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九 毘沙門天

「何を求めてここにきたのか。」

 低い声。男の声としても太く微か。板張りの床を震わせ、声のする方向は定かでない。瑠海男は考えをまとめられていない。声は苛立ったように畳み掛ける。

「力か?。それなら帰れ。助けか?。それなら滅びてしまえ。」


 ………………………


 仕事が終わった夜、雄二は、自転車の瑠海男を連れて言問通りを走っていた。谷中の霊園を抜け、右手へ曲がり、坂道を登りきると、ある寺の山門が見えてきた。

「ここには、毘沙門天様がいらっしゃる。戦いの神様だぜ。」

 そういって、二人は山門へ向かって行った。人影のない夜の境内。固く閉ざされた戸口。御朱印の窓口も、固く締まっていた。奥へ奥へと進むうち、雄二は急に無口となった。

 奥に御堂があった。無人の御堂から、ギギという音が聞こえると、鎧戸に少し隙間が空いた。雄二は無言のままツカツカと奥へ進む。

 その中から闇に鈍く響く物音。ドス、カタリ、ドス、カタリ。

 瑠海男は怖くなった。しかし、足が動かない。そうしているうちに、中から瑠海男を呼ぶ雄二の声が響いた。

「はいれ。」

 微妙に畏まって聞こえる雄二の声。いや、雄二の声にしては腹に響くほどの低音だった。


「十二神将の中で毘沙門天といわれる神ならば、人間を取って食うことはあるまい。神ならば聞く耳を持たずとも、問答ぐらいは出来るかもしれない。」

 瑠海男は、そう考えると御堂の入り口近くに正座した。雄二は、瑠海男の左手に座り、なにも喋らなかった。

 瑠海男は、戸惑いながら正面を見入った。暗闇に漂う白檀。姿勢を正す正座。瑠海男は父の愛した厳粛さを思い出した。瑠海男は正座を崩さなかった。

 どのくらいの時間が経ったのだろうか。瑠海男の心を見透かすかのような時間が流れた。明り採りから差し込む月光。暗く澱む正面の御座。そこには毘沙門天が居る。瑠海男はそう感じた。


 長く永く待たされた。流石に眠気を覚えた頃、正面の奥の暗闇から声が低く響いた。正確には、奥からの声なのか、雄二の声なのか、区別の付かない低さだった。瑠海男は顔を伏せた。

「ようこそ、来られた。」

「あなたは毘沙門天….。多聞天。正義と闘いの一尊…。」

「よくその名を憶えて居るな。さて、なぜ此処に?。」

 低い声は声の主の方向を悟ることができない。脚に響く振動。どこを向けば良いのか。瑠海男は言葉を用意していたはずだった。

「何を求めてここにきたのか。」

 低い声。男の声としても太く微か。板張りの床を震わせ、声のする方向は相変わらず定かでない。瑠海男は考えをまとめられていない。声は苛立ったように畳み掛ける。

「力か?。それなら帰れ。助けか?。それなら滅びてしまえ。」

 突然、目の前に重太達の顔が浮かんだ。用意した言葉ではなく、苦い記憶。それが怖れを消し、強い想いを思い出させた。

「戦いの神であるあなたの所へ、連れてこられました。ということは、戦える力をいただけるのでしょうか?。」

「私が戦いの神だから来たのか?。」

「はい、逃げ出さなくてもよい力を下さい。」

「私は、祈って願われたから与えるような、御利益の神ではない。」

「すみません。頭が悪くて、飲み込めないのですが。」

「お賽銭の額で、願いを聞き入れるわけではない、ということだ。おまえが何を求めているのかが問題だ。」

「では、理由と状況を言えばよいのでしょうか?。僕は理不尽で一方的ないじめを受けて逃げ出し、ここにたどり着きました。何故こんな苦しみがあるのかに悩んで来ました。」

「それでは、なにを求めるか。」

「正義です。つまり、普遍的なイジメの苦しみからの救いです。例えば私は、何か悪を行なってきたでしょうか。一方的な言い分で虐められ、苦しみを得ています。悪であるがゆえ因果応報によって苦しみが与えられているとは思えません。しかし、本来なら、因果応報であるべきです。」

