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野狩りの探索者の著書 導入 

作者: 戦夢

これはおよそ20年前の統一歴150~155年頃。まだ国有化される前の秘境「野狩り丘陵」における個人探索及び番人(管理人)稼業の記録。


私の名は花守はなもりケイジ。統一歴131年4期19日、野狩り丘陵東部外縁に位置する「仙帽町せんぼうちょう」の総合病院で生まれた41歳人種(男)。この記録集含め幾つかの資料集を作成中の172年2期から9期。「野狩り丘陵」の国有化に伴う事業再編により40代前半で失業中である。

「花守」の由来は統一歴以後この地域に移住してきた人種系個人園芸従事者(又は総合農業従事者)の多くに割り当てられた貴族連合汎共通名詞(汎通名)。つまり私の母方の先祖は統一歴制定後の移住政策等で遠方より移住してきた園芸労働従事者の一人だった。一方ケイジの由来はかつて野狩り丘陵に生息していたとされる幻獣の一種。こちらは実在さえ不明な存在である事から似たような名前が多い。

仙帽町の名も統一歴後の(東大陸)共通改称によって変更された経緯があり、現在の地図を見ると古き名を受け継ぐ地名より改称された地名が多い。そんな秘境近くに位置する町の居住地区には8500人前後の住民が定住しており、近隣の農村や作業所等を含めた行政区域内で一万前後の三獣人口を擁する。昔から現代まで私の故郷は秘境外縁の田舎町に過ぎない。

仙帽町の主な産業はこの50年間殆ど変化してない。野外・温室問わず食用や飼料用園芸作物の栽培と加工が大半を占める。この為に町の行政機関である役所や病院、教育機関の学校や教習所の多くで園芸関連の部署が設置されてある。

私も幼少期から青年期まで町の初等・高等学校である「仙帽町立学校」に通学。16歳で卒業後に実家の家業を継ぎ、丘陵東部(秘境地区東端部)内の農地で本格的な農作業を手伝い始めた。学校を卒業したのは147年の4期中頃だったが、客観的に判断しても私の農業人生の始まりは農家の家に生まれそのまま農業を継ぐ一般的な農民人生だったと言える。こうして卒業後から親の手伝いを越えた本格的な各種園芸作業を始め、農耕機械の操作や運搬から選別加工と出荷作業の多くを3年間続けていた。

私の容姿や性格或いは趣向等の記録とは無関係な部分は省く。ここからは芽が生えたばかりの園芸従事者が個人探索業を始めた経緯、その導入として町の園芸環境を簡単に説明する。

まず私の実家含め仙帽町に定住する多くが農業・畜産従事者とその家族だと理解してほしい。特に生産園芸分野(総合農業労働者)の人口は全体の6割近くに達し、私が生まれる前から二年程前まで横ばい状態だった。「野狩り丘陵」の東部は古くから開拓による入植地として安定しており、荒野や禿げ丘等が多い丘陵地区と比べ土地が豊かだ。とくに肥沃さや降水量は国土の南部北側(西牙獣山脈北部)に位置する他の地域と比べて良好な数値だが、肝心の耕作可能面積は近隣の農業・園芸地域と比べ平均より小さい。

統一歴147年当時の耕作面積は50年前と比べ4割も増加していたが、農業人口は緩慢な増加傾向だった事から休耕地が三割。その多くが町管理下(自治体管理)に在り昔から飼料畑として放置されている。

私がそうだったように農家や園芸関係の家族それぞれが時間帯毎に分担しながら農作業等を継続。季節毎に異なる作業を繰り返しながら年3~5回の収穫期に収入を得ている。

都市部は高度に機械産業化されたとは言え、仙帽町は国内有力経済圏から離れた秘境沿いに位置する田舎町。大規模農業を集中させるほどの耕作面積を持たない為、昔から園芸作業の半分近くは手作業。農作業は殆ど機械化されていたが、出荷前作業の多くは半自動機械による選別加工が主流だった。

