成り行き
はじめに
中学は出席日数が足りていなかったにも拘わらず、卒業させてもらえた。これは、わたしのことを慮ってくれたわけではなかった。義務教育の立場上、できるだけ速やかに卒業させるのが、本筋であり、そうすることが好ましいというのが学校側の考え方である。両親は、ともに教員をやっているという話は伝わっていたに違いないが、そうだからといって配慮なされたわけではなかった。結局は、学校の都合が優先していたからということだろう。出来の悪い生徒こそ、早く卒業させて、わが校とは関係ないという立場を早く取りたかったに違いない。
中学1、2年の頃は、半分程度は、登校したように思うが、3年の時は、始業式から数日登校したら、行くことができなかった。高校受験にしても、就職にしても根っから考えたことはなかった。今のまま、だらだら生活していても、別に問題ないとそんなことしか考えなかった。小遣いは適当にもらえていたし、どうしようもなければ、家に帰ればいいことだった。
ここには、わたしのような行き当てのない若者が、屯している。この中には、身寄りのない者もいるが、たいていは、わたしと同じように、家庭の事情で家に居たくない者が集まっていた。この5階建てのビルは、高度成長期に計画され、着工はバブルがはじけた後だった。地方都市の駅前の繁華街から3キロほど離れた場所で、バブルのころには、そういった周辺地域にも再開発の波が押し寄せていたが、はじけてしまったあとでは、悲惨な状態だった。途中で、資金繰りに行き詰まり、建設が途中のまま10年以上もなおざりにされていた。この廃墟を地元では、幽霊屋敷といって、噂していたが、雨風が凌げるだけでもいいと、行き場のない若者が屯するようになっていた。多いときには、20名もの人数が出入りしていることもあった。そんな出入りが頻繁なころには、警察への通報もあった。その後では、しばらく人気のない状態が続くが、1週間もすると元の状態に戻っていた。転売につぐ転売で、現在の地権者がどうなっているのか、そのあたりが問題だった。
11月になると、小春日和で気持ちのいい日に限って、夜になると気温はぐんぐん下がる。春と秋はともかく、夏の暑さが嫌だった。暑さは堪えていたが、この時期になってみると、寒いよりはましかもしれないと思えるようになった。明日も同じようだったら、久しぶりに家に帰ろうかと思う。寒いのはもともと苦手ではなかったのに、こんな生活を始めると寒さのほうが堪える。それに、当然のことながら、これから先、ますます寒くなるのは目に見えている。
浜田和恵がわたしの名前で、今は祖母と二人で生活していることになっている。祖母と二人の生活は、息が詰まるし、曲がりなりにも両親がそろっているにもかかわらず、どうしてこういう状態なのかと考え出すと嫌になってしまう。両親がそろっているという意味は、ともに健在だという意味で、二人は、それぞれに家庭を持って生活している。一応、戸籍上は父親の娘になっているが、今の父親の家庭には組み込まれていないし、むしろ邪魔者扱いされている。両親から除け者にされて、その行き着いた先が祖母と二人だけの生活だと思うと、祖母の家にも居たくないというのが、正直な気持ちである。なんでわたしだけ、こんな状況なのかと考えてしまう。わたしと同じ年頃の子が母親や両親と一緒に歩いているのを見ると腹が立ってくる。遊び仲間がいると、そんな気持ちをぶつけてしまうが、一人だけだとここに来て、涙を流すこともある。同じような境遇の子たちと一緒に居ることで、気持ちが安らぐ。
中学3年の頃から、こうして、昼間は仲間を求めて繁華街をうろつき、夜になるとこのビルで寝泊りしている。ただ、冬場だけは、祖母の家の自分の部屋にしぶしぶ帰る。寒いのはたまらないからだ。今年も11月になって、寒さを感じるようになってきた。仕方なく、そろそろ、家に帰る頃かなと思っていたころである。
自分の生い立ちは、少し変わっているかも知れない。両親が離婚することは、珍しいことではないが、それに先立って、子どもに対する親権を巡っていざこざがあった。双方が親権を主張しあう揉め事が一般的である。ところが、わたしの場合には、お互いに親権を押し付けようとしたのだから、困ったものだ。嫌になってしまう。どうして、わたしを生んだのかって問い詰めてやりたい。子どものときには、自分で環境を選ぶわけにはいかない。両親が離婚した時期は、わたしがまだ生後半年ほどで、何もわからないころだった。離婚してからしばらくは父親と祖母と3人だったようだ。でも、父親は、その後再婚相手との新婚生活にこの家を出て行ってしまい、物心ついたころには祖母との二人の生活だった。
学校に行くようになって、自分の環境がみんなと違うことに気づいた。父がいて、母がいることが普通なのに自分ではそうではないということだった。みんなから特別な目で見られていたのかもしれない。勉強以外のことで、そういった家庭の状況が、なんとなく嫌だと思ったりした。参観日などみんなは張り切って手を上げたりしているのに自分はいつもとかわらなかった。運動会などみんなは美味しそうなお弁当を家族みんなで食べているのに、自分は祖母と二人きりだった。それもなんとなくぱっとしないお弁当だった。決して祖母を責めるつもりはないが、釈然としないものを感じた。勉強は、自分で言うのもおかしいが、よくできた方だと思う。常にトップクラスだった。みんなから勉強はよくできる子だと思われていたと思う。
中学になると、どうして、自分は祖母と二人なのかという疑問が湧いてきた。一番大きな問題は、なぜ母親は自分を見捨てたのかということだった。そんなことを考え出すと、もう勉強が手につかなくなり、成績はどんどん下がっていった。それに中学1年の夏休み以降、いじめられるようになったのも大きな要因である。女の子で不良になるのはその頃珍しかったかもしれないが、家に帰るのが億劫になることがあり、そんな時、繁華街でうろついていると声をかけられることがあった。そんなことが重なるうちに不良グループとつるんで遊ぶようになった。酒も、タバコも一通りは付き合わされた。そうなるとほとんど学校には行かなくなった。
曲りなりに中学を卒業させてもらったものの、高校受験はしなかったし、卒業後もふらふらと何をするでもなかった。家にも帰らないのだから、浮浪者と同じである。お金が無くなると、祖母に無心していた。一応、女だし、もう18だし、でるところは出るし、セックスにも多少の興味はあるが、別れた両親のことで、性というものが、少しみじめなものだと思えている。今までは、まだ、幼かったし、色黒で、かわいげの無い顔立ちのせいで、気軽に話はしていたが、そういった関係になった男はいなかった。仲間の中には、女とみると、だれかれ構わずいただこうとするやつもいたが、そういったことは、リーダーが許さなかった。それなりにリーダーとしての威厳は保っていた。だから、わたしのような女の子でも仲間に入っていることができた。そんな時、純一と出会ってから大きく変わった。それが、わたしにとっての転機だったと思う。
その夜は、急に寒くなったこともあったので、わたしとそのサブリーダ的なあいつしかいなかった。
「急に冷えてきたな」
確かに昼間がポカポカ陽気だったから、その落差が大きい。特に返事を返すこともなく、今日は、気の置けない幸子は来ないのかな、などと思っていた。
「おい、カズ、何とか返事してもいいだろう」
こいつにカズなどと呼ばれる筋合いはない。
「うるさいな。ほっといてくれ」
「そう邪険にするな」
そういいながら、近づいてきた。うざいと思ったが、無視していた。
「なあ、ちょっといいだろう」
そういいながら首に腕を回してきた。
「何すんだ」
その腕を払いのけようとしたが、逆に、無理やり押し倒された。
「やめろよ」
とはいったものの、大人の男の力にはかなわなかった。下半身に痛みを感じた。女にされた瞬間だった。このとき、わめき散らしたのだろうと思う。それを聞きつけて、駆けつけてくれたのが純一だった。
