34 ヒース、語る
閉まったドアを見つめていた私だけれど、こほっと咳払いする声で慌てて正面を向いた。そこには、やや気まずそうな面持ちのヒースが。
「あー……勇者伝説と神殿に関することは、さっきアーチボルドが言っていたことが全てだ。ここからは、俺から話をさせてもらいたい」
「う、うん」
アーチボルドが教えてくれたのは、あくまでも神殿の神官が知り得ている内容のみ。ヒースが異世界の人間として神とどのような話をしたのかは――ヒースしか知らない。
「でも……いいの? そういうことを話して神から罰せられたりしない?」
「しないよ。さっきの話だって、『勇者を悲しませるかもしれないから、内密にすること』って取り決めになっているんだ。君は真実に触れてしまったし、隠しておく方が酷だ。神からも、絶対に明かすなとは言われていないからね」
「その……ヒースって、本当に神と話ができるんだね?」
神と話ができるのは高位神官だけだと思っていたから、こんな身近に神と言葉を交わすことのできる人がいるなんて思ってもいなかった。
ヒースは頷き、自分の左胸――洗礼の証のある場所に触れた。
「……さっきアーチボルドが言っていたように、俺はもともと異なる世界で生きていた人間だ。この世界とよく似ているけれど、ちょっと違う。俺はその世界でヒースという男として生きていたんだ」
ヒースが生まれ育ったのは、私たちが暮らす世界とよく似た別世界だった。
人間が存在し、ちょっと形は違うけれど動植物が生きている。時間の数え方は異なるけれど、数学は普通に発展している。空は青いけれど、夜になるとこぶし大に見えるやたらでっかい星がいくつも夜空に浮かんでいる。人間の髪の色は金色が基本で、魔法とまではいかなくても超能力を持つ人がざらに存在する――そんな世界。
ヒースはごく普通の青年として生きていた。こっちの世界とは年月の数え方が違うから明確ではないけれど、「こっちの世界で言うと二十歳になるくらいまで、その世界で生きていた」らしい。
ヒースの暮らす世界でも、しばしば戦争が起きていた。ただしその世界に魔物とかは存在せず、人と人とが超能力と文明の利器で抗争を繰り広げていたという。
ヒースは両親と暮らしていたそうだけれど、突然の敵襲を受けて町は壊滅、常人にしてはちょっと高めの能力を持っていたヒースだけ戦火の中でも生き残ってしまったそうだ。
家族も故郷も炎の中に消えた。それでもなお、兵士たちは戦いを繰り広げている。
もう嫌だ、自分も死にたい――そんな絶望に暮れていたヒースに呼びかけたのが、私たちの世界の神だったという。
「神は俺に、異なる世界を救ってくれないかと頼んできた。……俺にそんな力があるとは思えなかったけれど、ちょっとだけ自暴自棄になっていた。家族も親しい人も全部死んでしまったし、もうこの世界で生きていても仕方ない。だったらいっそ――って思って、異世界に渡ることにしたんだ」
神はヒースに事の次第を伝え、「『破壊の子』を、そしてこの世界を守るために、悪者になってくれ。その代わりに、使命を全うした際には可能な限り願いを叶えよう」と条件を出したそうだ。
願いを叶える――に一瞬希望を見出したが、「過去に戻ることはできない」と釘を刺されてしまった。両親を生き返らせることも不可能だと知って落胆したが、神の申し出を受けることにした。願いは、後で考えればいいだろう。それよりは、何かにすがり、生きる意味を見いだしたい、と。
ヒースがすべきなのは、神の魔力をその体に蓄え、勇者としてやってくる「破壊の子」の凶悪な魔力を相殺させること。自分は魔王として皆に恐れられ勇者には敵として恨まれることになるだろうが、どうせ知らない世界の人だ。やってやろう、と神の魔力を授かることにしたんだという。
魔力を体に貯めるまで、十年近く掛かった。静かに魔力を溜め込みながら成長していたヒースはある日、神の力で「破壊の子」の姿を垣間見た。
「ぼんやりする意識の中で俺が見たのは――剣を握って一生懸命相手に斬りかかっている女の子の姿だった」
年端もいかなそうな少女が唇を噛みしめ、大柄な男性に斬りかかってははじき飛ばされていた。
またある時は、少女は魔力の制御がうまくいかず、影に隠れて一人泣いていた。
またある時には、少しだけ成長した少女が知らない男――後でラルフ王子だと分かったそうだ――と楽しそうにしゃべっていた。
また別の時には、かなり大人びた少女が平原で魔物の群れを屠っていた。
……ヒースはとぎれとぎれではあるけれど、私の成長する姿を見ていたんだ。
「こんなに小さな女の子が泣きそうになりながら剣を握って、魔法の勉強をして、魔物を倒している。失敗したときには泣いているし、強がっているけれど一人になるとすごく悲しそうな顔をしている。……俺は神の魔力を貯めている期間、そんな君を見てきていたんだ」
いつしかヒースは、少女に興味を抱き、同情し、そして――助けてやりたいと心から思うようになっていた。でも、彼にできるのは少女が心おきなく戦い、いずれ己をも滅ぼす魔力を相殺させるためひたすら待つことのみ。彼は、魔王城から動けなかったそうだ。
話を聞いていた私はもしや、と少し身を乗り出した。
「……魔王城で戦ったときのヒースがすっごく気持ち悪い見た目だったのも、私のため?」