長い環境解説はこのくらいにしよう。あれは三期中頃にあたる14日の正午過ぎ。各種食用豆類を植える為に実家が唯一所有する一区(20㎢)農耕地を、妹と分担しながら連帯(共同)所有する赤錆びた外装が特徴の大型耕運機二台で耕していた時だった。呼び出し音が鳴った車載無線機を取って耳に近づけながら返答すると家で待機中の父親の声が聞こえた。当時の父は春先の気温変化による風邪で休んでいたのだが、湯を沸かす音と共に何時もの声で作業状況を聞いてきた。私は短い言葉で作業が順調に推移していると返答。父は矢継ぎ早に話題を変え、ほんの少し前に実家に届いた電話の内容を説明し始めた。

電話の内容とは私が町立学校時代から親しい旧友からのものだった。内容は旧友の仕事先で発生した臨時募集を埋める為の要請。当時の旧友は前年秋頃から丘陵地区の奥、つまり野狩り丘陵の中央を流れる野狩り川中流での開発工事作業に従事していた。この中流での開発計画の話は私が町立学校を卒業する前年の中頃から噂として流れていた。卒業の翌年にあたる148年に最初の測量活動が実施されたが、当時の私は農作業等で多忙で計画の詳細を調べる意欲も無かった。

話を戻して無線機越しに父から聞いた話を総括しよう。まず事の始まりは旧友の作業現場近くで共同園芸計画(仮)とやらが突如始まり、その当時作業現場規模で作業要員(農耕)の募集中が実施されていた。問題は共同園芸計画が将来商業実験的な活動を予定していた。園芸関連の知識の乏しい労働者が多かったようで、作業内容の割に待遇(賃金)が良い点が父の勘定を働かせた。

父は私の知らぬ間にその臨時園芸従事者の募集を承諾。事後承諾として私に実家から離れた非文明圏での仕事を押し付けた。説明を大きく省いたので父の従業員に対する理不尽な取り扱いに思うかもしれない。父が金銭以外で勝手に仕事を増やしたのには大きな理由が二つある。まず一つは私自身に多くの経験を積ませる為。これは無線通信器越しに父が私を説得しようと「何事も経験」と繰り返いし言っていたのでよく覚えている。二つ目は私が町立学校時代に履修した秘境学科の「秘境学単位」と「秘境実地学習」での好成績が関係している。

私が履修した秘境学は学術・学問分類上の基礎環境学と基礎環境工学及び生態系学問の基礎に該当する。高度な数式や解析手段へ繋がる原理や分類・系統の基礎知識であり、都市部の学校で学習する内容と大差無い。ただし私が卒業した町立学校は秘境地区に隣接しているので、都市部の秘境関連学科と比べ秘境学授業における現地研修や実地学習の機会が多かった。

地図を見れば一目で理解できる。私が暮らす町に接する秘境は南の西牙獣山脈高山地帯とその裾野に隣接している。名前の由来は狩人や冒険者の狩場を意味する複数の語源が関係しているらしい。私の学生時代における一期当たりの野外学習には、比較的安全な地域での狩猟採集や適応行動等の履修項目が多数あった。幼少より農作業や家畜の世話を手伝い体を鍛えていたならば、性別関係なく多くが退屈で暇な授業に感じるだろう。

上記の理由で私は学校を卒業してからも自衛具の扱いに馴れていた。同学校を去年卒業したばかり妹も私と同じ秘境学科を履修しており、履修した内容も同じなので兄妹揃って狩猟銃程度の銃火器の扱いに慣れていた。父は旧友を通して現場監督に長男を派遣すると約束した。この時点で妹より農作業を一通り覚えた長男を派遣さたほうが経験上の先行投資に繋がる。何より不安定な収支と一家の労働力を鑑みれば、私を遠方に出稼ぎ派遣した方が食費等が浮いて一家の家計(資金繰り)に優しい。これが私が一般的な園芸従事者から秘境地区での専業探索者に転向する最初の切っ掛けとなった。

