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13ー9話 Who’s the real one?(8)

 ……帰宅。


 玄関の鍵を回した瞬間、家の中の静けさが耳に刺さった。

 時計の針の音が、こんなに主張していたっけと思う。

 自分の靴を脱ぐ動作が、妙にぎこちない。


 部屋に戻って、鞄を床に置く。

 講習の録音データが入ったICレコーダーを机に置いて、椅子に腰を下ろした。


 ……今日はここまでにしよう。


 野中さんの声が、まだ耳の奥に残っている。

 あの人は言葉を強くしないのに、こちらの胸の内を勝手に照らしてくる。

 暗いところに慣れていた目が、急に明るい部屋に連れてこられたみたいに、眩しくて息が詰まる。


 スマホが震えた。


 画面に出た名前を見て、胸が一段沈む。

 夏村さん。

 指先が一瞬止まってから、通話ボタンを押した。


「……遅くない?」


 第一声がそれだった。

 責める口調じゃない。

 でも、こちらの逃げ道を塞ぐみたいな、短い問い。


「すいません。ちょっと……講習のあと、寄り道してました」


「寄り道って、どこ」


 その質問の速さが、夏村さんらしい。

 会話の主導権を、いつも自然に握っていく。


「……会場の近くで、軽く飯食ってました」

「誰と?」


 心臓が、変な跳ね方をする。

 嘘をつく準備なんて、してなかった。


 でも、全部は言えない。

 言ってしまったら、夏村さんの前で“今の俺”が崩れる気がした。

 それは、守るためじゃなく、隠すための怖さだった。


「……同じ講習受けてる人です」

「ふーん」


 たった一音。

 それだけで、いろいろ見透かされた気がしてしまう。


「男?」

「……女の人です」

「へえ」


 声が少し低くなった。

 そこで、俺はとっさに付け足す。


「医療関係の仕事してる人で。看護師って言ってました」


 嘘ではない。

 少なくとも、事実の一部だ。


 ただ、それは『核心』じゃない。

 今日の話は、職業の話なんかじゃなかった。


「医療関係……」


 夏村さんが、しばらく黙った。

 沈黙が怖くて、俺は続ける。


「筑波大の話とか、ちょっと聞けて……参考になるかなって」


 それも、嘘ではない。

 でも、言い方が『逃げ』の形をしている。

 電話の向こうで、息を吐く気配がした。


「……お前さ」

「はい」

「嘘ついてる?」


 直球だった。

 刃物じゃないのに、切りつけられたみたいに痛い。


「……嘘ってほどじゃ……」


 自分の声が、少し掠れる。


「じゃあ、全部ほんと?」


 詰めてくる。

 いつもならこの人の勢いに助けられるのに、今日は逃げ場がなくなる。


「……全部、って言われると……」


 俺が言い淀んだ瞬間、夏村さんはそれ以上追わなかった。


「……そっか」


 声が、少し柔らかくなる。


「ま、いいわ。今日の講習の録音、ちゃんとあるんだろ」

「はい。全部録ってます」

「なら、いい」


 その『なら』が、妙に引っかかった。

 本当は『なら』じゃないはずだ。

 録音の有無で、信用の話が終わるわけがない。

 なのに、この人は、そこに線を引いた。

 追及しない。

 でも、何も見ていないわけじゃない。


「……明日、時間ある?」

「あります」

「録音、聞かせろ。ついでに、メシでも行こう」


 いつも通りの言い方。

 でもその裏に、確かめたい気持ちが混ざっているのがわかった。


「……はい」

「ん。じゃ」


 通話が切れる。

 画面が暗くなったあとも、俺はしばらくスマホを見ていた。


 嘘をついた。

 正確に言えば、『隠した』。


 胸の奥に、じわじわと罪悪感が滲む。

 (……なんで、言えないんだ)

