2 さようなら猫ちゃん、さようなら初恋の人
ほわほわ夢見心地だった私は、目を瞬かせた。ラルフ様のご友人たちの言葉が、がんがんと頭の中でこだまする。
彼らは今、誰のことを「粗野な女」と呼んだ?
私の手の中で、ガラス製のグラスがミシミシ悲鳴を上げている――いけない、いくらとんでもない話が聞こえたからって、罪のないグラスを破壊するところだった。
……そうか。粗野な女、ね。
それも仕方ないか。
私の魔法の才能は身体能力強化方面に振り切っている。だから、私のことを悪し様に呼ぶ者が少なからずいる。いるのは、分かっている。
『本当に。せめてこう……色気があるとか超絶美人とかだったらまだ分かったのですが、髪も目も地味な色ですし、見た目もぱっとしないし』
『脳筋を娶るなんて、とんでもないことじゃないですか、ラルフ殿下』
『今でも遅くありません! 何か言い訳して、脳筋女との婚約を破棄してはいかがですか!?』
ふざけんな、誰が脳筋だ。地中に沈められたいのか。
式典のためだから、ということで被っていた仮面が剥がれていっているのは分かっているけれど、どうせ周りには誰もいないしラルフ様たちはかなり離れた場所にいる。どうにでもなれ、ケッ。
『……そう言うな、皆』
あっ、ラルフ様だ。
ぼろくそに言われてやさぐれていた私は「聴力強化」を解除しようと思ったけれど、ラルフ様の声を耳にしてはっと息を呑む。
そう、周りが何と言おうとラルフ様は私の味方をしてくださるに決まっている。
だって、あんなに優しい笑顔でダンスを踊って――
『これも王族のつとめだ。私だって、剣を握って魔物を屠るような女を進んで娶りたいと思うわけない』
……うん、そう。いつだって優しくて――
『だがケイトリンを妃にすればきっと、父上も私を王太子にしてくださるはずだ。ライアンに王位を譲るくらいなら、あのような不細工だろうと筋肉女だろうと、我慢して結婚するさ。九年前からその決意は変わらない』
……。
『なんということ……お労しいことです、殿下!』
『醜女を娶ってでも王族のつとめを果たそうとなさる殿下こそ、王にふさわしいです!』
『しかし王妃となると……ケイトリン様と閨を共にされるのでしょう?』
『……まあ、正直あんな脳筋を抱くのは全く気が進まないが、仕方ない。一人王子を産ませたら後はなんとか言い訳して、離宮に下がってもらうさ。父上は私よりケイトリンのことを可愛がっているようだが、勇者の血を継ぐ世継ぎさえ残せば、父上もやかましく言うまい。厄介払いできたら、側室を迎える。もう決めているんだ』
――パリィン! と可憐な音を立てて、私の手元で美しいガラスの破片が舞った。
ラルフ様たちにその音が届くことはなかったようで、おしゃべりは続行している。
『側室には……ああ、この前君が紹介してくれた公爵令嬢。あれはなかなかの体を持っていたな。閨でも満足することができた』
『それは僥倖です!』
『では早速公爵令嬢に、殿下からお呼びが掛かっていることを伝えましょうか?』
『ああ、頼んだ』
そうして、ラルフ様たちの声が遠ざかっていった。場所を移動したみたいだ。
……ほう。
つまり……そういうことなの?
「聴力強化」を解除した私は、足元に散らばるガラスの破片を見下ろす。すまない、グラス君。罪もない君を破壊したこと、お詫び申し上げる。
……つまるところ、ラルフ様は私と結婚したくないと。
最初から王位目当てで私との結婚を了承しただけで、既によその女を囲っていると。
とんでもない事実を耳にしたというのに、私の心は、驚くほど落ち着いていた。私、あんまりメンタルは強くない方だと思っていたのに……自分でもびっくりだ。
ラルフ様と知り合ってから九年。これまで心の奥で大切に積み上げ、彩ってきたものが一気に崩れ、砂塵と化していく。目に見えない何かがぼろぼろと崩れ、心が空っぽになるような感覚。
でも、不思議とそれを悲しいとか、辛いとかは思わなかった。百年の恋も冷める――ってのはまさにこのことだろうか。
あんなに憧れていたのに。ラルフ様の花嫁になることを心の支えにこの九年間、頑張ってきたのに。私、案外冷酷なのかな。
……いやいや、これって私が悪いの?
勇者に選ばれたのはともかく、胸がでかくもお色気美人でもなかった私がいけないの?
扇子より重いものを持ったことがないんじゃなくて、バスタードソードより軽い武器を持ったことがないレベルの私がいけないの? ん?
「……ばっかみたい」
低い声が出た。あっ、今の私、被っていた猫が完全にどこかに行ったな、と実感する。気を付けてお家に帰るんだよ、猫ちゃん。
ああ、何もかも、ばかばかしい。
王子様の花嫁なんて、幻想だった。当の本人にはずっと疎まれて浮気もされていたのに、私は疑いもせず脳内お花畑状態だった。
盗み聞きしたことへの後ろめたさはあるけれど、結婚する前に気づいてよかった。このままじゃ、お互いのためにならないだろう。
私は手に付いていたガラスの破片を叩き落とすと、歩きだした。せっかくだから「脚力強化」の魔法を使い、常人離れした速度で廊下を駆け、階段を下り、広間に向かう。途中すれ違った人たちは、「今、なんか黒っぽいものとすれ違った?」と不思議に思っていることだろう。
広間の扉の前には衛兵たちがいたから魔法を解除し、仰々しくお辞儀をする。
「ケイトリン・ハワーズです。国王陛下にご挨拶をいたします」
「かしこまりました、どうぞ」
衛兵たちは、「ご挨拶」を部屋に引っ込む前の挨拶だと思っているらしく、すんなり扉を開けてくれた。
――眩しい。
キラキラ輝くシャンデリア。着飾った人たち。おいしそうな料理。
ちょっと前までは、もうじき私がこの煌びやかな世界を支配する女になるのだと思っていた。立派な王妃になろうと決意を新たにしていた一時間ほど前の自分にボディーブローを食らわせたいところだ。
客たちは私を見るとささっと道を空けてくれた。おかげで、玉座に座る国王陛下と――あれ、いつの間に戻ってきてたんだ? って感じのラルフ様の御前まで真っ直ぐ向かうことができた。
親元を離れて神殿にやってきた私に何かと気を回してくださった陛下は私を見ると、皺の寄った目元を緩めた。
「おお、ケイトリンか。夜風に当たって休憩していたそうだな」
「……はい。しばらく会場を空けましたこと、お詫び申し上げます」
きちんと膝を折ってお辞儀をしつつ、私の胸がちくっと痛んだ。
ラルフ様――ああ、もう「名前を言いたくないあの人」でいいや――はともかく、陛下にはずっとお世話になった。神殿暮らしの私が不自由しないように手配してくださったし、「たまには娯楽も必要だろう」と遠乗りに誘ってくださったり、同じ年頃の女の子を呼んでお茶会をさせてくださったり。
魔王を討伐したとき、皆の前では「よくやった、勇者ケイトリンよ」と仰々しく言っていたけれど、その後別室でお会いしたときは「おまえが無事で本当によかった」と心からのお言葉をくださった。私、これから陛下を義理のお父様と呼べることが本当に嬉しいと思っていた。
……私が今からやろうとしているのは、そんなお優しい陛下を裏切る行為だろう。でも――
「陛下、わたくしからお願いがございます」
……でも、迷わない。
きっとこれが、一番いいんだ。
「……ラルフ王子との婚約を破棄させてください」