このとき、無理やりだったし、こちらもそれなりに抵抗した。痛みはあったが、それは、初めてのことだったので、そんなものだろうと思っていた。純一の登場で、射精はまぬかれたので、妊娠の心配はなかった。これだけでも純一に感謝しなくてはならない。しかし、この場所にはもう来られないと思った。行き場をなくしてしまった。祖母の家に帰ることもできたが、何もなかったように帰っていく純一の後を追って、彼のアパートにそのまま上がり込んだ。部屋に入るなり、両足に血が流れていることから純一はびっくりし、何箇所か病院に電話をしていたが、どこも埒があかなかったようだ。電話を切るなり、安静にしておくように言い置いて、飛び出していった。30分ほどして、戻ってきた純一は、消毒薬にガーゼや油紙を携えていた。
「冷たいのを我慢して、冷水で汚れを落としなさい」
そういって、風呂場に案内した。
「場所が場所だけに、ぼくはこちらにいるから。このタオルは汚していいから、水で洗い流した後は、これで、よくふき取るように・・・。こちらの消毒液は沁みるけど殺菌効果は抜群だそうだ。こちらのは、あまり沁みないが、殺菌効果もその程度だそうだ」
そう言い置いて、浴室のドアを閉めて、戻って行った。ともかく言われたとおりに水で、下半身を洗い流したが、どこからか出血はまだ続いていた。股間のそのあたりのところは、よくわからなかった。覗き込んでも、あそこの中までは見ることができなかった。
「ごめんなさい。ちょっとお願いします」
すぐに純一はやってきたが、下着を着けていないのを見て、すぐに、身に着けるように言った。
「申し訳ないが、自分では見えないので、傷口を消毒してほしい」
初めてのことなので、単に出血しただけのことかもしれないとも思ったのだが・・・。
「いくらなんでも、そんなところを他人に見せるわけにはいかないだろう」
色黒なので外からは、グロテスクなもののようで、確かに他人に見せるには憚られるところであるが、自分では、その中まで見ることができないので、仕方なく訴えるしかなかった。ほんとにいいのかよといいながらも最後は、引き受けてくれた。出血の箇所は、膣内の裂傷だった。
「嫌なものを見せて、ごめんね」
「初めて見たが、中はきれいなピンク色をしていたよ」
恥ずかしさで、ずっと下を向いていたが、急に純一が身近に感じられた瞬間だった。
両親の結婚
父親は3人兄妹の次男である。長男は父親が違い、8歳離れているが、2歳下の妹と共に分け隔てなく育てられた。8歳の年の差は、大きかった。兄弟であっても何事も兄の言うことに従っていた。妹との兄妹げんかは、たまにしたが、兄の仲裁で、すぐに引き下がらざるを得ない状態だった。新しい父親も兄に対しては、形ばかりの親子関係だった。あまり強く指示するようなことはなかった。母親だけは、毅然と振舞っていたが、戦争とはいえ、後家を迎え入れて、結婚した父親には頭が上がらなかった。
祖母の最初の夫とは、戦時中に形ばかりの結婚式を執り行い、その半年後に出征し、南方の戦地から程なくして御霊になって帰ってきた。終戦の前年に長男は、父無し子として、生まれた。しばらく祖母は、長男と共に嫁ぎ先に残っていた。終戦後、祖母の両親や兄が、そのまま嫁ぎ先で一生を終わらせるわけには行かないと実家に連れ戻した。その婚家は、戦死した長男以外に子どもはなく、一時は幼年の男子を婚家の跡継ぎとして育てていくことで、一応の決着を見ていた。しかし、婚家の両親は既に古稀に達し、残念だが、育てるには無理だったようで、この一子も祖母が引き取ることになった。家の制度が、法律上大きく変わってしまったことも、背景にはあったようだ。
戦争という特殊な状況がもたらした影響は、日本中の全ての人に大なり小なりあった。祖母は程なくして、再婚し、父親と叔母を授かった。長兄である年の離れた伯父は、何事にも秀でて、田舎のことではあるが、学校では常に1番を通していた。ただ、体が弱く、風邪を引いただけで、1週間、寝込むようなことが稀ではなかった。そのために、大学は中央の大学に進学させたかったが、地元の国立大学に入り、主席で卒業し、文部省(現、文部科学省)に入省した。
父親も伯父には劣るものの地元の国立大学を卒業し、地元の中学の教師になった。妹である叔母も同じように教師になった。叔母のほうが先に結婚し、それに続いて父親も結婚した。共に、相手は同僚の教師だった。
父親の相手、すなわち母親に当たるわけだが、一人っ子で、結構気ままに育てられてはいたが、学生時代はもちろんのこと就職後も自宅からの通勤で、夜遊びなどもってのほかで、異性と付き合ったことがなかった。いわゆる、箱入り娘であった。小中学校の教師は、女性が大半を占めるようになり、年頃の男性教師にとっては、またとない環境だった。しかし、父親は、伯父はすらっとした長身なのだが、背の低さにコンプレックスを抱いていた。そのために、異性に対しては、積極的ではなく、いや、まじめだったので、異性と付き合ったことはなかった。双方、初めてのお見合いで、免疫力がなかったからと言えなくもないが、意気投合して、ゴールインとなった。初めて会ってから、3ヶ月もたっていなかった。姓は変えなかったが、すなわち、母親が、浜田姓を名乗ることにしたが、将来、入り婿になってもいいような話をしたようで、そのことには母親の両親が積極的だった。
その翌年に、わたしが生まれたのだが、既にその頃には、二人の間は修復のできないところにまで来ていたようだ。
結婚して、しばらくは母親の実家で、生活していたのだが、母親のほうが、将来はこの家に入るにしても、夫婦水入らずの生活をしたいと切り出した。その頃は、確かに、父親のことを大事にしたいという気持ちからだったのは確かである。新居での若い二人だけの生活が始まった。甘い生活を夢見ていたのは間違いない。今まで、3度3度(昼食のお弁当を含めて)の食事の世話を祖母(母親の母親)が全て行っていた。最初の数日は、今までのご飯に味噌汁からの食事からトーストとスクランブルエッグにコーヒーのなんともモダンな朝食を用意することができた。夕食も魚の煮つけから、シチューだったり、ハンバーグやステーキを焼いたりと二人だけの甘い生活を実現することができた。
母親も教師の仕事をする以上、夫の夕食をタイムリーに作るために帰宅できないことが、現実となってくる。夕食が、遅くなって申し訳ないと思いながら、帰ってくると、ビールを飲みながらテレビを見ている夫がいる。今朝、朝食を片付けないで、慌てて出かけたのは知っているのだし、最低でもテーブルの上からカップやお皿を流しに運ぶことぐらいできただろうに、お風呂を沸かすことだってできただろうにと、思ってみたものの、初めのころは、まあこれが男なのだろうと理解しようとしていた。何しろ実家の祖父(母親の父親)は、将にそういう男である。子どものころからずっと見てきた光景である。しかし、決定的に違っていたのは実家の祖母は専業主婦として家にずっといたことだった。その実家の状況とは違って、母親としては、自分だって同じように働いているではないかということだった。そのためにどうしても愚痴がでる。
狡猾な人間はどこにでもいるものである。母親は、クラスの生徒のことで、別の教師に助けてもらったことがあった。教師同士、お互い様なのであるが、まだ、若い母親には、ありがたいと思う素直な気持ちが残っていた。そういった教師に、食事でもどうかと誘われると実家から通っていたときには、決して、二つ返事で応えたことがなかったのだが・・・。結婚してからは、逆に、自分は人妻なのだといった事実が、独身の時とは違って、気持ちが楽になっていた。今日は外で夕食を済ませて欲しいと、夫に一言断わっておけばよかった。そういった、食事の席では、何しろやさしく接してもらえるし、ビールを片手にテレビを見ている夫と比べることになってしまう。別れ際に、またねといって軽く握ってくれた手の温もりも愛おしく感じてしまう。今の結婚生活を疎ましく思ってしまう。こんなはずじゃあなかったのに。
とはいえ、新婚生活を送っているのだという気持ちだけは持っていた。そのために、朝食だけは、欠かさず作ってきた。スクランブルエッグに卵の殻が入ってしまっていたようだ。そのために一悶着起こしてしまった。そして、捨て台詞をはいてしまった。
「もう朝食は作りません」
おそらく、その頃には、妊娠していたようだ。新居に二人だけになると毎晩のように抱き合っていたものだった。そういえば、最近は抱いてもらっていない。
