第4話
誰も好きにならないし、誰からも好かれなくていい。
わずか一〇歳にして、僕はこの世界を見限っていた。
彼女と出会うことになる、あの日までは。
朝からどんよりと曇って、冷たい雨が降りしきる日だった。
僕はこういう天気が好きだった。
なぜかといえば、孤児院の外に出れば確実に独りになれるからだ。
庭に生えている大きな木の洞。そこが僕のお気に入りの場所だった。
樹洞の中に入り、膝をかかえて丸くなる。
そのままじっとしつづける。独りで時間をつぶすことが僕の目的だった。
王立孤児院での生活を楽しいと感じたことは一度もない。
けれど両親がいない僕には、ほかに行く場所がどこにもない。
だからこうして、なるべく独りっきりで過ごすようにしていた。
こんな雨の中、わざわざ僕に会いに来る物好きはいない。
だが、その日だけは違った。
「……わざわざ外に出て雨宿りとは、そなたずいぶんと風変わりな子供だな」
傘を差した少女が僕に声をかけた。
世にもめずらしい桜色の髪と金眼銀眼の瞳。
このとき彼女は一五歳。顔立ちは大人びているが、表情は妙に子供っぽいと感じた。
不敵な笑み、という言葉がこれほど似合う顔はまたとないと思う。
「わざわざ僕に話しかけにくるなんて、あなたこそずいぶん風変わりな王女様ですね」
彼女をちらりと一瞥して僕は言った。
「ほう。なぜわたしが王女だとわかった?」
「高そうな服に偉そうな口調。そして今日は王女様が孤児院に視察に来る日だから」
「存外に聡いな。だが言葉は正しく使うがよいぞ」
「え?」
「この服は『高そう』ではなく実際に『高い』。そしてわたしは『偉そう』ではなく実際に『偉い』。以後気をつけるがよい」
……なんだこの人は、と思う。
大人も子供もふくめて、これまで出会ったどんな相手とも違う。
そして、同じタイプには二度と会うことはないという予感があった。
「あらためて名乗ろう」
傘をたたんで王女様は言った。
「わたしはルブルム王国第一王女、ベアトリス・ヴァージニア・ロザリー・ルブルムだ」
いくら人嫌いの僕でも、名乗られたら名乗り返すのが礼儀だということくらいはわかる。
「僕はルシス。ただのルシスです」
「ルシスか。よい名だ、気に入ったぞ」
王女様は満足そうに笑った。
さあ、話はこれで終わるはず。
わざわざ僕に近づいてきたのは、孤児院の子供全員に声をかけるノルマでもあったに違いない。
そう思っていたが――違った。
王女様は膝をかがめ、目線の高さを僕に合わせた。
「それにしても稀有な色だ。これまでの多くの者と出会ってきたが、黒い髪と瞳の持ち主はついぞ見たことがない」
「っ……!」
真っ黒な髪と瞳は、僕の最大のコンプレックスだった。
この色のせいで誰からも気味悪がられ、拒絶される。
黒は不吉と不幸を象徴する色であり、ルブルム王国では特に忌み嫌われていた。
「実に美しい。まるで夜空を溶かしこんだかのような色艶ではないか」
驚いたことに、王女様は手を伸ばして僕の前髪をなでた。
「う、美しいって……。そんな、嘘ですよね?」
「嘘? なぜわたしが嘘をつくと思う?」
「だ、だってそれは、みんなが黒は不吉で気味の悪い色だって……」
「それは『みんな』とやらが間違っているのだ」
こともなげに王女様は言った。
「誇るがよいぞ、ルシス。わたしの見たところ、そなたの髪と瞳は世界で二番目に美しい色をしている」
彼女の言葉は不思議だ。
自信満々に断言されると、僕にもそれが正しいことのように思えてくる。
生まれて初めて、自分のコンプレックスを受け入れられうような気さえした。
「あの、それじゃ一番綺麗なのは?」
「決まっているであろう!」
王女様はすっと立つと、肩にかかった髪を払いながら言った。
「もちろんわたしの髪と瞳だ。異論はあるまい?」
異論などあるはずもなかった。
たしかに桜色の髪と金眼銀眼の瞳はこの上なく美しい。
そこで僕は、はたと気づいた。
王女様がとてつもなく綺麗で可愛い、絶世の美少女であることに。
気づいたとたん、僕は急に気恥ずかしくなって目をそらした。
「どうかしたか?」
「い、いえっ。なんでもないですっ」
「ならばよいが。ときにルシスよ、もう少し横へずれてくれないか」
「えっ? あ、はい」
僕は命じられるがまま体を横にずらす。
だが一体なんのために?