 夏村さんは、俺の一番近くにいるはずなのに。

 なのに、今日だけは、距離がある気がした。


 机の上のICレコーダーを見て、俺は小さく息を吐いた。


 ……受験前だ。


 英語の点数の前に、こんなことを抱えたまま、俺はこの先を走らなきゃいけないのか。

 それが、少しだけ怖かった。



 ◇◇◇◇


 講習は続いた。

 課題は増えた。

 生活の中心が、じわじわとTOEICに寄っていく。


 学校の授業、模試の復習、推薦の準備。

 そこに講習の課題が乗る。

 睡眠時間は削れないから、削るのは『余計なこと』になる。

 ……本来なら。

 だけど、『余計なこと』は消えてくれなかった。

 五人との関係は、表面上、何も変わっていない。

 昼休みに話す。

 放課後、少し連絡が来る。

 時々、相談を受ける。

 これまで通りの流れ。


 なのに。


 顔を見るたびに、野中さんの言葉がよぎる。

 ……選ばないって、全員を保留にすること。

 ……背負う側に回ってる。


 その言葉を思い出すたび、俺の返事は一拍遅れる。

 笑うタイミングがずれる。

 『いつも通り』が、少しずつ噛み合わなくなる。

 相手は、気づかないふりをしてくれる。

 あるいは、本当に気づいていない。

 ただ一人を除いて。


「高松くん、最近ちょっと変じゃない?」


 井上さんは、ある日の放課後、そんなふうに言った。

 軽い口調だ。

 でも目が笑っていない。

 『気づいてる』という目だ。


「変って、何がですか」

「うーん……返事が薄い。あと、目が泳ぐ」

「……泳いでませんよ」

「泳いでるって。たぶん本人が思ってるより」


 井上さんは、椅子の背にもたれて、腕を組む。


「なに? 成績のこと? 推薦のこと? それとも……」


 言いかけて、少し止める。

 井上さんの視線が、俺の机の上の英単語帳と、スマホを交互に見る。


「……誰かのこと?」


 心臓が、また変な跳ね方をした。


「井上さん、そういうの好きですよね」


 冗談っぽく逃げる。

 いつもなら、これで一旦引いてくれる。

 でも今日は違った。


「好きというか、放っておけないというか」


 井上さんは、小さくため息をつく。


「高松くんって、嘘つくの下手だから」

「……嘘はついてないです」

「じゃあ、隠してる」


 即答だった。

 怖いくらいに。

 俺は言葉を探したが、見つからなかった。

 否定できないからだ。


「……井上さんには関係ないですよ」


 少し強い言い方になった。

 井上さんは目を丸くしてから、すぐに表情を戻した。

 怒るでもなく、笑うでもなく、ただ頷く。


「うん。関係ない。でもさ。関係ないからこそ言うけど」


 視線が、まっすぐ刺さってくる。


「高松くん、勝手に一人で抱える癖あるよね」


 胸の奥が痛んだ。

 井上さんは、それ以上は言わなかった。

 けれど、最後にぽつりとだけ付け足した。


「……夏村さん、気づいてると思うよ」


 その言葉が、ずっと残った。

 気づいてる。

 気づいてるのに、追わない。

 追わないからこそ、怖い。


 講習の回数が進むほど、俺の中の『分からなさ』は濃くなる。

 英語は、少しずつ伸びている。

 正解率も上がっている。

 耳も慣れてきた。

 なのに、心の方は逆に、迷路みたいになっていく。

 誰かの未来を探すのが得意だと思っていた。

 でも、自分の未来は、まだ見えない。


 六月に入ると、夏村さんはますます受験勉強の方が忙しくなった。

 国立受験という負担を増やしたからだ。

 よって講習に毎回は来られない日が増える。


 六月十八日……七回目の講習も、その一つだった。


「ごめん。今日、どうしても外せない」


 前日に言われた。

 理由は聞かなかった。

 聞ける雰囲気じゃなかった。

 代わりに、俺はうなずいた。


「大丈夫です。録音して、共有します」

「頼む」


 短い返事。

 でも、その『頼む』に、いつもより重さがあった。

 俺はそれを、信用だと思いたかった。


 ……七回目授業後。

 

