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四 コークス塗れの正義

 

「やめて……。」

 鵜飼美奈子は我慢できず、噛み殺した声で泣き出した。普段は気丈に無視している美奈子だったが、今日は酷かった。

「これは汚いから、ゴミ箱へ。」

「やめて。それは新品よ。」

 進藤昌男は、朝の準備で使ったばかりのコークスハサミで新品のノートをつかみ、ゴミ箱へ入れようとしていた。美奈子は抵抗したが、突き飛ばされてしまった。

「鵜飼菌がくっつくぞ。」

「逃げろ。」


 飯塚珠璃は教室の外で、その声を聞いた。無表情な顔はまだ動いていなかった。美奈子の隣が珠璃の席。珠璃はいつもの通りに鞄を置き、授業の準備を終えた。次の瞬間、朱璃は、ゴミ箱にコークスハサミを突っ込んでいる昌男の襟首をつかみ、床に引き倒していた。

「何をゴミ箱に入れたの?。」

「さあな。」

 周りの女子も昌男たちを取り囲みはじめていた。

「朱璃ちゃん、昌男のやつ、美奈子ちゃんの新品のノートをゴミ箱へ入れたのよ。」

 朱璃が取り出すと、新品だったノートはすっかりコークス粉で真っ黒に汚れていた。珠璃の顔が歪んだ。

「何てことを。」

 横から、昌男とつるんでいる後藤諒太がつっかかって来た。

「鵜飼菌がついているから、どうせ汚えんだよ。だから、捨ててやったのさ。」

 珠璃の顔が、苦い笑いが浮かんだ。

「そうかい。そういうあんたらも、心だけでなく外も汚くなりな。」



 一九五九年三月となり、朱璃はもうすぐ新四年生となる。とはいっても、クラスは三年生のまま、担任も関口先生のまま、ただ三年生のクラスがそのまま進級しただけだった。進藤昌男らクラスのバカ男子たちも、そのまま同じクラスのままだった。掃除のサボりとイタズラばかりの昌男たち。普段から大人しくいじめに耐えている美奈子。今日も、昌男たちは大人しい鵜飼美奈子に嫌がらせをしていた。


 朱璃は男子達より頭一つ半ほど大きかった。彼女はその体格を生かし、男子達の中に飛び込んで昌男の襟首をつかんだまま諒太の足を絡め取って引き倒していた。その後、二人をそのまま校庭横のコークス倉庫まで引きずり、放り込んでいた。後ろから女子たちが、朱璃の背中を守るようについて来ていた。すでに、昌男の仲間や男子達は、逃げ去っており、半ベソの昌男と諒太も、コークス倉庫の中からがコソコソにげだしていた。

「クソ、父ちゃんに言いつけてやる。」

 朱璃はその意味を察して表情が変わった。昌男の父は区議会議員であり、この地域の有力者であった。しかし、それでも他の女の子たちは朱璃に加勢していた。

「いいつけるなら、やって見たらいかが。私も、父に言いつけるわよ。」

 細川加代子という、普段は朱璃とあまり仲の良くない小綺麗な子までが、朱璃に味方していた。彼女の父は、進藤区議の党を支持する商店街の会長だった。


 その日の昼休み、昌男と諒太、朱璃が関口先生に呼び出されていた。朱璃が遅れて職員室にくると、昌男たち二人が自分達の被害を訴えていた。

「おれはよ、ただ落ちていたゴミをゴミ箱に入れただけだよ。」

「おれも手伝っていただけだよ。」

 後から来た朱璃は、怒りのあまり、顔を赤黒くして、昌男達を睨みつけていた。

「何も書いていないノートを、そのまますてるのかしら。」

「落ちてたのさ。」

「美奈子は落としてないって、いっていたわ。」

「おとしていたさ。」

「きっとあんたがわざと落としたのよ。それで、コークスハサミで挟んで……。」

「うるさい。おちていたんだ!。」

「しかも、そのノートには、名前がしっかり書いてあったわ。」

「名前が書いてあったよ。だから、どうした?。」

「名前が書いてあったら、届けてあげるんじゃないの?。」

「鵜飼菌にか?。衛生上の問題があるね。」

「何が衛生上の問題よ。」

「衛生上の問題なら、もっと大きな問題があるぜ……。コークスで汚くされた俺たちの服はどうしてくれるのさ。お前の悪事を、父ちゃんに区議会で追求してもらうぞ。」

「なによ。そんなこと。」

 昌男は口が達者だった。関口先生も現場を押さえられていないためか、昌男達に言いくるめられてしまいがちであった。先生は結局、『もうやるなよ。』というのが精一杯であった。初めは正義を確信していた珠璃だったが、関口先生の確信のない口調に自信を失っていった。

 珠璃が消沈して教室へ戻ると、やはり昌男達が勝ち誇ったように女子児童たちを前に、囃し立てていた。

「俺たちよりお前たちの方が怒られたみたいだねえ。おーい、みんな、朱璃みたいに悪いことをしちゃダメだぜ。」

 他の男子達まで、昌男達の後ろに立って囃し立てていた。重ねられる罵詈雑言に悔しさをます珠璃。男子たちを横目に、悔しさを共有する加代子達。涙を我慢する珠璃に、女子達の慰めの言葉が集まり、泣き止んだ美奈子の言葉が珠璃を救った。

