うねる波
僕はアオミに、改めて質問を投げかけた。
「聞きたいことがあるんだ。どうしていつも空を?」
何を、ではなく、どうして。アオミの視線、その理由を知りたいと思った。
「なんてことないわ。父がね、地球に住んでいるから」
見上げるアオミの横顔がひどく淋しい色に彩られていたことに、僕は今頃になって気が付いた。
僕は、踏み込んでいいのだろうか。これはアオミにとってデリケートな問題だ。だけど、躊躇う一方で僕は力になりたいと思っていた。彼女の淋しい顔は、見たくなかった。そんな表情を見ていると、僕は自分の胸を掻きむしりたくなるのだ。
「父は、地球で観光企業の社長をやってるの。物心ついた頃から、ろくに顔も合わせたこともないけどね」
アオミはぽつぽつと語り始めた。地球に行ったまま帰って来ない父、母と二人のコロニー生活。物には恵まれていても、心は満たされない日々。僕には祖父がいたけれど、アオミにはそのような存在がいなかったのだ。
「月面外層に来たのは最近よ。母の実家がこっちだから。もう耐えられなくなったんだと思うわ。待つことに、信じることに。父は本当に私たちを愛しているのか、それが、分からないから」
自嘲じみた笑み。その意味を、僕は理解出来た。諦める手前の、それでもまだ信じようとする自分への自嘲。かつて祖父が浮かべた笑みは、きっとこんな感情だったのだろう。祖父の場合は最後まで救われなかった。なら、アオミは?
「だけどアオミはお父さんを信じたい?」
驚いたように固まるアオミ。どうやらその通りだったようだ。
「信じたいわ、でも」
「これ、おじいさんの遺したチケットなんだ。これがあれば僕でも地球に行ける」
アオミの言葉を遮り、個人端末を開いて地球行きの片道チケットを見せる。アオミはディスプレイに映る文面と、僕の顔を交互に見た。
「僕は、おじいさんの地球に対する本当の想いは分からないままだった。このチケットで行けばそれが分かるかもしれないけれど、その勇気が出なかった。怖かったんだ」
何より怖いのは、地球そのもの。おじいさんの還らなかった理由が、僕の理想とは全く違う姿をしているかもしれない地球だったとしたら、思い出までが信じられなくなるような気がしたのだ。
「怖いのなんて」
アオミはうつむき、僕から目を逸らした。
「誰だってそうよ。知ろうとすることは怖いわ!」
それは僕に向けて言っているのか、それとも自分に向けてなのか。多分、両方だ。だから僕がこれから言うことも、同じく自分とアオミに向けたものだ。
「知ることは怖いけど、知らないままの方がずっと怖い」
思い浮かぶのは、スクリーンの空。そして、その向こう側へ想いをはせる淋しげな横顔。僕から目を逸らしたアオミは、はっとして顔を上げた。
その瞳には滴が溜まっていた。涙は人間のつくることの出来る一番小さな海だというけど、あながち間違いでもないようだ。アオミの目から小さな海が零れそうになる。
「知らない、まま」
かき消えそうなつぶやき。またうつむきかけるアオミの手を取って、僕は強く握りしめた。痛くたって構わない。ここで、僕が彼女を引っ張るのだ。これ以上、僕はアオミにこんな顔をさせたくない。僕は意を決し、言葉を紡いだ。
「僕と一緒に地球へ行かないか? お互い怖いんだ。だったら、二人でさ。臆病な考えかもしれないけど」
アオミの目からひとつ、ふたつと滴が落ちる。初めて見る彼女の涙だった。
「アオミは僕に言ったね、他人のことを知ろうとする中で、本当は自分のことを知ろうとしているって。だったらお父さんと会わなくちゃ、きっと君は一生後悔する……僕は、そう思う」
僕は、彼女を知りたいと思った。僕の場合、祖父とはもう会えない。真の意味で分かり合うことは、不可能だ。だから僕はせめてその足跡を辿って、自分の中で折り合いをつけるしかないと思う。
でもアオミは違う。僕はここで踏み出さなければいけない。逃げるわけにはいかない。気付かないフリをするわけにもいかない。アオミを知るために、分かり合うために、何より彼女の力になる、そのために。
「タカオ、でも」
言い淀むアオミ。でも、僕は掴んだ手を離さなかった。
「僕は、僕の出来る限りで力になるよ」
逃避でもなく、依存でもなく、二人で乗り越える。
「……うん、そうね。少し、弱気になっていたみたい。私としたことが、情けなかったわね」
アオミは空いた手で涙をぬぐった。涙をぬぐったその目には、再び力が宿っていた。僕が惹かれた、海を内包する青い瞳。それが強い輝きを帯びる。垣間見えた弱さはすっかり鳴りを潜め、アオミは決意に満ちた表情で、
「わたしも地球に行くわ」
痛いくらいに握り返された手は、とても熱かった。
「ありがとう。タカオが背中を押してくれたから、私は前に進めそう」
「お礼なんて、僕もだよ。アオミのおかげなんだ。君のおかげで、今なら分かる気がするんだ。今まで目を逸らしてきたことについて。だから、ありがとう」
言い終わったところで、何となく照れ臭く、恥ずかしい心地になった。とはいえ、やっぱり感謝は口に出さないと伝わらないものなんだな、とも思ったりする。
「あの」
と、僕とアオミは同時に声を上げた。視線をぶつけ合わせたまま、ぴくりとも動けず二人押し黙る。
「さ、先に言うよ」
この流れを打ち切りたい僕は、頭をかきながら先に口を開いた。
「ど、どうぞ」
アオミらしからぬ殊勝な態度に、少し面食らう。
「地球に行ったらさ、二人で海を見ようよ」
「わたしも、そう言おうとしてた」
そうしてどちらからともなく、僕らは声を上げた。空調装置の停止を知らせる放送が、この気恥かしさを誤魔化すように鳴り響いてくれた。