現在の私が知る範囲内。我が花守家系から探索者や秘境産業関連の仕事に就いた者は4人ほど。私は5人目だが前の4人は何れも三代以上前である為詳細な職歴等は四人目以外残ってない。その四人目は母方の祖父である花守カミヤータと言う名の林業専業従事者(樵)だった。他の林業従事者と異なり活動地域が野狩り丘陵水系中流に位置する「テンダン森」の西部だった事から、秘境産業関連の秘境労働者に分類される。カミヤータ当人は私が生まれる20年ほど前に死亡しており、貴族連合探索史から推測するとうり専業探索者は最初の一人目だけだ。

統一歴150年と言えば様々な歴史的転換が記録され始めた年だ。その歴史的経緯と詳細は省くが、当時の仙帽町含め近隣の産業圏でも秘境地域を巡る幾つかの政策が話題になっていた。我が花守家を率いる父も多くの仕事仲間達と共に役所や商工組合等の施設に出入りしていたので、当時の町の様子は全体的に騒がしかったと記憶してる。


連絡を受け取ってからしばらく経過した3期20日。世間の時勢に関係なく秘境地区のほぼ中央に派遣された私は現地開発会社が所有する履帯式の単腕掘削工事機械ショベル・ユンボを操縦。覚えたばかりの操作手順を手に馴染ませながら芽が出たばかりの草本が生えた地面を掘り下げていた。強化硝子か、それとも透明な人工樹脂か判別できない仕切り越しに砂利が多い堆積物(土砂)をすくうのは私だけでない。同型の作業用機械は全部で十台以上が稼働しており、他の建設・作業用機械はどれも大きさや製造元が異なる物だった。

都市部で見かける一般的な各種土木機械が秘境地区の只中で様々な作業に従事している。秘境の只中に多くの重機を運ぶのに回転翼機や中型飛行船が活用されており、町から建設現場へ出稼ぎ労働者等を運ぶどこぞの回転翼輸送機の駆動音が断続的に聞こえていた。

秘境近傍田舎育ちの私にとってこの時の光景はどれも異質だった。町でもまず目撃しない多数の飛行機械。秘境地区で活動する百以上の人種や多数の亜人と獣人。川沿いの沢から原生林の森まで幅百m近く切り開かれた空き地と建設途中の建物らしき複数の基礎区画。町と建設現場を結ぶ発着場に回転翼機から降り立った時は、自身の想像と現実との差異に驚いたのを覚えている。

現場に到着する前に初めて飛行機械に乗った興奮も冷めないまま。私は自身の様な園芸労働者が呼ばれた理由を体で理解した。今となれば冷静に地質・植生調査と商業目的での作物栽培が計画されていたと理解できるが、当時20歳に満たなかった私には計画の全体像を漠然と推測する事しか出来なかった。

現場に到着してからおおよそ一時間後。私は監督補佐役の一人から大まかな作業(労働)目的を知らされた。この時、私は野狩り川中流での実施されている開発工事と事業の全容を知り再び驚く。その内容は中流域の森や三日月湖を切り開き複数の産業用貯水池や上水道設備を建設。更に川沿いの造成地に複数の研究所や屋内栽培拠点等を建設。同時に周辺の原生林を計画林業地域として活用する為の生産加工拠点の整備等だった。

私と共に説明を受けていたのは全員合わせ8人と少なかった。中には赤龍山脈やブロコ森林出身の亜人・獣人も参加していた。頭の片隅にあっただろう予備知識からこの事業が「三獣事業」だと認識。同時に本格的な農耕経験が浅い私の参加が認められたのは労働者不足だと薄々感づく。

事業説明が終わると順に名前が呼ばれ、五人目に私の順番がきた。補佐役は私の名前を呼びながら一枚の厚紙を事務机から取り出し、表面側らしき面に書かれた作業手順図が表に来るよう私に見せる。

補佐役曰く厚紙には生活や作業時の行動・指示指針(連絡系統とその手段)や部署確認等を説明する簡単な解説案内図が記載されていた。表は全面に図と文章が。裏面は半分が名前を記入する余白になっており、二つに折り畳み左胸袋の帯に挟むことで氏名標として機能する仕組みだった。

