とりあえず飯
歩き始めた頃はとても遠かったはずの町が、気付けば目と鼻の先にあった。
ずいぶんと長い間、過去の回想に浸ってしまっていたようだ。
これからはただの旅人として生きていくのだから、気持ちを切り替えなければ。
「……っと、町に入る前に切ってしまおう。」
危ない危ない、と俺は一度歩くのを止めた。
ポケットから折り畳み式の携帯ナイフを取り出し、背中に回す。空いている手で適当に結わえていた髪束を掴み──そのままぶつりと切り離す。ずいぶんと長くなっていたんだな、と切り離された髪束を見て思う。
貴族になった時、義母から伸ばすように命令されて以来、一度も切っていなかった。
女性ならまだしも、男で髪を伸ばしているのはそれこそ貴族か、よっぽど髪型にこだわりがある奴くらいしかいない。このまま町に入れば目立つことこの上なしだ。
「さて、とりあえず町に入って……飯だな!」
流石に道端に捨てるわけにはいかないので、とりあえず髪束は適当な小袋にしまい、町の入り口らしいアーチの前まで進んだ。
アーチの傍で仁王立ちしているのは、がっしりした体型のいかにも屈強そうな警備兵らしき男。
遠目から見てもでかいが、近づくと更にでかい。186センチの俺が見上げるくらいに。…うわあ、迫力がすごい。俺なんて一瞬で捻り潰されそうだ。
若干怯みつつも目の前で止まり、とりあえず万人向けする笑顔を作って挨拶した。
「こんにちは、お勤めご苦労様です。」
「おう、ありがとな。兄ちゃんはここいらでは見ねえ顔だが、旅人さんかい。」
「はい。」
話してみると、案外気さくだった。にかっ、と人懐こそうな笑顔を作った男は、目視だけの軽い身体検査を済ませ、あっさりと通してくれた。
「そうだ、この後飯にしようと思っているのですが、この町は何か有名なものとかありますか?それか、オススメのお店とかあれば是非お聞かせいただけると嬉しいです。」
「そうだなぁ。この町で作ってるチーズはそこそこ評判いいぜ。飯処なら、オレのオススメは断然『閑古鳥亭』だな!あそこのチーズグラタンは絶品だぞ。」
「か、閑古鳥亭…ですか。」
なんて縁起の悪い名前だ。何を考えてそんな名前にしたのか疑問すぎる。
しかし、飯が美味いなら行かない手はない。
「ありがとうございます。行ってみますね。それでは。」
「おう、達者でな。」
町に入ると、昼時だからか、どこからか良い香りが漂ってきた。あ、だめだ腹鳴りそう。
若干歩く速度を速めて、あのおじ…お兄さんに教えてもらった店を探す。看板が出ていたので、目的の店はすぐに見つかった。
「いらっしゃ~い!」
店に入ると、元気な声が響く。同時に、ひときわ強く香る美味しそうな匂い。
"閑古鳥"なんて名前のくせに、広い店内には人がびっしり座っていた。
「お兄さん一人?今ちょっと混んでるから、相席でもいいなら案内できるけどどうする?」
「相手方が良ければ、俺は構いません。」
看板娘らしき元気なお嬢さんが店内をくるくる回り何人かに話しかけている。と思ったらすぐに戻ってきて、席へ案内してくれた。
案内された席に並んで座っていたのは、そこそこ年を経てそうな男女一組。揃いの指輪をしているから、おそらく夫婦だろう。
「うわあ、近くで見るとほんっとすごいわ!なんて綺麗なひと!ね、あなた!」
「ちょっと、痛い痛い…叩かないでくれよ。でも確かに。」
奥さんは旦那さんの背中をばっしばっし叩いている。結構すごい音してるけど大丈夫か?
旦那さんはというと、若干困りつつも、でもそんな妻が可愛いのだとでも言わんばかりに微笑んでいる。
俺は奥さんの高いテンションに気後れしつつ、ひとまず相席の礼を述べた。
「ええと、相席を許可してくださりありがとうございます。ご夫婦のお邪魔をしてしまったようで、なんだか申し訳ないのですが…。」
「いいのいいの、むしろ私達から誘ったようなものなのだから!」
「リズさんはほんと、美男子に目がないですよね~。」
看板娘が苦笑いしながら言う。どうやらこの夫婦は良く知る客のようだ。常連だろうか。
女性同士の会話を眺めながら、俺は内心どこかほっとしていた。
二人とも、俺を見てはしゃぎはするものの、その視線には一切の熱がないからだ。けれどいつの間にかじわりと滲んでいた手汗に苦笑しつつ、外套で拭った。
さて、とメニューを開くと、ずいぶんとびっしり文字が書いてある。ざっと見ても50以上の品目があるようだ。
「僕のオススメは、チーズタルトかな。食事なら、グラタンかハンバーグが美味しいよ。」
元々勧められていたグラタンを頼むか、他のにするか悩みまくっていた俺を見て、旦那さんがふいに呟く。
ぱっと顔を上げると、悩んでいるのをずっと見られていたようだ。口元が少し笑っていた。…ちょっと恥ずかしい。
水を一口飲んで気を取り直すと、未だに奥さんと喋っていた店員のお嬢さんに声を掛ける。
「あの、注文いいでしょうか。チーズグラタンとチーズタルトを一つずつお願いします。」
「あっ、は~い!やだ私ったら仕事もしないで!もーリズさんのせいですからね!じゃ戻ります!」
注文を素早くメモし、お嬢さんは店の奥に駆けていった。
「…そういえば、自己紹介がまだでしたね。俺はリ……いえ、ナハトと言います。」
「ナハト君か。僕はクラウス。で、こっちは妻のリズ。」
「クラウスさんとリズさんですね。つかぬことをお伺いしますが、お二人はここの常連で?」
「ええ、そうよ。もう8年くらいは来てるわねぇ。リィナちゃん…あ、さっきの店員の子はリィナちゃんっていうんだけど、その子がまだこんな小さい頃からよく来ているわ。」
リズさんは自身の腰くらいの高さで掌を床に平行にする。
「ナハト君は見ない顔だけれど、旅人かな?」
「ええ、そうです。とはいっても、目的地とかはなくて、ただぶらぶらと放浪しているだけですけれど。」
「いやいや、そういう旅も良いものさ。僕も昔少しだけ旅をしていた頃があった。気の向くままに歩くのは、結構楽しいもんだよ。」
クラウスさんは穏やかな顔で紅茶を飲むと、ふっと遠い目をした。きっと何か思い出しているのだろう。
と、その時、チーズの濃い香りと共にリィナがやってきた。
「はいお待たせ!こちら当店自慢のチーズグラタンです!熱いから気を付けてね!あとこっちはチーズタルトね!」
素早く俺の目の前に二品を並べると、ロングスカートを軽やかに翻して去って行った。
目の前に置かれているグラタンはまさに出来立てのようで、まだチーズがふつふつと沸いていた。
しかし空腹の限界だった俺はさっそくスプーンを持ちグラタンをすくう。
何度か息を吹きかけて冷ましてから、一口。
「あっつ!……あ、でも美味しい。」
「でしょ~。ここの料理はなんでも美味しいわよ。」
リズさんはにこにこしながら食べる俺を見ていた。ちょっとの気恥ずかしさはあったが、それより食べたい気持ちが勝ったので、熱い熱いと言いながらもひたすら食べ進めた。
その後デザートのチーズタルトまでしっかりと完食して、最後に夫婦からイチオシのチーズ屋を教えてもらい、俺は上機嫌で店を出た。