8 交信しよう
はー、とため息をつき、私は椅子に座り直した。
「……いろいろ言いたいことはあるけれど、だからってハイソウデスカとあなたを置いておくことはできないからね」
「分かっているよ。君にとって僕は油断ならない相手だろうし、すぐに受け入れてくれるとは思っていない」
でもね、とヒースは少しだけ身を乗り出し、透明感のあるグレーの目でじっと私を見据えてきた。……間近で見ると、本当にきれいな顔をしている。洗礼されたら人間、美形になるのか? んな話聞いたことないんだけど?
「……俺、君の力になりたいんだ。さすがに身体能力強化されたら敵わないけど、ほぼ全属性の魔法を使えるからなんだってできるよ。君がこれまでどおりギルドで仕事をしたいなら、もちろんしてくれていい。俺は君が快適に過ごせるよう、なんでもするからね」
「いやいや、『なんでもする』なんて軽々しく口にしちゃだめでしょ」
人間初心者の元魔王に忠告するつもりで突っ込んだけれど、ヒースはけろっとして微かに目を細めただけだった。
「軽々しくなんかないよ。君以外の人間にこんなことは言わない。……そういうわけで、俺を置いてくれないかな? 掃除洗濯料理裁縫。なんだってするよ」
「……」
正直、彼の申し出はすごく魅力的だ。
家事全般の能力が壊滅的な私にとって、ご飯の準備も洗濯も掃除もしてくれる家政夫なんて、ありがたいばかりだ。さっき食べたシチューはすごくおいしかったし、あんな感じの料理を毎日食べられることを考えるだけで、口の中が期待で痺れてくる。
でも……でもねぇ?
「……あのさぁ。さっきあなた、私のことをす……好きになったとか……言ってたよね?」
「うん、言ったね」
「えーっと……つまり――」
「ああ、もちろん君が嫌がることは絶対にしないよ」
ヒースは私が言葉に詰まっていることを察し、自分の方から話を続けてくれた。テーブルに肘を突いて組み合わせた指の上にすんなりしたあごを乗せ、彼は私を見つめて言う。
「好きになった子だから、幸せそうな顔や嬉しそうな顔を見たい。俺、人間初心者だからかな。こういう感情にうまく言葉を付けられないんだけど……。何にしても、君が俺のことを疎く思うようになったら潔く引っ込むよ。でも、そう思われないように尽力するつもりだから」
「……そ、そう」
きらきらの眼差しで見つめてくるヒースから逃れるように、私はそっぽを向いた。ちょうど視線の先に空っぽになったシチュー用鍋があったので、それを見つつ考える。
いろいろ信じがたいことはあるけれど、彼の左胸には洗礼の証がある。神官でない彼にどれほどの効果を発揮するのかは分からないけれど、洗礼を受けたのなら私の思いを踏みにじるような行為はしないはず……と信じたい。
「……言いたいことは分かった。でも私一人では判断したくないから、神官の話を聞いてもいい?」
「もちろんだよ。すぐに準備しよう」
「いや、手紙を送るから少なくとも一ヶ月はかかるんだけど――」
そう言いかけたけれど、ヒースは組んでいた手を解き、どこからともなく取り出した石――いや、これは小さいけど魔物の核だ――を手のひらに載せ、不思議なポーズを取った。まるで大きめのボールを顔の前で受け止めているかのような格好で――あれ? なんか、彼の両手の間の空間がねじ曲がって見えるような――
「……聞こえているかな? こちら、ヒース。クロムウェル神官長を頼む」
さっき私と話していたときの柔らかい口調とは真逆の、はきはきした物言いでヒースがしゃべっている。すると、彼の手の中で生まれていた謎の空間が揺らぎ――
「……えっ、神官長様!?」
やがて、空間の中にぼんやりとした人影が映る。その人は――間違いない。クロムウェル神官長様が穏やかな微笑みを浮かべ、私を見つめてきていた。
『……久しいな、ケイトリン。いや、今の名はカティアだったか』
「し、神官長様ですか!?」
『うむ。ヒースは空間魔法の扱いにも長けておってな、一度ではあるが核と彼の魔力を使って有事には神殿と連絡を取り合える方法を教えたのだよ』
ほっほっほ、と神官長様が笑っているけれど――冗談じゃない。
「空間魔法って……元魔王、そんな能力もあったの……?」
「だから言っているじゃないか。俺、たいていの魔法は使えるって」
私と神官長様の仲介をしているヒースはけろっとして言っているけれど……これでも決戦時より弱体化しているんだよね? 私、よく勝てたな!?