補佐役は作業の説明や労働割り当て等は園芸予定担当者等から逐次聞くよう命じ、各作業や部署の担当者氏名が書かれた業務案内板の場所を丁寧に教えてくれた。私は町立学校に入ってから三年間衣服に装着する留め針式の氏名標を大きくしたそれに名前を書きながら部屋を退室。そのまま事務所を出て外側に設置された大きな防柵にかけられた黒板を確認した。

これが2日前の出来事。私は園芸予定担当者から園芸予定の耕作地造成を指示され、作業用機械の使用手順を別の担当指導者から指導されながら耕作地造成を始めた。園芸予定地は河の東側上流(南)と蛇行した下流(北)側の先端区画に別れており、不安定な地面を押しつぶしながら進む中型重機の振動に不安を感じたのがなんとも懐かしい。

耕作地の造成は仕切られた予定区画の土砂除去から始まり、日の出から日没まで三交代で複数の重機を連続稼働させ3日程度で完了。川沿いのやや高い場所が幅数十メートルに渡り深さ二メートルまでくりぬかれた。熟練の重機操縦者が重機や土砂運搬用の台車等が通る坂道を造成した事で円滑に進み、土砂除去の途中から選別された土砂や堆肥用土壌層による埋め戻しが行われた。

私の記憶が正しければ園芸用耕作地の造成は五日。つまり3期23日の正午までには終了し、その日の内に肥料用無機物等を混ぜた耕耘段階に移った。この作業を実施したのは私含めたったの三名だけで、この時に当該地での共同園芸計画を実施する要員が私含めたったの五名だけだと気付き、五名全員が雇われ労働者(臨時・随時契約)待遇の調査要員と園芸従事者のみと知る。


私はそれから1期間。実家に帰ることなく働き続けた。護岸整備や橋桁を支える橋脚建設。労働者用の居住棟や倉庫と一体化された研究施設の建設。川から離れた開発区を繋げる道路から切り出され運ばれる木材等を尻目に農作業用の機械を操縦し続けた。時には農業用水道と貯水槽の敷設等を手伝い。外観が完成した研究所や屋内栽培工場の敷地内での砂利まきから鉢植え等の造園も実施した。

当時の初期共同園芸における栽培利用は、将来における「野狩り丘陵原生林」原産の園芸種を栽培する「秘境果樹園」や温室・暗室栽培所の設置等を目的とする各種実験を兼ねた栽培だった。統一歴20年頃に制定された「生物環境保護保全法」により、特定生物環境に国内外の外来種を栽培・飼育・研究する場合は法令に定められた隔離型設備が必須だ。当然環境基準も厳しい事から、共同園芸耕作地等で栽培される品種は野狩り丘陵原生林の固有種に限られる。この事から固有植物種を事業計画区域内で栽培。施設稼働や各種活動が生態系や土壌などに与える影響を観測するのが当面の目的だった。

三期終盤の当時。私が担当した栽培品目は観賞用植物や園芸草本として移植・種植えされた品種の実験栽培が主だった。品種改良で促成栽培が可能になった毛態菊類や土筆郡を植えるのを手伝い。時には名前の解らない植物の種を農薬と共に散布した。

4期初旬に入ると発芽した固有種の管理と並行して、川辺に生えている原生植物の栽培研究を研究棟で手伝う。時には同じ園芸担当の同僚が担当する固有種の薬草栽培を手伝い、出身や経歴も異なる労働者や研究者達と様々な会話を楽しんだ。

ここまでは大規模農業地帯に多い出稼ぎ農夫達の生活と大差無い。実際、4期中旬までに園芸要員と物資・設備が充足した事で労働者一人当たりの作業量が減少。正規の上下水道と排水処理設備が稼働し始めた事で労働環境が整った事が寄与した。

