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潜在人間(ジャックマン)①  作者: 竹橋 夢仁
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導線

 


 ウン十年ぶりに味わう空気と例えても過言ではなかった。排気という排気が今は愛おしかった。見上げればビルに囲まれた広い夕空があり、誰も自分の行く手を塞がない。こんな自由なことが他にあるか。的場から貰った及川のダウンベストのフードを被り、人目を避けて市街外縁の通りを歩く灰島新は、自身が置かれた状況に反して顔が綻ぶのを抑えられずにいた。ジャックと名乗る超常的な何者かついては気味の悪いことこの上ないが、ひとまず感謝をする必要があるだろう。


 とはいえ、実感していようがいまいが、脱獄囚であることに変わりはない。新の頭には逃げ出したいという望みこそ確かにあったものの、具体的な算段は皆無だった。望みが実現するとは予想だにしなかったからだ。


 人を人と思わないショウジのことだ、見つかればあのピストルでバチュンと一発、今度こそ命を奪われる。アダチも「部落の中で害を為さずに引きこもっているうちは」と条件を付けていた。現状、自分は予期せずそのラインを超えてしまっているのだから……。新はフードでさらに深く顔を隠し、睨むように辺りを伺った。道行く老若男女が一人残らず通報者に見える。さて、どうしたものか。


 ――拘置所。真っ先に浮かんだ目的地に、新は落胆した。救いの無さではなく、受刑者根性が染み付いてしまっている自身の不甲斐無さに落胆した。安心を求めて拘置所へ向かったところで何にもならないじゃないか。死にに行くようなものだ。運が良くて振り出しに戻るだけ……。


「しけい」


 心臓が跳ねた。声のした方向を振り向くも、通行人のありふれた会話や街の環境音が流れるのみである。確かに聞こえたが、気のせいか?


 そうだ。そのはずだ、3年前の事件だぞ、おいそれと思い起こせるもんかよ。日々の新鮮な情報に塗り潰されて、世間一般では懐かしい思い出に等しくなっていなければおかしい。僕への刑が執行されたとか、新しい展開があったらその限りではなかろうが、僕はまだ生きているんだ。あとは、この名前と顔がどの程度衆目に晒されたか、だ。大丈夫だよな? 今のところは。


 前方に、交差点の地下を潜る地下通路の入り口があった。記憶が定かなら、考えている間に駅方面へ寄り過ぎてしまったようだ。でも、とにかく人目を避けたい。新は早足で階段を目指した。


 交差する4方向、それぞれ対応した地下通路が合流する空間は面積の広い多角形になっていて、中心を貫く太い柱は周囲にベンチの根を下ろしている。持ち主ごとにまとめられたホームレスの家財道具一式は葉となり花となり、それを近所の小学生の作品群や県政だよりに載った政治家が掲示された壁からガラス越しに見つめている。新は以前からこの空間が嫌いだった。


 が、そんなことを言ってもいられないので、新は人のいないことを確かめてからベンチに腰掛け、掲示物たちの見世物になった。車中泊で食事と睡眠の不足は多少取り返したものの、やはり身体はあちこちに物理的不備を抱えている。察するに、ジャックが限界を超えて肉体を使役した反動であった。通行人の心配さえ無いなら、全てを放り横になってしまいたいくらいだ。


 さて、どうしたものか。ひとつ選択肢を失う度に新は繰り返した。頭は回りだしたかと思えば止まり、止まったかと思えば回りだし、堂堂巡りもいいところである。


「どん詰まりだ」


 打破できない。家族の行方も知れず、帰る場所を失ったいま、懲りもせず拘置所ばかりが脳裏に浮かぶ。打破できないからこそ、査執協が秘匿性の高いシステムとして機能しているのだ。当然のことだ。事情を知らない人間に頼って巻き込むのはマトバとオイカワで最後にしなければならないし、無実を訴え続けてくれた織田も仕事で面倒を見てくれていたに過ぎない。家も知らない。


 織田。いや、だめだだめだ。結局、それも一般人を巻き込む話になるじゃないか。くそ、また僕はひとりでは何もできないで……。


「ジャック」


 返事はない。当たり前か。


「え、新ちゃんじゃね?」


 新は無意識に顔を上げてしまった。まずい、と思ったときには遅かった。


「新ちゃん~! やっぱ新ちゃんじゃ~ん!」


 沼田だった。内心慌てふためく新をよそに、大学生らしい風体の沼田は高校時代と変わらぬ糸目の笑顔で駆け寄ってきた。


「やつれたな~、お前。出られたのか、んでホームレスか? とにかく、俺は新ちゃんを信じてたぜ~!」


「しゃ、釈放ね」


 新はとっさの嘘をついた。見え透いた嘘なのは自明である。すぐにでもどこか遠くへ逃げなくては。


「僕さ、行かなきゃいけないんだ、あんまり前の知り合いと話しちゃいけないって言われてて」


 誰にだよ。下手な芝居を悔やみつつ、新は沼田に背を向けた。目の前の通路がどこへ出るかなど知ったことではない。ところが、沼田は新の腕を掴んで言った。


「待てって。少なくともここよりはマシな寝床、教えてやれる。話しかけるなっていうならそうするから、騙されたと思ってついて来いよ。新ちゃん元々『僕』なんてガラじゃないだろ? 気ぃ使わないで」


