7 元魔王は主夫希望
すうっと、体中から血の気が失せる感覚。
「……おまえは、まさか――いや、そんなはず……」
「――『おまえを倒せば、皆が救われる。私の願いも叶うんだ。……悪く思うな』」
ヒースの唇から紡がれた言葉に、肩が震えてしまう。その言葉は――
少し俯きがちだったヒースは顔を上げ、先ほどと変わらない柔らかな笑みを浮かべて私を見つめてきた。
「俺に挑み掛かったときの君の台詞だよ。……久しぶりだね、勇者ケイトリン」
「……おまえっ! 魔王か……!?」
反射的に私は椅子を蹴って立ち上がり、腰に手を伸ばし――たけれど、愛用の剣がなく、手はすかっと空を切った。
同時にヒースが、鞘に収まったままの私の剣をひょいっと持ち上げて微笑む。……ああ、そうだ。シャワーを浴びる前にこの部屋に置いていったんだ!
「落ち着いて。さっきも言ったけれど、俺は君と戦うつもりはないんだ」
「戯れ言を! ……まさか、さっきの料理にも――」
「何も入れていない。……いきなり俺の正体を明かして混乱させてすまない。でも、落ち着いて考えて。もし俺がこの家の中で毒物を使おうとしていたら、ドアに貼り付けている清めの札が反応しているはず。それに俺が君を害そうとしていたなら、俺の胸に刻まれた洗礼の印が熱を持って俺を苦しめるはず。君なら知っているよね?」
……彼の言うとおりだ。
何かあってもいけないから、清めの札にはいくつもの効果を付けてもらっている。それに彼の胸に刻まれた洗礼の印は、「持てる力を善く使う」という誓いの証でもあるんだ。殴る蹴るとかに直結する身体強化魔法はともかく、毒魔法とか精神作用魔法を悪用しようとすれば、誓いの証がその体を焼き尽くす。
彼は苦しんでいる様子もないし、ドアに貼り付けている清めの札も反応していないみたいだ。つまり、彼には本当に敵意がないし、食事にも毒は入っていない。
落ち着いた声音で理路整然と諭されると、私の体に灯っていた炎も一気に鎮火し、私はへたりと椅子に座り込んだ。
「……そう、だね。ごめんなさい、また私、思いこみをしてカッとなって……」
「いや、警戒するのはいいことだよ。女性の一人暮らしなんだから、むしろもうちょっと警戒してもらっても良かったような……まあ、俺だったからいいけれど」
「……それで、元魔王様はどうして私に倒された後、人間になってわざわざ憎き敵に会いに来たの?」
ちょっぴり皮肉を込めてそう問うと、私が落ち着いたことで安心したらしいヒースは穏やかな眼差しで応える。
「別に、君のことはもう憎くもなんともないよ? なんというか……どうにも君のことが気になっちゃってね。どうせ討たれた俺に行き場はないし、こうなったら神殿に駆け込んで人間にしてもらって洗礼を受け、君に会いに行くことにしたんだ」
「……」
この人、本当にあの魔王?
だって、一年前に退治した魔王は――見上げるほどの巨体で全身真っ黒だし、なんかもう形容しがたいキモチワルイ見た目をしていた。おかげで私は一切の遠慮をすることなく倒すことができたんだけれど、あの魔王がわざわざ神殿に来て、人間になって、自分を討ち取った相手の家に転がり込んでくる? えっ、そんなことあるの?