4期中旬を迎えると建設労働者の数が大きく減り、野狩り川両岸に建設された開発地区(100~110k㎡)内で様々な業種の労働者を見かけるようになった。未だ主要橋は完成してなかったが仮設橋が四か所設置された事で車両や労働者の渡河量が増え、切り出された木材や人工石材用の資材が加工される作業音も増加していた。私は他の園芸労働者と共に仮設温室の設置や自動放水・吸水装置の増設を行いながら様変わりする開発区と植物を観察。交代で上流側と下流側で取水した農業用水の濾過・浄水作業等に専念していた。そんな開発区で生活し始め一期程度経過した頃。私を探索従事者に転向させる二度目の切っ掛けが訪れた。

それは正午前。雨水と地下水調査用の空き地で独り土壌調査試料を採取していた時のこと。偶然私は採取場所から十数m離れた外側に設置された侵入者防止柵(主に害獣侵入を阻むための二重柵)の境界へと視線を向けた。視線を向けた理由は思い出せないが、単に首の運動の為に開発区と森の境界線に目を向けたと想像できる。春を迎え枯葉の腐葉土が緑に隠されたばかりの地面を右から左に流し見た時。金網の向こう側にほど近い広葉樹の根元付近で動く物体が目に映った。最初に理解できたのはそれが灰色の毛で覆われた中小型の動物と言う漠然とした情報だけだった。目に映ったその動物は背を丸め地面を前足で掘っており、木の根や根下に生息する虫等を探しているように見えた。

その時の私は対象が害獣か固有種か判別できなかった。開発地区に移ってから小動物や虫等(いずれも固有種)を毎日目撃していた私は、境界付近で餌でも探すその存在を「二毛鼠」や「毛長大鼠」の類だと判断した。この二種は雑食性で越冬しない事から活動範囲が広く、近似種含め国の森林や草原地域に広く分散している。地域によっては害獣指定される種だが、開発地区では柵を越え侵入する虫等の小動物を捕食する事から防除の対象外に指定されていた。

私も開発地区に移ってから四五回目撃しており、作業が一段落した事から両手に土返し(スコップ)を持ったまま忍び足で対象へ接近した。丁度農作業などで履き慣れた足袋を履いていた事で足音(接触音)が吸収され、更に草を取り除いた地面(泥土質の堆積土)が多かった事から接近が容易だった。

高さ2mの防柵を挟んでおよそ5m近くまで接近に成功した私はある事に気づき忍び足を止める。毛が生え変わってから間もないのかやや短い毛に覆われた尻に鼠のとは形状が異なる尻尾らしき丸みが有った。もし接近せず離れて観察していたのなら体色から尾の形状が判別できなかったに違いない。

この時私は似た様な形状の尾を持つ野狩り原生林固有種を記憶している範囲で思い出す。接近した事で後ろ足が逆関節構造だと判別できたことから、星栗鼠を大きくした「果袋かたい鼠」や「黒尾針栗鼠」が候補に挙がった。この二種は原生林の固有種では無いが、野狩り原生林含め近隣の広葉樹林等に広く分布している。当時の私は町立学校で習った二種の共通点を思い出し、嗅覚に優れる性質から土中生物を探していると推測。後で警備担当者か領域保全担当者に報告する為に種の特定を優先する事にした。

私が再び足を前に踏み出した時。対象が木の根元から頭を上げ何かを齧り始めた。私は対象の頭部に生えた二本の特徴的な耳を見て予想とは異なる種だと理解。同時に対象が大型の鼠類よりやや大きい事から中型動物だと判断した。

私にはその後ろ姿に見覚えがあった。仙帽町には町営の図書資料館が幾つか在る。何れかの施設に保管されていた古い剥製の中には幻獣の類も含まれる。私は統一歴施行より二十年程前に絶滅したとされる耳長短毛袋類の固有種の剥製を何度か目撃しており、倉庫に保管されたまま死蔵状態だった同剥製の名前を思い出せなかった。

名前が思い出せないが、私はうろ覚えな剝製図と目の前の中型動物から対象が牙獣類に属す秘境生物(害獣)と判断。両手に持つ土返し(スコップ)の握り棒(木製)の感触を確かめ僅かに逡巡し、相手が逃げる前に確認だけでしようと決め足を前に踏み出す。