手のぬくもりに愛おしさを感じた狡猾な教師から誘われると最後の一線を越えてしまうのに長くは掛からなかった。夫よりも優しくて抱いてくれるし、扱い方に慣れているのか気持ちもずっといい。女の悦びを知るまでになった。しかし、甘い夢から目を覚まさせた。妊娠の事実は現実に引き戻してくれたが、もう、後戻りできない状況になっていた。不倫のうわさは、夫の耳にまで届いていた。
実際に夫婦の子であることは間違いないのだが、父親にすれば、何をいまさらといった気持ちだった。そうして、結局は離婚することになったのだが、生まれたわたしをどうするかということで一悶着あった。男の子が生まれたなら、母親の両親が面倒みようという話だったが、いかんせん、女の子だった。結局は父親が引き取ることになった。言い忘れたが、私には祖父に当たる父親の父親は、そのときには既に亡くなっていた。祖父がいれば、多少は違っていたかもしれない。
生まれて、半年までは、実家に帰った母親の元で育てられた。正式に離婚の手続きが行われた時点で、父親は親権を押し付けられて、それと同時に、わたしは祖母の許に行くことになった。その当時は、父親も一緒に住んでいたから三人だったが、しばらくして、祖母と二人での生活が始まった。
祖母との暮らし
離婚に際して、両親はお互いに親権を放棄しようとした。父親にすると不倫相手の子どもではないかという疑心暗鬼である。一般的には、親権を争うのが普通であるが、二人共に自らの生活をするのに手いっぱいで、子どもはいわゆる邪魔な存在だった。結局は、父親が引き取ることになったが、現実には、父親の母親、すなわち祖母に預けられることになる。離婚後は、三人での生活になる。一方、母親は、離婚後、しばらくして、もちろん半年以上であるが、再婚した。初めから婿養子として、両親の家に迎え入れるかたちで二度目の新婚生活を始めた。それを待っていたように父親も別の教師と再婚して、新居に出て行った。わたしを引き取って育てないということが相手との条件だったようだ。この時から祖母との二人っきりの生活が始まった。まだ、1歳を少し出たぐらいで、この頃のことは何も覚えていない。
物心ついたころに、実の母親に会いたくなったことがあった。しかし、祖母の反対で、実現しなかった。それからは、母親のことは気にしながらもやってきたが、中学のときに祖母にも父親にも内緒で、母親に会いに行ったことがある。多少は、期待していたのだが、はっきりと縁を切ったと面と向かって言われたときには、頭が真っ白になった。実の母親からのこれ以上ない屈辱だった。もうそれからは、自分には母親はいないものだと言い聞かせてきた。
祖母と二人きりの生活ではあったが、何不自由なく、育てられた。4歳から幼稚園に行くようになり、祖母と二人の生活はみんなとは違っていると思うようになった。その頃だと思うが、親戚の法事に連れて行かれたのを覚えている。そのときに同じくらいの女の子が、その法事に来ていた。その法事はその子の祖父の法事だった。わたしの祖母の妹の旦那さんだということが後で分かった。その子の名前は絵梨奈ちゃんといい、子ども心にも垢抜けた名前だと思った。その法事は絵梨奈ちゃんの父親が喪主を務めていた。その家の目と鼻の先に保育園があり、その園庭で絵梨奈ちゃんと一緒に遊んだ。初めの内は、お互いにぎこちなかったが、直ぐに仲良くなって、本当に楽しい時間を過ごした。帰るときには、別れたくなくて少しべそをかいてしまった。祖母とわたしとを送り迎えしてくれた男の人は、たまに家に来ることがあるが、そのとき初めて、この人が父親なのだということが分かった。それほどに父親もわたしを避けていたようだ。
祖母と二人の生活は、普通ではないとそのときも実感した。両親はどうなったのか、このときから疑問に思い出した。父親は、たまに訪ねてくる人だと分かったが、一緒に住もうという話はなかった。この父親も、母親と同じ頃に再婚し、既に二人の子どもができていた。わたしの入り込む余地は残されていなかった。
小学校に入って、陰口はたたかれていたのかもしれないが、表立って、いじめられたということはなかった。祖母は、70歳を過ぎていたが、まだ元気がよかったので、学校の勉強をよく見てくれた。それもあるが、勉強そのものが好きで、身を入れてやることができた。成績は、いつも上位で、祖母を安心させていた。
中学になっても、初めのうちは、特に問題はなかった。わたしの成績は中学になってもトップクラスだった。クラスのみんなからは、慕われて、憧れの的だったように思う。夏休みには祖母の実家に一週間ほど行くのが慣わしだったが、この年以降、行かなくなってしまった。祖母も傘寿になり、体力が衰えてきたのは明らかだったが、梅雨明けの頃から、夏風邪を引いてしまい、寝込むことが多かった。風邪が治ってからも以前のような活力が感じられなくなってしまった。そのために、どこにも出かけない夏休みを恨めしく思っていた。登校日に、倉敷チボリ公園に出かけようと相談している4人のグループがあった。わたしも入れて欲しいと一言言えば、二つ返事で了解してもらえた。何しろ、どのグループも和恵が入ってくれることを心待ちにしていた。
当日はいい天気で、外で遊ぶにはもってこいの一日だった。朝早くから起きだして、お弁当を作った。不恰好のおにぎりは愛嬌があった。アンデルセンの銅像や有名な話に出てくる人魚姫も和恵たちの楽しい一日を見守ってくれていた。昼食時に、その不恰好なおにぎりを自分で作ったものだと言うことは、別に隠しておくことではなかった。他の4人は、母親に作ってもらった女の子のお弁当にふさわしいものだった。そんなやり取りで、和恵には母親も父親も離婚していないことがみんなの記憶として残ることになった。
一通り、園内のアトラクションを体験して、一息ついたのは、3時ごろだった。これからなにをして遊ぼうかという話になったときに意見が2つに分かれてしまった。和恵が賛成したほうが、優位に立つことになるが、このグループに入れてもらったばかりだし、和恵の意見でみんなの行動を決めることなどできるわけがなかった。和恵に対して『はっきり言いなさいよ』、『もじもじするんじゃないよ』、『いい子ぶるんじゃないよ』などというような罵声が浴びせられたが、結局判断を下せず、決着がつかなかった。そのために2人ずつでやりたいことをして、和恵は一人取り残されてしまった。そんなことがあって、夏休み明けから、そのグループからシカトされるようになってしまった。そうなると両親がいないことも悪い情報として、クラスのみんなに流布されることになった。4人からだけのシカトではすまされなくなり、表立って、揶揄されることはなかったが、いたたまれない状況になってしまった。そうなると体調自体もおかしくなり、目が覚めて、お腹が痛くて休むことも増えてきた。祖母も気遣ってくれて、原因のわからない重篤な病気が潜んでいるのではないかと心配もしてくれた。気の持ちようと簡単に済ますことではなかった。2学期はそれでも半分以上は出席していたが、習ったことが身につかないのは歴然としていた。トップクラスだった成績が、10番目ぐらいまで下がってしまった。原因がクラスのみんなからの疎外によるものだと分かったのは、冬休みに入ってからだった。学校に行かなくてもいい長期休みに入ったのだと思うとお腹の痛みも自然と消えていた。3学期の始業式には、気持ちを引き締めて、登校したが、みんなの視線だけで、お腹が痛くなるのが分かった。クラスにいること事態が、体調を崩すようになっていた。祖母の手前、がんばって通おうと仕向けていたが、出席日数は、半分ほどになってしまった。成績は、何とか上位にとどまっていた。
2年に上がるときにクラス分けは行われたが、学年で3クラスしかない状態では、それほど大きな変化は望めなかった。例の4人は、全員同じクラスになってしまった。このことはショックだった。それでも、新学期には気持ちを入れ替えて、登校した。最初の週は、何も起こらなかった。翌週の月曜日には、上履きの中に泥水が入れられていた。取り出そうとしたときに制服を少し汚してしまった。直ぐに洗って、そのまま履いた。濡れていたので、気持ちが悪かったが、平然としていた。そうした毅然とした態度が、いじめを止めさせるにはいいかもしれないと漠然と思っていた。しかし、そうはならなかった。徐々にエスカレートしてくるようになった。そうなると勉強どころではなかった。それでも、1学期の成績は、中のレベルで留まっていた。
