五 子とその親
「おとうさん、ごめんなさい。」
鵜飼美奈子は泣き噦るばかりだった。
「わたしが悪いの!。私のせいなの!。」
「いったいどうしたんだい?。」
父親は美奈子の言うことがなかなかわからなかった。
「お父さんのことを、電話で怒りにくる人がいるの。」
「私を叱りにくる人がいる、ということかね?。誰が?。」
「区の偉い人だって。進藤君のお父さんて、とても偉い人なのよ。」
「進藤さんな?。どうして私を叱りにくるのかなあ?。」
「今日、私がノートをちゃんとしていなかったからだって!。」
「ちゃんと管理していなかった、ということ?。あの新品のノートかい?。それに進藤区議がなんで関係あるのだろ?。」
「昌男君が私の新品のノートをコークスバサミで黒くしちゃって…珠璃ちゃんが昌男君をコークス置き場につっこんじゃって…、昌男君が真っ黒になっちゃって……。。」
父親は漸く事情が飲み込めてきた。
「ははあ、昌男君が美奈子の新品のノートを奪って、昌男君が真っ黒になった。彼が真っ黒になったのは美奈子の所為だ、ということかい?。」
「そう……。」
「それで私のところへ、娘の教育がなっとらんと言いにくる、ということか?。あの人は、相変わらず頭の弱い人だなぁ。」
「ごめんなさい。私のせい……。」
「そんなことはない!。美奈子は悪くない。それどころか、よく耐えた。」
父親は呆れて娘の言葉を遮った。
「あとは心配しなくて良いよ。それにしても、あの人は、区民によってあの地位にいられることがわかっていない。」
その夜、進藤区議は鵜飼の屋敷に電話をかけていた。
「もしもし」
世の中というものをわからない奴にはガツンと言って教育してやる。進藤区議はそう意気込んでいた。
「鵜飼さんという家はあんたのところかい?。」
「もしもし、はい、鵜飼でございますが。」
この人は相変わらずえらく威勢のいい人だな。そう思いながら、美奈子の父親は少しばかり会話を楽しんでいた。
「もしもし、私は進藤と言いましてな、区議会議員を務めさせていただいているものですがね。ご存知かな、議員とは市民の代表ですよ。」
進藤区議は、民主主義を振りかざしながら、誰が権力を持っているのかを教え込んでやると意気込んでいた。
「はい……。このご高説は、誰もがしっかり理解しないといけないことですね。」
「あんたのところの娘は、さぞ立派な育ち方をしているんだろうねえ。学校の秩序を乱してもへいちゃらだ。ずいぶんと困った子のようですな。」
「はあ……。」
進藤議員の嫌味な言い方は、癪に触る。しかし、美奈子の父親は平然と会話を続けた。彼は少し考えた。進藤という男は何を言おうとしているのか、この男のいつもの思考過程を思い出していた。
「あんたのところの娘さんは、教室に一緒にいる男の子を困った事態に追い込んでいるんですよ。なんでも、コークスまみれになるような原因を…。」
「はあ……?。」
「学級崩壊という問題を起こすのは、あんたのところのガキがいるからなんですよ。新品のノートだがなんだか知らねえけど、ちゃんと管理してないから同じクラスの男の子がコークスバサミで整理してやったんですよ。それが原因でコークスの中へ放り込まれて……。かわいそうに……。被害を受けたのは、私のところの昌男なんですよ。えっ、わかるかい。」
よくもまあ、こんな捻じ曲げた言い方ができると、父親は呆れていた。
「はあ……。そう言いたかったのですか。さてさて。」
「さっきから生返事だな。なんとか言えよ。」
進藤区議は、まだ相手の素性には気づいたおらず、こいつは癪に触る奴だな、と思うばかりだった。
