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潜在人間(ジャックマン)①  作者: 竹橋 夢仁
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岐路(3)

 


 次第にトラックのバリケードは遠ざかり、短いトンネルを過ぎた。逃げ切ったのか?


 しかし、どういうわけか車の速度が落ちつつあった。せっかく離脱したのではないか。追い付かれてしまうのではないか。新は答えを求めて白い男を探すが、フロントガラス越しの景色にその姿は映らない。


 がきん。


 まさか。はっとして扉の嵌っていた穴から顔を出し、黎明の空を仰ぐ。溶け落ちそうな紫の雲の中に、影は立っていた。4車線の川に架かる跨道橋の欄干へ飛び移ったのである。にわかには信じがたいことだが、片腕で佐古田の首を刎ねた大罪が事実なら、こんな嘘八百もあり得ると考えるしかない。


「執行官は」


 とうとう停車、運転手が口を開いた。その言葉には新だけが反応した。


「査察官のもとへ向かわなければなりません」


 喪服がそう言うからにはどの道そうなるのだろう。新は疑問を抱く前に降り立っていた。


「でもどうやってあんな所に……!」


 案の定、運転手はもう何も言わない。新にできるのはふらふらと白い男の足の下まで歩くことだけだった。


「これ、どういうんですか! 運転手さんに行けって言われましたけど」


 頭上からも返答はない。それどころか、2台の黒塗りが示し合わせたように再発進、置き去りにされてしまった。


 なんだ、なんなんだ。今度は何がどうなる。


「さっきの爆発も! 何が追ってきて」


 延髄を震わせる駆動音。反射で振り返った新の視界にはトンネルから続く高速道の直線だけが映った。が、人工の雷鳴は尚も迫り来る。手錠がみっともなく鳴る。


 この音、今しがた査執協の人間を沢山殺した奴なんじゃないのか? 次に殺されるのは、僕なんじゃないのか? ジャック! ジャック!


 泉門の虚像を震わせる破裂音。爆発かと思われるほどの銃声は続けざまに4発の.500S&Wマグナム弾を撃ち出し、全てが雷鳴の音源たる路上1メートル強の中空で着弾の火花をあげた。最後の弾丸が鏡を割ったように空間へ亀裂を作り、跨道橋の寸前で何者かの進行は阻止されるに至った。白い男が、僕を守った?


 亀裂の周囲から空間の歪みが拡大し、無意識に後ずさる新の目の前で、追跡者は本来の色と姿を現した。黒曜石の鎧を纏った虎狼のごときバイクを、同質のライダースーツを身に付け、上方へ銃口を向ける黒い男が従えていた。亀裂はヘルメットのバイザーに刻まれている。


 黒い、男。新の網膜に、鼓膜に、その概念が二度目の知覚を齎した。自分ではない意識が見、聞いた、ノイズだらけの記憶の断片。散乱したパズルピースのそこかしこに、この男は存在している。佐古田を殺してから的場と及川に拾われるまでの5日間で、ジャックはこの男と会っていた。いや、それだけじゃない。なにか会話をし、なぜか交戦し、ジャックはその手中からも、逃走している?


「残念ながら時間切れです」


 新のフラッシュバックを遮って、愉しげな声が降った。


「あなたは執行官に触れることさえできないでしょう」


 黒い男は黙したまま、数歩、じりじりと前進した。バイザーの底に潜む奈落の水面がゆらぎ、直後、引き金を引くと同時にこちらへ肉迫せんと地を蹴った。


 どうあれ、今狙われているのは自分なのだ……! 新は応戦の覚悟を決めた。手錠が鬱陶しいが、ジャックの助け無しでも後転しながら拳銃を蹴り飛ばすくらいは、うまくすれば狙えるはずだ。


 がきん。


 身構えた新の横を、白い影が駆け抜けた。互いの銃弾を互いが紙一重で躱し、ふたつの影が至近距離で交錯する。打撃、打撃、回転、打撃。鋭い拳が打ち合われるも、体格差で勝る白い男の義足蹴りを織り交ぜた体術に、軍隊式を思わせる直線的な格闘術の黒い男は気圧されているようだ。


 音響閃光弾。虚をつく炸裂に、新は思わず顔を背けてしまった。最小でも170デシベル・100万カンデラの音と光は、特に防護されていない人間に対し、方向感覚の喪失や見当識の失調を引き起こす。眩んだ五感を新が取り戻す頃には、両者が再び銃口を向けて睨み合っていた。


「また強化が進んだか。査察官」


 黒い男が、覚えのある声で喋った。嗄れているが、かろうじて老人のものではないとわかる。


「もはや人間ではないな」


「あなたほど醜くはないつもりですよ。名無しジャック


「弟は返してもらう」


「ではやってごらんなさい」


 なんだって?


「小路監督官のようにはいきませんよ」


 いま奴はなんて言った?


「1秒の猶予もあなたには残されていませんが」


 誰が「弟」だって?