 ああ、くそ。


 逡巡はあった。抵抗も葛藤もあった。だが、新は唯一開けた逃げ道にまたも期待してしまった。せざるを得なかったのだ。


「新ちゃん知ってたか分からないけど、俺の父親、貿易商的なことやってて、港にでっかい倉庫持ってるんだよね。俺昔からその一画をたむろしたり女連れ込むのに使ってて……」


 陽は沈んでいた。流行りの曲らしい音楽を頭上に聞きながら、人工の光で満ちた駅前のペデストリアンデッキを恐る恐る渡り、バスプールから沼田の財布で港行きの市営バスに乗る。沼田が宣言通り、ほとんど喋らず携帯に視線を落としてくれていたため、新はその間に黙して現況を肯定しようと努めた。自らの選択に「正しさ」が欲しかった。


「そういえば、さっき駅前に名織と仁科がいたよ」


 たった今思いついたような沼田の一言が、バスに揺られる新の心までも大きく揺さぶったものの、此の期に及んでどうすることも、どうかするべきことでもなかった。


「ふたりは新ちゃんに気付いてたかもしれないよ。報せなくていいの?」


 次に沼田が口を開いたのは数十分後、潮の匂い吹きつける工業地帯に降り立ったときだった。理に適った否定をしようとして果たせず、新はかぶりを振りながら「いい」とだけ言った。それ以上、沼田も続けなかった。


 耳や鼻が間近に海岸を知覚しているのに、その姿が見えないというのは不思議な感覚だった。右手に防砂林があるからには、間違いなくその先は太平洋なのだろうが、海に馴染みの薄い新にとって具体的な景色は想像しづらいものだった。やがて防砂林が途絶え、左手に鉄とコンクリートの構造物が増え、ようやく新は海を認識した。その頃には耳も鼻も、次なる変化を捉え始めていた。オイルや錆、工場や船。それらの密集に至る大分手前で、沼田は倉庫街の隙間に入っていった。ややあって、その背中が約一週間前のショウジにも見え出した頃、彼はひとつの倉庫の正面で立ち止まった。これまた潮風で腐食した、他と同じ大型の倉庫である。扉には″No.63″とある。沼田が鍵を開けた。


「これだ」


 重く軋む扉から中を覗き込み、沼田は携帯のLEDライトを懐中電灯代わりに点灯させた。備え付けの照明は使えないのだろうか。


「ここ、メインの倉庫に入りきらなかった貨物を逃がす予備みたいになってて、たまにしか使わないらしいんだ」


 沼田の後から倉庫に入る。外身だけなら廃墟にも見えたが、暗くとも内部には手入れの様子が伺えたし、コンテナや、新品と思われる鉄骨等の建材がまばらに置かれていて、定期的な人の出入りを感じさせた。いかにもな空気感は、テレビドラマで何度となく見た光景に近かった。


「えーと、暗いと思うから、扉はこのまま少し開けておく。少し寒いかもしれないけど、奥のほうに毛布とかあって秘密基地的な感じになってるはずだから使っちゃって。俺、また明日来るからさ」


 沼田は何やら落ち着きがない。いつものことと言えばそうなのだが。


「急ぐのか?」


「え? まあね、少し。そろそろ最終バスの時間だから」


 新は寂しさから、いつの間にか前後が入れ替わった沼田のほうを振り返った。その影は両開きの扉に挟まれて港の明かりを受けていた。久方ぶりの級友とまだしばらく談笑していたかったが、今日のところはそうもいかないようである。我儘はもう言えまい。


「わかった。またな!」


 自然と、クラスメイトだった当時の気分が甦っていた。


「ああ……。頑張れよ、じゃあな」


「また明日! あ、あと、ありがとう!」


 沼田はすぐに立ち去ってしまったため、感謝が伝わったかどうか判然としなかったが、もう一度言えばいいさ、と結論づけて新は倉庫の内側へ向き直った。暗闇を前に、案の定、孤独は冷徹に迫る。しかし、またも自分はひとりではない。アダチもマトバも沼田もいてくれた。ジャックもまだいるかもしれない。独房なぞより遥かにマシだ。


 さて、どうしたものか。文字通り暗中模索の新は、沼田の言にあった「秘密基地」を見付けはしたものの、我が物顔でそこを使うことはせず毛布1枚を拝借して赤みを帯びた影の中で眠った。


 

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