26 それを言わないで
そこからどうやって家に帰ったのかはよく覚えていない。
郵便屋との会話もそこそこに飲み物代だけカウンターに置くと、逃げるようにギルドを飛び出した。そうして通りすがる人たちの目を気にしながら帰った――ような気がする。
「あ、お帰りカティア。ちょうどパンケーキを焼いていて――」
転がるようにリビングに飛び込んだ私を、ヒースが迎えてくれた。家の中はパンケーキの焼けるいい匂いがしていて、その温かくて優しい匂いに包まれていると――
「……」
「えっ……! カティア、どうしたんだ!? 怪我でもしたのか!?」
思わずフローリングの上にへたり込んでしまう。震える拳を固め、唇を噛みしめる。涙だけは絶対に零したくなかった。
ヒースが慌てたように駆け寄り、私の肩を抱いてくれた。普段こんなことをされたら「何をする!」って背中を張り飛ばすだろうけれど、今は彼の力強い腕の温もりがすごくありがたくて、縋りたくなった。
「さっきギルドで……ラルフ王子が、私を捜しているってチラシを……」
「王子が!?」
この様子からして、ヒースはまだ噂を聞いていなかったようだ。
彼に支えられてソファに座り、さっきギルドで郵便屋から聞いた情報を、いつの間にか握っていた例のチラシを見せながら説明する。たぶん私の話す内容は支離滅裂ですごく聞き取りにくかったと思うけれど、ヒースは真剣な眼差しで頷きながら聞いてくれた。
「……そうか。どういうことなのかは分からないけれど、ラルフ王子が君を捜していて、懸賞金を掛けている町もあるらしいと――」
「エイリーや町長さんがそんなことを許すとは思えないけれど……でも、私を生け捕りにしてしょっ引いたら大金がもらえるんだよ。私の事情を知っている人なら、この似顔絵と情報でピンと来るかもしれない……」
そうしたらきっと「カティア」は殺され、「ケイトリン」として城に連れて行かれてしまう。
私だってほいほい捕まるつもりはない。でも、一般市民相手に身体能力強化魔法は使いたくないし、私は我ながら単純だから罠でも掛けられたらあっさり捕まる自信がある。
ヒースは眉間に深い皺を刻んでいたけれど、やがて息をついた。
「……王子の意図はよく分からないけれど、君は王都に戻りたくないんだろう?」
「もちろん! 私はこの町で、カティアとして生きていきたい。でも――」
私が「カティア」として生きていくことを、皆は許してくれるのか? さっきは「誰かに捕まるかもしれない」ことが心配だったけれど、冷静になるとまた別の危険が押し寄せていることに気づけた。
事情を言えば、エイリーや町長は私をかくまってくれるかもしれない。でも、かくまっていることを知られたら、どうなる?
もし王都から軍隊がやってきたり、懸賞金目当ての連中が町に押しかけてきたら?
「……心配しなくていいよ、カティア」
ぐるぐると思考を巡らしていた私は、ふいにヒースに抱き寄せられた。私の隣に座っていたヒースが体を捻り、自分の肩口に私の額を押しつけるような形で抱き込んでいる。
温かい、ヒースの腕の中。
「絶対に君に辛い思いはさせない。俺が守るよ」
「……本当に……ヒースはよくできた家政夫だね」
笑いたい。笑いたいけれどちょっと勇気が足りなくて結果、泣き笑いのような顔になってしまったけれど、ヒースの肩に顔を埋めているから無様な表情を見られずに済んだ。
ぎゅっと彼の腕に軽く爪を立てる。
「でも……そこまでしなくていいよ」
「カティア」
「むしろさ、よく一年以上も逃げ回れたなぁ、って感心しているくらいなんだ。ラルフ王子が本気になれば、権力を行使して私を捕獲するなんてたやすいことだよ。今まではそこまでしてこなかったから逃げられただけ。……結局、こうなる運命だったんだよ」
「そんなことはない。君は君らしく生きる道を見つけている。それを邪魔する権利は、王子だろうと持っていないはずだ」
しゃべるたびに、ヒースの肩が振動する。背中に添えられた彼の手のひらは――少しだけ、震えている?
