つづく波
翌日、僕たちはアンテナ広場で落ち合った。アオミの表情は、少しだけ明るい。
「父と久しぶりに通信したの。チケットの手続きまでしてくれたわ。ボーイフレンドを連れて行くって言ったら、驚いていたけどね」
自然な笑みを浮かべて話すアオミ。その笑みを見ていると、胸のあたりがもやもやした。喜ぶべきなのに、僕はどうしたんだろう。
「ちょっと、話聞いてるの? さっきから上の空で」
眉を吊り上げて、アオミは僕の顔を覗き込んでいた。思った以上に不貞腐れた顔をしていたらしい。せっかくアオミが一歩を踏み出そうとしているのに、水を差すような真似をしてしまった。僕は慌てて謝った。
「人の話はちゃんと聞いてもらいたいものね」
アオミはベンチに座ると、不機嫌に足を揺らした。出会った頃に比べれば、ずいぶん感情の起伏を見せてくれるようになったと思う。少しは打ち解けたのだろうか。
もうアオミは一人で父親に会いに行けるのではないか? この期に及んで僕は、そんな気さえしていた。
「本当はね、怖いわ。こんなことタカオにしか言えないけど、今も震えそうなのよ?」
そんな弱みを聞いて僕はどこか安堵した。なんて浅ましい。
努めてそれを打ち消し、アオミを励ます。その細い肩を抱くことは、まだ出来なかったけれど。
「安心して、なんて言えないけど、僕もいるから。二人なら怖さも紛れるよ」
「あまり頼りにはならなさそうね」
アオミは悪戯っぽい笑みを浮かべた。僕はその様子を見て、さっき感じた胸のもやもやの原因に思い当たった。
なんてことはない、僕が引き出せない笑顔を簡単に引き出してしまった彼女の父に、おかしな話だけど嫉妬したのだ。
あるいは、自分ではアオミを笑顔に出来なかったことへの無力感かもしれない。理解してみると、くだらない理由だった。
このアオミの笑みは本当なのだろうか? 踏み込めない自分の弱さに、僕は歯噛みする。
僕たちが地球へ向かうのは、一週間と五日後だった。
◆
地球は青かった。シャトルの中で受けたその印象は、入星後も変わらなかった。
地球環境の正常化は、その実失敗していたのだ。原因は、月面外層からの重力操作ミス。それによって地球は、潮汐の影響で陸地のほとんどが水没するようになっていた。月に地球の情報が少ないのも、入星審査が厳しいのも、これを隠していたからなのだ。
思った以上に呆気ない真実に、僕は虚しさを強く感じた。だから祖父は変わってしまったと、そう言ったのだ。僕はあの言葉をついに理解した。
数少ない陸地部分、そこにそびえる一番高いビルが、アオミの父の会社だった。建設規制によりほとんどの建物が小さい中、海に囲まれた中で一つ高いそれは孤立しているようにも見えた。
受付には話がついていて、僕とアオミはすぐに社長室のある最上階へと通された。最上フロア、目の前の扉一枚挟んだ向こうに、アオミの父がいる。
彼女はぐっと拳を握りしめて、扉を睨んでいた。
「どんな顔をして、父に会えばいいのかしら?」
それは迷っているのでもなく、躊躇っているわけでもない。ただ、最後に少しだけ背中を押して欲しいということだった。
「最初は怒ってもいいと思う。そしたらきっと、後は自然に話せるよ」
アオミの背中に手を当てる。彼女の動悸は、掌に感じられるほど強く打っていた。
「手、握ってくれる?」
ささやかな頼みに、僕は手を握って返した。
握りしめた手が、前と同じように強く握り返される。重く閉じられていた扉は、僕とアオミの手でそっと押し開かれた。
◆
僕とアオミは今、数少なく残った浜辺で、地球の海を見ていた。
「本当に青いんだ」
「そうね。これが、海」
波の音は静かに、どこまでも響くようだった。潮の匂い、海風、空と海の接する水平線――確かに見た目は、祖父が語った時とは変わってしまっているかもしれない。
だけど、この感動は本物だった。いくら変わったとしても、きっと海は海なんだ。祖父は許せないながらも、どこかでそれを分かっていたから、地球行きのチケットを持っていたんじゃないだろうか。だとしたら、死ぬ前にここへ連れてきたかった。
僕が感傷に浸っていると、隣のアオミが伸びをしながら砂浜に寝転んだ。
「わたしの名前の由来、そのまま青い海……なんて、本当に単純な名付けよね」
寝転んだままで、アオミは晴れやかな声でそう言った。その顔は解放感に少しの淋しさが混じっていたけど、自然な微笑みを浮かべていた。
「君にぴったりだと思うけどな。青い海。いい名前だよ」
僕はそう言うと、アオミの瞳を見つめた。海を前にしてなお、澄んだ光。そして滲む潤み。どうしようもなく切なくなってきて、僕も目の奥が熱くなるのを感じた。
「おじいさんから聞いた海の話、聞かせて?」
鼻をすすり上げて、アオミは言った。いくら吹っ切れているように見せても、すぐ切り替えられるわけがないのだ。実の父に、別れを告げてきたのだから。
結論から言うと、アオミの父はもう地球に別の家族があった。離婚の事実を知らされていなかったのは、アオミだけだったのだ。何故、母の実家がある月面外層にやって来たのか。考えてみれば予想もし得たことだった。
努めてアオミは、何でもない風に装っている。僕は、そんなアオミの気丈さを守りたいと思った。僕は記憶の貝殻から、海の話を引き出した。
「詩の一節で、海は巨大な忘れ物だって言うんだ。でもあまりに大きすぎるから、誰も預かってくれないんだってさ」
とても寂しい一節だった。今のアオミの気持ちに重なる部分があるかもしれない。
「だけど、こんな言葉もある。人生はいつか終わるけど、海だけは終わらない」
「海だけは終わらない、か」
アオミは繰り返しつぶやくと、体を起して再びその目に海を映した。その姿を見ていると、僕はようやく自分の心に触れることが出来た気がした。何もかもをようやく受け入れることが出来た。青い海は、傍にあったのだ。
「タカオ、終わらない海はどこに繋がっているのかしら?」
細い肩が、僕に寄りかかる。わずかに触れ合ったそこからアオミの体温が、息遣いが伝わってくる。海の繋がる場所、そこは――
「アオミ」
名前を呼ぶ。
「何?」
「海の続く限り、一緒にいてほしい」
そうだ、僕はアオミのことが。
「それって」
「好きだ」
どうしようもなく、好きなのだ。
海の青は、その瞳へと繋がっていた。