雨という名の二人舞台に雪の雫を
ねぇ、貴方は忘れてしまったかしら。あの白い雪のような花を。そして、その花に込められた矛盾した二つの意味を。
その日、私は絶望という深く生暖かい闇の中を歩いていた。
生ぬるい風と、あざ笑うかのように私を濡らしていく雨はどこか心地よかった。雨で濡れたコンクリートの床は私の足の裏を慰めるように、時々破片が何かを楽しむように触れてきた。
ゆっくりと歩く私の脳内に走馬灯のようなものが走った。
元々、舞台女優の仕事をしていた。ただ、売れることはなかった。部隊の出演依頼などほとんど来ず、来たとしても演出家に叱られ、どんなに努力しても、若手に実力も見た目も劣ってしまう。ネットを見れば酷評される。舞台の評論家とかいう訳のわからないやつも私さえいなければいい舞台だったとか、昔のほうが良かったとか平気でほざく。
更に、結婚間近だった男には浮気され、挙句の果てに私が悪いみたいな言い方をされ一方的に別れを告げられた。お芝居のヒロインより酷い有様だ。
本当の芝居ならここから一発逆転でイケメンとくっついて幸せになるのだろうがそんな展開は私にはない。そんな幸せな色の結末なんて訪れやしない。嘘偽りに固められた闇色のバットエンドだ。
そのことに気が付いたとき、もうこんな世界という舞台で演技をしたくないと思い始めていた。だが、誰かがこの舞台に幕を降ろさなければ永遠に続いてしまう。
だったら、自分の幕だけでもおろしてしまおうと思った。嗚呼そうだ、そのために自分は今ここにいるんだった。
ふと、気が付くと足元に無機質なコンクリートとギラギラした下界の裂け目のようなものが見えた。
どうせ、幕を下ろすなら最後に目に焼き付けておこうと思い下を見まわした。
雨に濡れいつもより輝きを増したネオン。地上には、水たまりができていて色んな光を反射し、景色を映し出していた。時折反射した景色が揺れるのは欲にまみれた者たちがそれを踏んでいくせいだろう。
金に性欲に名声、富、名誉。いつからだろう、きれいなものがあるのと同じくらい汚いものもあると気付き始めたのは。
いつからだろう、きれいなものを身にまとっていたはずなのに汚いものを被り始めたのは。
考えても答えは一向に出なかった。
ただひたすら息苦しくなるだけだった。
でも、それももうすぐ終わる。もう、息苦しくなることも、汚いものにまみれることもなくなるのだ。今まで生きていた中でこんな嬉しいことはなかった。
眺めていたものに背を向け、両手を広げて後ろに倒れた。一瞬ふわっと浮遊感を感じたあとすごいスピードで落ちていくのがわかった。落ちていく中で恐怖も後悔も何も感じなかった。
ただ、一つだけ叶うなら人生で一番愛した男を――たかった。
ふと、気が付くと路地裏にいた。正直訳が分からなかった。あの時確実に自分の幕を下ろしたし、もし仮に下ろせていなかったとしてもあの高さから飛び降りて無傷なわけがないと。クッションになるようなものがあったとしてもこうして立っていられるわけがなかった。
顔に何か当たったような気がして上を見上げると雨が降っていた。本来なら寒いとか、濡れて気持ち悪いとかあるはずなのにそういう感覚が一切なかった。
「あははは……」
思わず乾いた笑いがでた。そして、笑いながら泣いた。
もう訳が分からなかった。自分が悲しくて泣いているのか滑稽で面白くて笑っているのか。あるいはその両方か。
知りたいような知りたくないような感情がごちゃごちゃ混ぜになっていると背後に人の気配がしてそちらに顔を向けて驚いた。
私に背後から傘を差してくれていたのは一番愛していたのに結婚間際に私を振った男だった。どうして、今更、と驚き思わず何故? と問いかけてしまった。
男は戸惑ったように変身に詰まっていた。そういうところは本当に憎らしいほど変わらなかった。しかも、その様子だと私のことは完全に忘れているようだ。
一応、確認のために覚えているのか否か聞いてみると、やはり覚えていないようだった。まあ、それは想定内なのだが。都合が悪く、捨てた女のことを覚えているような男でもないし、と開き直ると、男は行きつけのバーが近くにあるから行こう、と言ってきたので付いていくことにした。
近くの雑居ビルの地下の階段を下りていくと懐かしい気持ちになってきた。行きつけのバーと言っていたから予想はしていたがやはりこのバーかと笑ってしまいそうになった。
