よせる波
寺山修司『海』
実際、海を見たこともない僕が、海を見たことのない彼女に、海を説明することほど難しいことはなかった。
◆
月面外層ネクタリス地区の高台。ここは地球との交信基地だった場所で、現在は植生実験場としての公園になっている。地球の季節感を再現すると銘打ち、今は一面に紫陽花が広がっていた。
花畑を抜けて、展望台にのぼる。アンテナ広場と呼ばれるそこには、パラボラアンテナの残骸が一つ。アンテナの向く方角から、時計回りに三つめのベンチに腰掛ける。そこが僕の指定席だった。
ポケットから個人端末を取り出し、ディスプレイに視線を落とす。一人一台が所持するそれは、通信機器や身分証明などの機能を一任している。そこには僕を悩ませる原因が映し出されていた。
地球行きの片道チケット――祖父の遺品。どうして祖父は、地球へ還らなかったのだろう。これを使えば分かるかもしれない。
それに僕は、このまま月面外層で一生を終えることについて迷ってもいた。別のコロニーに出ていくか、あるいは――遺品のチケットは、僕にとって渡りに船でもあったのだ。
そうして僕は、祖父とした最後の会話を回想した。
◆
晩年の祖父は、いつも遠い目をしていた。
「おじいさんは、どうして地球に還らなかったの?」
病床の祖父に、僕は疑問をぶつけた。
人類が宇宙へ進出したのは、汚染された地球環境を清浄化する計画に端を発してのことだ。その間の代替地、それが数多のスペースコロニーや、ここ月面外層であった。
本格的な宇宙進出から六十年あまり、地球の清浄化はすでに完了して、祖父のような初期の宇宙開拓者はその多くが地球へ帰還したと聞いている。
僕みたいな月生まれが地球に渡るのは、高額なチケットに加えて厳しい入星審査のせいで容易ではないけれど、祖父の場合は地球生まれで審査も問題なく、助成金も出るため、決して還れないわけではなかった。
「俺の知る地球は、もう無いんだ。変わってしまった」
祖父は天井のその先を見つめると、それだけ呟きあとは黙り込んでしまった。僕は祖父のことが、途端に分からなくなった。その二日後に祖父は、永遠の眠りについた。
◆
けたたましいサイレンに、僕は物思いから引き戻された。空調装置が起動し、またたく間に風が騒ぎ始める。空気循環のために人工的に作り出された空気の流れだ。本当の風を感じたことはもちろん無いけれど、いつも決まった時間に吹くそれは、僕には嘘くさく思えた。
顔を上げた視界の中に、ふわりと風に流されて帽子が飛んできた。足もとに落ちたつばの広い麦わら帽子を拾い上げると、ささやかに巻かれた青いリボンが揺れる。
風上には一人の少女がいた。僕と同じ十五、六歳だろうか。長い黒髪をはためかせ、その視線はまっすぐ月の空に向けられている。不意に、故郷に想いをはせる祖父の姿と、少女の姿とが重なった。
「この帽子は君の?」
僕は空を見上げる少女に近付いて尋ねた。祖父と重なる少女に興味が湧いていたのだ。風に飛ばされた帽子は、話しかけるのに丁度いいきっかけだった。
「拾ってくれたのかしら? だったら、ありがとう」
少女は横目に帽子をちらりと見ると、それを受け取りもせず、また造り物の空へ目線を戻した。手持無沙汰になった帽子が、僕の手の中で踊る。
「何を見ているの?」
ふと、口をついて出た質問。無視されたかと思うほどの長い沈黙を挟み、彼女は感情のこもらない声で「空じゃないことは確かね」と、一言だけ答えた。
「ここにあるものはどれも偽物だからね。君は地球生まれ?」
「違うわ。コロニー生まれ。そういう君は?」
目線はまだ偽物の空に向けられていたけれど、彼女は会話を続けてくれた。
「生まれも育ちもここだよ。残念なことにね」
「残念?」
「おじいさんが地球生まれだったんだ」
口にすると、僕の胸は少し痛んだ。造られた風が頬を撫でていく。
「それとどういう関係があるの?」
風にあおられる長い髪を抑えつけながら、彼女は帽子ではなく僕を横目に見て、興味深そうな声を出した。まるで、祖父の話を聞いていたときの僕のようだ。僕は記憶の中から、大好きだった海の話を引っ張り出すことにした。
「地球には海という巨大な水溜りがあるらしくてね。おじいさんが言うには、それはたった一滴の少女の涙が起源らしいんだ」
「何それ? 君の言ってること、支離滅裂じゃない?」
苛立ちを含んだ文句。彼女はここで初めて僕に向き合った。瞬間、僕の意識は彼女の目にとらわれた。
深い青色の瞳。真正面からその視線を受け止めると、鮮烈な青の波が僕を呑みこんだ。まるで、想像で思い描こうとしていた海そのものだった。その青の中に怒涛を感じて、溺れるように息を呑んでしまう。
「どうしたの、話の続きは?」
慌てて意識を海の中から引き上げ、話を続ける。
「地球の話は、僕には共感出来なかったんだ。月生まれだからね。それが残念ってこと」
彼女は僕の話をどうにか理解してくれたらしい。返って来たのは、少しだけ棘の取れた声だった。
「分からないっていうのには、同意するわ。わたしもさっぱり」
「さっきのはある詩の一節なんだ。なんとなくイメージは湧くけど、実際はどうなんだろう」
彼女は頷くと、話を続けろ、という風に僕の目を見た。それは嬉しいことだった。彼女に対して親近感を覚える自分に気付いた。
「思い出すな、おじいさんと話したこと。ついひと月前に亡くなってしまったんだけど」
「それは、ごめんなさい。無神経だったかしら?」
仏頂面に見えて、わずかに彼女の眉は下がった。話しやすいあまり、初対面の相手だということを忘れていた。
「その、気にしないで。こうして話すことで、僕も整理出来るから」
「そう……?」
消え入るような返事。気を遣わせてしまったらしい。
「あ、あのさ。明日もまたここで会えるかな? もっと地球の話を聞いて貰いたいんだ」
取り繕おうとした僕は、一方的に再会の約束を取り付けてその場を後にした。慌てるあまり帽子を持ったままなことに気付いたのは、家に帰ってからだった。ともかくそれが、彼女との出会いだった。