祖母の体調がますます悪くなり、ほとんど寝たきり状態になったのは、夏休みになる一週間ほど前だった。家のことは、自分一人で行わなくてはならなかった。その上に、祖母の世話もしなくてはならなくなった。祖母は、その状況を父親に伝えたようだったが、今の生活で手いっぱいのようで、捨て置かれた。こちらまで手が回らないようだった。そのために月に一度きりの訪問のままだった。
二学期の始業式が二日後の迫っているときに祖母は他界した83歳だった。祖母の告別式に、ひょっとして子どもの時にうっすらと記憶のある絵梨奈ちゃんに逢えるのではないかと期待していたが、絵梨奈ちゃんの祖母(すなわち祖母の妹)とお父さんはやってきたが、絵梨奈ちゃんには逢えなかった。そのお父さんは、わたしのことを覚えてくれていて、何かと話しかけてくれた。嬉しかったが、どうせすぐ帰ってしまう人なんだと思うとあまりいい受け応えはできなかった。
純一の生い立ち
30歳の大台にあと2年でなるので、和恵とはちょうど10歳の開きがある。純一の28年間を垣間見ることにする。
あの事故が起きるまでは、近所の人たちから羨まれる家族だった。純一の父親は、子どものころから料理人になることを自分の運命と感じていたようで、小さな時分から近所の女の子に交じってままごと遊びに興味を持っていた。料理の絵本を欲しがり、他の子どものようにスポーツ選手にあこがれるようなこともなかった。外食に連れて行くと料理そのものよりも厨房で働いている料理人に興味を持っていた。中学まで、成長に応じた料理本で習得した基本的な知識は身に着け、弟子入り先を探し求めて、さっさと弟子入りしてしまった。それも両親に相談もなく、自分自身で決めてきた。ここで、高校に行かせたかった両親と確執が生じる。両親にすれば、子どもに対しての将来のビジョンもあったようだが、蔑ろにされた格好になり、さっさと家を出て行ってしまったのに愕然とした。家に戻ってくるように再三の働きかけはあったが、自分で決めた道を歩むことを頑なに守った。基本的な知識は習得していた上に、手先も器用なこともあり、食器洗いや水汲みなどの雑用のほかに料理の下準備なども直ぐにやらせてもらえるようになり、20歳になるころには、一人前の料理人と認められるようになった。本場、パリの三ツ星レストランにも半年間の修行に行かされるなどめきめきと頭角を現した。ただ、残念なことに両親との確執は解けず、弟子入り後、一年も経つと行き来が途絶えてしまい、それっきりだった。
27歳の時に、ひいきにしてもらっていた顧客の御嬢さんと結婚し、30歳の時に純一をもうけると同時に、義理の両親からの援助もあり、地方都市ではあるが、店を構えることになる。35歳のときには、店を3軒に増やすとともに立派な新居を構えることができた。
それから2年、親子3人の幸せな生活を営むことができた。4月から小学生になる純一を残して、その年の2月14日のバレンタインデーのイベントに夫妻で参加し、その帰途に大型ダンプカーと衝突して、二人とも帰らぬ人になった。幸せな家族の生活が一転した。母方の祖父母が純一を引き取って面倒を見ていたが、半年もたたないうちに祖母が亡くなり、そのひと月の後に祖父も亡くなった。小学校一年生になったばかりの純一は、身寄りをなくし、養護施設に入ることになってしまった。
養護施設では、純一はおとなしく過ごすことになるのだが、年の割に背丈が大きかったので先輩たちにからかわれることになる。集団生活において、みんなが平等というのは、難しいことである。どうしても、権力を持っている人間を頂点にして、ヒエラルキーが築かれる。この施設もガキ大将の勉を頂点にしたヒエラルキーがあった。新参者は、それに組み入れられるべく試練を受けることになる。体格が大きいので、一目置かれていたのだが、話してみると気弱そうで、すぐに勉のからかいに屈することになった。勉が中学を卒業して、この施設を出ていくまで鬱屈したヒエラルキーの下部に傅かされた状況は変わらなかった。小学校4年になっていた。その間ずっと、頼りになるというか、ずっと見守ってくれている女の子がいた。純一よりも4歳年上で勉より1歳下だった。勉にはよくからかわれたが、必ず、この真由美が勉の言うことは気にしなくてもいいからといつも庇い立てしてくれた。この施設でよかったことは、真由美と仲良くなったことだけだった。勉がいなくなると、2番目に位置していた貴が頂点に立ったが、真由美と同級であり、今までのやり方に批判的だったこともあり、施設では珍しいようにみんな平等で、平和な1年間だった。陰で、真由美が目を光らせていたこともあり、今までのようなやり方ができなかったのかもしれない。
その1年が終わると小学校6年の弘が頂点に立った。中学生の先輩たちを押さえつけるだけの腕力と発言力があった。その後の4年間は、以前の勉の時と同じ状態に戻ってしまった。貴の仕切っていた状態を懐かしんでいる暇はなかった。何かにつけて、弘は、純一のことを目の敵にして、ちょっかいをかけてきた。弘が施設を出ていくまで悲惨な状況は続くことになった。中学3年の一年間は、純一自身が頂点に立ったというより立たされた。そのために暴力で統率する必要はなかった。すべてを自主性に任せたが、唯一、小学5年の進が、仲間作りで次期の頂点に立とうとしているのがわかっていたが、自分が出た後ではどうしようもないと思った。
真由美は中学を卒業すると同時に、美容院の見習いとして住み込みで働くことになったが、根が真面目だし、飲み込みも早く、人当たりもよかったので、早いうちから実務をやらせてもらえるようになった。初めのうちは、休みの日もマネキン相手に技術の習得に励んで、どこかに遊びに行くような時間はなかったが、それでも施設に残した純一のことはことあるごとに気になっていた。
小学1年生で入所してきた当初から可愛がって、まるで姉弟のようだといわれていた。3か月に一度は施設を訪ねて、純一の様子を見に来ていた。純一が中学生になってからは、純一の方からたまに訪ねて、遊園地に出かけたり、夕食をごちそうしたりと姉弟のきずなは一層強まっていった。
純一が、施設を出るに際して、製材所に仕事を見つけたのも真由美だし、6畳一間の狭いアパートだが、当面は一緒に住むことにした。純一が、仕事にも慣れ、軌道に乗った半年後に6畳と4畳半の二間のアパートに引っ越すことができた。いくら姉弟と世間からそのように思われていても所詮は他人同士である。このことは純一の方から言い出したことだった。一間だと、どうしても着替えの時などに不都合が生じる。真由美のことが、どうのというのではなく、一般的に女性に興味を持つ年頃になっていた純一は、ある夜、夢精をしてしまった。朝起きて、それに気づいた純一は、下着を洗いながら二部屋は必要だと考えたのだった。もちろん、大人になって、真由美さえよかったら結婚してもいいとは漠然と考えてもいた。
そんな仲のいい姉弟の生活は順調にそして充実した生活を送っていた。お互いに肉親のない二人にとって自他ともに認める姉弟として、何不自由なく楽しい日々を送ることができた。製材所の社長は、その地域の世話役で人格的にも優れており、純一のような孤児を何人も雇い入れていた。ただ、そういった孤児は、育った環境がやはり普通でないというか、愛情に飢えている反面、我が強く、少しでも気に障るようなことがあると仕事を休むことになり、そのまま、音信不通になることもままあるのだが、この社長は、保護司も引き受けており、保護観察処分を受けた若者も面倒を親身にみており、骨身を惜しむことなく、そういった兆候があると足しげく住居に通ったり、不在の場合には、立ち寄りそうな遊楽街にも足を運んだりすることもまめで、この親身な対応で、悪に染まらないで、立ち直った人間は数多くいた。また、保護観察官からも信頼を得ていた。
純一の仕事ぶりは申し分なかった。まず、挨拶が元気よくできた。孤独な生活を子どものころから送っていると挨拶がロクにできない。これには、真由美の影響が大きいだろうと社長は思っていた。初めて、真由美に会った時のことをはっきり覚えている。施設を育つ純一を本当に心配して、ここで働かせてほしいとやってきた時である。他人に対して、まだ、二十歳そこそこ真由美が、私が自信を持って薦められる人柄だからと純一を推したのである。当人に会う前から純一を雇うことにはすでに決めていた。それは、この真由美の言葉だった。現実に、純一本人に会った時の印象は、挨拶はともかく、大柄なのだということとその割には、少し控えめな態度と謙虚な人柄が申し分なかった。