このバーは付き合っていた時によく二人で、いや、男は他の女と一緒に言っていたのかもしれないが、行っていたバーだった。このバーのマスターとも面識がありよくくだらない話をしたものだった。
店内に入るとやはり、あの白髪のマスターがいた。別れてからこのバーに来ていないのでそれなりの時間が経っているはずだが、あまり見た目に変化はなく元気そうだった。
マスターは私に気が付き、驚いたような顔をしたが男に声を掛けられタオルを投げ渡していた。男は受け取ったタオルで私をふいた。その優しさのせいか、バーやマスターの変わらぬ雰囲気に懐かしさを感じたのか、無意識にすみませんとつぶやき涙がこぼれ、止められなくなった。マスターはそんな私を見て何かを察し、店を閉めた。
男は私をカウンター席に座らせ自分も横に座った。この席もいつも二人で来ると座っていた、私たちの特等席だった。
「なんか飲むか? 今夜ならタダで飲ましてやるけど」
と普段タダ酒反対派のマスターが珍しくそう言った。
「お、マスター太っ腹だね」
男はマスターが普段それを言わないのを分かっていていじっていた。昔よく見たマスターと男のふざけた言い合いが懐かしくどこか切なかった。
結局、男は私にコロネーションを、自分はマスターのおすすめを注文した。
コロネーションのカクテル言葉は確か『あなたを知りたい』だったような気がする。何も覚えていないくせに私に対して興味はあるらしい。
そういえば、この人は何か知りたいことがあるたびに、このカクテルを注文して相手に飲ませていた気がする。相変わらずだなと呆れつつ少し嬉しかった。
恐らく、私のことを知りたいと思うくらいには気になるのだろうが、あえて教えてやらずに記憶喪失の振りをした。後々その方が都合がいいのと嫌がらせだった。
男が何か言いかけたところで酒を置くマスターは本当に間が良い。女好きのせいで不評を買いがちだが、それさえやめればモテるのではないか、とよく思っていたが、言ったところでやめないのは目に見えているのであえて言わなかった。
私の方にはコロネーションを男の方には見慣れない酒を置いていた。多分カクテルなのだろうがブランデーのような色をしていて見たことはあるような気がしたが、思い出せなかった。男も同じだったようで、マスターに尋ねていた。
「スティンガーだよ。ブランデーをベースにしたカクテルでバーテンダーの腕が問われるカクテルだ」
嗚呼、スティンガーか。思い出せずモヤモヤしていたものが晴れた。
スティンガーのカクテル言葉は『危険な香り』、なるほど、マスターには私の正体がばれたようだ。カクテルで警告を促すということは正体をばらすつもりはないらしい。
ただ、男は警告に気が付いていないみたいだよマスター、と思いつつ昔と変わらないやり取りをする二人に困惑しながら、目の前に置かれた酒を一口飲んだ。懐かしさと美味しさで思わずほおが緩み、その様子を見ていた男も少し微笑んでいた。
その後もくだらない談笑を繰り広げていたが、べろべろに酔っていた男が一瞬真顔になりスノードロップの花言葉知っているかと尋ねてきた。知っていたがあえて知らないと答えるとそっかぁと笑いながら話し始めた。
「スノードロップの花言葉ってぇ、『希望』なんだってぇ」
「はぁ、『希望』、ですか」
一瞬、付き合っていた時のことを思い出しかけたが意識してそれを外に追いやった。この男が酔うとどうも厄介なのも変わらないらしい。
「むかしぃ、付き合ってた子におしえてもらっらのぉ」
正直、頭が痛かった。その付き合ってた子、今、貴方の目の前にいるのだけれど。そう思っても、今言う訳にはいかなかった。何故別れたのか知りたかったから。
「へえ、過去形ってことは分かれちゃったんですか? 」
男は一瞬言葉に詰まり黙ってしまったが呟くように語り始めた。
それは、私の知らない話で愛されていたのだなと思うのと同時にどうして頼ってくれなかったのだという思いが複雑に絡み合っていった。男はひとしきり語り終えると電池が切れたように眠ってしまい、私は居づらくなりお金を置いて店を出ると意識が途切れた。
それから、何故か私は毎回バーの前で意識か覚醒するようになった。それも夜だけ。ただ、決まって男と別れると意識が途切れるようになった。
ある日、またいつものようにバーの前で覚醒した。だが、どこか様子が変だった。不思議に思って階段を駆け上がると外は明るかった。