「そうか。単純に苦しみから救い出されることではないのか。」

「ただ、わたしだけが虐めの苦しみから逃げ出せても、他の人はどうなるのですか?。やはり、すべての被害者にすべからく、いじめから抜け出せることが必要です。それには、正義が必要です。」

「頭が弱いと申したではないか?。それにしては、難しい言葉を使うのう…。なぜ、そのように考えようとするのか?。うーむ。それでは、正義を誰が決めるのか?。お前は他の人と言うが、お前に苦しみを与える者を叩きのめすのが正義か?。お前が正義を決めるのか?。」

「うっ、それは…。しかし、あなたが正義を決められるのではないのですか?。」

「わたしは、よく聞き分け、仏法に逆らい破壊し悪を為す者を、ただす者に過ぎない。」

「それでは、無抵抗の者に対して一方的に害を与えることは、悪とするべきではないのですか?。」

「確かにその行為は悪としてよいであろう。しかし、お前を正しい者とし、彼等を悪とするのか?。それは、誰が決めるのか?。お前か?。」

「分かりません。」

 瑠海男は答えられなかった。なぜこんな問答を返してくるのか。

 瑠海男にとって、毎日一方的に殴られ、蹴られ、倒され、恐怖を味わうことは目の前の現実だった。彼等は瑠海男だけを虐めているわけではない。社会に悪を為し、言い訳をして逃げる。彼等は明らかに悪党以外の何者でもなかったはずであり、正すべき悪だった。

 正義は遠かった。それは明らかに苦しみだった。


「僕は、いじめられるだけの無知な存在です。正義と闘いの一尊であるあなたの強大さの前に、生きる意味も知らない者です。しかしながら、いつも味方はおらず、威嚇され、脅かされ、殴られ、蹴られ、踏みにじられ、辱めを受け続けて居ます。その現実の苦しみを前にして、無知で無力なために混乱したまま苦しみの中にいます。」

「なぜ苦しいと思うのか。苦しみを与えるものは、なんだと思うか。」

「私の通う中学の先輩や重太達です。」

「質問の意味が違うのだが…。質問を変えよう。彼等の苦しみを知っているか?。重太の苦しみを知っているか?。業というものを知っているか?。」

「知識としては、知っています。彼の親にひどいことをされているのも、知っています。彼等が我慢できずに悪い行動に誘惑されてしまうことも知っています。」

「なれば、彼等の苦しみに寄り添い、受け入れ、救おうとしたか?。」

「それをしようとしました。しかし、その姿勢が彼を怒らせました。それでもせよというのであれば、殺されかねません。現実に、重太の仲間が彼を止めたことも、目の前にしています。結局、彼等が自らを素直にせねば、他の者の招きを受け取ることはできません。それでも、招き受け入れよとおっしゃるのですか?。」

「もう一度いう。多分お前は理解できないかもしれんが……。お前は苦しみの中にあり、そして、彼等も苦しみを持っている。皆同じように、苦しみを持ちながら生きている。受け入れるかどうかかは問題ではない。それぞれに業があり、それゆえ苦しみはなくならない。こうして、人間には苦しみが定めとなった。それがお前たち人間の運命。避けられるものではない。しかし、小さな存在の生死や苦しみを明らむるつまり知ることによりに、それらに対するこだわりを捨てれば、苦しみの定めなど問題無いはず。空海聖人が救いの道を説いて千数百年となるいま、既に、人間の菩提心の発達段階、精神と宗教性すなわち十住心に沿って、救いのための諸宗が開かれている。何れもいわば曼荼羅のように、それぞれの位置で意味を持っている。どの道でも、苦しみからの解放としていずれは浄土での救いが実現される。この世の苦しみをあきらめ、浄土での救いを望むとき、何よりも、まず、小さき命であっても救われて生きることが大切なこと。小さなお前は今生きているではないか。それだけでも、奇跡。ありがたいことではないか。大切なのは、この救いを受け入れること。お前であれ、他の誰かであれ、受け入れに抵抗を感じる時であっても、受け入れねばならない。そのようにして尊円寂一切通、すなわちその先にこそ他者への慈悲の心も生まれよう。」