学問は身に着けておくことで、邪魔になることはないと定時制に通うことも素直に受け入れた。職場に教科書を持ってくるようなこともなく、仕事と学業は全く切り離して、対処していたことは、社長の考えの上を行っていると思った。授業があるのに、残業が急に入っても業務の方を優先してくれた。したがって、学業が多少おろそかになっても致し方ないと思っていたが、休みの日や仕事の後、時間があると予習復習をしっかりやっていたそうだ。真由美との二人の生活でも、家事にも協力しているようだった。
純一が18になった年に大きな事件が起こった。真由美の帰宅が、連絡もなく、遅かったことがある。その上に、足に怪我をしていた上にブラウスがふつうではない破れ方をしていた。真由美の説明によると、ふらついて転んだ時に木の枝にひっかけたということだった。その日から帰宅時間が20分から30分ほどいつもより遅くなりだした。後でわかったことであるが、この時からお客の一人が真由美をつけまわすようになったのだった。いわゆるストーカーである。そのためにまっすぐにアパートに帰ってくる道を避けて遠回りして帰宅していたために普段より遅くなったのだった。
ストーカー行為は、これも精神的な異常の部類に入るのだろうが、拒まれれば拒まれるほどにエスカレートして行くようである。10時過ぎに学校から帰ってきたが、まだ真由美は帰っていなかった。残業があるなら、出がけに言い置いていくはずなのにおかしいと思いはしたが、それ以上に、空腹で帰ってくるだろうからと夕食の準備を始めていた。しばらくして帰ってきた真由美は、悲惨な状態だった。まず顔であるが、左の頬からまぶたにかけて、腫れていた。左わき腹を痛そうにしていたので、確かめたが、内出血しているようで青あざになろうとしていた。すぐに社長に連絡を取ると救急車を手配してくれて、ともかく病院に連れて行くことにしたが、そこにはすでに社長が待っていてくれた。純一には、真由美は何が起こったのか話してくれなかった。やはり肋骨が二本折れているが、特に安静にしていれば、いいということだったが、一晩入院する方がいいと社長の指示に従った。純一は部屋から出されて、真由美はその日の出来事を社長には話したようだった。前に、けがを負わされたのと同じ相手だった。仕事の片付けで少し遅くなったものだからまっすぐにアパートに帰ってくる道をとってしまった。その途中で、見つかり連れて行かれそうになるのを必死で拒み、しばらくもみ合っていたが、業を煮やして、平手で顔思いっきり殴り、その反動で倒れた真由美を足蹴にした。警察の事情聴取にも応じて、接近禁止命令を出してもらえた。実際に、こういった怪我がないと警察は動いてくれないようだ。
それからしばらくは、平穏な日々を迎えることができたが、怪我もすっかり良くなって普通の生活に戻っていた。もう帰ってくる頃だろうと思っていた時に、アパートの大家さんが、真由美が近くの公園で、その男につかまりそうだと電話があったと伝えてきた。純一が公園に駆け付けた時には、その男は、真由美の腕をつかんで、連れて行こうとしていた。もみ合っているところへ純一の首筋への一撃は効いたようで、怯んで倒れ込んだ。そのタイミングで、足蹴にした。どのくらい蹴っていたか、わからない。二人の警察官に両肩を抑えられて、我に返った。
その男は、すぐに病院に運ばれたが、二日後に内臓破裂と診断されて、亡くなった。三月前に、真由美がけがをしたことや接近禁止命令が出ていたことも考慮されたが、正当防衛は認められるものの、死に至らしめるほどに危害を加えたということで、過剰防衛の適用も検討された。純一にしたら、真由美の傷害に対しての怒りで、後先考えない暴力行為だった。少なくとも警察官に止められて、大けがにしてもまだ意識があって、二日間でしかなかったが、生存していたことも事実であるが、死に至らしめた原因は純一の暴力行為以外にはないことは明白だった。いくつかの情状酌量、真由美への傷害行為や接近禁止命令違反、純一にも相手を傷つけようと武器等を持っていたわけでなく、全くの素手だったこと、厳密には足で蹴ったわけであるが、それに真由美は警察にも通報し、警察官の到着がもっと早ければ、こういった事態も未然に防げただろうということなどである。しかし、純一の暴力行為で死に至らしめたという事実も重大であることは否めなかった。
純一は18歳の未成年であるが、最近は、こういった未成年に対しても大人と同等に扱い裁判にかけられることもある。だが、純一の態度は落ち着いて、質問への受け答えも真摯な態度だし、しっかりと挨拶ができるところも心象はよかった。ただ、育ちが施設だということは唯一のマイナス材料だった。結果として、家庭裁判所に回され、不定期刑で目安として3年の少年院送りということで決着した。
真由美は、純一が少年院に送られることになってしまった事実を悔みに悔やんでいたが、時間ができれば、少年院を訪ねて、純一に面会していた。純一が少年院に入ることになったのは、専ら自分のせいだと製材所の社長にも胸の内を語っていた。社長は、真由美のことも気にかけながら、純一のためにもしっかりと自分自身を見失わないように諭していた。
それから1年が過ぎたころには、純一の態度は申し分ないということで、来月には出られることになった。社長は、すでに保護司の資格も持ち、すぐさま純一の保護司を申し出て、保護観察官も問題なく受け入れてくれた。社長は、真由美に対しても来月には今までのような生活に戻れるので、よかったと話し合っていた。ところが、翌日に純一が出所するので一緒に迎えに行こうと約束していたが、当日、真由美を迎えに行っても不在のようで、先に一人で迎えに行ったのだろうと気楽に考えていた。少年院に着いても真由美の姿はなかった。純一も真由美のことを訝しく思っていたようだが、まずは、社長宅にてささやかながらの祝いを行った。真由美のことはみんな心配していたが、行方が分からなかった。
純一がアパートに帰ってみると真由美は遺書を残して、鴨居に首を掛けて自殺していた。遺書には自分のせいで、純一を少年院送りにしてしまった。その罪を償いたいというような内容だった。
社長の家に走り、ことの経緯を伝えた。すぐに、警察や関係機関に連絡して、社長も事情聴取に応じ、昨日は、純一を一緒に迎えに行こうと約束していたこと、今朝迎えに行っても留守だったこと、ただ、この時にはすでに死亡していたことも判明した。
これ以来、純一は、魂が抜けてしまったようになり、今まで元気のよい挨拶をしていたが、問いかけにもほとんど応じないような状況になってしまった。遅刻も普通になり、仕事にも身が入らなくなってしまった。真由美の死は大きな打撃になったのは、理解できたので、しばらくは、何も言いださなかった。49日も過ぎて、学校にも行くようにして、前のような生活に戻ろうと諭すことになった。
「真由美姉さんが、いなくなって、何事もやる気がありません」
「それはそうかもしれないし、純一君の気持ちもよくわかる。でもどうして、真由美さんはあのようになってしまったのだろうね。真由美さんのことは、割り切って、純一君の人生をしっかり歩んでいこうではないか」
「自分の人生の大半が真由美姉さんとの生活でした。施設で除け者にされていた自分を可愛がってくれたので、今の自分があります。それが、あのようなことになってしまって・・・。あの事件にしても真由美姉さんのためにと思って、やってしまったことです。それが、姉さんの重荷になっていたとは、想像もできませんでした」
「純一君のいう通りだと、よくわかっている。でも、昔のことを引きずるのは止めよう。将来のことに重点を置くべきだと思わないか」
「社長のおっしゃる通りだろうと思います。いまだに、姉さんとの二人の生活を夢見ている自分がいます。本当に楽しかった。それに、どうして、自分のせいだということで死ななければいけなかったのかいまだにわかりません」