私は一つ咳払いし、ヒースの手の中に映っている神官長様の顔がよく見えるよう、テーブルに両手をついて前のめりになった。ヒースも私が話しやすいよう、少し身を乗り出してくれる。
「……確認させてください。神官長様、私が九歳の時、自力で読破できて神官長に報告しに行った本のタイトルは何ですか?」
『ん? ……おお、あれか。『勇者の歩んだ奇跡と、神の御言葉』だったかな?』
正解だ。
ちらっとヒースを見上げると、彼は満足そうに頷く。
「慎重になったようで何よりだよ。……さあ、クロムウェル神官長が本物だと分かったなら、俺のことを聞いてくれるかな?」
「……分かったよ」
ヒースから神官長様へと視線を移し、私は前のめりのまま少し姿勢を正した。
「……神官長様。こちらにいるヒースですが、彼を信頼してもよいのか迷っております。見たところ洗礼を受けているようですが……」
『うむ。私も最初は驚いたが……この一年間様子を見てきたのだが、彼が君を案じる気持ちは本物だったよ』
そう言う神官長様は落ち着いた様子だ。きっと、私が助けを求めるだろうこともお見通しだったんだろう。
「その……ヒースをここに送り出したのは神殿ですよね? ということは、彼のことは神殿も容認していると……?」
『ヒースが元魔王ということを知っているのは私や彼の世話係になったアーチボルドを含めたごく一部の者だけで、大半の者には遠くからやって来た旅人ということにしている。彼の髪の色はクレイ王国ではあまり見ないものだったからな。異国人ということにすれば、豊富な魔力を持っていることもなんとか理由づけることができる』
……確かに。
私の髪の色もそうだけど、クレイ王国周辺の人間の髪の色は黒や茶色が多くて、たまに赤毛や灰色っぽい者がいるくらい。遠く離れた異国ではいろいろな髪や目、肌の色を持つ者がいるそうだから、この辺でも金髪は見なくもないけれど、ヒースほど鮮やかな金色は珍しい。神官長様の言い訳も分からなくないな。
「……わざわざ理由づけてでも、彼を受け入れることになさったのですね」
私の指摘に、神官長様は少しだけ難しい表情で黙った。何か事情があるのかもしれないな。でも神殿暮らしだっただけで神官でも何でもない私に、神殿の事情全てを教えてもらえるわけではない。
「……いえ、なんでもありません。まあつまるところ、ヒースは信頼に値すると判断してもよろしいのでしょうか。その……彼は私のことを……まあ……アレなんですけど、家事全般を請け負ってくれると主張していまして」
『ほっほっほ。カティアは武術一筋だったからの、突然誰かから真っ直ぐな好意をぶつけられて戸惑っているのだろうな』
まあ、そうなんだけど……「アレ」を正しく理解してくださったことはありがたいんだけど……。私の目の前ではヒースがキラキラした眼差しでこっちを見てきていて、なんだかすごくいたたまれない気持ちなんだけど……。
そこで神官長様は表情を改めた。
『洗礼の証は本物であるし、そなたに渡した清めの札の効果も継続しているだろう? 言ってしまえば、それらが全てを物語っておる。……カティアよ、ヒースを元魔王としてではなく、一人の人間として扱ってやりなさい』
「……それは」
『一年前に魔王と死闘を繰り広げたそなたからするとすぐには受け入れがたい事実かもしれん。決めるのはそなたであるし、これからどうなるのかはそなたらに懸かっておる。この世界から魔王が消えたのは確かであるし、人が魔王の恐怖に怯えることもなくなった。だからヒースを元魔王扱いすることはないのだよ。そして、私から言えることがあるとすれば……今、そなたがしたいこと、信じたいものを優先させなさい』
「神官長様……」
私がしたいこと、信じたいこと。
それは――
「……分かりました。お時間を取ってくださり、ありがとうございました」
『うむ。何かあればいつでも帰ってきなさい。王都はともかく、神殿はいつでもそなたの帰りを待っているからの』
「……はい。ありがとうございます」
そう言って私がお辞儀をすると、ヒースが「交信終了」と呟き、神官長様の姿を消した。すぐに彼の手の中の空間も元に戻り、ぱちん、と音を立てて小さな核が砕け散る。