「そうだ、もっと左に。よしよし、これでわたしの座る空間が確保できたな」
次の瞬間、王女様は少しもためらうことなく洞の中に身をすべりこませた。
僕はただただ呆気にとられるしかない。
「ほう! 中に入るとこのような感じなのか!」
腰を下ろして膝をかかえた王女様は、やたらと楽しげにキョロキョロと視線を動かした。
「な、なにをしてるんですか?」
「そなたの居心地がよさそうだから、わたしも体験してみたくなったのだ」
「だからって王女様がこんなところに……」
「入っていけない法はあるまい。それにしてもここは不思議な場所だ。こうして身を縮めて雨にけぶる外の世界をながめていると――」
白い歯を見せて笑う。
「なんだか世界にわたしとそなた二人きりのような気がしてくる」
顔と顔の距離が近い。
彼女の息づかいすら感じられ、頬の内側が熱を帯びた。
「よ、汚れますよ。高い服と綺麗な髪が……」
「心配は無用だ。わたしの周りになにか見えないか?」
傘をたたんで雨に打たれていたはずなのに、王女様の服や髪は少しも濡れていなかった。
よく見れば、薄い空気の膜らしきものが全身をつつんでいる。
「まさか、それって魔法……!?」
「そうだ。実際に見るのは初めてであろう」
王女様はにんまりとした。
まるでとっておきのオモチャを自慢するように。
「すごい、本当に風を操ってる……!」
「だが驚くにはまだ早いぞ。なぜならわたしは『術師の血』と『戦士の血』を兼ね備えた『ツヴァイハンダー』なのだからな!」
「は、はあ」
ツヴァイハンダー。双極異能者。
騎士であり魔道師でもある、世界で唯一の『魔法剣士』。
彼女がどれだけ特異で特別で、歴史上でも数えるほどしか現れていない存在なのか、この時の僕はまだ知る由もない。
「ひらたく言えば、わたしは騎士にして魔道師でもあるということだ」
「騎士って……王女様なのに戦うんですか?」
「もちろん。わたしは多くのものを守らなければならないからな」
すごいと思う反面、僕は自分の気持が沈んでいくのを感じた。
「騎士で、魔道師で、王女様で……。あなたはなんでも持っているんですね。僕とはまったく正反対だ」
「自分にはなにもないと?」
僕はうなずいた。
「両親はいないし友達だって一人もいない。特技も才能も力もなにもない……」
「それは思い違いだな。少なくともそなたは『ルシス』という立派な名を持っているではないか」
王女様は言った。
やさしいまなざしを僕へとむけて。
「その名は旧き神代の言葉で『光り輝くもの』を意味する。――闇夜に輝く一等星のように世界を照らし、人々を正しい方向へと導く存在になってほしい。そんな願いと祈りをこめて、そなたの父君と母君は『ルシス』と名付けたのだ」
「な、なにを言って……。まるで見てきたような物言いですね」
皮肉をこめて僕は言う。
しかし、王女様は少しも表情を変えることなく、
「当然であろう。まさしくいましがた『視て』きたのだから」
そう口にした。
「言ってる意味がわかりませんよ」
「よいか、ルシス。心して聞くがよい。これは誰にも――父上にすら明かしてはいないことだが」
ぐっと顔を近づけ、王女様はささやいた。
「わたしの銀の瞳は『過去』を映し、金の瞳は『未来』を映す」
「なっ……!?」
いくらなんでも与太話がすぎる。
頭ではそう思うが、王女様の金銀の瞳を見つめていると、不思議と信じてみたくなる気持ちにさせられた。
「もちろん、なにもかもすべてを視透せるわけでないぞ。過去の大部分は暗黒に閉ざされ、未来の大部分は空白に埋められているのが常だからな」
「そ、それじゃ、王女様は僕の未来も……?」
「ああ、視た。近い将来、そなたは『戦士の血』に目覚めて騎士となり、女王に即位したわたしに仕えることになる」
「僕が、騎士に……!?」
にわかには信じられない。
雲を掴むような、空が落ちてくるような話だ。
しかし――
「だからルシス。わたしはそなたに会うため今日ここへ来たのだ」
王女様は立ち上がり、樹洞の外へと出た。
いつの間にか雨は上がり、雲間からひと筋の陽光が射しこむ。
光の柱につつまれ、桜色の長い髪がキラキラと輝いた。
王女様は僕へと手を差し伸べて、言う。
「わたしの騎士になってほしい。わたしにはそなたが必要なのだ、ルシス」
――その名は「光り輝くもの」を意味すると、彼女は言った。
けれど僕にとっては彼女こそが「光」だった。
希望の光。長い夜に終止符を打つ曙光。
光に導かれ、僕はその手を握り返した。
これが、始まりの日。
僕とベアトリス姉さんの出会いの記憶だ。
ベアトリス。
その名が意味するのは「幸福をもたらすもの」――