「そういわれると、真由美さんの状態がそこまで緊迫していたのか、全く理解できない。確かに、純一君が院に入ってしまうようなことをさせてしまったことを悔んでいたが、そこまで自分を追い詰めていたとは思えなかった。いつものように元気のいい真由美さんだったのだが、こればかりは私のせいということにもなるね」
「社長のせいだなんて・・・。わかりました。元気を出すようにします」
その後、2年半ほど何事もなく、ほどほどの生活態度で、以前ほどの活発さはないものの素直な純一だった。歳は22になっていた。ただ、学校へは行く意味を見いだせないと渋っていた。彼女でもできれば、真由美のことも忘れられるかもしれないと静かに見守っておくしかなかった。普通の生活では、学校へ行かない点が違っているだけで、以前と同じようなものになっていると思えていた。
買い物に行かせた帰りだった。渋っている女性を無理やり店に連れ込もうとしている男に、正義感から注意に入った。このことは、以前の純一に戻るきっかけになろうとしているかに見えて好ましい状況であったかもしれない。純一の右の一撃が、男の左の顎骨を骨折させることになってしまった。3か月の重傷だった。単純な傷害事件で済みそうな内容だったのだが、女性の証言が曖昧でというか、その男とは友人同士であった関係で、事実とは異なる証言をはじめのころにはしていた。第三者の証人が現われて、純一が助けに入ったのだという事実が立証されることになる。それまでの間、純一が傷害致死で少年院に行っていたという過去のことも明らかになり、裁判員の心証を悪い方向にバイアスをかけてしまった。罰金刑で終わりそうに見えていたが、1年半の実刑が言い渡された。控訴するように弁護士から言われていたが、純一にその意思が全くなかった。どうせ、真由美のいない状況なら自分はどうなってもいい。純一は自暴自棄になっていた。
この時にも早々に仮釈放が認められて、社長の元に帰ってきた。生気の抜けた状態で、塀の中での生活態度と変わらないようだった。いつも俯き加減で、挨拶もしなくなっていた。仕事への取り組みは、言われたことだけはきちんとこなしていたが、それ以上のことはしなかった。しばらくは、それでもいいと思っていた。
会社の休みの日もぼんやり部屋で、何をするともなく過ごしている純一に、今上映中の映画のチケットがあるから行って来いと渡したことが、またしても傷害事件に発展するとは思いもよらなかった。この時は見ず知らずの女性を強引にお店に引きずり込もうとしている男に出会った。一瞬、前回と同じことになりそうな予感が走ったが、口をふさがれ助けを呼ぶことのできないその女性の目は助けてほしいと訴えていた。そこまで、確信すると助けに向かわざるを得ない気持ちになる。純一の一撃は、男の鼻を無様にへこませることになってしまう。3か月の重傷である。女性は、自分を助け出してくれたとしきりに正当防衛を訴えてくれたが、仮釈放中の純一には、重いさばきが待っていた。懲役2年と仮釈放中の残りの1年と合わせて、3年の刑期になった。ただ、純一は獄中では、更生意志や生活態度は申し分なく、1年で仮釈放が許される。
ところが、仮釈放後一月も経たないうちにまたしても傷害事件を起こしてしまう。この時は、かつての真由美が受けたような被害を目の当たりにして、純一の正義感が捨ておかなかった。すでに、暴行を受けていた女性は、左の頬が腫れあがり、腹部にも傷害を受けているようだった。真由美と同じような傷をすでに受けていた。その男への一撃は、後頭部へのものだった。後でわかったことだが、頸部への損傷で、素手で殴った程度では、普通問題ない状態であろうが、過去に自動車事故の後遺症があり、2週間後に死亡してしまった。傷害致死にあたるのかが、争点になった。この事件の時には、大勢の目撃者がいるにもかかわらず、警察への通報さえも純一の一撃後だった。もっと早くに、止めに入っていれば、女性の傷害の度合いは違っていただろうということだった。この女性は、顔面の傷は、醜い傷跡として残るが、問題は、腹部の症状だった。内臓への損傷は、腎臓の片方を潰れるほどに破損し、脾臓も一歩手前までの損傷を受けていた。もう少し純一の介在が遅れていれば、この女性は死んでいたかもしれない。すぐに病院に運ばれ、開腹手術で片方の腎臓を摘出し、一命を取り留めることができた。
人命救助か傷害致死か。ここでも仮釈放中だったことが、判断に大きな影響を与えた。一命を取り留めた女性は、3か月に渡って入院していた。その両親が、純一に対して嘆願書を集めたものの懲役3年(合わせると5年になる)の判決が出た。ここでも、控訴するように弁護士から強い要請があったが、純一は頑なに拒んだ。純一にとってみれば、女性が一命を取り留めたという事実だけで満足だった。この時、25歳になろうとしていた。2度の傷害致死と顎骨、鼻骨の骨折による重症の傷害の2件、都合4度の傷害事件を起こしてしまった。
今度の入監は、少し長かったが、それでも2年目には仮釈放された。27歳になっていた。一命を取り止めた女性が、退院後両親と伴に面会に来てくれたことはうれしかった。左頬に悲惨な傷跡が認められたが、外見よりも内臓系の損傷で、脾臓などは通常の60%ぐらいしか機能していないということだった。それよりも寸前のところで、純一の勇気がなければ、生きていなかったと思うといって、純一の獄中の姿を見るのは、とてもつらいと言って涙を流したことは、純一に真由美が亡くなったことに対する一つの釈明になったような気がした。しかし、やはりなぜ、真由美は自ら命を絶たねばならなかったのか、いまだに残る疑問である。
社長は、保護司としての立場もしっかり務めているが、純一に対しては、真由美のことが精神的にも大きく影響しているのを知っているので、あまり強く言わないし、それ以上に、日ごろの純一は、そんな犯罪者と言われるような生活態度ではないし、むしろ以前のように元気に挨拶をしてくれるようになればと思っていた。
そんな心配事が、霧が晴れるように引いて行ったのは、たわいもない出来事からだった。純一以外にも何人も面倒を見ていたが、その中の一人に犯罪などしそうにない気の弱そうな少年がいた。傷害致死ではあるが、長い間、いじめに苦しんでいた。事件があった日も、死亡した少年から万引きをするように命じられ、まんまとゲームの攻略本をせしめて店を出たが、店員に追いかけられて、逃げおおせたのだが、その時に命じた少年は、石に躓いて転んでしまった。これをチャンスととらえて、転がっていた石をもって、その少年の頭を何度も殴って、死亡させてしまった。長年のいじめから精神的にも追いつめられていた少年は、日ごろから恐怖心で鬱病になっていたと後になって判明した。そういう状況に中で、その少年の心をいつも抑圧している対象が、転んだタイミングで、抑圧している対象を拭い去るには、こうするしかないと石をもって頭を殴り続けた。精神障害を考慮した上で、家庭裁判所に送致され、保護処分かどうかの審議があったが、すでに死亡しているにもかかわらず、殴り続けた行為を明らかな犯罪行為として少年院に送られることになった。しかし、生活態度にしろ、犯罪を悔いている点や鬱病気味な点も含めて、一月ほどの収監で、保護処分となった。社長が保護司として面倒を見ることになったのだが、話を聞くうちに、長年のいじめから恐怖心がつのりそれが、鬱病へと進行していったのであろうとの結論を得た。これを真由美に当てはめるとどうなるのか、10年近い歳月を経ているが、純一には思い出させて悪いが、いや、その原因を究明するためにも思い出してもらってはっきりさせた方が、むしろ好ましいだろうと思えた。
休みの日の昼下がりに、純一を呼んで話してみることにした。
「思い出させて悪いが、真由美さんが初めて怪我をして帰ってきてからどうだったのか思い出してみようか?」
「あの怪我さえなければ、真由美姉さんは、いつも通り元気だったのに・・・」
「怪我をさせられてから気持ちもふさぎ込むようになったということかな?我々には普段通りの真由美さんだったように思うのだが・・・」
「あの日から仕事で美容院に行く以外、買い物さえも僕が行っていました。肋骨の怪我でイタイイタイと言っていたからそれで行かないのだろうと思っていました」
「基本的に、外に出たがらなくなったということ?」
