一 早春
戦災を免れた路地裏から、北千住のお化け煙突が見えた。後ろを見れば増上寺の東京タワーが見える。
一九五〇年代末の墨田区には高いビルがない。いりくんだいくつもの路地裏。その隙間を東武伊勢崎線がガガツガツンとクネっている。やがて伊勢崎線は足立区へ、交差する京成線は葛飾区を過ぎ市川まで延びる。今でも葛飾や足立は東京の田舎だ。かつては古くからの池や神社のまわりに田圃や用水路が広がっていた。
高度経済成長の始まった時の頃、この辺りは細く曲がりくねった畦道にそのまま新興の住宅が増えていた。そこから見上げる荒川放水路の土手。土手の下の河川敷。グラウンドや野球場。
ここは、その一つ、四ツ木橋西詰から荒川放水路を少し北へ上がった河川敷野球場だった。川の向かい側、若葉色の土手へ、夕暮れの風が吹き抜けていく。赤く染まった空がオープンスペースを見下ろす。
幼い飯塚朱璃は、歓声を上げて土手を登っていく。
朱璃の住まいは、ほへと通りから少し路地にはいったところにあった。彼女達は、いつも墨田区のほへと通りを抜けて、荒川放水路の土手、野球場の上に来ていた。母のミサヲは帰る時間を気にしている。
そこから仕事に通う母親のミサヲは、仕事で擦り切れた心と身体とを癒すために、たびたびこの場所に来ていた。三十ほどに見える痩せた立ち姿。長い髪は脱色して茶色がまだらに抜けた薄茶色、その肩周りに薄いピンク地と紫のストール、真っ赤なニットとフリルスカート、そして真っ赤な口紅が目立っていた。朱璃はまだ教えられていないが、ミサヲの仕事は男と一夜を過ごして金をもらう、いささかよろしく無い仕事であった。
朱璃は、土手を上りきって、背伸びをした。普段ならば、小学三年生の少女らしく、はにかみと警戒心を解かないのだが、この日は母ミサヲと一緒だったためか、警戒感を緩めていた。そんな彼女の視野に入ってきたのは、歳は朱璃より少し上だが背丈は朱璃と同じほどの少年だった。彼の服は当て布だらけの国民服で、元は黒色であったものが擦り落ちたような色だった。
彼の名は村崎瑠海男。もう直ぐ開設される新設校青葉学園の中学二年生になる。その直前の春休みだったのだろうか。知り合いもいない様子。野球場に不似合いな西洋絵画の本。パッとしない変わった様子の男の子だった。
「お兄ちゃん、それなあに?。」
朱璃は、瑠海男の背後から質問していた。ビクッとして振り返る顔。相手は小学生の女の子。瑠海男は警戒感を持たずに済んだ。
瑠海男の見ていた絵は、大工と手伝う少年の絵だったろうか。朱璃が保育園で気に入っていた図柄。朱璃から見ると、瑠海男は彼女と同じぐらいの身長。同学年か一、二年上の小学生に見えた。そんな少年が隅から隅まで飽きずに絵に見入っていることも不思議だった。朱璃と同じ学年の男子であれば、掃除はサボり、女子に悪戯を仕掛け、スカートめくりなどしかしない馬鹿ばっかりであった。
瑠海男には、朱璃の活発そうな雰囲気が印象的であった。顔の動きと合わせて動く短髪。言葉を輝かせる朱璃の目。瑠海男は、永らく沈んでいた魂を動かす希望を感じた。魂の共鳴、霊的な共鳴があったのかもしれない。
「これは、絵の本だよ。レンブラントなんかのヨーロッパの絵画がたくさん載っているんだ。これはイエスという昔の偉い人が子供の頃、大工だったヨセフに従って仕事をしている姿だね。」
「お兄ちゃんは、どこに住んでいるの?。」
「この川の向こう側。」
「なんでここへ来ているの?。お友達はいないの?。」
「うん。いるけど…。」
瑠海男は、ここに逃げ出してきているとは言えなかった。
「君は何年生?。なんていう名前なの?。」
朱璃は急に相手が年上である事を意識した。
「私は飯塚朱璃です。いまは三年生です。今度の四月で四年生になるんだ。」
「へぇ、小学生なのか。じゃあ、近くの小学校?。」
「ちがうよ。梅若小学校です。ここからちょっと遠いんだ。」
「ふーん。僕は中学二年生になるんだ。向こう岸の葛飾区に住んでいるんだ。」
「じゃあ、お兄ちゃんじゃなくて、お兄さんなのね。」
朱璃は、丁寧語が少しあやしいけれども、話し方がませている。
野球の試合が佳境に入っていったころ、母親のミサヲが帰宅を促していた。
「さぁ、そろそろおっちゃん相手のお仕事だから、かえろう。」
「ありがとうございました。」
瑠海男は、立って直立不動の姿勢から、深く頭を下げた。軍人だった亡き父親と同じような挨拶を、いつも心掛けていた。ミサヲは驚いたが、しばらくしてニコリと別れの挨拶をして土手を降りて行った。朱璃は無邪気に手を振って後を追って行った。
………………………
一九五九年四月、青葉学園は開校の日を迎えた。アヤメや菖蒲の田に流れ行く用水路。その横に新設された真新しい白亜の校舎。桜や柳の若木が植えられた校庭。
初めての年度なのだが、瑠海男は浮かない顔。不幸なことに、前年度に前の双葉学園で一年上だった平岩慎吾らが、同じ青葉学園にきていた。さらに、前の中学校で同学年だった江場秀夫や辰巳重太が、同じクラスだった。病弱で一四〇に満たない瑠海男と、一七〇を越える平岩や重太たち。彼らははるかに大きい怪物だった。