白球の行方
カキーン、という音と一緒に、白い球が宙に舞う。夏空に空高く飛んでいったボールを眼で追いながら、足を動かす。
一歩、二歩と足をシャカシャカ動かして、だんだんと高さを失っていく球をただ追う。追って追って、追いついて、先回りして左手を掲げる。
何も聞こえなかった。けれど、ポロリという音が、確かに、何かがこぼれ落ちるような音が、左の掌から聞こえてきた。
そこからのことは、あまり覚えていない。夏の茹だるような暑さのせいか、それか掴み取れなかったことへのショックのせいかは忘れてしまった。
確かなことは、自分のせいで迷惑をかけしまったということだけだった。
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ハッと眼を覚ましたのは、い草の匂いが充満した部屋。目の前には、さっきまで見ていた青空ではなく、木目で彩られた天井。茹だるような暑さだけが、何も変わらず身体に巻きついてくる。
「あー」
すっかりとカラカラになった喉を震わせて、首を左右に振る。エアコンなんてもの着いていない部屋で、唯一安らぎを与えてくれる扇風機は動かなくなっていた。
「故障か……くそ」
悪態をつきながら、斜め四十五度から何度叩いても復活せず、扇風機はピクリとも動かない。これから夏本番だというのに、幸先が悪い。
「思い切ってエアコンを買うか……? 貯金、あったけな……」
眠たさで満ちている身体を引き摺るように歩いて、通帳の入っている戸棚を乱暴に開ける。中には請求書やら契約書やら、大事な書類を入れてある。その中でも一番上に置いてある緑色の通帳を開け、金額を見る。
「……扇風機買うか」
社会人二年目。安月給の俺の通帳に大した額は入っておらず、大人しく身の丈にあったものを買うことにする。
「……着替えるか」
ボロTシャツとステテコという部屋着ルックで外に出るということには、流石に抵抗がある。学生時代はそうでもなかったのだが、社会人になってキチッとした格好を強要されるようになってからはダメになってしまった。
ベランダから適当に、それこそ傍から見ても、見苦しくない格好を意識して服装を選ぶ。七分のチノパンに、黒のポロシャツ。後は、スニーカーでも履けばいいだろう。
着替えてから、空きっ腹に何か入れるべく台所に行く。昨日の食器が、流し台に放置されたままだ。返ってきてから洗おうと心に決めて、その横においてある冷蔵庫を開ける。
「なんもねーのかよ」
昨日の自分に、思わず文句を言ってしまう。扇風機のついでに、今日以降の食材も買いに行かなくては。
腹に何も入れていないのは辛いから、とりあえず牛乳を流しこむ。カラカラの喉に流し込まれた牛乳が、何だか張り付いているような気がして不快な気持ちになってしまう。
「チッ……」
舌打ちを一つして、机の上においてある財布と家の鍵を取る。玄関を出て、一歩外に出るとセミの大合唱が鼓膜を揺らす。直射日光が、肌をチリチリと照らしてくる。
家に鍵をかけ、足早に階段を降り、駐輪場の自転車に跨がる。かれこれ六年以上住んでいるこの土地の、家電量販店の場所は分かっている。
炎天下の中、自転車を漕いで漕いで、目的地を目指す。
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「ありがとうございましたー!」
威勢の良い店員の声をバックに、冷房ガンガンの店内から出る。右手には、ずっしりと重たい新しい扇風機。右ポケットには、軽くなった財布。
扇風機を何とか前カゴに突っ込んで、多少フラつきながらも何とか前進する。次の目的地はスーパーだ。ここからは十分ほどで着くだろう。そう思いながら、目の前の信号に引っかかったので止まる。
――カキーン。
そんな懐かしい音がして、思わず上を向いてしまう。青空と太陽、ないのはボールだけ。音の出処を探すと、すぐに見つかった。
道を一つ挟んだ向こうにある、バッティングセンターからだ。取り分け気にも留めたことがなかったから、あるということを知らなかった。
久しぶりに行ってみるか。そう自然と思い、進路を変更する。青に変わった横断歩道を渡り、緑のネットに囲われた建物を目指す。
建物の裏手にある駐輪場に自転車を止め、建物を見上げる。看板は年季が入っていて錆び付いている。ハッキリ言ってオンボロだ。
そんなバッティングセンターも繁盛しているようで、駐車場には二台ほどの車が止まっているし、駐輪場には五台も自転車がある。
扇風機を持って建物に入ると、中途半端にかかっているエアコンの風が当たる。入って右手にはゲーム類が、前に伸びている廊下には椅子と、打席が設けられている。
とりあえず真っすぐ歩いて、適当に空いている椅子に腰掛ける。椅子に座るとガラス越しに打席が見える。夏休みということで、暇つぶしに来ている学生やら親子連れが多いみたいだ。
一打席二百円ということで、財布の中の千円札を崩す。膨れた小銭入れから硬貨を二枚だけ取り出して、空いた打席に入る。
機械に硬貨を入れて球速を選ぶ。下が八十km。上が百二十km。元高校球児の意地か、手が勝手に一番上に設定してしまう。金属バットを手に、右の打席に立つ。フォームは身体が覚えていて、自然と格好をとる。