「うん。勇者と戦う際にはどんな姿でもいいって神には言われていたから、あえて君が嫌悪しそうな姿を借りることにした。人間に近い見た目だったら躊躇うかもしれないし、そうなれば君を救うことができないからね」
そうして勇者――私が魔力のほとんどを解放したのを確認し、ヒースは負けた。勝負の末に敗北したんじゃなくて、もう大丈夫だと判断して「負けることにした」んだ。
「俺は見事、神の使命を果たした。あとは、神が俺の願いを聞き届けるだけだった」
その気になれば、生まれ育った世界にも戻れたそうだ。過去に戻ることはできないが、戦争とは無縁の平和な国に降り立つこともできたし、もしくは全く異なる世界で暮らすこともできた。容姿や能力は変えられるとのことだったから、ヒースにはいくらでも選択肢があった。
でもヒースが望んだのは――「この世界の人間として生きていきたい」だった。
「幸い、異世界人の俺だけど容姿は君たちとほぼ一緒だった。だからこの世界の男として健康な体と生きていく上で十分な魔力をもらって、俺はクレイ王国の神殿に降り立った。クロムウェル神官長は高位神官から既に神の言葉を聞いていたみたいで、すぐに俺を受け入れてくれたよ」
……なんだか、頭の中がごちゃごちゃしてきた。
でもヒースは対照的にすっきりしたような晴れやかな表情をしている。……いろいろ心の中に溜め込んでいて、ヒースも疲れていたのかもしれないな。
「それで俺は一年かけて教育係のアーチボルドの手を借りて、最低限の知識を教わった。料理とかはもともとできたし計算もこっちの世界の数字さえ覚えればなんとでもなった。文字はなかなか覚えられなかったけれど、魔王時代から言語は理解できたし、生きていくだけなら十分だった」
……だから気遣いもできるし家事万能だし、計算も難なくできたのか。人間一年生の割には万能だと思っていたら、そういうことだったんだな!
「……話は分かった。それでヒースは私を追いかけてファブルの町まで来たってことか」
「そうそう。……だからさ、俺、魔王城で戦ったときに君に一目惚れしたって言ったけれど、それは嘘」
ヒースが立ち上がり、テーブルを回って私の隣にぽすんと腰を下ろした。
隣に、ヒースの体温を感じる。見上げると、きらきら光る灰色の目が私を真っ直ぐ見つめている。
「最初は、健気な子だな、って思いながら君の姿を見ていた。でも年月が流れることに、君はどんどん美しく成長していった。いざ魔王城で直接君の姿を見たときは――こんなにきれいな人が存在するものなのか、って思ったんだ」
「……私、すっごい形相で斬りかかったんじゃない?」
少なくとも当時の私は、えぐい見た目の魔王をぶっ潰そうと全身全霊戦った。長い間旅をしていたし、化粧っ気もない。おまけに憤怒の表情で斬りかかっていたんだから、きれいにはほど遠いと思うんだけど。
でもヒースは笑顔で首を横に振り、手袋の嵌った大きな両手でそっと私の手を包み込んできた。
「とても美しかったよ。使命感に燃えて正義のために戦おうとしている君の姿は、眩しいくらいに輝いていた。……君に倒されたときには、これでやっと君を救える、ここまで頑張ってきてよかったと心から思えた。……だから、人間になって君に会いに行きたかった」
ヒースが神殿に降り立ったときには既に、私はクソ野郎と婚約破棄して王都を離れていた。だからヒースは一年間の修行期間を終えると真っ直ぐファブルの町にやってきたんだという。
「もし君が他の男と結婚しているなら、それはそれでいいと思っていた。でも君は独り身で、たくましく生計を立てていた。……それを好機だと思い、転がり込んだ俺はずるい男だ。でも、君に白い目で見られても怪しまれても――君を支えたい、君が笑顔でいられるよう手を貸したいって思ったんだよ」
……だからなのか。
だからヒースはあれほどまで私に尽くしてくれたのか。
そんなヒースなのに、私は――
「っ……ご、ごめん。私、ヒースの事情を何も知らなくて、あんなひどいことを――」
やっと謝れた。
俯いて謝罪の言葉を述べると、ヒースは「ん?」と声を上げた。
「それってまさか、ヒースさえいなければ――ってやつ? それは仕方ないよ。だって君は真実を知らなかったんだし、あのときはいろいろ混乱していたんだろう?」
「でも……! ヒースは見返りを求めずにあれだけ私の世話を焼いてくれたのに、私は恩を仇で返すようなことを言ったし、あなたの忠告を聞かずにのこのこ王都に来て捕まったし――」
「君が王都に来るのは分かっていて、俺は先行して神官長たちに相談に来ていたんだ。それに――俺、見返りを求めないなんて一言も言っていないよ?」
ふいに視界が暗くなったので、あれ、と思って顔を上げる。
そうして、さっきよりずっと近い場所にヒースの顔があることに気づく。ちょっと身を乗り出せば額同士がぶつかりそうなほどの近距離で、彼の灰色の目を縁取る金のまつげの一本一本までくっきり見える。
「ヒー――」
「俺がほしかった見返りは、君の笑顔。そして――君とずっと一緒に暮らすことだよ」
握られた手に力が込められる。私の手は既に汗まみれだけれど、ヒースの手も負けないくらい熱い。
どくん、どくん、と脈打っているのは、どっちの心臓だろう。
彼の目を見ていると頭の中がぼんやりとしたようになってしまうのは、どうしてだろう。




