涙と飴と、ほんの少しの寂寥
食事の後、明日に備えて早めに寝ようという流れになり、見張りについて相談しようとしたところ「簡単な結界を張るから見張りはいらないわ」とフィーが言った。なんでも、少し練習すれば、光属性持ちなら誰でも使えるらしい。どこまで有能なんだ光魔法は…。
見張りを立てずに眠れるというのは、絶対の安全を確保しづらい旅の中では非常に有難い事だ。明かりの事と言い、フィーのおかげで旅の序盤から恵まれすぎていて、正直いつか一人旅に戻った時の事を考えるのが恐ろしい。
とはいえ、せっかくの有難い申し出を断る理由はどこにもない。甘える事にし、寝袋の中で明日の計画を立てつつ眠りに落ちた。
* * * * * *
「………、水…。」
喉の渇きを覚えて、ふっと意識が浮上した。
寝る直前までは灯っていたフィーの光魔法が消えていた為、辺りを見渡そうとしても暗すぎて見えない。真夜中だろうか。
仕方なしに手探りで己の魔法鞄を手繰り寄せ、火の魔石を取り出してほんの少しだけ魔力を込める。じわり、と手の中で魔石が仄かな熱と共に淡く光った。
魔力量が少しだけならぬるい温度にしかならない為、非常時用の手持ち照明代わりにもなる。照明とは言っても、ほんとうに少ししか光らないからあまり見えはしないが。ないよりマシ、という程度である。
魔石を持ったまま空いてる手を再度魔法鞄に突っ込み、今度はコップを取り出す。手元を照らしながら、水魔法でコップに水を入れ一口。
「冷たっ。」
寝ぼけていたせいで、ぬるめの水を入れるはずが冷え切った水を入れてしまったようだ。
飲んで再び寝るはずが、完全に目が覚めてしまった。
しかし目が覚めた事で、ある事に気付いた。
「……フィーが、いない?」
光源が手元の魔石のみの為、かなり目を凝らさないと見えなかったが、フィーが寝転がっていたはずの場所にはどれだけ見てもぺしゃんこの寝袋しかなかった。念のため少しだけ近づいて見たが、やはり彼女の姿はない。
どこか行ったのだろうか、と木々の間から外を覗いてみると、ずいぶんと明るい。今日は満月なのだろうか。よくよく目を凝らせば、開けた草原の真ん中に、ぽつんと小さい影が見える。もしかしてあれか。
魔力を切ってから石をしまい、頭の布が解けていない事を手で確認してから、木の間を抜けた。
明るさに思わず空を見上げてみると、銀色の見事な満月が星空に浮いている。息を呑むほど、美しい星月夜だ。
今までこの言葉には嫌な思い出しかなく、夜空を見上げる事は大嫌いだったが、こんなにも美しいものだったのかと認識した瞬間、少しだけ心が軽くなった気がした。
一つ息をつき、気を取り直して顔を前に向けた。先程確認した小さな影は動いていない。おそらく彼女だとは思うが、万が一もある。念の為いつでも魔法を発動できるよう右手に魔力を集めつつ、影に向かってゆっくりと歩を進めた。
「嘘つき。」
呟きが聞こえて、足を止めた。
「絶対に───と、言ったじゃない……やっぱり───、───。……嘘つきね。」
震える声は小さく、聞き取れない部分も多かったが、聞こえた声は確かに探していた彼女の声だった。近寄りがたい雰囲気を感じたが、思い切ってまた足を動かす。
嘘つき、と繰り返す彼女は草原に座り込んだまま一心に空を見ており、わずか二歩程度の間しか残していないにも関わらず、近づいた俺に気付かない。
「フィー。」
雰囲気に呑まれつつ、やっとの思いで声を出すと、はっと俺を振り返った彼女のはちみつ色の瞳から涙が零れ、頬を伝った。
「……まだ、おやすみの時間でしょう、ナハト。」
