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14-1話 Still on My Way(1)

 黒板の右上に貼られたカレンダーを、俺は何度も見てしまう。


 九月二十六日。

 共通テスト出願受付開始。


 数字としてはただの赤い丸だ。だが、その丸の中には、これまで積み上げてきた時間と、これから崩れ落ちるかもしれない未来が、ぎゅっと押し込められている気がした。


 ……本当に、ここまで来たんだな。


 教室のざわめきの中で、俺はひとり、そんな感想を噛みしめていた。


 高校三年、二学期。

 周囲の空気は、去年までとは明らかに違う。


 大学を目指す仲間の話題は八月の模試の判定か、志望校か、推薦か一般か。

 専門学校を目指す仲間は受験が遅いため、学園祭の話題。

 一方、就職する仲間は進路指導室に着始めた就職募集の内容や希望の職種。

 笑い声の裏に、誰もが小さな焦りを抱えている。


 そんな中で、俺は……少しだけ、浮いている。


 なぜなら俺は、もう『推薦』の話を聞いているからだ。

 推薦とはいえ、指定校推薦ではなく一般推薦なので受験が伴うが、他の受験生より1回だけ受験の回数が増えるだけでも安心感が高い。


 六月のことだった。

 授業終了後岡田先生に呼び出され、進路指導室で校長、教頭、渋谷先生のいる前で岡田先生から言われた言葉。


『では結論から申し上げます。大鳳高校としましては高松和也くんを筑波大学医学部に推薦したいと思います』


 最初は、意味が分からなかった。

 俺が? 推薦?

 筑波大学?