「ありがと。」

 朱璃は、屈辱感に唇を震わせながら、黙って昌男達を睨み続けていた。


 次の日、昌男の父親、進藤区議が梅若小学校を訪ねていた。

「これは進藤様。今日の突然のご訪問の用向きは、なんでございますか。」

 校長は驚き怪しみながら、上目遣いをした。

「突然、お訪ねして申し訳ないね。私も区議として、教育のことに深い関心を持って居るんだよ。」

「しかし、本日のご訪問について、先に何のご連絡をもいただいておりませんが。ご存知の通り、教師たちは多忙を極めております。突然のご訪問では、対応できるものがおりませんが。」

「対応できるものがいない、だと?。君が対応すればいいではないか。」

「しかし、この後、教育委員会からの呼び出しが控えておりますので、その準備が……。」

「私が来て居るのだよ。私を優先しなさいよ。それとも、区の党本部で君を一人だけ呼び出してあげようか。」

「いや、それは……。」

「それなら、校内を案内しなさいよ。ほれ、サッサと。」


 進藤区議は視察という名目で校長を同行させ、珠璃達の教室まできた。授業が佳境の各教室。活気と歓声が溢れてくる廊下。冷や汗の校長は、区議を横目で見ながら進んでいく。


「校長先生。貴方の学校で、なんでもある市民の子供が一方的にコークス塗れにされたということですね。子供というのはわたしの息子、昌男ですが……。下部組織の教育委員会を通じて私の方へ報告させても良いのですが、市民の代表たる議員である私、進藤が、市民の代わりに直接現場へ出向かせていただいたことに、意味がありますよ。ですから、校長から報告してくれますかな。なんなら、現場の教室へ行きましょう。」

「は、はい。」

「貴方の部下を会わせていただけますかな。」

「は、はい。」

 議員は、突然、珠璃たちの教室に入り込んだ。あっけにとられる児童と教師たち。議員は構わずに、授業中の関口先生を捕まえて詰問し始めた。

「関口先生。」

「はい。どなたでしょうか。」

「私を知らないと言うのかね。校長、ここでは教師たちの雇い主である区民の代表の顔を覚えさせていないのですか?。それなら、教えて差し上げよう。わたしは区議会議員の進藤だ。」

「わかりました。区議会議員の進藤様でしたか。これは失礼いたしました。」

「貴方が担任の関口さんですか。貴方の教室で、なんでもある市民の子供が一方的にコークス塗れにされたということですが。子供というのはうちの昌男で…………。なんでもうちの昌男が一方的にやられていたということですが。」

「そんなことをお尋ねになるためにいらっしゃったのですか。」

「そうです。これは大切なことです。」

「そうですか……。昌男君たちは、毎日同じ組のある女子を毎日虐め続いているのです。先日は、その娘の新品のノートを、コークスバサミで取り上げてゴミ箱に入れたらしいのです。」

「そんなことぐらいで、コークスを浴びせられるのですか?。やったのは、飯塚朱璃とかいういかがわしい女の娘、父無し子じゃないですか。そんな子のノートなんて、どうせボロですよ。問題にならないじゃありませんか。そんなことぐらいで、コークスを浴びせられるのですか?。」

「いえ、そんなことではないのですが…。」

「あっ、あいつだな。さあ、あの珠璃とかいう子を連れて来なさいよ。先生。市民の代表である私が叱ってやりましょう。

 進藤区議は、朱璃を引っ張り出そうとしていた。

「そ、そのノートは、彼女のものではないんです。ノートの持ち主は、別の鵜飼美奈子という女の子の持ち物でして…………。」

「それなら、鵜飼なんとかという子に何か原因があるから、うちの昌男が怒るんですよ。そっちの女の子を連れて来なさいよ。」

「でも、彼女は何もしていませんよ。」

「いいから、連れて来なさいよ。連れてこないなら、校長、貴方が連れて来ればいいんだよ。」




 すまない、鵜飼さん。校長先生が君を連れて来いって、言っているんだ。


 関口先生が真っ青になっている。どうしたのかしら。なぜ、いじめられた私が呼び出されたのかしら?。


 あんたかい!。あんたがノートの管理が悪いから、うちの昌男が怒られたんだ。何とか言えよ。


 この人は昌男くんのお父さん?。なぜ私が怒鳴られるの?。えっ、校長先生より偉い人なの?。えっ、どうして私が悪いの?。どうして私が非難されるの?。


 あんたの保護者に今晩電話してやる。


 お父さんまでが怒鳴られるの?。この偉い人に怒鳴られるの?。私の代わりにお父さんが怒鳴られるの?。それなら我慢すればよかったの?。私ばかりでなく、お父様が怒られるなんて……。私が我慢すればよかった……。


「いえ、そんなことは……。まあ、待って下さい。」

 関口先生は、やっとの事で、進藤区議を校長室へ戻すことができた。

「その子を連れて来なさいよ。先生。私が叱ってやりましょう。」

「そのノートは、飯塚さんのものではないんです。ノートの持ち主は、鵜飼さんという子の持ち物でして…………。」

 関口先生は、やっとこれだけ言えた。しかし、区議会議員は先生の話の腰を折った。

「それなら、そんな子に何か原因があるから昌男が怒るんですよ。鵜飼っていう子を見連れて来なさいよ。」

「でも、彼女は何もしていませんよ。」

「いいから、校長、連れて来ればいいんだよ。」

「関口先生、鵜飼さんを一応連れて来て。」

 関口先生は渋々美奈子を連れて来た。美奈子は、当惑しながら校長室に入って来た。進藤区議は、美奈子が入ってくるなり怒鳴り始めていた。

「あんたが鵜飼美奈子っていう子かい。あんたがノートの管理が悪いから、昌男は怒られたんだ。何とか言えよ。」

 美奈子は驚き、半べそになった。区議は続けた。

「あんたの保護者に今晩電話してやる。」

 そういって、区議は帰ってしまった。

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