六 不浄の中の花
「あの写真の男の人、何故父親だと言えるの?。」
朱璃はミサヲを糾すように問いかけていた。
「なぜ父親だとわかるの?。」
ミサヲは言い淀んだ。正確には、誰が朱璃の父かはわからなかった。多くの男達を相手にしてきたミサヲ。それが姉の由美子と自分の生い立ち。
「私にお父さんはいるの?。どうしてそれがわかるの?。」
ミサヲは黙っていた。四年生の朱璃は母親ミサヲに戸惑い衝撃を受けた。始まりかけていた反抗期。混乱した心に混乱した現実。珠璃は強い反発をしめした。
「私、分かったの。男の人から女の人に入れられたものが、子供になるって。お母さんは、いろんな男の人を相手にしているって。そして、私のお父さんは誰だかわからない…。」
朱璃の叫びは絶望に近かった。それは、次女の成長した姿。哀しい女へと成長する姿。ミサヲは珠璃に、母と同じように耐えて生きる強さを身につけて欲しかった。
朱璃が幼い時、彼女はミサヲに会ったことのない父親のことを尋ねたことがあった。
「お母さん、私のお父さんは誰なの?。あの写真の人?」
「根本の繁おじさんよ。時々、プレゼントがとどくでしょう。」
「やっぱり……。会いたいな。」
朱璃は昔から察しの良い子だった。普通の家庭のように、母を支える父。ミサヲを支える男にそれを見ていたはずだった。
今はもう母親のミサヲが男と女の世界を生業としている現実を、おぼろながら少しずつ感じる年頃となっている。先日の昌男の父親の顛末を美奈子から聞いたことで、昌男の父に代表される男というものの狡さと弱みを知った。不浄な男達が蠢く世界。男が女を食い物にして産み落とされた自分。それによってやっと自分が生活出来ていることに気づいた。
「私にお父さんはいるの?。」
「そうね。小学四年生のあなたに、どこまで話せば良いのかわからないわ。でも、あなたの父親と考えていいよ、と言ってくれた男の人は、確かにいたのよ。それがあの写真の人。なかなか会えないけれど、あのひとは今でも助けてくれているわ。」
珠璃は、その後に姉の由美子でさえも男相手に金を稼いでいることを知った。珠璃は現実を受け入れるしかなかった。
翌月の四月になり、再び土手へ。ミサヲは疲れを癒しに朱璃を連れて出掛けていた。もしかしたら、あの少年がいるかもしれない。そうしたら、珠璃の心がそちらに向いて……。そう漠然と考えていた。
そこに瑠海男はいた。土手の上に座り込んでいる瑠海男。駆け寄ってその横に座り込む朱璃。瑠海男は横に見たことのある朱璃がいることに、遠い親戚に会えたような喜びを覚えた。後ろにはニットとパンツルックのミサヲが立っていた。
朱璃が声をかけてきた。
「また会ったね。お兄ちゃん。今日は絵の本を持っていないの?。」
「こんにちは。ごめんね。今日はなにも持ってきていないんだ。」
「それなら、私の本を見る?。」
母親のミサヲが遠慮がちに窘めた。
「朱璃、それはあなたが読まなければ意味はないのよ。」
本と言っても、真新しい算数の教科書ガイドだった。ミサヲが指導していたのだろうか。ただ、朱璃にとっては苦手なものらしく、瑠海男に押し付けて、その場を誤魔化したいらしかった。瑠海男がふと内容をみると、植木算の説明だった。
「ふーん。これって難しいの?。」
「難しくないよ。でも、嫌い。」
すると、ミサヲが少し苛立たしそうに、咎めがちに続けた。
「それなら、朱璃がやってみなさいよ。本当はわからないんでしょう。」
「本当はわからないの。」
瑠海男は、朱璃の素直なおうむ返しに笑ってしまった。気づくと、朱璃が睨んでいた。
「ごめんごめん。どこがわからないの?。」
「計算の仕方!。杭の数から一を引いて、間隔の長さを掛けるはずなのに。答えが違うの。この本の説明も分かりにくいし…。」
瑠海男が見ると、校庭の周囲の長さを測る方法だった。
「これは、端が無いから、一をひかないで計算するんだよね。分かる?。」
「ええー。そんなの知らなかった。お母さんは、一を引くことしか教えてくれなかった。」
ミサヲは、言い訳をした。
「私は算数が苦手なのよ!。お兄さんに御礼を言いなさいね。お兄さんは、直ぐにわかったみたいね。得意なの?。」
「そんなことは無いです。」
説明の滑らかさ。人並み以上の説明力。ミサヲから見れば、瑠海男にはよほどの理解力と洞察力がありそうだった。
「これもわかるかしら?。朱璃も私も、ダメなのよ。」
それは、円に内接する正方形が描かれ、円から正方形を除いた部分の面積を求めるものだった。
「円の半径が一なら、円の面積は三.一四。正方形は対角線が二で、二かける二を割る二で二。残りは、一.一四です。」
「えっ?。えっ?。どういうこと?。」
瑠海男が一気に説いたことに追随できず、ミサヲが聞き直してきた。瑠海男は言葉を変えて、図面を示しつつ説明して行った。朱璃もわかったらしい。
「説明、うまいのね。」
ミサヲは驚いていた。途端に、瑠海男は自らの力のなさ、勇気のなさを思い出して声が小さくなった。
「僕なんてチビの出来損ないです。」
立て板に水の説明。自己嫌悪の言葉。説明のそつのなさと自信の無さのギャップは何からくるのか。ミサヲは、瑠海男のアンバランスな心の内を感じながら、言葉を続けた。
「そんなことないわ。私から見ても、あなたの頭の良さはよくわかるわよ。もし….、もし良かったら、朱璃の勉強を見てくれる?。」
「えっ?。」
土曜日の夕暮れが近かった。迫る暗闇。それは帰宅するしかない時を示していた。苦しいばかりの自宅と学園。逃げ出したい一心。それが未知への大胆な一歩を促した。瑠海男はこの母娘の後をついて行くことにした。
ミサヲと朱璃の家は、墨田三丁目にあった。野球場から荒川土手を越えて街中へ。水戸街道の北側に沿ったホヘト通りへ。屋根付き駐車場の手前を右手へ。戦前からのくねった路地裏。その路地の奥に長屋のような家があった。何人かの母子家庭が間借りしており、手前の一室にミサヲと朱璃は住んでいた。
簡単な流し台と六畳一間。キッチンには、使い込まれた鍋とパン。使い込まれた包丁。清潔に保たもたれていたまな板。部屋の隅の小さな物入れの上には、見知らぬ三、四十の男の写真と小さな本。小さな本は、岩場の羊をたすける砂漠の民の絵の付いた古い新訳聖書だった。
「こんな早い晩御飯は珍しいのよ。」
そういって用意してくれた晩飯は、もやしを混ぜたバター焼めしだった。その後、ミサヲは、おっちゃん相手のお仕事よ、と言って出かけていった。その間、瑠海男は朱璃の宿題などを見てやった。朱璃は飲み込みの早い子だった。というより、瑠海男の説明がわかりやすかったのかもしれない。それでも、朱璃が集中できる時間が短い為に、宿題は直ぐにすまなかった。
姉がいるが兄はいない。そんな朱璃は、年上の瑠海男に色々甘えてきた。妹の直子に慣れていた瑠海男は、勉強を休みながら手慣れた様子でゲームをしてやったり、おりがみに付き合ったりしながら、時間を過ごしていた。