一球目、目の前の機械から投じられた一球は、直球ド真ん中。真芯に当たるようにバットをめいいっぱい振り、
「……あれ?」
パスっという音が後ろから聞こえてきて、ポテポテとボールが転がってきた。見事な空振りだった。
「……まぁ、ブランクあるし」
気を取り直して第二球。やや高めに投じられたボールを、バットは下をくぐり抜けていく。……ふむ、当たらん。
残り十三球も掠ることなく、ボールは地面を力なく跳ねる。やがて赤いランプが消えて、自分の番が終わったことを知らせてくる。
バットを戻して、首を傾げながら元の椅子の戻る。ここまで打てなくなってるとは、露にも思ってなかった。
乱暴に座って、他の客のほうを見る。快音を響かせているのは、一番右の打席に立っている青年だ。左打席に立って、ただひたすらにバットを振っている。
自分のもあんな頃があったのかと思うと、感慨深いものがある。途中で諦めたら、こんなものなんだろう。
「おい、そこの兄ちゃん」
最初、誰に言っているのか分からなかった。嗄れた声は誰に向けられたのかと、気になって首を振ると、真っ直ぐと老人と眼が合った。
俺? と聞くように指さすと、老人は満足気に頷いて横に静かに座ってきた。
「兄ちゃん、大振りしてちゃ、当たるもんも当たらんさ」
大振りっていうのは、俺のさっきの打席のことを言っているんだろう。
「地道にコツコツやってかなくちゃ、上手くいかんさ」
歯並びの悪い口元を見せながら、老人は諭すように言う。そのとおりだ、そう思いながらも、反発する自分がいた。
「でも、どうせならデカイの狙いたいでしょ?」
まぁ、そうさな、と同意を示しながらも、
「でもなぁ、野球でも一年目から上手くいく奴って少ないだろ? それと同じでさ、こう急がば回れってやつでやりゃあいんじゃねぇの」
「でも、のんびりしてたら置いて行かれるでしょ」
そうだ、置いて行かれるのだ。脳裏に過ったのは、一年目から結果を残した同期の姿。ソイツが特別だってことは分かっているけれど、どこか悔しい。
ソイツはそれを機会に、どんどん前へと進んでいった。それに比べて俺は、ミスばかりをしていた。その度にソイツと比べられ、焦った。
「まぁ、嫌な奴の顔を浮かべれば当たるってよくいうし、気張れよ兄ちゃん」
考えていることを見透かされたような気がして、少し嫌な気分になる。俺の次に入っていた客が出ていき、それを見送ってから俺も打席に立つ。
設定はさっきと同じ。目も慣れてきているはずだ。一回目とは違う、一年目とは違う。慣れとは違うけれど。
飛んできた一球。そこには、同僚のニヤけ面が写っているような気がした。当たることもなく転がってきたボールは、ただの薄汚れた軟球だ。
気を取り直して、もう一度構える。機械の腕から投げられたボールには、部長のハゲヅラが。力一杯振ったバットはボールの下半分を擦り、緩やかな弧を描いて落ちた。
老人に言われた事が現れているのか、俺の眼には次々飛んで来るボールに誰かの顔が見えた。うざかった高校の担任の教師。やたら絡んでくる良く分からない友人。電車でよくぶつかって来るオッサン。近所にたむろするヤンキー。何人もの顔が見え隠れして、俺は苛々をぶつけるようにバットを振る。
そして、最後に目に映ったのは。ただ被害者ヅラをしているだけの、自分の顔だった。フッと鼻で嘲笑って、バットを振りぬく。軽い感触と、何かが弾けるかのような音。白球は高々と上がっていく。それを追う、あの日の自分の姿が見えた気がした。
追って追って、掲げた左手に入るはずだったボールは、どんどん伸びていって薄い看板に当たる。ホームランだ。それと同時に、あの日の自分が消え、その続きが脳裏に現れる。
肩を落としながらベンチに戻る俺と、こっちを睨んでくるピッチャー。宥めるチームメイトの声を遮るように、試合終了のコールが告げられる。サヨナラエラーだった。
地方予選の二回戦。傍から見ればショボいと思われるが、俺達は必死だった。試合後、ピッチャーにどうして落としたのかと問い詰められ、俺はやれ太陽が、風が、なんていう適当な言い訳をした。
実のところは違う。ただ、気が緩んでいただけ。油断の隙を縫うように、ボールがすり抜けていっただけだ。慢心せずに、一つずつ確実に。
「どぉだった、兄ちゃん」
軽快な音がなっている中、さっきの老人がキメ顔をしながら話しかけてきた。
「別にどうってことはないですけど……」
「俺のアドバイスのおかげだろぉ?」
恩着せがましく言ってくる老人に、曖昧な笑みを浮かべてやり過ごす。まぁ、心持ちが変わった、という意味ではアドバイスのおかげだとは思えた。
失敗することがダメじゃなくて、その後何もしないってことが一番の失敗なのだと。焦る必要はない、一つずつしっかりとやればいい。
このことを、あの夏の日の俺が知っていたら、全く別の景色が見えたかは今では謎だ。それでも、今の俺がこれを知れた。それだけで十分だ。
扇風機をしっかりと右手に握って、太陽の照りつける外へと出る。
とりあえず、明日から頑張ろうか。