「君が望むなら、なんだってするよ。君を連れ戻そうとする輩がいるなら追い払うし、君がどこかに逃げたいと思うならどこまでも君を連れて行く」
「だめだよ、そんなの。きっと……王子は本気だ。私をかくまっているとなると最悪、あなたまで狙われてしまう」
「俺は元魔王だ。人間の兵士くらいどうってことないし、王子とやらに従う義務もない」
「ずいぶんむちゃくちゃをする魔王だなぁ」
あはは、と笑い飛ばしたかったけれど、乾いた笑い声しか出てこなかった。
ヒースが本気だというのは私もよく分かっている。だからこそ、彼まで巻き込みたくなかった。
「……あのさ、ヒース。私、いったん王都に戻ろうと思うんだ」
「だめだ」
「話は最後まで聞くっ! ……別に、王子の嫁になりに行くわけじゃないよ。でも、逃げ回ったりかくまってもらったりして誰かが傷つくくらいなら、どんと正面から交渉した方がすっきりするはず。……お触れを出すくらいなら王子も本気なんだろうけど、そもそも王子がどういう目的で私を呼び戻そうとしているのかは不明だし」
「……王位継承権で何か言われているんじゃないのか? 神官長からは、第一王子のラルフと第二王子のライアンで継承権争いが起きているって聞いている」
おや、ヒースもそのことは知っているみたいだ。
名前を言いたくない人の二つ年下のライアン王子は兄より優秀で、国民からの支持もあると聞いたことがある。私も正直あいつが王になるよりはライアン王子の方がふさわしいんじゃないかって思っている。
……ああ、なるほど。
そういえばあいつは盗み聞きしたとき、「ケイトリンを妃にすれば王太子になれるはず」みたいなことを言っていた。このままだと自分と弟どちらが王太子になれるか分からなかったから、渋々私との婚約を継続させていた。
彼自身に王の器があったならともかく、私がいなくなってからは一気に不利な状況になったんだろう。それで、信頼を勝ち取るために勇者ケイトリンを呼び戻し、妃にすることで弟ではなく自分が王位に就こう――と。
「そうみたいだね。……だとしたらいっそう、このまま逃げるわけにはいかないよ。さくっと王都に行ってずばっと言いたいことを言ってやればいい。自分が王太子になれないとはっきりすれば、あの人もこれ以上私を追おうとしないはずだよ。でも、ただ逃げるだけだったら王子はどこまでも私を追うかもしれない。それなら、今決着を付けてしまいたい」
「……王子が君と話だけしてすんなり納得し、帰らせるとは思えない。卑怯な手を使って拘束してくるかもしれないだろう」
「もちろん分かっている。……でも、軍隊、賞金稼ぎ、不正なギルド……そんなのに追われながら生きるなんて、まっぴら御免。誰かを巻き込むのは、もっと御免。……その気になったら城でもぶっ壊すし、王子の首を頂戴するよ。じっとしているより、逃げ回るより……たとえ負けたとしても、誰かを巻き込むよりもずっとましだ」
「それは、そうかもしれないけれど――」
「結局、私は最初から最後まで勇者なんだ。……勇者ケイトリンの最後の大仕事だと思って行ってくるよ」
ここまで言えば、きっとヒースは頷いてくれるだろう。今までにも彼とぶつかったことはあるけれど、ちゃんと理由を説明したりすれば彼も最後には承諾してくれたんだから。
でも――とたん、ヒースは私の体を引きはがし、視線を重ね合わせてきた。
その灰色の目に浮かんでいるのは――怒り?
「ヒー――」
「君がそんなことをする必要はない。君は、勇者じゃないんだ!」
叫ぶようなヒースの言葉。それはもしかしたら、ここに来たときからずっと彼が胸の内に抱え込んでいた叫びだったのかもしれない。
私は、勇者じゃない。
それは、本当のことかもしれない。でも、今の私には彼の言葉を冷静に分析できるほどの余裕はなかった。
――勇者じゃない?
それを、ヒースが――元魔王が言うの?
「……いで」
「カティア?」
「……誰のせいで、私が勇者になったと思ってんの!?」
だめだ、やめろ、そんなの八つ当たりだ、と冷静な自分が諭してくる。でも……堪えられなかった。
八歳で神殿に引き取られたときからずっと思っていたこと。
「どうして、私なの?」という問いかけ。
ヒースの腕を掴む手に力を込めると、彼がうっと唸る声がした。
「……私が子どもの頃から、好きで剣術を習って好きで物騒な魔法を覚えたとでも思ってるのか!?」
今では諦めもついたけれど、子どもの頃はべそべそ泣いたことがある。
どうして私は他の女の子みたいにお花を摘んで遊ぶんじゃなくて、剣術を習わされているの?
どうして私は他の女の子みたいに可愛い服じゃなくて、ぼろぼろの防具を身につけているの?
どうして私は他の女の子みたいにお花屋さんやお菓子屋さんじゃなくて、勇者にしかなれないの?
――周りの大人や神官たちの答えはいつも同じ。「おまえは勇者だから」「魔王が誕生したから」だった。
寂しくて、他の女の子たちが羨ましくて。魔王を倒すなんて嫌だったけれど、でもそれでみんなが喜ぶなら、褒めてくれるのなら――そして、お花屋さんやお菓子屋さんはだめでも、素敵な王子様のお嫁さんになれるのなら――そんな単純な理由で、私は名前を言いたくないあの人に結婚を申し込んだんだった。
思春期になる頃にはいろいろ悟りを開いていたけれど、「もし魔王が生まれなかったら」「もし私が勇者じゃなかったら」と思うことは幾度もあった。そのたびに「仕方ない」で自己完結させて、そういうもんだと認識するようにしていた。
「仕方ない」「それが私の運命だから」で自分を納得させてきたから、脳筋と言われても最近では笑い飛ばせるようになった。むしろ、この馬鹿力を活用できるなら、ってさえ思っていたのに。
……でも、目の前で諸悪の根元に「勇者じゃない」なんて言われたら。
「魔王がいなければ、勇者である必要がなければ、私は普通の女の子でいられたのに! それなのに今さら『勇者じゃない』なんてよく言えるなっ!」
「待って、カティア。俺は――」
「おまえさえいなければ――」
――よかったのに。
最後の理性が、その一言を吐き出すことを阻止してきた。
私はぐっと言葉を飲み込むと、目を見開いてこちらを見つめるヒースの腕をぱしんと叩いた。それほどの力じゃなかったけれど、私の体を拘束した彼の手はあっさり離れた。
ソファから立ち上がり、ヒースに背中を向ける。
「カティア――」
「今日はもう休む。ご飯はいらない」
ヒースは何か言いたそうにしていたみたいだけれど、私は振り返ることなくリビングを突っ切って廊下に出て、乱暴にドアを閉めた。
頭が痛い。悲しいわけじゃないのに、涙が零れそうになる。
リビングに戻れ、今なら仲直りできるはず、と私の中で声が聞こえたけれど、ごく小さな叫びは荒れ狂うような感情に押し殺されてしまう。
今すぐに自分の非を認めてヒースと話ができるほど、私は要領も頭もよくないし、大人でもなかった。