零れた涙を気にも留めず、まるで小さい子に言い聞かせるようなひどく優しい声で、彼女は言う。
「どうしてこんな所に。」
「心配をかけてしまったのなら、謝るわ。でも、今は、できれば一人にして欲しいの。」
「でも、」
「…聞き分けのない男のひとは女性に嫌われるわよ、ナハト。誰の顔も、今は見たくないの。」
ぐ、と出かけた言葉を飲み込む。ここまで拒絶されて、抗う術を俺は持っていない。
旅をしている仲ではあるが、共にした時間はまだほんの僅かで、少しばかり仲良くなった気はしても所詮はまだ彼女について何も知らない、他人だった。
口は閉じたまま、おもむろに手を動かし、ポケットを探る。指先に当たったものをつまみ出し、彼女との距離を詰める。
フィーはもう既に俺の事など見ておらず、またぼんやりと空を見つめ続けている。
「フィー。」
「ナハト、流石にしつこ……」
しゃがんで手を伸ばし、小さくしか開いていない彼女の口に無理矢理取り出したものを突っ込んだ。
「……、飴?」
「俺の事はいないものだと思っていい。」
一方的に宣言して、彼女の視界に入らないよう、背中合わせに座り込んだ。
背は触れていない。
「…ねえ。」
「………。」
フィーは多分首をこっちに向けているが、無視。宣言通り、俺はいない。空気になるのだ。
「……ねえ、ナハト。」
「………。」
背中越しに小さなため息が聞こえた。無視しろって言ったのになぁ。
「…ナハト、この飴あまり美味しくないわ。」
「え、嘘。」
あ。つい反応してしまった。
しかし美味しくないのか…オススメって言われたから買ったのに…。
フィーが苦笑したような気配がした。
「……ばかなひと。あれだけ拒絶されたら、普通は放っておくのよ。」
言葉と同時に、軽い重みがとん、と背中に乗った。
馬鹿とは心外な。そりゃあ多少強引だとは思ったけど、泣いてる女性を放っておけと言うのか。
いくら苦手意識があっても、そこではいそうですかとほっとくほど外道にはなってないつもりだ。それが仲間なら、尚更。
「わたしの旦那様もね、すこしだけばかなひとなの。」
突然、旦那さんの悪口を言い始めた。
ていうか、"も"ってやめてくれないか。この話の流れでは俺=馬鹿が前提ではないか。
「わたしは諦めてしまったの。でも、あのひとは"絶対大丈夫"だなんて、何を根拠に言ったのかしらね。」
頑なに空気を貫いている俺に折れたのか、ぽつぽつと落とされる脈絡のない言葉は独り言のようだった。
「あのひとがあまりにもしつこいから、わたしも少しだけ、前向きに考えるようにしていたの。」
"いた"と過去形になった言葉には、何か意味があるのだろうか。
フィーはそこで一度言葉を切り、黙った。
暫く黙ってから、またぽつりと言葉を落とす。
「……でも、やっぱり駄目だったわ。ほんとうに、あのひとは嘘ばかり。」
じわり、と背中に滲む体温はどちらのものか。
微かな熱と共に彼女の感情まで滲んでくるようで、ひどく苦しい。
「フィー。」
堪らなくなって、身体ごとぐるりと彼女に向き直った。
俺に体重を預けていた為に支えを失ってぐらついた彼女の肩を掴み、多少力づくでこちらを向かせる。
「…"いない"のではなかったの?」
彼女はまた苦笑する。諦めと疲れが滲んだ、暗い笑み。
「フィー、殴ろう。」
「え?」
「フィーの旦那さんを。」
「な、ナハト?」
「奥さんにそんな辛そうな顔をさせている奴なんて、旦那失格だよ。何発でも殴ってやろう。」
「あのね、」
「フィーが許可してくれるなら俺も殴るから。会うまでに殴り方を極めておくよ。」