この時、名称不明(思い出せなかった)の理由は対象が統一歴施行前に絶滅した事が原因。共通語の普及前なので古語に疎い私では対象の名前を正確に思い出せなかった。そんな不明確な対象は私が背後からゆっくり接近しても振り返る事なく何かを齧り咀嚼している。頬袋が少しづつ膨張しており、木の実や葉を咥内に貯め込む習性から巨大な栗鼠と言ってよい。不思議なことにその耳の長さは兎や垂れ耳を有す犬と似ており、尖った耳先と左右に暴露した耳毛から草食動物の耳と似ている。私は余りにも無防備な後ろ姿から対象が逃げ出した家畜か愛玩生物の類とも考えたが、前触れもなく対象が上半身と首を右に捻り私を目視した事で考えが変わった。

時間にして3秒未満の出来事だった。私は正体不明な幻獣らしき生物の横顔を確認。齧るのを止め私を確認するよう凝視する赤い眼球と大きく分厚い瞼。そして尖った前歯とは異なる構造の奥歯で頬に貯めた咀嚼物を潰すように動く細長い顎。視線を下に移すと灰色の体毛に覆われてない土が付着した黒い手先。爪でしっかりと掴んでいたのは根球植物の一種である野狩り薔薇で、市販の薔薇より硬く大きな球根は新芽ごと半以上が消失していた。

形状・骨格が幻獣と酷似した大きな栗鼠はそのわずかな時間私を観察した後、再び前を向いて餌を食べ始めた。私と獣の間には跳超不可能な柵が在り、私だけでなく獣も柵の存在を認識・理解していた。なので私は足音を立てながら普段どうり歩き方で前に進む。スコップを脇に固定しながら防策に手が届く距離まで接近し腕を組む。そして後ろ姿ながら鼻先から横に飛び出た触嗅覚毛が目視可能な距離で静かに観察を続けた。

秘境生物や獣性生物に関して基礎的な知識を有す者なら理解できるだろう。獣性生物のうち食物連鎖と生物階級が上位の生物ほど寿命が長く知能が高い。それらの種が群れを成すと文明種に似た社会性を形成し、種によっては中位に属す種を上位に近づける。高い生命力の源は細胞核や細胞小器官等に含まれる有機結合回路と非蛋白質結合体(又は獣因子)による環境適応性。複雑な化学反応により生成される様々な酵素と遺伝特性は似た種の生物とは異なる内循環を制御。特異な進化系統を持ち分類・系統学上で事実上独立した生態を有する。

過程や解説が長くなったので第二の切っ掛け(転換)の話はここ止める。例の獣と遭遇した私は対象が森の奥に消えてから放置していた道具や試料等を回収。所定の研究棟窓口に試料等を納めた後、そまま警備課が入った三階建ての雑居棟に乗り込んだ。興奮気味の私に対応したのは若い女性の事務員で、直ぐに専門の担当者に連絡した。後にこの判断がその後の進展を別けたと知ることになる。

事務員の報告を受け警備課の応接室に駆け込んで来たのは、当時の私より高齢で丁度母親くらいの年齢の研究者だった。彼女は生物・生態調査班の主任でこの開発地区での生態調査を監視及び記録研究する為に南部諸侯地方の「メルキュール政府(地方政府)」から派遣されていた。なお当人の経歴・容姿・性格・趣向等は無関係なので省く。

事務員と生物・生態主任の会話を聞いた当時。私が遭遇した獣と幻獣剥製が似ている話が何度も登場したのが印象深く、絶滅した筈の種が目撃されたとの情報が数日のうちに開発区中に知れ渡る。

その主任から獣の大きさや特徴と行動内容。遭遇した経緯と場所含め何度も繰り返し質問された。私は正午に設定された休憩時間が減っていくのを気にしながら答えていたが、この時の私の心境は名前も思い出せない幻獣と、それに似ているだけでの獣が同一であると確信できず。後で勘違いだったと判明したら何と言おうか言い訳を考えていた。