「では、理不尽な苦しみに対して、耐え続けろというのですか。」

「今のお前に理解せよというのが無理であろうな。しかし、苦しみには耐え続け、いずれこだわりを捨てるときに至れば、円寂一切通すなわち、すべてを悟ることになろう。」

「苦しみに耐え続けるしかないということではないですか。そんなぁ〜。それなら、あなたが闘いの神であるのは、なぜですか。」

「私が武をもって守っているものは、仏法。仏法に逆らう者、仏法を破壊しようとする者を、闘い従わせるためだ。お前は、戦うとしたらなんのためか?。そもそも、お前は、なんのために生きているのか?。」

「分かりません。結局何もわかりません。」


 そう言いつつも瑠海男は考えた。

「この神は諭す言葉で物事をうやむやにしようとする。正義実現には程遠い。それならば、この神の論理から扱いを考えなければいけないのか。そう求めるならば、そのような答え方をするしかない………。あっ……、そうか。毘沙門天はこの世の業と苦しみが人の逃げられない運命と言っているのか?。まるで、呪いではないか?。しかも、人間でいる限り、この世の苦しみは、尽きることがない。ということは、解かれることのない呪いということ。つまり、どうしても現実の世界に希望はなく、現実の世界にこだわるままでは、救いもないことになる。救いとは、阿弥陀仏の世界への往生に限られることになる。つまり、明らむることとは、この世を諦めることなのか。しかし、苦しみから逃れられないから、せめて仏法に入ることが、毘沙門天の言う救いならば、そこに引き入れることが、求められているということか?。ならば、救おうとする相手が、受け入れに抵抗を感じるのであればば強制的でもよいのか?。それならば、力の行使も正しいことになる?。」

 瑠海男は、考えをまとめて答えた。

「ならば、いわゆる折伏のために戦いをすべきなのですね。」

「ほう、なるほど。そう理解し得たのか。己の救いのみならず、他の救いまで考えてその様に理解したのか。それならば、力も与えよう。糾す力、従わせる力を約束しよう。そもそも、お前を不自由にしていたのは、運命に逆らう姿勢からもたらされていたのだ。お前が目指す救いへの途上には、金剛薩埵もあろう。それらは避けられん。しかし、究極的には仏法により、救いがもたらされるもの。救われる定めの者に、折伏のため力をを用いることもあろう。」

 低い声は止んだ。気づくと、瑠海男も雄二も突っ伏して居眠りをしていた。


「夜風が心地よいなあ。」

 寝言のような言葉が自分の口から出て目覚めた。静かな風のささやきと、雄二の寝息。既にだいぶ夜が更けていた。

「雄二さん、もう帰らないと。」

 瑠海男は雄二に声を掛けた。雄二も、瑠海男の声に目を覚まし、急いで立ち上がった。と、雄二も瑠海男も、足が痺れて動かなかった。翻筋斗打って瑠海男の方へ倒れこむ雄二。瞬時に横に転がった瑠海男。次の瞬間に瑠海男は、身を翻して雄二の肩を両手で受け止めていた。今までになく、俊敏な動きだった。雄二は自らの醜態に笑い、瑠海男の俊敏さに驚いていた。

「自らを回転の中心とした変り身、同じ側の足と腕、腰を動かすことができたな?。何か武道でもやっていたのか。」

「いや、何もやっていない筈です。いや、幼い頃、岩手のばあちゃんに、変り身か、なにかおしえられたような。」

 瑠海男は何かを思い出した。確かに、なにかが変わったような、思い出したような体の動きだった。


 次の日の夕方、雄二は瑠海男を連れて合気道の道場へ上った。

「昨夜は引っ張りまわして、疲れたか?。悪かったね。」

「いえ、日暮里からでも、自転車ならそんなに長距離でないことが、わかりました。」

「今日はよ、俺の知っている合気道の先生のところへ行くつもりだぜ。昨夜の身の翻し方ができるなら、そんなに難しく考えないでも、ある程度できるんじゃねえかな。」

「やってみます。」

 雄二は、向島の合気道場の門下生だった。瑠海男に自分の道着を着せつつ、師範代の許可を得て、瑠海男に語りかけていた。

「受け身は知っているか?。」

「いいえ、何もかも初めてです。」

 こうして、夏休みとともに、瑠海男の基本的な動きと練習とが始まった。


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