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七 逃れの地

「男をここに連れてきたのかよ。」

 姉の飯塚由美子が、戸の外から朱璃に声を掛けて来た。

「こいつ、誰だよ。他人の家に勝手に入り込むんじゃねえよ。」

 由美子は朱璃より五歳上、高校一年生だった。手に一万円札を何枚か握っての帰宅で、毳毳しい化粧の匂いが鼻についた。

「勉強を教えてくれるお兄さん。わかりやすく教えてくれるのよ。」

 珠璃は声を弾ませて応えた。



 由美子はしばらく勉強の様子を見ていた。

「ふーん。あんた、勉強出来るんだ。」

「大した人間じゃないです。役に立たないし何をやってもダメだし…」

 ミサヲは、またそんなことを言う、とたしなめている。

「いや、本当に。取り柄のない男です。」

 由美子は瑠海男の顔を眺めている。少し考えてから、また口を開いた。

「そんなことないわ。その言い方だと、なんか事情があるのね。どこに住んでるの?。」

「葛飾区です。」

「川向こうね。」

 瑠海男にとって、由美子は妙に世間ずれした少々苦手な娘。由美子にとって、瑠海男は何故か放ってはおけない少年。継ぎ接ぎだらけの国民服。穴が開き、親指が出ている靴下。上がりこんでいるにしては、貧相な格好。自信なさげなのにテキパキとした教え方。わかりやすく解法を教える幼い瑠海男は、何ともおかしな少年だった。


 由美子が高校の教科書を持ち出して戻って来た。深川商業の校章が付いていた。

「あんたさぁ、三角関数わかる?。」

「説明ぐらいなら…。」

「へぇ、ウソお、わかるの?。じゃあ、サインてなんなのよ?。学校の先生の説明を聞いても分からないのよね。」

 瑠海男にしてみれば、高校生が中学二年生に質問することなどありえないことだった。悲しい習性で、きっと騙しているに違いないと見て構えながら応えようとした。しかし、由美子にしてみれば、周りにまともに答えてくれる人が居ないので、教えてもらえれば儲けものとも考えていた。

「海のうねりの波を知ってますか?。」

 絵を描いて、由美子の様子を見ながら説明を進めた。

「大きい波ね。」

「そうです。…。それで…,。例えば、ゴミが浮かんでいる東京湾の海原とか、小さいボートが浮かんだ鎌倉の大海原を想像してください。うねりがだんだん高くなって、次にだんだん低くなります。波はこんな繰り返しです。わかりますか?。」

「それはわかるわよ…。」

「それを何かで表したいと考えて、うまく当てはめられたのが、円の中心を直角の頂点にした三角形の三辺の比なんです…。」

 瑠海男はちらっと由美子を見た。一生懸命に聞いている顔だった。

「プラスは海面上の船やスチロールが上方向か、進行方向にズレている時、マイナスは下方向か進行とは逆の方向にズレている時…」

 由美子はほうっといった顔をした。少しわかったという意味なのか、それとも説明は合格という意味なのかは、瑠海男にわからなかった。彼女は、次に、歴史の教科書を持ち出してきた。瑠海男には、興味を引く重厚なものだった。しかし、由美子にとっては全く興味の持てないことばかりだった。

「あんたさあ、世界史は知ってる?。私の学校じゃ、世界史を二年間やるのよね。」

「僕は世界史は、勉強したことはないけど…。封建制度とか産業革命とかなら分かる程度です。」

「ふーん。じゃあ、封建制度ってなんのこと?。」

「うーん…。」

 瑠海男は即座に「世界の地理」のヨーロッパの森の記述を思い出した。

「眠れる森の美女はご存知ですか?。森の奥に放置された古い時代の城。そこに、新しい時代の王子が訪れる話です。」

「知っているわよ。何が関係あるの?。」

「この物語に顔を出している森がありますね。このヨーロッパの森が拡大する前の古い時代には、ヨーロッパの各地に、古代から発展した農業の生産基盤の土地を支配した貴族たちがいて、その居城が多くありました。その後、ペストの大流行があり、多くの人が死にたえ、多くの街と城とが、見捨てられ森に覆われてしまったとか、言われています。つまり、中世とは、土地を支配した貴族たちが、国々の経済と政治を制御した時代です。」

 説明を聞いた後、由美子は感嘆して言った。

「あんた、小学生に見えるけど中学二年生なんだよね。それに、高校生の勉強がわかるんだねえ。」

「たまたま、ヨーロッパの地理紹介の内容を思い出しただけです。」

 瑠海男は、変な自己嫌悪を言う。

「ヨーロッパの地理?。どこでそんなものを見てきたの?。」

 由美子も、瑠海男の説明に可笑しさを感じていた。


 由美子は、話好き、世話好き、積極的で新し物好きであった。瑠海男の境遇を知るにつけ、自然に関心を深め、親戚か友人のように話しかけるようになっていた。

「私たちの学校ね、修学旅行に、初めて出来た専用列車で、京都に行くことになったのよ。この前、説明会もあったの。皆んな一緒にワイワイしながら、関西へ行くんだって。」

「へえ、どんな列車なの?。」

「名前は「きぼう」なんだって。皆んな一緒に座って、トランプしながらいけるのよ。」

「男子も一緒なの?。」

「そう、一晩同じ部屋みたいなものかな。」

 瑠海男もその列車に興味を持った。寝台列車のようなものなのだろうか?。生徒達が高額な寝台列車に乗れるのか、不思議に思えた。

「寝台列車なのですか?。」

「違うみたい。皆んな座ったままで、一晩かけて移動するみたい。」

「え?。まるで護送列車みたいですね。」

「考えてみれば、そうね。でも、皆んな一緒に一晩過ごすから、楽しみよ。」


 友人達と楽しく過ごしている由美子の高校生活。瑠海男にとって由美子は雲の上の存在に思え、眩しく羨ましいことだった。しかし、由美子は瑠海男にも積極的に接してくれた。彼女は、高校一年生にしては男の見方が捌けていて、年上の女生徒らしく気の利かない瑠海男を何かと気遣ってくれた。他方で、中間試験で彼女が少しばかり地理歴史や数学の成績を伸ばしたことは、何かしらの瑠海男の説明が端緒だった。彼女にとって瑠海男は幼いように見えて、だんだんにわからくなる勉強で頼りにするようになっていた。

 無縁とも思え、眩しく羨ましいことだった。


 その後、二週に一度の頻度であったろうか、瑠海男は飯塚家に何度か通うことが重なった。そこは瑠海男にとって別世界だった。虐めや虐待とは無縁の場所。珠璃の積極性とミサヲや由美子の労り。忘れていた家族の団欒。ミサヲは朱璃のお守り代と教授代を少し出そうとするほど、歓迎してくれていた。瑠海男は不相応だと言って受け取ろうとはしなかったが。ミサヲはお金を断り続ける瑠海男のために、秘密で代金を貯めて置くことにさえしていた。


 いつのころからか、放課後に新設校の悪党どもが本校の元の仲間たちのところへ度々出かけていた。瑠海男は、彼等が動き出す前に自宅から自転車で出かけてしまうことを覚えた。それもあって、一学期の間は、瑠海男にとって比較的やり過ごし易い日々だった。さっさと逃げ出す瑠海男を相手にする男子はいなかった。ましてや一番背の低いゴミか子供のような瑠海男を相手にする、物好きな女生徒も居なかった。学校と自宅しか世界を知らなかった瑠海男は、未知の朱璃一家とこのアパートを愛した。


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