「やれるものなら」


「おまえ……!」


 新は叫んでいた。


「誰が! 誰の弟だって言った……!」


 白い男が歯を剥き出して破顔しているのが、後ろからでもよく分かった。


「誰が僕の兄だって言ったんだ……!」


 黒い男は少しの間をおいて拳銃を腰のホルダーに差し、両手をひび割れたヘルメットにあてがった。そして静かに、ただし着実に、脱いだ。中からは、兄のような兄でないような、作り物の顔をした男が現れた。本来ならちぐはぐで奇怪な、気味の悪い容貌と形容されるべきが、新にとっては違っていた。


「こんな顔と声になってしまったが、灰島馨はいじまかおるが、俺の名前だった」


 その硬質で精悍な仮面は、まさしく馨の顔を模したものである。弟には嫌でも判った。


「名乗らないこともできる。でもそうしない」


 茫然とする新の代わりに、白い男が堪えきれぬとばかりに哄笑した。


「名前も顔も無くしたあなたが! そんなものまで作って弟に認められたいか!」


「黙れ! 俺は新を救いたいだけだ。M500の装弾数が5発なら、貴様は弾でも込めていろ」


「ええ、ではお言葉に甘えましょうか」


 言いつつ、白い男はリロードせずに新たな拳銃を懐から引き抜いた。その間に兄を名乗る男も撃ち尽くした弾倉を交換したようだった。


「執行官、あなたはこの男を信じますか?」


「黙れ出来損ない」


「信念も志もなく、裏切りと虚飾で自らの破綻から逃げ出したこの男を」


「新、俺と一緒に来てくれ。今のお前なら、あの頃と同じお前なら、わかるはずだ。もう誰も殺さなくていい。誰にも脅かされない。お前は自由になる」


「じゃあ」


「ずっと待っていたんだ……。俺がそうしてみせる。お前は何もしなくていいんだ」


 勝手なことばかり、どいつもこいつも言う。あなたの顔も思い出も、膨大な3年間と異常な1週間に希釈されてしまって、碌に見えちゃいないのに。


「じゃあその仮面の下、見せてくださいよ……。あの頃と何も変わらない馨だって、信じさせてくださいよ……!」


 男がわずかにたじろいだように見えた。白い男の笑い声。


「それは……できないんだ。できるけど、できないんだ」


「なんでですか……!」


「もう、この下に俺の顔は無いんだ! この仮面だけがお前の知っている顔なんだ!」


「なら」


 新は繋がれた両手に決意を握り締め、震える息を吐いた。


「僕は行けません」


 仮面の奥の瞳が揺れた。際限なく嘲笑が響いている。


「新。お前は洗脳されているんだ。自分たちが作り出した地獄で蜘蛛糸のふりをするのは、こいつらの常套手段だ」


「違う。生まれて初めて、生きる必要があると思ったんだ」


「自分で考えた結論だと思い込ませるのが洗脳だ。お前の意思じゃない。ついさっき、康弥君もこいつらに殺された! こいつらは、お前を貶める! 不幸にするだけだ!」


 康弥がどうしたって?


 閃光弾の影響だろうか。目がチカチカする。康弥が? だから康弥がなんだって? 康弥が――。


「俺は絶対にお前を苦しめたりしない。これまでもこれからも守り続ける。仕組まれた存在は、俺ひとりで充分だ!」


 手のひらの中で、決意がより確かなものに変わってゆく。苦しみたいわけじゃない。でも、幸せになりたいのでもない。罪深き自己と罪無き隣人のために、ひたすら生きていたいのだ。それが苦闘の連続だろうと、血の海で泳ぐ有様だろうと、そうあるべきなのだ。今の僕が持てる正しさとは。


「僕のせいで死んだ人がいる」


 康弥が死んだ。


「許せない人間がいた」


 白い男が笑っている。


「倒すべき敵はまだ分からないけど」


 馨が生きていた。


「ごめん馨」


 新は泣いていた。


「僕は……行けない」


 低空を飛行するヘリが、ローターの足音と共に接近していた。


「行けないんだ」


 馨は何か言おうとして果たせなかったのか、意味不明な単語を2、3呟いて身を翻した。ふたつ銃声が重なり、一方は白い男の頬を、もう一方は馨の仮面を掠めて逸れた。


「先生の理想が!」


 発煙弾。瞬く間に周囲は煙幕で覆われた。


「潜在人格がお前を導く! 俺が救い上げる日まで!」


 唸りを上げる駆動系。200馬力の摩擦に鳴いたアスファルトと10年分の孤独を残して、兄の背中がまた極東の空気に溶けていく。白い男によるデザートイーグルの連射も、その退却を食い止めることはできなかった。


「賢明な判断です」


 ひとつ夜が明けた。ヘリの吹きおろす気流が煙幕を散らし、暗闇の中へ帰って行った因縁の残滓を新しい光がさらって行く。


「康弥が死んだのは僕のせいですか」


「ええ、その通り」


「康弥を殺したのは査執協ですか」


「ええ、その通り」


「この国は、あなたたちは、矛盾していますか」


「ええ。その通り」


 新は白い男とヘリに背を向け、紅掛空色の晴天に慟哭した。誰かの、愛した人の名前を叫ぼうとしたが、誰の名を叫べば救われるのか、わからなかった。今はもう呼べなくなってしまった名前が、あまりにも多過ぎた。


「僕は……」


「俺は……!」


 遠い日のチャイムが聞こえる。並んで見上げた夕空に続く朝焼けが、次の夜を刻一刻と手繰り寄せていた。


 

挿絵(By みてみん)

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