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賭けをしようか――
不敵に笑った彼の言葉に乗った私が馬鹿だった。
これは最初から私が負けるゲームだったのだ。
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「あーつーいー」
机に突っ伏して団扇でパタパタ扇いでいると、前の席に座る依ちゃんが私の頭をパコンと叩いた。その軽い衝撃に頭を抑えて顔を上げると、依ちゃんは右手に丸めた数学の問題集を持っている。左手は下敷を忙しなく動かしていた。長い黒髪を後ろで1つにくくっているが、後れ毛は顔や首にべったりと張り付いている。
「暑いっていうと余計に暑くなんのよ。黙りなさい」
「だってぇぇ。あーあ、この学校にしたの、間違いだったかな。エアコンついてないなんて」
「そんなもの、出願前からわかってたでしょ」
左にある窓から空を見上げると、燦々と照り注ぐ太陽と真っ白な入道雲が目に痛い。
高校に入学して早3ヶ月。憧れていた女子高生になったのに、早速中学に戻ってやり直したくなっている。
依ちゃんはため息を吐くと、私に髪ゴムを投げてよこした。
「真帆、とりあえずその暑苦しい髪型をなんとかしなさい」
「ありがとぉぉ」
背中にかかる長い髪を頭の高い位置で1つに括ると、幾分か涼しくなった気がする。だが、それでも暑いものは暑かった。
「まだ7月の頭よね? 暑すぎない?」
「あー、真帆は中学にエアコンあった口か。私は無かったから、元々こんなもんな気がしてるけどね」
口ではそう言いながらも、依ちゃんは顔を顰めて左手を動かし続けている。その額には汗が滲んでいた。
「真帆は今日、委員会だっけ?」
「そ、だから今日は先帰ってて」
「はー、でも美化委員の相方は加藤か。真帆も面倒くさいのと一緒になったよね」
「ちょ、依ちゃん、しーっ」
私は慌ててもう1人の美化委員、加藤くんの方をちらりと見た。加藤くんは教室の端にある自席で俯いて本を読んでいる。こちらの会話は聞こえていないようだった。
加藤くんはいつも1人でいた。もさっとした黒髪に黒縁眼鏡をかけていて、愛想もなく、猫背でいつも俯いている。私はクラスの中で加藤くんとまともに会話をしたことがある人を見たことがない。
詰まる所、ぼっちというやつだ。意図的に、というもののようではあるが。
ガララと扉の開く音がして、担任が教室に入ってきた。やっとHRだ。今日はこの後くじ引きで当たった美化委員の委員会に参加して終わり。
私はボーッと雲の動きを眺めながら、HRが終わるのをただただ待っていた。
「加藤くん、委員会行こう」
加藤くんはいつものように返事をすることなく無言で立ち上がった。私も最初こそ笑顔を向けていたが、最近は淡々と声をかけるだけになっている。同じ委員になって3ヶ月が経ったが、未だに会話は殆どできていなかった。
そうは言っても、私もわざわざ話したいと思うほど加藤くんに興味はない。だから、委員会でもずっとこの距離感を保ってきた。
本当は連れ立って委員会へ向かわなくてもいいのだが、こうでもしないと加藤くんはサボってしまう。初回、2回目と帰られてしまったことで、それからは声をかけて一緒に行くようにしていた。
2人無言で階段を登っていた時だった。
「ねぇ、森下さん」
「え、なに?」
私は名字を呼ばれ、驚いて加藤くんの方を見た。名前を呼ばれたのは初めてのことだった。
「ごめん」
そう一言だけ呟くと、加藤くんは踵を返して階段を駆け下りて行った。
「ちょっ……加藤くん⁉︎」
慌てて振り返るも、既に加藤くんは見えなくなっていた。追いかけようかと思ったが、委員会までもう時間もない。
私はため息をつくと、諦めて階段を登り始めた。
「森下さん?」
今度は階上から声が降ってきた。見上げると、見知らぬ男子生徒が壁に寄りかかるようにして立っている。さらっとした黒髪に銀縁の眼鏡を掛けた、如何にも優等生風の生徒だった。
「はい、えっと、どなたですか?」
なんで名前を知ってるの?