 正直に言えば、笑い話だと思った。


 中学で躓き、高校でも目立たず、ただひたすら勉強だけを積み上げてきた人間だ。

 推薦という言葉は、もっと「選ばれた人間」に用意されるものだと思っていた。

 だが、校長先生が発した言葉の意味。


『この発案をしてくれたのは渋谷先生なんだ。なんとか君の合格を早く決めることができないかということで筑波大学の推薦制度に気づいて岡田先生に相談してくれた』


 そして、この面談の終了時に重ねて発した校長先生からの言葉。


『実はもうひとつお願いがあるんだ。君の経験を生かして欲しい……』


 君の経験。

 その言葉だけが、妙に重く残った。

 そして今日、九月二十六日。

 共通テストの出願受付開始日。

 推薦とは別ルートでの筑波大学を受けるための、最初の公式な一歩だ。


「……かずくん」


 小さな声で名前を呼ばれ、俺は我に返った。

 多江ちゃんが俺の顔を覗き込んでいる。


「さっきから、ずっとカレンダー見てるけど。大丈夫?」

「え? ああ……うん。大丈夫」


 大丈夫。

 そう答えながら、自分でも分かるくらい、声が少し硬かった。

 多江ちゃんは、俺の机の上に置かれた書類をちらりと見て、すぐに察したらしい。


「あ、今日だ」

「……そう」

「そっか。いよいよだね」


 多江ちゃんは、いつものように柔らかく笑った。

 その笑顔に、なぜか胸の奥がきゅっと締め付けられる。


 彼女の医学部に合格し、医師になり家を継ぐこと。

 俺よりも受験に対して強い使命感を持っている。

 そんな彼女ではなく俺が推薦対象者に選ばれてしまった。

 それでも、誰よりも真面目に勉強に向き合い、俺の前でずっとノートを開いてきた。


 同じ机。

 同じ参考書。

 同じ時間。

 同じ目標。

 なのに、アプローチの仕方は、少しずつ違っていった。


「お互いがんばろう。かずくんのこと応援してるからね」


 そう言ってくれた声が、やけに優しくて、逆に重たかった。


「……ありがとう」


 それ以上、言葉が出てこなかった。

 横の席から、椅子を引く音がした。


「高松くん」


 振り返ると、井上さんが立っていた。


「今日、進路室行くんでしょ?」

「ああ。書類もらいにね。井上さんもだよね」

「そう。一緒に行く?」


 井上さんは、どこか楽しそうに笑った。


「高松君、筑波、推薦と併願だよね。そんなに私と同じ大学に行きたいんだ。一緒に合格して同居しよう」

「いやいや、そんなギャグを受け入れられる状況ではないんだ。まったく自信がないんだ……」

「そういうの、謙遜って言うんだよ」


 井上さんは、肩をすくめる。

 背が高く、表情が明るく、誰とでも距離を縮める彼女は、クラスの空気そのものみたいな存在だ。

 そんな彼女が、少しだけ声を落とした。


「……正直さ」

「うん?」

「高松くんが推薦って聞いて、焦った」


 意外な言葉だった。


「私、一般だし。同じ筑波だけど、受験方法が違う」


 井上さんは笑いながらも、視線を逸らす。


「でもさ、不思議だよね。高松くんが先に進んでくれてる気がして、ちょっと安心した」

「安心?」

「うん。追いかける目標がいるって、悪くない」


 そう言って、井上さんは軽く拳を握った。


「だからさ、受かってよ。ちゃんと」

「……プレッシャーかけないで」

「応援だって」


 井上さんは、あっさり言い切った。

 その言葉に、俺は小さく息を吐く。

 応援。

 それはありがたい。

 けれど、同時に重い。

 なぜなら俺は、誰かの期待を背負えるほど、強い人間じゃないからだ。


 放課後。

 進路指導室の前に立つと、手のひらに汗が滲んでいるのが分かった。

 中から聞こえてくるのは、低く落ち着いた声。


「どうぞ」


 扉を開けると、そこにいたのは岡田先生だった。

 進路相談担当。

 この学校で、進路の最終判断をする人。


「高松くん。座ってください」


 簡潔な指示。

 机の上には、俺の成績資料と、推薦関連の書類がきれいに並べられている。


「こちらに共通テスト出願関係の資料がありますので忘れずに持ち帰ってください。それと……」


 岡田先生は、眼鏡の奥から俺を見る。


「筑波大学推薦。受ける意思は変わらない?」


 一瞬、言葉に詰まる。

 変わらない……はずだ。

 だが、その一言を口にするのに、なぜか勇気が要った。


「……はい」


 岡田先生は、静かに頷いた。


「よし。でも一つ、確認しておきますね」


 ペンを置き、まっすぐ俺を見る。


「推薦は、逃げ道じゃない」


 胸が、少しだけ強く脈打つ。


「一般より早く結果が出ます。だが、それは楽をするという意味じゃない。むしろ、この推薦試験は自分をさらけ出す試験です」

「……分かってます」

「本当に?」


 鋭い視線。


「筑波の推薦は、小論文と英語面接です。英語で、自分の考えを説明する。付け焼き刃じゃ通らない」


 頭に、夏村さんの顔が浮かんだ。

 英語。

 TOEIC。

 一緒に机を並べて、問題集を解いた夜。


「準備は、してきました。先生からご拝命いただいたTOEICの目標達成結果も出しました」


 自分でも驚くほど、声は落ち着いていた。

 岡田先生は、少しだけ口元を緩めた。


「そうですね」


 書類を一つにまとめ学校の名前の入った大き目の茶封筒にいれると、差し出してくる。

 そしてその袋の高校名の上に『Good luck!』と書き込み手渡す。


「では行ってらっしゃい。これはあなたの目標への通行手形です」


 通行手形。

 その言葉を胸に刻み、俺は書類を受け取った。

 進路室を出ると、階段の踊り場に人影が見えた。

 夏村さんだった。


 腕を組み、壁にもたれて、俺を待っている。


「終わった?」

「……はい」


 短いやり取り。

 それでも、彼女はすぐに察したらしい。


「顔、少し明るくなったな」

「そう見えます?」

「長い付き合いだからな」


 そう言って、夏村さんは小さく笑った。


「で。どうだった」

「最終確認。それと行ってこい、って」

「そっか」


 一瞬の沈黙。

 そして彼女は、俺を見て、はっきり言った。


「なら、最後まで一緒に行こう」

「……え?」

「合格まで。いや、受験が終わるまで」


 その言葉は、重くて、でも温かかった。


「俺は慶應。お前は筑波。道は違うけど、進む方向は同じ。俺を合格させてくれるんだろ。だったらお前が先に合格して俺の目標となれ」


 当たり前のように言う。

 それが、どれほど心強いか。


「……ありがとうございます」

「礼はいらねぇ。同志だろ。合格して先に待ってろ。すぐに追いつく」


 その一言で、胸の奥の不安が、少しだけ溶けた気がした。

 この瞬間、俺は思った。

 推薦というのは、特別な切符じゃない。

 ただの始まりだ。

 ここから、俺は試される。

 学力も。覚悟も。

 そして、人との距離も。


『なんとか君の合格を早く決めることができないか』

『実はもうひとつお願いがあるんだ。君の経験を生かして欲しい……』

 その回答は……。

 先陣を切って合格し、ほかに続く同級生の目標となること。

 そして後進たちには低い成績で本校に入学しても、努力次第で夢に手が届くことを伝える。


 九月二十六日。

 俺は、推薦という名のスタートラインに立った。

 ……しかし、まだ、何も終わっていない。

当作品をここまで読んで頂き、ありがとうございます。

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― 新着の感想 ―
受験生独特のプレッシャーが上手く表現されてますね♪ でも、あれですね。 受験はある意味では戦争なので、推薦であろうと、なんであろうと合格すれば、まずは勝ち。 他人に気遣う暇があるのであれば、その時間を…
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