「ここに来るのも僕と一緒に来るから大丈夫みたいなことを言っていました」
「肋骨が折れるほど暴行を受けだのだから当然のように思っていたが、ひょっとしてまたこんなに痛い目に合うのかといった恐怖心が真由美さんの心を蝕んでいったのかもしれない」
「寝ていても、うなされていることがありましたし、一緒に寝ようと誘ってくることもありました。でも、本当の姉弟ではないし、一緒の布団で寝るなんてことはできないと厳しく言ったこともありました。まだ、真由美姉さんがひとりで住んでいた前のアパートの時に着替えでさえ、裸を見るのはまずいと思っていました。ある晩に夢精をしてからというものいっそうそう感じるようになりました。確かに、精神的に参っていたのかもしれません。本当の姉弟だったらわかったのでしょうか?」
「君たちは、本当の姉弟以上だったと思う。だから、お互いに尊重しあっていた」
「姉さんは、かけがえのない人でした。大人になって、僕でよければ、結婚してもいいと思っていました。逆に、本当の姉弟でないからできるだろうと・・・」
「おそらく真由美さんは恐怖心から鬱病になっていたかもしれない。その状況で、純一君が少年院に入ることになった。それも自分のせいでというように考えるようになったのではないだろうか」
「でもどうして、その日に自殺しなくてはならなかったのだろう」
「純一君がいないときには、どうだったんだろう。毎週のように一緒に面会に行った時など気丈に振舞っていたのだが・・・。鬱病のような感じは全くなかった」
「社長と一緒の時には確かに元気でした。でも、一人で来た時には、かなり辛そうにしていました」
「自責の念に苛まれていたかもしれない。自分がもっと注意していれば、純一君がこんなことにはならなかったと」
「一人でいた時にはそんなことばかり考えていたのでしょうか?」
「もっと、真由美さんのことを気遣わなければならなかったのかもしれない。いつも気丈にしていたから、そんな風にはみじんも思わなかった。確かに、純一君がいなくなり、一人っきりでさみしい思いをしていたのだろう。君たち二人でお互いに支えあってきたのだろうから。その辺をもっと深刻に考えてやるべきだった」
「社長には、私たちは十二分にお世話になっています。姉さんがそんな風に考えていたとは思いもしませんでした」
「純一君は、これからは真由美さんの分も生きていかなくてはならないよ」
「そうですね。姉がなぜ亡くなったのかわかったような気がします。そう思ったら、学校に行きたくなりました。いいですか?」
「いいも悪いもないよ。ぜひ、行くように。期待しているよ」
「ありがとうございます」
真由美さんは、自分が遭遇したストーカー被害で、純一君の一生を少年院送致ということで台無しにしてしまったと思っていたのかもしれない。そのことを少しでも分かってあげて、真由美さんに寄り添って、気持ちを和らげられていたのなら、自殺にまで思い込ませるに到るようなことはなかったのではないだろうかと悔やまれて仕方ない。あまりにもわれわれに対して気丈に振舞っていたこと事態も反動としてどんどん自分を追い詰めていたのかもしれない。
以前のように、純一は徐々に元気を取り戻した。挨拶が自然とできるようになったのが改善の兆しだと思っている。学校の勉強にも身が入っている。途中で、投げ出したような格好になっていたが、すんなり継続が認められ、というか、夜間の高校に通っている人たちは、家庭の事情で純一のように通えなくなることは日常茶飯事で、復帰に際してもあまり制約はない。
高校卒業資格はその後しばらくして得ることができた。今は、大学受験、これも夜間になるが、受験勉強中である。知らないことを身に着けることが、自分自身にとって自信につながるとともに心が満たされていくように感じる。そのことで、気持ちも前向きになっていくようだ。真由美さんのことは、本当に残念だったが、ずっと心の片隅にしまっておくことにした。
居候生活
わたしが、純一さんのところにいて、世話をしてあげようという気持ちになったのは、今までの自分にとってみれば不思議な感覚だった。恋愛感情なのかもしれないが、単にそばにいるだけでいい、この人のために何かしてあげたいという気持ちだった。純一さんが望むのであれば、体だって差し出してもいいが、そんな風にはみじんも感じられない。ちょっぴりさみしいようにも思う。純一さんは小さい時に両親を事故で亡くして、施設に入っていたことを聞いた。施設では、義務教育までで、その後は今の製材所に勤めながら高校卒業の資格を得て、目下大学受験中だという。少年院や刑務所に入っていたことも聞いた。でも、どの事件も純一さんが罰せられなくてはならなかったのか腑に落ちない。ただ、人を死に至らしめたことは、まちがいなく罪であるが・・・。あのサブリーダーのように、すぐに逃げ出すような相手ならそうはならなかっただろう。頼りがいのあるいい青年だし、そんなところに入るような人間ではない。それ以上に、少年院に行かせたのは、自分のせいだといって、自殺してしまった真由美さんの気持ちとそれに対する純一さんの気持ちは、大変なことだったのだろうとしか理解できなかった。
自分の生い立ちも純一さんに話すことになった。両親からの愛情を受けて育っていない点には憤慨していた。それも現に生存しているというのに。ただ、身寄りがないというのではなく、少なくとも祖母がいて面倒を見てくれて、ここまで大きくなった。その祖母に対して感謝しなくてはいけないというのだ。純一さんが言うことは素直に納得することができた。さらに、勉強をすることは自分自身のためであり、知識を身に着けることは、心が元気になるというのだ。今までの怠惰というか投げ遣りの生活を一転させて、かつて通っていた夜間の高校に通うように勧めるとともに、自分の生活は自分で賄う必要があるといって、社長の伝で、製材所の近くのお店で、手伝いをするように手配してくれた。このお店は、中華料理屋で、夫婦二人で切り盛りしていて、昼食時にはてんてこ舞いになるのだが、人を雇い入れるほどの余裕はなかった。おそらく、社長から賃金は社長の方で出すような話を取り付けていたのだろう。
一緒に住むようになって、いろんな話をしてくれるが、さらに、わたしでも納得できるように、かみ砕いて教えてくれた。まず、知識についてであるが、知らないことを知ることによって、知識は増えていくが、それでは単に物知りでしかないというのだ。あることに直面した時に、それらの知識を総動員させて、どう対処するか判断することが大切であり、これを見識という。さらに、その判断を実行に移すことがもっと重要である。思っていただけでは何も起こらないし、伝わらない。見識による判断に基づいて、決断し実行する。これを胆識という。純一自身もまだまだ、知識そのものを集めているレベルでしかないが、胆識に近づきたいと思っていると目を輝かして話した。また、別の時には、挨拶の大切さを話したり、呼ばれた時には返事をすることや出したものは片づけたり開けたドアはしっかり締めることも、この社会に生きている以上必要なことだといったことも話した。あるときには、「時間、空間、人間」についての話もあった。時間とは、簡単に言えば、時間を守ることで、少し大きなことになるが、自分自身の時間的な計画を立ててそれを進めることだといった。
「そんなの無理だし、訳が分からないよ」
「森羅万象、生きとし生けるものは必ず死ぬ。それまでの自分の目標のようなものを建てることでもいい」
「わかんないよ。今死んじゃっていいよ。どうせ邪魔者なんだから」
「生き物には、みんな使命を持って生まれてきていると思う。さもなければ、生まれてくる意味がないじゃないか」
「わたしなんか、どこかで間違って生まれてきたんだよ」
「そんなことはないと思う。和恵の使命がまだわかっていないだけだよ」
そんな話になったら、純一の様子がおかしくなった。後で、その時のことを聞いたことがあった。死に至らしめた二人のことも申し訳ないと思うが、自殺した真由美のことを思い出して、身につまされたとさらりと他人事のように言った。
空間は、きれいに片づけることで、いわゆる5S「整理、整頓、清掃、清潔、躾」のことで、さらに5K「気づく人になれる、心を磨く、謙虚になれる、感動の心をはぐくむ、感動の心がめばえる」の人になるようにと言われている。人間は、人間関係を円滑にするためのもので、前にも言った挨拶をすることや返事をすることなどが相当する。