私の心配が当たったのは休憩時間が完全に奪われ昼食を逃したくらいだった。先に書いたとうり目撃情報はその日の内に開発区の各所へ伝播し、翌日から警備課と研究室員と私を含めた事実確認調査が始まったのだ。


この当時。秘境探索と言えば国内だと唯一商業探索を実施している「神の園地区」の神の園探索組合。国外だと世界最大の遺跡保存地区にして最大秘境でもある「残骸大地アスベルクトーラス」の探索産業か真っ先に思い浮かぶ。それ以外の地で探索と言えば大抵は調査活動や捜索活動が該当する。当然当時の私も幻獣捜索に必要な証人兼目撃者として駆り出され、園芸作業そっちのけで森や川伝いを歩き回った。

幻獣の確かな物証を得る為に捜索活動が一週間(十日)程続き、捜索は文字どうり地図を埋める様に複数の班に分かれて実施された。この時の動員が終わった後に聞いたことだが、この時の大規模調査に百名近い人員が参加したようだ。私の役目は先に書いたとうりだが、危険生物が闊歩し毒蟲等も多い地域なので貸与された狩猟銃を肌身離さず携行していた。

私が森に入って活動したのは7日程度で、活動範囲は狭く開発地区近辺だった。それでも時折銃声や笛の音が鳴り響き、触れて耕せる耕作土と作物の匂いや肌触りが恋しいと感じていた。調査を開始してから8日目。私が捜索活動から解放されたその日の南を捜索していた探索班が例の幻獣候補を捕獲した。私にその報告が来たのは9日目の事で、対象の幻獣の名前を聞いてから僅か3時間程経過してからの事だった。

幻獣の名前は「パソニックトム」。意味は「灰かぶりの兎」を意味するらしい。統一歴前の未統歴60年から30年にかけて実施された原生林開発(事業は資金繰りに失敗して凍結された。)にて大量駆除された結果。原生林から姿を消したと記録されある。中型の獣は知能が高い事から生息地を移したと判断されて当時は限定的な絶滅扱いだったが、統一歴後の生態調査で発見できず正式に幻獣指定されていた。

灰かぶり兎の名前が調査開始以後も不明だったのは、生物・生態調査主任から依頼された例の剥製の捜索に手間取ってしまったのが原因。これも後に母から聞いたところ、目録管理が不十分で剥製の行方がつかめなかった全資料図書館は一斉休館して全の倉庫を開き一斉捜索を続けていたらしい。

私は調査開始から9日目に捕獲された灰かぶり兎と無菌室内で対面。各種拘束具を装着した捕獲個体は私が遭遇した個体よりやや大きく、毛の長さと色が少し異る別個体だった。しかし容姿や骨格は防柵越しに遭遇した種と同種。直系3㎝前後の太い金属棒に囲まれた害獣用の檻の中で無気力そうに胴体肩部を金属棒にあずけていた。

まるで栗鼠とウサギを足して割った様な着ぐるみを着た子供の囚人を囲む大人達。そんな図式の中に居た私は主任の質問を全て答え退出。そのまま入室時と同じ洗浄室を経由して研究棟から出た。

私が捕獲された獣と対面したのはこの一度切りだったが、10日間のひと騒動で開発事業部や研究部等だけでなく方々に名前と顔が知れ渡ってしまった。その結果私は南部諸侯地方内の幾つかの放送局から幾度か取材を受ける事になり、5期の初旬頃から食堂に設置してある無線放送端末や映像放送端末に名前や顔が紹介されたりした。

一匹の獣から始まった幸運とも不運ともとれる騒動はしばらく続き、最終的に開発事業に参加する資本提携企業や研究機関が増えた事で落ち着いた。私は5期7日ごろまで滞っていた園芸作業を終わらせ短い休暇を貰おうと人事部と交渉していた。主に今後の作業に関する内容と契約内容の確認をしていたのだが、契約更新が完了する直前で業務放送により呼び出された。私を呼んだのは警備課主任で話をしたのは二度ほどだけだったが、この時既に私の今後は決まっていたとも言える。



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