そうは思ったが、とりあえず笑顔で言葉を返す。
「ああ、さっき尚道がそう呼んでいたから」
まるで私の頭の中を読んだように返してくるその人は、自分の名前を名乗らない。
「尚道って、加藤くんのことですか?で、あなたは?」
その人は私の反応に一瞬目を見張ると、楽しそうに笑った。しかしすぐに優等生然とした微笑みを浮かべると、1段降りて私に近づき、私の目を見つめてきた。
「賭けをしようか。そう、次にここにやってくる生徒が、僕の名前を知っているかどうか」
「は? いや、意味がわからないんですが。すみません、私、委員会があるので、失礼します」
爽やかな笑顔で何を言っているんだろうか。
怪しさ満点の提案に思わず顔を引きつらせ、私は早くこの場を離れようと足を踏み出した。
その人の横を通り過ぎようとした瞬間、勢いよく手首を掴まれた。そして無理矢理自分の方を向かせると、優しげな微笑みを浮かべて私を見た。
「もう一度言うよ。賭けをしようか。僕は次にやってくる生徒が、僕の名前を知っている方に賭けるよ」
この人、頭おかしいんじゃないの?
掴まれた手を振り解こうとするものの、力では敵わず上手くいかない。私はあからさまにため息を吐くと、その人を睨みつけた。
「その賭けってなんですか? 何を賭けたいんですか?」
「僕が勝ったら、尚道を僕の元へ連れてきてほしい。君が勝ったら、1つ願いを聞いてあげるよ」
その人は相変わらず笑顔で返しているが、私はこの時やっと目の奥が笑っていないことに気がついた。これは諦めて賭けをしなければ通して貰えなさそうだ。この学校の生徒には間違いなさそうだし何とかなるだろう、と楽観的に考えることにした。
「何故、貴方の名前なんですか? 知ってる方に賭けるってことは、知られてる自信があるの?」
「さあ? 君は知らないじゃないか。だから誰もが知っているわけではないよ」
「加藤くんとの関係は?」
「昔からの知り合いさ」
「本当に、連れてくるだけでいいんですね?」
「ああ、もちろんだ」
私は何度目かのため息を吐くと、渋々了承した。
「わかりました。美化委員会に、私の遅刻の原因は貴方だと話してくれますか?」
「担当の先生にも話をつけよう」
先生に話をつけられるの?
少し引っかかったが、早く解放されるためにも考えることを放棄した。どっちにしろ、賭けに乗った時点で私は『次にやってくる生徒がその人の名前を知らない』に賭けるしかない。
その人は不敵な笑みを浮かべると、私の手を離して階段に座り込んだ。私は隣に座る気になれず、掴まれていた腕をさすりながら壁に背中を預けて寄りかかる。
そのまま特に会話もなく5分程が経過した頃、上の階から女子生徒が2人降りてきた。
「やあ、ちょっといいかな?」
その人は人の良さそうな笑みを浮かべて女子生徒たちに話しかけた。声をかけられた2人は、なんだか嬉しそうな笑顔になる。
「ちょっと、僕の名前を言ってみて欲しいんだけど」
「え? 生徒会長の大石先輩です」
え?この人生徒会長なの?
不思議そうに答える女子生徒の前で叫ぶわけにもいかず、大石会長をジロリと睨む。
「下の名前はわかるかな?」
「ええっと、春輝先輩です」
女子生徒は少し顔を赤らめて名前を呼んだ。大石会長は満足そうに頷いた。
「正解。ごめんね、時間を取らせてしまって。もう行ってもらって構わないよ」
大石会長は優しげに微笑むと2人に道を譲る。女子生徒たちは大石会長をチラチラと見ながら、階段を下っていってしまった。
「嘘、つきましたね」
「何のことかな?」
「誰でも知っているじゃないですか! 大石会長は成績優秀、眉目秀麗だと、1年生だって知っています。有名人ですよ。それを『誰もが知っているわけではない』と言いましたよね?」
「ああ、言ったね。でも君が僕を生徒会長だと認識できなかった時点で、『誰もが知っているわけではない』はクリアしているじゃないか」
うっと言葉に詰まる。賭けに乗ってやったことが悔しくなってきた。
「わかりました。加藤くんを連れてくればいいんですね?」
最悪、大石会長に会えなかったことにしちゃおう……
「ああ。よろしく。場所はそうだな、明日の放課後生徒会室に。もしすれ違いでもあったらいけないから、携帯の番号を教えてくれるかな? 『生徒会室に行ったけどいませんでした』は無しだからね。あと、僕の番号を他の人に教えないように」
大石会長はにっこりと笑ってとどめをさした。