フィーは目を真ん丸にして、ぽかんとしている。その顔だけは、見た目相応の小さな少女のようだった。
「……っふ、な、ナハトったら、なんてこと言い出すの……ふふっ。」
俺ができる限りの真顔で見つめ続けていると、やがてフィーは思い切り吹き出した。
暫く笑って、涙まで滲んでいたのでハンカチを差し出した。
涙を拭ってから開いた瞳は、もとの明るい色に戻っていた。
「……ごめん。」
「どうして、あなたが謝るの?」
掴みっぱなしだった彼女の肩からそっと手を離し、口元だけを少し緩めた。
「君の意思を無視して、強引なことばかりをした。あと、君の最愛の旦那さんを殴る宣言をしてしまった。」
「確かにそうね。」
「結果、君は笑ってはくれたけど、もっとスマートにできなかった俺が悪い。一発殴っていいよ。」
「そう、ならそうするわ。」
フィーはにっこりと笑う。
今までで一番笑っている表情のはずなのに、どうしてだか笑っているように見えない。これは怖いやつだ。
フィーが俺に手を伸ばしたのを確認してから、覚悟を決め目を閉じた。
…。
……。
…………。
…ちょっと、いつまで焦らすんですかフィーさん。
いつまで経っても来るべき衝撃は来ない。
何も言われてはいないが、今自分がどういう状況に置かれているか知りたくて、恐る恐る目を開ける。
俺を真っ直ぐに見つめながら、彼女はまたはちみつ色の瞳から涙を零していた。
「……え?!何でまた泣いて……、」
「ナハト。」
「え。あ、はい。」
「わたし、まだ頑張ってみることにするわ。」
「そ、そう?なら良かった?」
「ありがとう。」
フィーは謎の宣言をすると、先程渡した俺のハンカチで再び涙を拭って、すっと立ち上がる。
切り替えについていけずぽかんとしたまま見上げた俺の頭を、フィーは母が子にするように優しく撫ぜた。
「あの、これは一体。」
「殴っていいと言ったのはナハトよ。」
「いや殴ってないし……子供じゃないんだけど…。」
「大人しくしなさい。」
「はい。」
フィーはどこか楽しそうに、布越しの俺の頭を暫く撫で続けた。
* * * * * *
「……さ、そろそろ寝ましょう。明日に響くわ。」
そう言って俺に手を差し出したフィーからは、すっかり陰りが消えていた。
手を取って立ち上がり、今度は俺が彼女を見下ろす。なぜだろうか、いつもより、とても小さく見えた。
「そうだね。流石にまた眠くなってきた。」
疑問はすぐに頭から追い出して、取った手をそのまま引いて木々の間に戻る。
流石に暗かったのでフィーに明かりを点けてもらい、互いに寝袋に入った。
「ナハト、おやすみなさい。」
明かりを消して、フィーが呟く。
おやすみと返そうとして、ふと、ある事を思い出す。
「…フィー、さっき君に食べさせた飴なんだけどさ。」
「ええ。」
「トマトチーズ味だったんだ。」
数瞬の沈黙の後、はっきりとしたため息が暗闇の中で響いた。
「……二度と買わないで。」
不機嫌そうな声で呟き、再びおやすみなさいと残しそれきり黙った。
少し経って、小さな寝息が聞こえてくる。泣き疲れたのだろうか。随分寝つきが早い。
彼女の不機嫌そうな声は、初めて聞いた。
微笑みと優しい口調がデフォルトのようなひとだから、こういう声が聞けるのはきっと気を許してくれたのだろう。
冷たい言い方だったはずなのに、全く不快ではなかった。
彼女をひとつ知れた気がして、自然と笑みが零れる。
「…おやすみ、フィー。」
共に旅を続けていれば、いつかもっと他の感情を見せてくれるだろうか。
無意識のうちに浮き出てきた思いに蓋をするように、目を閉じた。