家族のことについても何度か話に出て、家族は大事だと言いながら、ちょっと言葉に詰まるようなこともたびたびあった。真由美さんの話を聞いてからは、わたしが代わってあげられたら純一さんの気持ちも軽くなるかもしれない、そうなれるようにしっかりしようと思ったりもした。しかし、この色黒のピントこない自分では、真由美さんの代わりになることなど今の自分には無理としか言えない。でも、こうして純一さんの部屋に住まわせてもらっているのは、可能性がないことでもないのではと思ったりもする。そのためにも純一さんが言うことに従うことが少しでも近づくことではないかと思えることもある。
純一さんの言葉は、ストンと落ちてきて受け止めることができた。夜間の高校に通いだしたころは、あーあ勉強かといった感じで、しぶしぶだったと思う。授業内容は、中学の下地はできていたので、問題なく理解できた。一緒に部屋にいるときには、お互いに手が空いた時には、純一はいろんな話を聞かせてくれた。そのことが、徐々に身に付きだしたのではないかと思えるようになった。すなわち、勉強に対して自ら積極的に学ぼうという気持ちに次第になりだした。それよりも何よりも、勉強そのものが面白いと感じられるようになった。小学生の時に九九をクラスの中で一番に憶えられた時のような気持ちが、思い出されてくるのだった。純一さんが受験勉強をやっているのを横目で見ながら一緒に予習復習をするようになった。
和恵の成績は試験のたびに上がっていった。そのためにクラスの中では、父親ぐらいの同級生に質問をされて、このように考えるとこれは上手く行くでしょうなどと丁寧に教えることもあった。そんな翌日には、その年上の同級生はケーキを買って来てくれることもあった。ますます、学校に通うことが楽しくなるのだった。
純一は入試試験にパスし、社長の家でお祝いのパーティーを開いてくれることになった。和恵も参加するように言われた。就職の世話をしてもらう時に会って以来2度目のことだった。
「和恵さん、いらっしゃい。なんだか以前と別人のようだよ」
「おじゃまします。わたしまでお招きいただきありがとうございます」
別人のようだという意味がすぐには分からなかったので、それについては応えなかった。
「本当に、見違えちゃったよ。目の輝きがいいね」
「そうなんですよ。和恵さんは、今のクラスで、ヒーロー、いや、ヒロインになっているようなんです」
純一が、自分のことを他の人に喋るのを初めて聞いた。純一に、さん付けで言われると自分ではないみたいだ。
「そりゃ、すごい。和恵さんは純一君と違って、頭よさそうだもの」
「そんな言い方は、しないでください」
「それより、お店の方はどうだい?」
「ご主人にも女将さんにもよくしてもらっています。単に、お料理を運ぶだけなんですが、いろんな勉強になります」
「その所をもっと聞きたいな」
純一のお祝いの食事は、みんなが集まって食事をするいつもの内容と対して変わらないようだった。その集まりの趣旨が、純一の合格を祝うためというだけのことのようで、名目は何でもいいようだった。社長夫妻は、従業員をこうして、ことあるごとに食事会を開きたがった。そのために、特別の料理を用意することもなかった。とはいっても和恵にとってみたら初めて参加する食事会で、お寿司もあればから揚げもある十分立派なものだった。社長の隣に座らされて、さっきの続きを聞きたいと話しかけてきた。
「最初、失敗したんです。無造作にお皿を持って、テーブルに置いたのですが、親指が料理に触れていたんです。たまたま、気のいいお客さんだったので、ねーちゃんの指をなめさせてもらうようだなって、言われてびっくりしました。また別の時に、お二人でいらして議論されていたんですが、その時に一方のお客さんの腕が、料理に触って、シャツを汚してしまったんです。その時もお客さんの方が、気付かなくて悪かったといってくれて、事無きを得たのですが、本当はクリーニング代とか請求されても当然だと思いました。一言、お待たせしましたと言って出せばよかったのにって」
「和恵さんの指なら舐めてもいいかも知れないね。お客さんに気を使ってもらったんだな。あそこの店は、常連さんばかりだからね。今日の料理も中華は、その店からのだよ」
お店のご主人に今日の食事会の話をしたら、中華はうちから運ぶと言っていたので知っていた。実は昨日の夕方の早い時間にみすぼらしい母子連れが来て、子どもは高校生ぐらいだが、病気でもしているように活発さがなかったのだが、ラーメンを一杯注文した。それを間違いなく奥に伝えたのに二杯のラーメンをそれもチャーシュウをたっぷり入れて、持っていくように指示された。他にお客さんがいなかったからそうしたのだろうが、テーブルに持って行ったときに一悶着あった。ご主人の気持ちもその母子連れの気持ちもわかったが、自分がどう対処したらいいのかわからなかった。結局、二杯分の代金を受け取ってしまい。ご主人に怒られて、お釣りということで、追いかけて届けたが、この時にも受け取ろうとしないので、子どもの方のポケットに無理やりに押し込んできた。このことも話した方がいいのかちょっと考えていた。
「和恵さん、どうかした?」
「昨日もちょっとした、うーん、なんていうのか、わたしが困ったことがありました」
困ったことといったので、純一がやってきた。
「困ったことがあったのなら言ってくれないと」
その時の事情を説明した。
「なるほどね。親父さんらしいな」
社長はそれ以上なにも言わなかったし、純一は何だという顔をしていた。
その日の夜は、いつものように勉強しないで、なんだか改まるように和恵を座らせた。
「社長のところで話していたことだけど、なかなか難しい話だね」
「何か言ってくれるかと思っていたのに、だんまりを決めちゃって」
「和恵とすれば、どうするのが良かったと思う?」
「それが、わかっていれば、苦労しないよ」
「まず、ご主人は知っているんだよ。あの母子連れの亡くなった旦那さんをよく知っていたんだよ。息子さんは生まれつき体が弱くて、治療費で生活が大変なんだ。本当だったら高校へ行くぐらいの年じゃないかな。働こうにも体が悪くて無理なようだよ。お母さん一人で稼いでいるんだが、旦那さんが亡くなってから働き始めたようで、なかなかいい働き口がないようなんだ。ご主人にしてみれば、昔の友人の家族なので、困っているなら無償でもいいと思っているんだよ。ところが、母親にしたら、他人にお恵みなど受けるわけにはいかないというほど気丈な人なんだよ。だから、一杯分なら支払えるとなるとやってくるんだ。社長も着るものをたまに届けているよ。その、昨日のようなことを初めての和恵が対応したので、戸惑うのもわかるよ」
「本当はどうすればよかったの?」
「人と人との付き合い方というか、関係は、なかなか難しいよ。これからもいろんなことに遭遇するだろうよ。それも知識を広げることになるだろうね」
確かに難しいと思った。ともかく今日は社長とお話しできてよかった。居候のように純一さんのアパートに押しかけて一緒に生活していることに対して何も言わないのも、私の事情を思って対応していることなのだろうか?確かに、純一さんが言うように知らないことが多すぎると思った。
そういえば、中学の時のいじめの原因となったあの場面では、自分はどのように対処すればよかったのだろうか、自分もそうしたい一方の意見に賛成すればよかったのだろうか?なるほど、人間関係は厄介だと思える。それに、知識を駆使して、判断して、実行に移す。確かに難しいことである。その前に、いろんな知識を身につけねばならない。両親は二人ともに元気にしているのに、双方から拒絶されているようなものだし、祖母も亡くなって、独りぼっちになってしまったが、純一さんがいて、社長がいて、お店の親父さんに女将さん、それにクラスメートもいる。三間の内の時間のことでさえ、いつまでにどうしようという目標、さしあたって、高校卒業資格を来年度中には取るという目標もできた。空間や人間の修行は、お店でやらしてもらっている。僻んで生活していた頃が嘘のように、荒んだ心は遠い昔のことのようだ。今では澄み渡っている。
(了)




