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潜在人間(ジャックマン)①  作者: 竹橋 夢仁
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4月22日(4)

 


「始めっか!」


 放課後、笑い声の響く4組から出てきた康弥は、すたすたと新を追い越して言った。持ち帰らずとも支障のない中身を抜かれたエナメルバッグは、随分と軽そうに見えた。


「始める?」


「新の誕生日会だろ」


「ああ……! ありがとう」


「礼はいらないぜ。当たり前や」


「なんで関西弁なんだよ」


 ふたりは靴を履き替え、道路の拡張工事をしている北門近くで立ち止まった。康弥の話によると、柚は弓道場に寄ると言って先に教室を出たらしい。そこで、使う頻度の低い北門が合流場所になったのである。柚をはじめとする弓道部が活動する弓道場は、校舎の東にあった。


「弓道場行ってみる?」


 時刻は4時。新はさりげなく言った。


「あ、頼むわ」


「康弥は?」


「すれ違いになるかもしれないから待ってる」


「おおん、わかった、荷物置いてくね」


「ごめーん、待った?」


 弓道場へ向かおうとした新の鼓膜を、待ち望んだ声が打った。


「ごめん、待ったでしょ」


 小走りに走ってきた柚は、乱れた前髪を撫でながら繰り返した。いつもより少し高めに結われた髪が弓道部らしかった。


「いや、全然!」


「超、待ったわ」


 新と康弥は同じ意味であべこべな返答をした。


「えー、ごめん」


「ダメ、許さねえ」


 新と康弥は幼稚園からの幼馴染み、柚と康弥は小学生当時のスイミングスクール仲間だが、3人が話すようになったのは高校に上がってからだった。自分には近すぎる距離で柚と話す康弥を、新はちょっとうらやましく思った。


「新は何かしたいこととかねえの」


 毎朝右折する交差点を過ぎたあたりで、康弥が後ろ歩きしながら言った。


「うーん、特別にはないかなあ。いつもの感じでいいよ、全然。むしろそれがいい」


「まあ確かに。東京とかに住んでたら遊ぶ場所いっぱいあんのかな」


「ここ何にもないもんね。ひどすぎ。せっかく誕生日なのに行くとこだいたい限られちゃう」


 地下鉄よりも運賃のかからない在来線で、3人の自宅から離れるようにさらに1駅。市の中心部のことに西側は、百貨店や類似の大型商業施設、アーケード商店街、横丁、服屋、オフィスビルなどが密集し、学生の遊び場にもなっていた。駅東口側の予備校や家電量販店に用のない3人は、西口側の巨大なペデストリアンデッキの一角に降り立ち、主に康弥の先導で歩を進めた。


 5時、駅前ビルの6階でCDをプレゼントされた。動画サイトでは聴けないドリーム・ポップとプログレッシヴ・ロックのCDだった。


 5時半から3時間、ぎりぎり昼料金のカラオケ店に入って歌い、駅へ戻りしなにプリクラを撮った。


「あ! やべ」


 8時半。駅の地下、安めの価格設定で学生の客も多いイタリアンの店に入ろうかというタイミングで、康弥が呻いた。


「ん? どうした」


「時間ミスった。俺、雄星に飯作んないと」


 雄星は康弥の弟で、康弥の家は父子家庭だった。


「え、じゃあもう帰る?」


 それでもいいよね、と柚はこちらを向いて訊いた。もちろん、それはもう、じゅうぶん素晴らしい放課後を過ごせたのだから、康弥の都合にも合わせたい。


「帰るか」


「いやいやいやいや、それは悪い。飯くらい食べてけって。新はもう親に言っちゃったんだろ、食べてくって」


「あー言ったね。でも」


「あ、店員さん! ふたりでお願いします、すいません」


 迷惑にも入り口前でもたついていたため、店員が来店の確認をとやってきていた。


「これ飯のキャンセル料な。ごめんな、また明日」


 新に無理やり野口英世を握らせると、康弥はじゃあ、と右手で言い、急ぎ足で行ってしまった。新はエナメルバッグの金具が擦れる音をしばらく追っていたが、これ以上店に迷惑をかけるわけにもいかなかったので、柚を促し、ふたりで席につくことにした。店の中でも奥まった、壁際のテーブルへ案内された。


「千円もらっちゃったけど、どうしよ」


 康弥はああ言ったものの、おいそれと使う気にはなれなかった。言いながら、新はメニューを広げた。


「明日返したらいいんじゃない? 多分嫌がると思うけど。うちが渡しとく?」


 差し向かいに座った柚は、軽く身を乗り出して新のめくるメニューを見、いたずらっぽく笑った。甘く爽やかな彼女の匂いが、料理のジャンルが変わるごとに揺らめいた。どんな生活をしていたらこんな匂いになるのだろう。


