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三 辛苦

「まちがっているだと?。このやろう。」

 重太は瑠海男の指摘に、暗い怒りが込み上げて来た。背中に下から上に走り抜けるドス黒い塊。口から言葉とともにほとばしり出た恨みと怒り。

「好きで、盗みをしているわけじゃねえぞ。食べるものが無い、着るものが無いから、仕方ねえんだ。食い物を万引きしちゃいけねえって言うなら、三日間公園の水だけ飲んで暮らしてみろよ。親が三日飯食わせなかったら誰だって盗むぜ。」

「それは、死ぬほどの我慢をしたことがないからだよ。食うのに困るのは、多く稼ぐ事が出来ない世の中だから……。」

「そうさ。だからお前が俺たちを…。」

「でも、悪いことは、悪い。稼ぎを多くしたいなら、一生懸命働くことで稼げるように、今を我慢しながら社会を変える必要があるよ。だけど、それをやらずに、悪事を手を染めるなら、明らかに根本が間違っている。死ぬほど耐えたことがないから、甘いことを言っているんだよ。例えば、僕は食べられない時も何日も我慢しているし、何回も死ぬほどの目にあっても、歯を食いしばって我慢してきたよ。」

「そうかい、そうかい。わけのわからないことを唱えていやがる。それなら痛いのも我慢しな。」

 重太が上履きで瑠海男の右頬を殴った。音が高く響き、床に叩きつけられた瑠海男の口から、血が滲み出た。それでも、瑠海男はゆっくり立ち上がり、服装を直し、左頬を重太に向けた。

「なんの真似だ。」

「僕は、つまらない男だから、殴ってもつまらないよ。だから、右の頬を叩かれたら、左の頬も殴られるんだろうな、と思って。それによって、あなたが悪業からの救いを見いだせるかもしれないしね。」

 単純で教条的な同級生。相手を言葉でバカにしているひ弱な男。そう感じた重太は、怒りを込めて、さらにきつく殴り倒していた。襟を掴み上げると、彼の顔は血が流れている。咳とともに血の塊。ごぼごぼという瑠海男の鼻と喉。

「重太、やりすぎだ。殺したら、親父でも庇えねえ。」

 秀夫は、思わず重太を制した。警察官の父親には、間違っても人は殺すな、と言われていたのだった。重太の様子は、殺す寸前のように見えたからだった。強いて秀夫は、別の話題をみつけた。

「坊主頭を帽子で隠してんのかよ。かっぺだなぁ。チョッと、帽子をかしてな。」

「あっ。」

「この帽子は逆さまにすると、スリッパになりますぅ。」

「グッ、フッ。やめろ。」

「うるせえな。」

 瑠海男は顎を殴られ、また床に転がつた。

「スリッパに上履きを重ねて、二段ばきの出来上りぃ。」

「ガフッ。やめてくれ。」

 血の流れで声がかすれる。


 ふと、海軍少尉の時の父の写真が目に浮かんだ。通称赤トンボの前で撮られた写真の父。決して帰らぬ出撃を前に深めに被る制帽。それは、気持ちを静かに押し隠した姿だった。心を強く持ち、全てを鎮める制帽。父に倣い、表情を押し隠すための制帽。取り戻そうとしたその手は秀夫に踏まれ、同時に重太に脇腹を二度ほど蹴られていた。

「うぐっ。」

 瑠海男はくぐもった声しか出せなかった。


 彼等は、こうして瑠海男 を放り出して帰って行った。瑠海男は小さく念じていた。

「右の頬を打たれ、左を打たれ、でも、正義は実現されない。僕は何もできないつまらない男…。何故こんなに苦しまなければならないの?。悪いことをしていなくても苦しむの?。彼等も苦しみをもっているというし、それを取り除けないし。そうか、こうなるのは僕がつまらない価値のない人間だからだ……。でも、でも、苦しい。助けて欲しい。」

 しかし、いずれからからの答えがすぐにある筈もなく、虚しい彼の手には惨めな涙しか無かった。


 この日から、放課後は重太たちの復讐の時となった。狡猾な者の打撃は軽く、また耐え難く。終わりのない苦渋。狡猾な隠蔽。追い詰める恐怖。徹底した追い詰め。特に重太は瑠海男の自宅にまで公然と入り込むほどに、たちが悪かった。何度となく、重太は散々に嬲って血だらけにした瑠海男を、自宅にまで送り届けて、しゃあしゃあと言ってのけたものである。

「転んで怪我をしてらっしゃったので、送ってきました。彼の鞄もここにあります。」

 そこには、瑠海男には覚えの無い、読み古した水着写真のついた週刊誌まで、鞄に入れ込まれていた。彼らは、瑠海男に小声で「バラしたら妹の直子が無事に済まないからな。」と言って帰って行った。母サクラは、重太たちの慇懃な態度に感銘していた。

「なんていい子達なの、感心ね。あんたも見習いなさいよ。」

 彼女は続けた。

「それなのに、あんたは女の水着の週刊誌まで鞄にいれて、しかも自宅ばかりでなく学校にまで持ち込んで。女の人の写真は、結婚するまで一切見てはいけませんよ。」

 瑠海男はただ聞き入れるしかなかった。また、母に負担とならないよう、養父にも迷惑をかけたくなかった。母は普段の口調で話しかけてきた。

「あれ、転んだ時、何処を怪我したの?。」

「……。」

「あの子達ともう知り合ったの?。良い人たちよね。」

「…。」

「同じクラスと言っていたわよね。良かったわね、友達に恵まれて。」

「…。」

 小学校一年生の義妹直子が、心配そうに瑠海男の顔を覗き込んだ。

「お兄ちゃん、大丈夫?。」

「ありがとう…。」


 母サクラは、夫の手前、瑠海男に優しく接していた訳ではなかった。しかし、瑠海男たち三人のこんなやり取りを、重太たちは憎しみを持って息を殺して聞いていた。

「瑠海男にはこんな親がいるのかよ。おれは、施設で暮らしてる間、母親から"あんたなんか生むんじゃなかった”って手紙も一〇〇通ぐらい送られてきたさ。母親からの手紙にカミソリ入ってたことだってあるんだぜ。そんな母親も死んじまった。それなのに……。瑠海男は許せねえ。」

 瑠海男は、その週も、次の週も耐え抜いた。しかし、もうダメだった。逃げ場所のない地上から、頼るもののないこの地から、瑠海男は逃げ出したかった。



 ある日の夕暮れ、瑠海男は、後をつけられていないことを確認しながら、逃げるように再び鐘ケ淵の河川敷へ、ひとり自転車で出かけていた。知る人の誰もいないこの場所だけが、安らぎの場所だった。数週間ぶりの土手は、桜の季節を過ぎ、若葉の鳴動が感じられたはずだった。しかし、この日、瑠海男は何も考えず、ただ野球の試合を見つめ続けていた。

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