5 私と侵入者とシチューと
私は、町の端っこに一軒家を構えていた。
最初はギルドの人間なら格安で借りられる宿舎で暮らしていたんだけど、壁が薄いから周りの人たちのいびきや暴れる音がひどいし、正直……ご飯もあまりおいしくなかった。だから給金を貯めて今年の夏、ちょうど家を手放して息子夫婦のところに移る予定だった老夫婦から家を買い取ることにしたんだ。
ギルドからちょっと距離はあるけれど、生活に必要な設備は一通りそろっているし、何よりうるさくない! 快適な眠りは、体力仕事の人間の必須要素だ!
老婦人のご趣味だったようで調理器具も一通りそろっているんだけど……申し訳ない。私、家事が全くできないんだ。
魔法が得意な女性は主婦になると、炎魔法や氷魔法を駆使して料理をしたり、水魔法で掃除洗濯をしたりするそうだ。でも私の能力は物理特化だし、そもそも料理が苦手だった。だからきれいな調理器具は全部戸棚にしまっていて、食事は外食か出来合いを買って帰るかエイリーが持たせてくれたお弁当を食べるかだった。
そういうわけで、いったんシャワーで汗を流して着替えた後、今日は何を食べようかと考えていたんだけれど。
「……ん?」
家の前まで来た私は、違和感に気づいて足を止める。
既に辺りは夜の気配が強くなっている。私は一人暮らしなので帰宅時、家の中が暗いのが当たり前なんだけど……。
「……灯りがついている?」
家の北東、キッチンのある辺りにぼんやりと灯りが灯っていた。しかも、それだけじゃない。この家に移って一度たりともその機能をまともに発揮することのなかった煙突から煙が上がり、どこからともなく香ばしい匂いが漂っていた。
……これは、どういうこと?
足音を潜め、壁伝いに裏庭をぐるりと回ってキッチンの方を伺う。あいにくカーテンが掛かっているから中の様子は見えないけれど……誰か、いるみたい。一人分の影が映っていた。
この家の鍵は二つ。私の手元に一つと、ちょくちょく様子を見に来てくれるエイリーが使えるようにギルドに一つ。さらに用心するために、私は王都の神殿から譲ってもらった清めの札をドアの内側に貼り付けていた。
私は八歳から十六歳まで神殿で育ったけれど、神官たちは親のように面倒を見てくれたり、時には兄のように遊んでくれたりした。世話になった彼らには事情と滞在先を伝えているから、何かあったときには家に入ってこられるようにしているんだ。
清めの札は、神官以外の者が無理に押し入ろうとすると防護壁を発動してくれる。鍵を持っているエイリーは、まだ仕事中。となれば、家に灯りが灯っているってことは王都の神官の誰かが来たってことだろう。ひょっとしたら私を待つ間にパンでも焼いているのかもしれないけれど、それくらいなら別に構わない。
王都で何か起きたのだろうか、と思って私は何気なくドアを開ける。
「……ただいま。どなたかいらっしゃっていますか?」
候補としては、私の教育係だったクロムウェル神官長様か、よく一緒に遊んでくれたお兄ちゃん神官のアーチボルドのどちらかだろう。
そう思って私は玄関の灯りをつけ、羽織っていたマントを脱ぎながらキッチンに顔を出した。
しかし。
「……あっ、おかえり! 待っていたよ」
こちらに背を向けていた青年が振り返り、ふわっとした笑みを浮かべた。
柔らかい金色の髪はくるんとした癖があり、灰色の目には愛嬌がある。私が今まで一度もまともに使えた試しのない竈の前に立っていた彼の手には、これまた老婦人が置いていってオブジェと化していた可愛らしいミトンが嵌められている。
神官長様でもアーチボルドでもない。というか、この顔に見覚えがない。
……。
……誰だ、こいつ?
「……侵入者、成敗する!」
「え? あ、待って! 説明するから武器は下ろして、ね?」
男性はミトンを外して「ちょっと待って」の意味を込めて両手を軽く挙げるけれど、油断大敵。人の家に上がり込む不届き者め!
私は中途半端に脱いでいたマントを床に放ると、腰に下げていた剣を鞘ごとベルトから外した。さすがに自分の家で血みどろ合戦を繰り広げる気にはなれないから、峰打ちで勘弁して後で拷問してやる。
青年が慌てている間に、私は「脚力強化」と「急所回避」の魔法を掛ける。私の腕力だと峰打ちのつもりでも頭蓋骨を粉砕する可能性があるから、半殺しに留めなければならない。
「覚悟っ!」
「ちょっ――ああ、もう!」
諦めたように男性が肩を落とした直後、私は床を蹴ってひとっ飛びのうちに相手との距離を詰めた。狙うは――無防備な首筋。
彼の背後を取れたときには、仕留めた、と思った。
でも――
「っ!?」
男の首筋に剣の鞘を打ち込んだとたん、バチッ! と音を立てて光が弾け、剣を持つ手がじんっと痺れた。これは――防護壁?