「いや、俺が渡すよ」


「じゃあ、お願い。何にしようかなあ」


 ひと通りメニューを見終えたころ、氷水の入ったグラスを持って店員がやってきた。新は旬であると一推しされていたボンゴレパスタ、柚は魚介のクリームパスタをオーダーした。互いにシーフードの気分だったらしい。


「今日はほんとありがとうね、だいぶ楽しかった」


 思えば、こうして柚とふたりで食事をするのは初めてである。まるでデートみたいだな、と新は嬉しくなったが、喜びは心の内に留めておくことにした。あくまで棚ぼた的な時間なのだ。チャンスと呼べるほどのものではない。


「えーいいってお礼とかほんと。それならうちより康弥に言ったほうがいいよ」


「そうか、康弥にまだ言ってないわ。あいつに唐揚げ串おごってやんないとな」


 その場にいない者の話で盛り上がるうちに、ふたりのパスタが運ばれてきた。食べ始まるとどうしても口数は少なくなったが、話題は相変わらず康弥に関連したままだった。新は苛立つより先に自分が情けなくなった。


「そうなんだよ。何がすごいって、何に人生を懸ける、って自信を持って言えるのがすごい」


「新は無いの、夢とか」


「目標はあるよ。前も言ったけど、教育大に入って国語科か社会科の先生になるっていうさ。でも康弥みたいな熱はないっていうか、安パイっていうか。別に教師にやりがいがないとか、真剣に働かないとか、そういうんじゃなくて」


「そっかあ。好きなことを仕事にするって難しいもんね」


「だろうね。俺の場合、好きって言っても全部中途半端だから、こう、手堅い道っていうのが魅力的に見えてきちゃうんだよね。うーん、柚は好きなこととか、夢とか、無いの」


「えー、新でもそうなんだから、うちなんかもっとだよ。趣味もそんなないし。とにかく良い大学に入って、ホワイトな仕事に就かなきゃって感じ」


「あれ、そういえば柚のお父さんって警察官だったよね? しかもけっこう偉いほうの。康弥と一緒に警察目指したら? だめなの」


「だめって訳じゃないけど……。お父さんは尊敬してるし警察の仕事ってすごいとは思う。だめって訳じゃないけど、康弥を見てるとうちくらいの気持ちで目指しちゃいけない気がして」


「あー、なんとなくその感じはわかる。俺も最初バンドやりかけたとき周りの奴らに申し訳なくなってやめちゃった」


「えーでも今日超歌うまかったじゃん。新のバンド、見てみたかったなあ」


「歌だけでバンドがやれたら誰も苦労しないよ。……こうやってさ、将来のことを考えてるとさ、このまんま半分流されて当たり前に生きていくのかなって思っていつも気が滅入るんだよね。俺の人生はそこまでなんだなって」


「あー分かるかも。テツガク、みたいになるよねだんだん。何のために生きて何のために死ぬ」


 がちゃん、と新のフォークが音を立てた。アサリの貝殻がふたつに割れた。


「のか、みたいな? 大丈夫?」


「え? ああ、大丈夫大丈夫。手が滑った。うん、でさ、そういうところまでいくとキリがなくなってきて、結局安パイに戻ってくるんだよね」


「そ。普通の幸せが一番、っても言うけど」


「でも『普通の幸せ』ってさ、妥協の結果だとも思わない? 色んな人を敵に回しちゃうかもしれないけど。なのに俺自身、妥協しない勇気も才能もないっていうのが悲しいわけよ」


「うちは普通の幸せでもいいと思うかな。大事なのはそうなる前に自分の幸せをちゃんと考えたかじゃない? それで普通の幸せに行き着いたんだったら、いいと思う」


「あーいいこと言うな。なんだっけ、ソクラテスだか誰だかの言葉で『人は生きるために食べるべきであり、食べるために生きてはならない』っていうのがあるらしくて、最初それ聞いたときなんかすごいグサッと来た」


「え、どういう意味、それ」


「要は、目的を持てってことじゃない? 日常生活はあくまで手段であって、ただ働いて食べてるだけじゃ生きてることにはならないっていう」


「なんとなくわかった、かな。うーん、やっぱりうちは明日死んで」


 始めよう。


「ないんだろうなって思う。嫌だけどね」


「あ、ごめん、もう一回……」


「え、あ、うちは明日死んでも、嫌だけど、そこまで後悔はしないんだろうなって」


「それは違くないか」


「えー、でも悔しいってことは心残りとかやり残しがあるってことでしょ。まあ生きてれば遊んで楽しいとか、結婚して幸せとか、ご飯が美味しいとか、あるかもしれないけど、私にはそれ以上の人生の目的、みたいなの無い気がする」