意味がわからなくなって来た道を戻りバーの中に入ると、マスターは珍しくカウンター席に座っていた。
「いらっしゃい、来ると思っていたよ。いや、僕が呼んだのだからそれもおかしいかな」
「何故……私の正体を本当の意味で見抜いていたの? 」
まあね、とマスターは笑い私に座るよう促した。驚きながら座るとマスターはレターセットとペンをいきなり私に差し出した。何がしたいのかわからず首をひねると静かにこういった。
「君が何をしようとしているのか知ったこっちゃないんだけどね」
と言い、さらに続けてこう言った。
「ただ、何も知らないままでいるよりちゃんと教えてあげてからのほうが良いんじゃないかと思って」
だから本人が手紙を書いてみたらどうだろうと思ってね、と苦笑いしていた。
「マスターって結構お節介ですよね」
「はは、そういうところは変わらないね」
その返しに思わず微笑みながらマスターが差し出したレターセットとペンを受け取った。便箋には綺麗なスノードロップの絵が描かれており、まるで、希望ともう一つの花言葉を示しているようだった。
手紙に記憶喪失であると嘘をついたことへの謝罪と自分と過去に付き合っていたこと、あの日あの場所にいたことについて、自分の正体、それに関連して立ち去らねばならないことを綴った。最後に愛しているという本気のようで心にはない言葉を添え封筒に入れマスターに預けたところで意識が途切れた。
意識が覚醒すると今度はスノードロップの花束をもって事件現場らしき場所の近くにいた。マスコミがまるでハイエナのように群がるところをすり抜け近くによると自分が最も愛し、捨てられた男が仰向けで倒れていた。その手にはスノードロップの花が一輪、握られていた。
あまりのセンスのなさに思わず乾いた笑いが漏れた。自分を捨てた男の終幕がこれだなんて。まるで、希望をつかみ損ねて死んだ男みたいではないか。芝居だったら終われない展開ではないか。それを自分の最期に持ってくるなんて。
ただ、センスはないが花を添えてやろうと思いスノードロップの花束を投げ入れた。もう、花言葉の意味はなくなってしまったが、無いよりましだろうと思ったからだ。
ふわっと風が吹き、意識が完全に途切れ、自分が消える気配がした。
ねえ、知ってる? スノードロップの花言葉は『希望』だけじゃないんだよ?
もう一つの花言葉は――“あなたの死を望みます”
どうも~~椿綾羅です。
この原稿を書き上げたのは,まだ、冷房が必要な季節だった気がする。
それなのにこれを投稿するころにはすっかり涼しくなり、衣替えかなあ、なんて思ったりもする。
何が言いたいかというと、遅くなって申し訳ございませんでした……
いや、言い訳をするとちょうど書き上げたころに多忙期の入りかけでバタバタしていたのと、ある界隈の動画を除いていたら面白くて原稿そっちのけになってしまったのである。完全に自分が悪いです……
書き上げたエッセイもあるんだけどね……どうしようか悩み中である。
それはさておき、今回投稿した「雨という名の二人舞台に雪の雫を」はいかがだったでしょうか?
また、この展開かよ、という突っ込みは受け付けないからな。基本的にはSnow Dropの謎解き編的位置なのだがマスターという謎が生まれてしまったかもしれません。まあ、気にするな。
実は、元々はこの話は書くつもりはなかった。そもそも、カクヨム時代に挙げていたSnow Dropのリメイクが目的であの話を上げたに過ぎないのだ。
では、何故、この話を作ったかというと、創作仲間の知り合いの方に読んでいただいたところ、続編があったほうが良いといわれ、自分でも読みなおし、確かに続編である程度謎解きという裏設定を明かしたほうが良いと思いこの話を作った。
昔から、作風はあまり変わらないし、暗いが、できれば多くの人に読んでいただいて色々こうじゃないかな、とか想像して読んで欲しい。それは、作者である私からのお願いでもある。もちろんさらっと読んでいただいても構わないのだが。
ちなみに、この話はもう続きを作る気はない。二人がどうなったのか、マスターは何者なのか、それは、読者が想像して楽しんでほしい。
物語への解釈なんていくらでもあるのだから。
一つだけ、ばらしておくとすれば、本編最後に登場するカクテル、フローズン・マルガリータのカクテル言葉は「元気を出して」である。
どちらにせよ、楽しんでいただけたら幸いです。
それでは、次の投稿でお会いしましょう。