かえす波
次の日も、彼女はアンテナ広場でスクリーンの空を眺めていた。
「これ、昨日持って帰っちゃった帽子」
「別にいいわ」
素っ気なく彼女は帽子を受け取る。僅かに気まずい沈黙。僕はどう声をかけていいか分からなかったし、彼女は彼女で天井に目を向けたままだった。
「座らない? ゆっくり話せるなら、だけど」
どうにか声を絞り出す。それだけで僕の心臓は不思議と高鳴った。彼女は僕を見て頷くと、後に続いてベンチに座った。
二人でベンチに並び、僕は地球の話を想起する。思い出を貝殻からそっと取り出すように。祖父の語った地球、その中で僕が最も惹かれたのは海だった。
「海は母親のようなもので、自然はすべてその海から生まれた……だったかな。すべてのものが、海からだよ?」
空と水面が接する水平線という言葉が示すように、僕たちの目で捉えられる境界を超えてなお途方もなく広いという、巨大な水溜り。
月生まれの僕にはその概念自体が理解出来なかった。僕らは知識でしか海というものを知らないし、スクリーンの天井に囲われた月面外層には空もない。そんな海のとてつもないスケールの大きさは、考えるだけで僕をときめかせた。
「僕は、想像の及ばない海の話が好きだったんだ」
「それで、母なる海というのね」
彼女は考え込むように顎に手を当てた。とても絵になる姿で、頭の中から海の話が流れ出てしまいそうになっている自分に気付き、僕は慌てて頭を振った。
◆
彼女はいつも同じ時間帯にアンテナ広場にやってきては、スクリーンの空を見上げていた。それが僕にはもどかしかった。彼女の視線を独占したくて、祖父から聞いた地球の、海の話をした。そうして、気付けば二週間が経っていた。
今日は先にアンテナ広場に来て、展望台にのぼってくる一つの影を待つ。耳に入ってくる定時の風を知らせる放送。見慣れた黒い髪をはためかせ、彼女が姿を見せた。
「やあ、今日も?」
わざとらしく声をかけるのも、今ではお決まりの挨拶だ。
「飽きもせずよく来るのね。他にやることが無いのかしら?」
辛辣な受け返しも慣れたものだった。そして僕たちは、そこに行きつくのが当然であるようにベンチに腰掛けた。今ではそこは、二人の指定席になっていた。
「海というのは広くて、大きくて、怖くて、でも優しくて、真っ青なんだ」
両手を広げて語るおじいさんの目は、憧憬の光に輝いていた。これが海の輝きなんだろうか、と、漠然と思ったものだ。僕は記憶の祖父をなぞって、彼女に海の青さを説明した。さながら微笑みをたたえるようだという、深い海の青。
「青い水なんて、本当にあるのかしら」
彼女はかつての僕と同じ、純粋な疑問を口にした。
「何故青く見えるのかは、教えてくれなかったんだ。海はそこにあっても触れないし、その青さは感じるしかないんだって」
祖父の言葉をそのまま伝える。海を知っていた祖父と知らない僕とでは、どうやっても言葉を越えた部分を共有出来なかった。
「これもまた詩の話でね」
海を見たことのない少女に、海を見せようとした少年の話。僕が一番好きだった話だ。
少年は病院で寝たきりの少女に海を見せてやる、と、バケツに海を汲んで持って行く。でもバケツに汲んだ海は、青くもなかったし怒涛もなかった。
そうして途方に暮れ、少女にうそつきと言われてしまう少年がとても悲しくて、僕は何度もこの話を祖父にせがんだものだった。
「海に触れようとした少年が触れられたのは、ただの塩水だったんだ」
僕が話を終えると、彼女は静かに口を開いた。
「その少年は少し可哀想ね。相手の何も知ろうとせず、自分の気持ちばかり押し付けて。そもそも自分が見えていないから、相手も見えなかったのね」
彼女の口調は冷ややかなものだった。少年の話は、まるで僕自身のようで、心臓を鷲掴みにされた気がした。僕は祖父の心が分からなかったのとまったく同じ過ちを、またも繰り返していたのだ。
祖父の時は、ただ聞くだけだった。地球の話をする祖父、それを理想化していた。
彼女には、逆に話すだけだ。かつての僕を彼女に投影して、その実祖父になりきっていたのは僕だった。彼女に重ねていた影は、祖父ではなく僕自身の影だった。
では祖父自身、彼女自身については? 何も知らない。僕は、依存していた。かつては祖父に、今は彼女に。相手を知ろうとしない、僕自身のことも伝えない、どちらも一方向的なものだ。
「この少年は、」
その後に続く言葉は、同時に発せられた。
お互いに顔を見合わせる。聞き間違いでなければ、彼女は確かに「わたしみたい」と言った。
「僕は……僕が、分からない」
「そうね。わたしだって、わたしのことなんて分からないわ」
間髪入れない返答。頭の中を整理し切れず、目を丸くして思考を停止している僕に、彼女は力に満ちた視線を向けた。その引力に意識を引き寄せられる。
「自分のことなんて、他人を通してじゃないと分からないと思わない? 水面を見ても、映るのは外面だけ。内面は分からないわ」
彼女の言葉は不思議な響きをもって僕の耳に入り込んだ。長い疑問がやっと解けそうな、そんな言葉だ。
「心の中でどう思っても、それは自分の評価だ」
「他人に理想を押し付ける――そうじゃなくて、他人の心を知ろうとする中で、本当は一番遠い自分の心を知ろうとしているのよ」
ここにあってここにない、と僕は思った。まるで海だ。決して触れることの出来ない青い水、自分の心。彼女の青に、僕はどう映っているのだろう。
「自分の心が一番遠い、か」
自分自身に言い聞かせるように呟く。
「ねえ、わたしはもっと知りたいと思ったんだけど、君は?」
その問いかけに対する僕の答えは、考えるまでもなかった。僕は彼女の瞳を見つめた。
「うん、僕も知りたい」
僕は彼女を海のように見ていた。海は全体として見ることで青くなる。それはつまり、汲みあげた一部は無色の塩水だということ。
彼女を僕の中で理想化していたことで、彼女自身のことは限りなく透明に近くなっていた。僕は、彼女の名前すら知らなかったのだ。
「今さらだけど、名前を教えてくれないかな。僕は、タカオ」
「本当に今さらね。私はアオミ。よろしく」
交わされた握手。ようやく僕たちは、お互いを個人と認識したのだ。遅い自己紹介はその象徴に思えた。