「だからって死ぬのは駄目だろ。……死んじゃ駄目だって」


「あ、例えばの話だからね! 死なないって」


「冗談でも言っちゃ駄目なことってあるんだからさ、冗談でも言っちゃ駄目なことってあるんだから」


「え、ごめんね? ……ごめん」


 既に桜の季節も過ぎている。頭は重く、会話は立ち消えた。沈黙の中、最後の最後で砂が歯に障った。


「行こうか」


「うん」


 9時半。必要以上の会話を作れぬまま、ふたりは帰りの電車に乗った。柚は1駅先に降りる。新は相変わらず重苦しい頭でどうにかして先刻の失態を釈明しようと考えを巡らせていたが、言い訳がましくなるのは避けたかったし、そもそもなぜあんなことに拘泥したのか自分でもわからずにいた。


「次、だよね」


 9時37分。店を出てから、数分おきに意味もなく携帯を確認していた新は、柚の下車を報せるアナウンスにいやな汗をかいた。


「うん」


「あの、さっきのことなんだけどさ」


 柚はかすかに驚いた顔で新を見たが、すぐに顔を逸らして申し訳なさそうにリュックを背負い直した。電車の速度が落ちだした。


「さっき?」


「さっき店で俺が変なこと言い始めたやつ」


 ドラバイトのような目が再びこちらを向いた。傍目にはあまり気にしていない様子だったが、新は続けた。電車は今にも停まろうとしている。


「それなんだけど、それが、あの話だけはなんでか黙ってられなくて、こだわっちゃって、だから」


 遅過ぎた。言い終えぬうちに電車は停車し、別の乗客がドアを開けてしまった。乗車する客がいないぶん、柚は少しの間動くのを躊躇ったが、それにも限界があった。


「……にかく、ごめんね!」


 ドアが閉まる前に、新は肝心な言葉を発することができた。しかし、それに柚が返答を返すには、時間があまりに少なかった。電車は動き出し、何か言おうとした柚を彼方へ置き去った。結果、新は自分勝手に終始してしまったのである。


 カップルが青春をやっているように見えているのかもしれない。だが、周囲の目を気にかけている余裕はなかった。明日からどう柚の気を引けばいいんだろう。もう取り返しがつかないのではないか。これは、やってしまった。


 新が後悔と罪悪感で打ちひしがれるうちに、電車は駅に到着した。我に返り、他の乗客と共に下車すると、冷たい風が飽和した頭に吹いた。4月とはいえ、夜は未だに冷え込んだ。改札を抜け、明かりの庇護から外れれば、それはより如実に感じられた。風が吹くどころか、雨に満たない細かな水滴が行く手を煙のように漂っていた。


「帰るかあ」


 新は嘆息混じりに呟き、家路を急いだ。親父は、もう帰っているだろうか。まあ、ベンチに白い男がいなかったのは、不幸中の幸いとでも言うのだろう。


 駅から約5分。その程度歩いただけで、顔に雨水の膜ができた。この倍は歩くのだと思うと、おのずと早足になっていった。同時に下車した乗客も散り散りになり、出歩く者のない住宅地の合間を、今は新と雨合羽の男だけが動いていた。ランニング中らしいその男の足音が遠ざかると、後には溜まった雨が屋根に垂れ、側溝を流れる音だけが残った。


 そうだ、明日柚になんと言えば名誉を挽回できるか考えなければならない。康弥にはまずお礼を言うとして、問題は柚だ。最悪なのは、柚がリカバリー不可能な気まずさを感じてしまうことなのだから、それだけは避けなければならない。


 不意に右で電灯が光った。今夜も通行人の虚をついた電灯は、新が通り過ぎたあとに少しの間をおいて点灯した。センサー式の防犯ライトだった。


 ならば、あまりこちらが気負ってしまっては逆効果なのかもしれない。明日だけどうにかなれば良いというのではなく、これからも柚との関係は保ちたいのだ。今日の失敗は些細なものとして、さっさと水に流してしまうのが吉か。いや、後始末が無様だったせいで、すでに些細な出来事ではなくなっている可能性もあるが。まずは。


「すいません」


 抑揚のない声が背中を叩いた。跳ねるように立ち止まった新は、肝をつぶしながらもその呼び掛けに振り返った。


 雨合羽の男が立っていた。


 唐突に鈍い痛みが左頬を打ち、新は濡れたアスファルトに尾骶骨から倒れ込んだ。殴られた、と理解するまでに、男の腕が首に巻きついて激しい圧迫が始まっていた。


 呼吸ができず、声も出せない。力任せに四肢を振り回すが、男の体躯は見かけよりも頑強で、まるで意味を成さない。


 雨か涙か、歪んだ視界を大きな光が埋めた。それが救いの光などではないということは、霧散しつつある意識の中でも判別できた。


 死にたくない。墨を注いだ身体に、その一言だけが溶けていった。


 

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