「……えーっと、私が今まで勉強した歴史では、勇者に討ち取られた魔王が人間に転生するなんて聞いたことないんだけど?」
「俺も聞いたことないなぁ」
「おい」
「でもまあ、うまくいったしいいんじゃない? 俺、一年掛けて人間になったんだけど、人として生きる上で大切なことは全部神官たちから教わったんだ。魔王時代ほど魔力はなくなってしまったけれど、さっきもご覧に入れたようにほぼ全属性の魔法は難なく使える。これならきっと、君の役に立てるはずだよ。洗濯も料理も、なんでも任せて」
「……は? ちょっと待って」
私は身を乗り出し、相変わらずふわふわ笑っているヒースに指を突きつけた。あんまり上品な行動じゃないと分かっているけれど、こうでもしないと目の前のふんわりした男は話を聞いてくれない気がした。
「単刀直入に聞く。あなたはいったい何をしに、うちに転がり込んできた?」
「何だろうね……強いて言うなら、君の主夫になるためかな?」
こてん、と可愛らしく首を倒してそう言われたけれど……主夫? 主夫?
主夫って……あれか、主婦の男バージョン? 働きに出る妻の代わりに夫の方が家事全般を担うってやつ? ……いやいや、主夫って……えっ、私たちいつ結婚した?
中腰の姿勢になったまま動きを止めた私に構わず、ヒースはなぜかほんのりと頬を赤らめて続ける。おい、どうして生物学上女の私より可憐に頬を染められるんだ。
「魔王城で君と対峙したとき――こんなに小さくて可憐なのに馬鹿でかい剣を振り回して駆けてくる君を見て、すっごく好きになっちゃったんだ。一生懸命頑張る君を見ていると、この子に討ち取られるなら光栄だな。もし生まれ変われるなら人間になって、君が女の子として幸せに暮らせている姿を見守りたいなぁ、って思っていたんだ」
……なにこれ。
つまり、この元魔王様は必死で世界のため――そして、当時は名前を言いたくないあの人と結婚したかった自分のため――全力を尽くして戦った私の目の前で、そんなことを考えていたのか!? というか、私はあのキモチワルイ魔王に一目惚れされていたのか!? うわぁ。
内心ドン引きするやらちょっとだけ恥ずかしいやらでわなわな震える私の前で、ヒースは照れたように笑っている。
「神殿の神官たちは、俺の願いを聞き届けてくれたんだ。クロムウェル神官長と……アーチボルドだったかな? 特に彼らが親切にしてくれたんだ。……まあ、どうなることかと思ったけれど、結果俺はこうして、君と並んでも遜色ない年齢の人間の体を手に入れることができた。もし君が誰かと結婚して幸せそうに暮らしているのならそれはそれでいいと思ったけれど……いろいろあったんだね」
神官から一般常識を教わったということは、私の婚約破棄に関するあれこれも耳にしているんだろう。混乱しかけていた私は、ヒースの言葉にほんの少し冷静になれた。
私たちの婚約破棄について、一般的には「ただの女としての幸せを求めた女勇者が双方の幸福を考慮した上で婚約破棄した」ということになっている。あのボンクラはともかく、世話になった国王陛下の思いに報いるには、盗み聞いたボンクラの言葉を伝えるのははばかられたと思ったからだ。
代わりに、神官長様やアーチボルドを含む一部の神官には真実を伝えている。神官長様たちはもともと、名前を言いたくないあの人のことを快く思っていなかったようで、「結婚する前に気づけて良かった。これからは自分の幸せを追求しなさい」と背中を押してくださった。ということは、神官長様の世話になったというヒースがこのことを知っていてもおかしくないな。
だからヒースの言う「いろいろあった」という遠回しな表現には、婚約破棄騒動のあれこれも含まれているんだろう。そこをずばっと言わない辺り、案外彼は優しい……というか良心的なのかな。
「……確かにそうだけれど、婚約破棄に関してはもういろいろと割り切っている。それより……えーっと、つまりヒースは婚約者もおらず、女冒険者として暮らしている私の様子を見るために遠路遙々やってきたと?」
「うん。そしてできることなら、側に置いてほしいなぁ、と思ってね」
「……元魔王としてのプライドとかはないの?」
「そんなもの、とうの昔にドブに投げ捨ててるよ」
晴れやかな表情で言い切る美男子。これが本当にあの魔王の洗礼された姿なのかと問いつめたくなる。