「はあ……。進藤先生、お電話をお待ちしておりましたよ。」
「へっ?。」
「ご無沙汰しておりますな。先生の師匠の吉田議員の後援会以来ですな。党本部で……。」
「えっ⁈。あっ?。あのっ、吉田先生のご友人……。」
進藤議員の顔が引きつった。それを感じたのか、美奈子の父は低い声でたたみ掛けた。
「どうしたんですか。御用の向きをお伺い申し上げますが?。まさか、わたしの娘について、なんて言いださないでしょうね。それとも今回は私の娘たちですか?。貴方の来期はどうなるんですか?。」
進藤区議の背中に冷たいものが流れた。
「えっ、いや、あっ、あの、い、いつもお世話に、いや、御協力ありがとうございます。」
「こちらこそ。」
「今後ともよろしくお願い申し上げます。し、失礼致しました……。」
進藤区議はこうして這々の体で電話を切った。電話から振り返った美奈子の父親は、美奈子の髪を撫でながら、ひと言だけいった。
「今までよく我慢した。細川さんとも相談して、進藤区議にはしっかり話しておく。もう心配ないはずだ。」
美奈子は、ふと助けてくれた朱璃を思いだしていた。他方、進藤区議はやっとの思いで電話を置いた。
「昌男め、俺に恥をかかせやがって。」
次の日、進藤区議が立ち寄った事務所には、細川加代子の父親も商店街の会長として、相談に来ていた。
「進藤さん、鵜飼さんの娘さんとうちの娘もよろしく。」
このひと言で、進藤区議は自分が追い込まれた犬のように感じていた。進藤区議は疲れを覚えてやっと自宅へ帰り着いた。昌男は父親の尋常でない顔つきに気づいたが、平然としていた。
「おっ、父ちゃんが仇をとってくれたかな?。父ちゃん、美奈子の父ちゃんを怒鳴り倒してくれたか?。」
「いきなり聞いてきたな。お前は問題を起こした時にしか、家に帰って来ねえ。家にいるってえことは、問題を起こしたってえことじゃねえか?。おう、昌男!。おめえは俺に恥をかかせやがって。」
「えっ、何言っているの?。恥かいたって平気だろ?。父ちゃんは偉いんだろ?。」
「おめえ、よりによって、鵜飼さんのところのお嬢さんに悪さしやがって。」
「えっ、鵜飼って言ったって、弱い女の子だぜ。そんな子の家なんて、弱いに決まっているじゃねえか。」
「鵜飼さんが弱いって?。」
「だって、この前の授業参観日に、美奈子のところだけ母ちゃんじゃなくて父ちゃんが来て、俺にヘイコラしてたぜ。女の中に男一人だけいて、かっこ悪い奴だったぜ。いつもお父様にはお世話になってます、だってよ。やっぱり俺の父ちゃんは偉いんだろ。それに、あそこの家は母ちゃんがいない片わな家なんだぜ。」
「おい、昌男……。授業参観に鵜飼さんが来ていたって?。それをなんで言わねえんだよ。」
「えっ、だって鵜飼は弱っちいすぐ泣く女の子だぜ。そんなちっぽけなところの父ちゃんと話なんかいちいちするのかよ。それに、そんなとこの父ちゃんなんて弱いに決まっているじゃねえか。」
「お前は馬鹿か?。鵜飼さんと言ったら、関東屈指の化学会社の社長様だぜ。勉強ができるから、社長とかやっているんだ。その鵜飼さんのお嬢さんに、なんで手を出していたんだ?。おめえは、なんでいつも問題ばかり持ち込むんだ?。」
「えっ、そんなこと知らねえや。勉強なんて役に立たねえと言ったのは、父ちゃんじゃねぇか。それに、父ちゃんはいつも何かあったら何とかしてくれていたじゃないか。」
「黙れ、このバカ息子!!。布団叩きでぶっ叩いてやる。」
「あっ、イタタ、イタタ。やめてくれ。……。クソ、これもみんな珠璃のせいだ。」
昌男は朱璃に復讐を誓った。逆恨みであった。