 東京駅の夜は、五月より少し蒸していた。

 風がぬるい。

 人の匂いと排気の匂いが混ざって、胸の奥が落ち着かない。


 会場の階段を上る。

 踊り場に立つと、いつもの顔ぶれがいた。


 前列常連の静かな圧。

 誰も声を張らないのに、空気が引き締まっている。


 俺はふと隣の席を見た。

 当然、隣は夏村さんではない。


 胸が少しだけ痛む。

 いないのが寂しいというより、『いないことに慣れてしまいそう』なのが怖い。


 七回目の授業は、さらに容赦がなかった。

 先生は「慣れてきた頃が一番危ない」と笑って、問題の切り捨て方を徹底的に叩き込む。

 音声が流れ、受講生たちの鉛筆が走る。

 誰も顔を上げない。


 ここは、学校じゃない。

 改めてそう思う。


 授業が終わったとき、頭の中は熱でいっぱいだった。

 でも、妙に醒めてもいた。


 出口へ向かう途中、背後から声をかけられる。


「高松くん」


 野中さんだった。

 今日は前回より少し疲れて見える。

 それでも目はしっかりしている。


「今日、相方さんいないんだね」

「はい。受験勉強の方が忙しくなっちゃって」

「そっか」


 それだけで、野中さんは察したみたいに頷いた。


「このあと、時間ある?」


 前回と同じ問い。

 でも今回は、前回より断りづらかった。

 俺の中に、話したい何かが溜まっているのを、自分でも分かっていたから。


「……少しなら」

「じゃあ、また軽く」


 店に入る。

 カウンター席。

 注文を済ませると、しばらく沈黙が落ちた。


 その沈黙は、嫌じゃない。

 むしろ、必要な助走みたいだった。


「高松くん、最近どう?」


 野中さんが、先に聞いた。


「英語は……少しずつ上がってきました。勉強の方向がやっと分かった感じです」

「よかった」


 野中さんは、それを素直に受け取る。


「でも」


 俺が続けるより先に、野中さんが言った。


「顔が、ちょっと疲れてる」


 図星だった。


「……はい。たぶん」

「前に話してくれたこと、まだ引っかかってる?」


 『前に話してくれたこと』

 それだけで、胸がざわつく。


「……引っかかってます」

「そっか」


 否定しない。

 急かさない。


 野中さんは、箸を置いて俺を見る。


「じゃあさ」

「今日、ひとつだけ聞いていい?」


 俺は頷いた。


「高松くんが『選べない』のって、誰かを失うのが怖いから?」


 言葉が詰まる。

 野中さんは続ける。


「それとも、選んだ瞬間に、自分が変わってしまうのが怖い?」


 心臓が、また変に跳ねた。

 ……変わる。

 そうだ。

 俺が本当に怖いのは、そこかもしれない。

 選んだら、終わる。

 『今の自分』が、終わる。

 誰かを救う側でいられなくなる。

 背負う側でいられなくなる。

 それは、優しさを失うことみたいに感じる。

 野中さんは、俺の沈黙を待った。

 急かさない。

 正解を言わない。


「……どっちに近い?」


 問いだけが置かれる。

 俺は、息を吸って……。


「……たぶん、後者です」


 声は小さい。

 でも、嘘ではなかった。


 野中さんは、ゆっくり頷く。


「うん。それ、すごく自然な怖さだと思う」


 肯定でも否定でもない。

 ただ『理解』の言葉。


「人ってさ、『選ぶ』って行為で、急に冷たくなるわけじゃない。でも、選んだ瞬間に、自分が『誰かの味方』になるでしょ」


 その言葉が、じわじわ胸に染みる。


「味方になるって、同時に別の誰かにとっては、味方じゃなくなるってことでもある」


 当たり前のはずの理屈なのに、俺の胸の奥では、ずっと避けていた形をしていた。


「高松くん」


 野中さんが、少しだけ声を落とす。


「優しい人ってね……。全員の味方でいようとして、一番自分を削るんだよ」


 その言葉に、喉の奥が熱くなる。


「削って、削って……。それでも“優しい人でいたい”って思う」


 野中さんはそこで止めた。

 『だからこうしろ』とは言わない。


「……私ね」


 少しだけ笑う。


「高松くんのこと、責めたいわけじゃない。ただ、知りたいだけ。高松くんが、本当は何を怖がってるのか」


 俺は、すぐに答えられなかった。

 怖いものは見えてきたのに、それを言葉にするのがまだ難しい。


「……今は、まだ」

「うん」


 野中さんは頷く。


「今日はそれでいい」


 前回と同じ言葉。

 でも今回は、逃げ道じゃなく、『猶予』に聞こえた。


 会計をして、店を出る。

 夜風がぬるい。


「また来週」


 野中さんが言う。


「はい」


 俺も答える。

 駅へ向かう道を一人で歩きながら、俺は思った。

 英語の試験。

 受験。

 推薦。

 本当はそれだけで精一杯のはずなのに。


 ……受験前に、こんなことまで考えなきゃいけないのか。

 胸の中が、複雑だった。

 重たい。

 でも、投げ出したいわけじゃない。

 むしろ、考えなかったことにする方が怖い。


 電車に乗り、窓に映る自分の顔を見る。

 少し疲れている。

 それでも、目だけは前より逃げていない気がした。


 答えは、まだ出ない。

 でも、問いだけは確かに増えていく。

 ……たぶんそれが、大人になるってことなんだろう。


 そんな結論にもならない感想を抱えたまま、俺は帰宅した。

当作品をここまで読んで頂き、ありがとうございます。

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人間、生きていれば課題が増えていく事って極々当たり前の事なんですが、それを少しづつでも乗り越えていくからこそ成長する。 なので、この場合、一気に全部の悩みや問題に取り組もうとするのではなく。 ある程度…
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