願い①
神歌が終わると共に、それまで吹いていた風が止み、揺れていた水面が一気に凪いだ。まるで、全ての生きとし生けるもの、自然界に存在する全てのものが、これから始まる何かを、息を殺してじっと見つめているような、そんな感じであった。
ユリヤは水面をうつろな瞳で見つめていた。
この水面と同じように、心も凪いでいた。不安や恐れといったものは無かった。これまでの村での生活も遠い過去のようだった。
(ようやく、自由になれる。)
幼い頃、義理兄が手を伸ばし、語ってくれた夢。
それは儚い夢だったが、ユリヤが生きる意味を見出すきっかけになった夢でもあった。
現実は甘くなく、夢として一時は消えてしまったが、祭りを前にしてユリヤは再び夢をつかむ幸福を感じていた。
忌み子として生まれてきたこの存在の意味を、ユリヤは今分かったような気がしていた。
(私が私として生まれた意味。この死をもって私は生まれた意味を感じられる。)
ユリヤが見つめていた湖の中央から波紋が広がったかと思うと、赤い光と共に湖面に円陣が描かれる。途端、奇妙な文様がすさまじい光を放ち、村人達は思わず目を瞑った。
だが、そんな中でユリヤは見たのだ。その光の中心に輝く赤い瞳を。
吸い込まれるようにユリヤが湖面へ足を進めると、湖の中心から水柱が立ち上がったかと思うと、ユリヤへとまっすぐに降りてくる。
ユリヤはそれを目をそらさずに真っ直ぐに見つめていた。
(さぁ……私を迎えにきて……。)
まるで愛しい恋人を迎えるようにユリヤは命を持った水柱へ両手を伸ばす。
「ユリヤ!!」
遠くでエリクが呼ぶ声がしたような気がした。だけどユリヤはその声に答えることなくじっと水柱を見つめた。
体が何かに包まれる。それは冷たい水ではなく、もっと暖かく、懐かしいもののようにユリヤには感じられた。
(さよなら。エリク兄さん……。)
思った刹那、ユリヤの視界は闇に解け、自分がどこにいるのか分からない感覚に陥った。
エリクは忌み子である自分を唯一受け入れてくれた存在だった。共に外の世界に行こうと連れ出してくれた手の温もりは、ユリヤにとって全てであった。その後、逃走が発覚し、村人達に捕らえられた後、エリクは時期村長となることとなり、ユリヤとは一線を置くようになった。
時期村長になると告げたエリクの言葉は、幼いユリヤにとって少なからずショックではあったが、エリクを恨んだことなどなく、むしろあれだけの知力を備えたエリクが時期村長になるのは嬉しいことであった。
だが、エリクは外の世界へ連れ出すという約束を守れなかったことを気に病んでいるようだった。
自分のことで気に病むことなんてないと、何度告げてもエリクは納得してくれなかった。
エリクにはたくさん守らなくてはならないものがある。村の将来も、そこで生きる人々のことも、幼い義理兄弟・姉妹のことも。
(私は、我侭なのかもしれないわ…)
たぶん自分が悲しかったのは約束を守ってくれなかったからではない。ましてや村で忌み子として扱われたからでもない。
ただ、自分は欲しかったのだ。自分を「一番」だと認め、必要としてくれる誰かが。それだけが望みだった。だが、その望みを叶えるのはたぶん、とても難しいこと。それがエリクならよかった。だが、エリクは皆に愛される存在。そして皆に愛を与える存在。決して自分だけが特別な存在ではなかったのだから…。
「姫……。我が姫……。」
遠くで誰かの声が聞こえる。
いつまでも聞いていたいと思わず思ってしまうほどに甘美な声。ユリヤはそれをまどろみの中で聞いていた。
「我が姫……もう目覚める頃ぞ。」
その声と共に、頬に触れる冷たい感触に、ユリヤの意識は覚醒した。
「わ……たしは……。」
混乱する記憶を何とか繋ごうとする。ミランダの神歌が終わって、神の嫁に捧げられて、大きな水柱が現れて、それが自分を飲み込んで…。
だが、ユリヤの体はまったく濡れていなかった。あれほどの水に飲み込まれたというのに。
「私……生きているの?」
誰に問いかけるでもなく言った言葉で会ったが、その美声が耳元で囁いた。
「そうだ。そなたは生きている……。よう参った、我が姫。」
男性に囁かれたことなど無いユリヤは驚きのあまりに小さく声を上げ、思わず飛びのいた。そのとき、ようやくユリヤはその美声の持ち主を認めた。
煌く血のように赤い双眸と漆黒の髪。そして何よりユリヤの目を引いたのは、やはり闇を凝らせたような漆黒の羽だった。
異形の姿に、ユリヤは恐る恐る尋ねる。
「あなたが……神様?」
「村のものは我をそう呼ぶ。待っていたぞ、我が姫。」
『神』は、ユリヤを愛おしそうに見つめる。そしてユリヤも『神』の持つ真紅の瞳を魅入るように見つめた。
(この瞳を……知っている……。さっき祭りのとき、私を連れ去ったあの水柱の中で感じた瞳……?)
「姫、名はなんという?」
「ユリヤ……。」
「そうか。待ちわびていた、そなたを会えるこのときを。ずっと、ずっと一人で……。」
「私を待っていたの?」
「そうだ。我にはそなたが必要だった。だから、焦がれた。ユリヤ、そなたと見える日を…。」
まるで熱に浮かされたように、ユリヤは『神』を見つめた。初めて会うのに何故か懐かしい、そんな気持ちと、孤独だった心を満たされる思いで、ユリヤの口からは熱い吐息が漏れた。
「私が……必要?」
「そうだ。我にはそなたが必要だ。」
ゆっくりと優しく頬に触れる冷たい『神』の手に、自らの手を添えて、ユリヤは静かに目を閉じた。
それは、自らを必要としてくれる存在を初めて手にした瞬間だった。ユリヤは生まれて初めて心が満たされていた。
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