「ちっ――魔法使いか!」
「そんなところだよ。……ねえ、俺は君と戦うつもりはない。だからどうか、武器を下ろして」
どこまでも落ち着いた青年の言葉は口調が柔らかいだけでなく声もおっとりしていて、私は眉根を寄せた。
目の前の男はふわっとしていて華奢そうなのに、呪文詠唱をすることも詠唱のための時間を取ることもなく、私の剣戟を受け止めるだけの防護壁を張ってみせた。相手が魔法使いなら、魔法への耐性が異様に低い私に勝ち目は薄い。魔王討伐の旅でも、私に魔物の魔法が当たらないよう、護衛たちに守られていたんだ。
なおも私が警戒を解かずにじりっと距離を取ると、青年は悲しそうに目尻を垂らし、さっきの衝撃で足元に落ちていたミトンを拾ってテーブルに置いた。
「……前触れもなく家に入り込んだ俺に警戒する気持ちはよく分かるよ。でも、どうか話を聞いてほしい」
「そうして油断を誘って私の寝首を掻くつもりじゃないの?」
「そんなこと決してしない。なんなら……これ、見て」
彼は肩を落とすと、自分の着ているシャツのボタンを外した。
……え、何この人。裸になるつもり?
思わず絶句してしまった私だけど、彼が外したボタンは二つだけで、緩んだ襟に手を差し込んで自分の左胸の辺りをはだけてみせてきた。
訝しみながら彼の挙動を観察していた私は――その胸元を見、はっとした。
冒険者よりはかなり薄いけれど、男らしく引き締まった胸元。その心臓の上辺りにはうっすらと、白い文様のようなものが描かれていた。これは――
「神殿暮らしの長かった君には分かると思うけれど……これ、王都の神殿で洗礼を受けた証だ」
「……ほ、本物?」
「本物だよ。だから俺は、清めの札を貼っているこの家に入ることができたんだ」
……そうだ、そのことがすっかり抜け落ちていた。
清めの札によって神殿関係者ならば自然に鍵が解除できるようにしたのは、私だ。彼の顔に見覚えがないにしても、鍵なしに家に入ることができたのなら少なくとも神殿関係者であることは確かだったのに。
神殿関連となると、抗う必要はない。
私は観念して剣を下ろし、唇を噛みしめた。
「……いきなり襲いかかって、すみません」
「いいえ。一応このことは君に伝えてもらうようギルドの人に頼んだのだけれど、どうやら入れ違いになってしまったようだね」
そう言って彼は微笑み、振り返った。今気づいたけれど、竈には私が一度も有効利用できたことのない鍋が乗せられていて、なにやらおいしそうな匂いを放っている。香ばしい匂いの正体はこれみたいだ。
「クロムウェル神官長から、君はきっと自炊できず外食や出来合ばかりで生活しているだろうと伺っている。だから、道中買ってきた食材でシチューを作ったんだ。もし食事がまだなら、食べながら話をしないかな?」
「……分かった。その、まともに料理できないから……ありがたいです」
クロムウェル神官長は私の教育係で、私の得意なことも不得意なこともなんでも理解されている。今年の春にファブルに滞在している旨を手紙で記したときの返事には、「少しは自炊を心がけなさい」とお小言が添えられていた。うん、まあ、努力はしているけど……ダメだったんです。
青年の口から世話になった神官長様の名前も出てきたことだし、彼が神殿の洗礼を受けたのも確かだ。見た感じあんまり神官っぽくないけど、一応信頼には値するみたいだ。
彼は私の返事を聞くとぱあっと顔を明るくし、「よかった!」と安堵の息を吐き出した。
「それじゃあ、あと二十分くらいで完成すると思うから、君は着替えをするなりシャワーを浴びるなりしてきてくれていいよ」
「えっ……その、さすがに悪いから少しは手伝うよ。その……皿を並べるくらいならできるし」
へたに調理を手伝えば大惨事になるのは目に見えているのでそう申し出たけれど、彼は笑顔で首を横に振った。この辺ではあまり見られない癖毛がふわふわ揺れる。
「君は仕事終わりで疲れているだろうから、ゆっくり休んでいて。大丈夫、君の味の好みも神官から聞いているから、期待して待っていてね」
「……そういうことなら、お願いするよ」
彼にやんわりと押し切られ、私は頷くしかできなかった。
床に放ったままだったマントを拾い、風呂場に向かいながらふと私は思う。
そういえば彼、なんていう名前なんだろう、と。