自分のことを話す練習。短くてもいい。やる」
夏村さんが頷く。
「いいじゃん。俺が面接官な。容赦しねぇ」
「やめてください、怖い」
「怖いのは本番だろ」
井上さんが笑う。
「じゃあ私もやる。面接官役、得意。夏村さんほど圧は強くないけど」
「何、言ってやがる」
「怒るって自覚あるんだ」
那奈が手を上げる。
「私もやる! ……うん、ちゃんとやる。かーくんのために」
小倉さんが淡々と補足する。
「まずは“型”。型が出れば、言葉はついてくる」
さよりが言う。
「続ければ必ず出ます。出ないのは、練習しないからです」
正論が刺さる。
でも、こういう正論は貴重だ。
俺は深く息を吸って、英語で言った。
「My name is Kazuya Takamatsu.」
棒読み。
でも、始めた。
五人がそれぞれの顔で笑う。
笑い方も距離感も全部違う。
でも、その笑いが同じ方向を向いているのが分かった。
……進め。
……やれ。
俺は、胸の奥の不安を抱えたまま、言葉を続けた。
「I want to study……」
つっかえる。
英語が足りない。
でも夏村さんが言う。
「止まるな」
井上さんが言う。
「言い直せばいいよ」
小倉さんが言う。
「型を使って」
那奈が言う。
「大丈夫。隣いる」
さよりが言う。
「続けて」
……笑ってしまった。
こんな状況で笑えると思わなかった。
受験は個人戦。
そう言い切るのは簡単だ。
でも本当は、個人の心は他人に支えられて形を保っている。
岡田先生が言った“背負い癖”。
それを今日、少しだけ修正できた気がする。
背負うなら、背負い方を覚えろ。支えを使え。
俺は英語で言った。
「I will do my best.」
棒読みでもいい。
今は、それでいい。
この推薦は逃げじゃない。
自分をさらす試験だ。
だからこそ――
俺は、自分の言葉で、前に進む。
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