第5話
ズブッ……! 肉と骨が刺し貫かれる鈍い音が響いた。
「どうしてなんだ……?」
声を発したのは僕の影だ。
影が手にした血刀は、僕の胸元に突き刺さっていた。
背後にはベアトリス姉さんの幻影、正面には暗黒騎士の影。
凶刃が振るわれようとした刹那、僕は両者のあいだに割って入った。
結果として僕は、僕の影に刺されていた。
「だめだ……。憎しみのままに姉さんを殺したら、僕は身も心も暗黒に染まってしまう。それだけは、だめなんだ……!」
胸の傷は心臓にまで達し、明らかに致命的な感触があった。
それでも後悔はしていなかった。
死にゆく恐怖もまるでなかった。
自分は正しいことをしたという確信があったからだ。
「なぜだ? ベアトリスは僕を見捨て、僕を拒絶し、僕を裏切り、僕を殺そうとしたのに……!」
影が問う。
「たとえ変わってしまっても、もう昔の姉さんじゃなくなっていても、やっぱり僕にとって大切な人だからだよ」
僕が答えた。
「……そうだ。僕は間違っていた。姉さんが変わってしまったのなら、ちゃんと話して理由を訊くべきだった。それなのに僕は逃げて、現実から目を背けて、その結果がこれだ」
「だけど、ベアトリスは僕を罠にかけて殺そうとした。それは紛れもない事実だ。否定できない現実だ」
影がなおも食い下がるが、
「考えてみたら、それだっておかしい。もし本当に姉さんが僕の死を望んでいたなら、こんな回りくどい方法をとるはずがないんだ」
なぜなら、彼女は剣と魔法のツヴァイハンダー。
ルブルム王国騎士団筆頭、最強のエースナンバー、世界で唯一の『魔法剣士』なのだから。
「姉さんなら、正々堂々と一騎打ちをして僕を斬るはずだ。あのとき交わした『約束』のとおりに」
僕は「約束」のことを思いだしていた。
思いだしてみると、いままで忘れていたことが逆に不思議だった。
あれは、僕が暗黒騎士になってしばらく経ったころのことだ。
僕は言い知れぬ不安に苛まれていた。
暗黒騎士になったことで、人の悪意や負の感情に多く接するようになった。
人の心はたやすく闇に染まる。誰しも例外ではない。
だから僕も、いつしかそうなってしまうのではないか。
身も心も暗黒に支配されてしまうことが、怖くて不安で仕方なかったのだ。
『大丈夫だ。そなたの心が闇に染まることは決してない』
だが、ベアトリス姉さんはそう言った。
『であればこそ、わたしはそなたを暗黒騎士に推挙したのだ。だからルシス、わたしを信じよ。わたしもそなたを信じている』
『でも――』
『わかった。ならば約束しよう。万が一そなたの心が闇に染まったなら、そのときはわたしが責任を持ってそなたを斬る』
屈託なく笑いかけながら、そんなことを言う。
それで僕を安心させてしまえるのだから、つくづく姉さんはすごい人だと思う。
だから、いまの僕には自分のやるべきことがはっきりとわかる。
「もし姉さんになにか別の意図があったなら、直接会って真意を訊かなくちゃならない。あるいは姉さんの心が、約束を忘れるくらい闇に染まっているとしたら――」
約束にはまだつづきがあった。
『そのかわりルシスよ、万が一わたしの心が闇に染まったなら、そのときはそなたがわたしを斬ってくれ』
『そ、そんなっ。無理だよ、僕が姉さんを斬るだなんて……』
実力面でも心理面でも、できるわけがない。
けれど、ベアトリス姉さんは確信をこめて言った。
あたかも未来を視てきたかのように。
『できる。そなたにしかできないことだ。頼まれてくれるな、ルシス』
『わかった。約束するよ――』
僕は言った。
「そのときは僕がベアトリス姉さんを斬る」
だから、こんなところで闇に呑まれるわけにはいかなった。
〈――見事です〉
ふと、声が響いた。
僕の声でもなければ、ベアトリス姉さんの声でもない。
〈ようやく巡り会えました。私が求める聖き心の持ち主に〉
魂に直接語りかけてくるような、霊妙なる響き。
ピキ……パキンッ。
突然、僕の心臓を貫いていた血刀が砕け散る。
同時に傷の痛みも忽然と消失した。
ピキピキピキピキッ!
つづいて、闇の鎧に無数の亀裂が入った。
その現象は僕と影の両方に起きている。
亀裂の隙間から真っ白な光がもれ出していく。
「な、なんだ……? 一体なにが起きているんだ……!?」
そのとき頭上の闇が晴れ、ひときわまばゆい輝きが出現した。
まるで小さな太陽が現れたかのようだった。
〈ルシス。あなたは私の試練を見事に乗り越えました〉
光が語りかけてくる。
〈闇の鎧を身にまとい、暗黒の力を振るい、他者の暗い感情を一身に背負い、大切な人から裏切りを受けてなお、あなたの心は闇に染まりませんでした〉
あたたかで神々しい響きは――そう、まさしく天の声だった。
〈あなたの中に私は光を見ました。決して消えることのない、深く暗い闇の中でこそ輝く光を〉
「ま、待ってください! あなたは誰なんですかっ!」
天上の光に問いかける。
そのあいだも闇の鎧の亀裂はひろがり、いっそう発光が強くなっていく。
〈私はテルツァリーマ。星の守護者です〉
「なッ――!?」
それは誰もが知っている特別な名だった。
「創星神、光の女神テルツァリーマ……! まさか、本当にっ……?」
僕はいま、神話にうたわれる女神と言葉を交わしている。
ふだんなら絶対に信じられないが、神々しい光を見上げていると疑いの念が消し飛ばされていくのを感じた。
白い光がひろがる。黒い闇が払われていく。
僕の意識もまた白く遠のいていった。
〈さあ、目覚めの時です。来たるべき大いなる災厄から、この星と生きとし生けるものを守ってください。光り輝くもの、聖騎士ルシスよ――〉
パキンッ! 直後、僕と影の全身をつつむ闇の鎧が完全に砕け散り――
白い光があふれ、すべてを呑みこんだ。