執行(2)
自分自身でも吃驚するほどの叫びが雨の隙間に反響し、けたたましい破裂音がデジャヴュになって耳をつんざいた。
やった。やってやったぞ。今度は狙われるのではなく狙うのだ。くそ。しかし。まだだ。まだ終わってない。終われない。これだけのことをやれば、佐古田は動くに違いないのだ。今にもここへやって来ておれの脳髄をぶちまけるかもしれないのだ。
新は脊髄の命ずるまま倉庫の陰に身を隠した。状況とは裏腹に、身体は不自然に浮き足立っていた。どうだ。どうなった。
5秒、10秒。心臓が肋を叩いたまま時間が過ぎる。佐古田はどうした。アダチはどうした。よもやこのまま朝を待つなんてことは。
ドォン!
電流が走った。始まった。いや、始まっていたのだ。ついに物陰を飛び出し、壁面に沿ってアダチの元へ急ぐ。距離が縮むと、激しい呼吸とも唸りともつかない音が鼓膜を引っ掻き始め、佐古田邸正面に躍り出た新の行く手に、泥の上で組み合うふたりの人間がはたと現れた。
「アダチ!」
「灰島! うっ、この!」
アダチは一発、二発と佐古田の顔面めがけて手錠を叩きつけた。防戦一方の佐古田に対し形勢はだいぶん有利に見える。銃は、その脇に転がっている。アダチは成功したのだ!
「灰島! こいつ! ナイフを持ってやがった! 僕が押さえてる! から! お前が!」
「ナイフ!? わかった……!」
新は黒く輝く鈍器のようなサバイバルナイフをアダチの後方に見て取り、急いで拾い上げたそれを佐古田へ向けて握り締めた。我知らず息を止めていた。
「……やめ……やめろ……やめ……」
「灰島! やってくれ!」
そうだ。殺せ。自分のために、自分が生き残るためにナイフを突き立てろ。一瞬だ。一瀉千里に力を込めろ。相手は人殺しの非人間だ。殺すことも罪ではない。すぐにもだ!
けど、動いているんだ。間違えばアダチを傷付けてしまうのに、やれるのか?
「今だ! ……頼む! 灰島!」
やるんだ。やるしかない。やってくれ! やれ!
意を決して振り下ろしたナイフは、紙一重で佐古田の首を逸れた。その瞬間、新は男の黒く長い前髪に隠れた唇が笑ったのを見た。
「なに! しまった……!」
ナイフに身体を向けようとした隙を突かれたのだ。アダチの拘束を解いた佐古田は、長い手足を振り回しながら一目散に家の中へ逃走した。
「アダチ! ごめん、俺……!」
「いい! それより!」
好青年の血走った眼は殺意を剥き出しにして佐古田の項を狙っている。全身に絡みついた砂や泥にも構わず、アダチはすぐさまその後から佐古田邸に飛び込んでいった。
新が明かりの下に入ったとき、佐古田はすでに2階へ続く階段をばたばたと駆け上がっていた。それを追うアダチもまた、階段を上る間際である。
続こうとして、新は1階の大テーブルに食事用のナイフやフォークが整然と並べられているのに気がついた。料理そのものは見えないが、芳しい香りもまだ残っている。そうか、アダチは武器を持っていない。このサバイバルナイフ、おれじゃなくアダチに預けたほうがうまくいくのではないか。
ズドン!
再びの銃声。上り始めに足をかけたまま、新は凍りついた。途端に静まり返った2階からは何も聞こえて来ない。
ズドン!
銃声。そして巨大な何かが階段の先から新のもとへと降ってきた。アダチだ。散弾を浴びて顔が崩れてはいるが、アダチなのだ。まさか死んだのか? アダチが?
爪先までが粟立つのを知覚する前に、新はアダチの亡骸に背を向けて床を蹴っていた。数歩ぶん左の壁を粉砕した散弾に、雨の下まで吹き飛ばされたような錯覚に陥りながらも新は無我夢中、千切れんばかりに腕を振って走った。
「死んだらでも怖い怖いね?」
なんだ? どうなった? 死んだ? 殺すんじゃなかったのか。勝つんじゃなかったのか。アダチ。まだ、聞いてないことがいくつもあるのに。くそ。頭が止まった。くそ。逃げろ。逃げるんだ。僕は。走れ。
「死んだらでも怖い怖いね?」
佐古田和伸が力任せにオーディオの音量を引き上げたのはシュタイアーによる2009年録音のゴルトベルク変奏曲第1変奏である。
「死んだらでも怖い怖いね?」
うるさい! 黙れ! 死ぬんだ! だめだ! 手の打ちようがない!
「死んだらでも怖い怖いね?」
うるさいんだよ!! あっ!
濡れた木の根で足を滑らせ、新は雑木林に入って間もなく土の上を転がった。と同時に、激痛が右の大腿を襲った。見ると、頑強な枝が突き刺さっているではないか。なんだ、なんなんだ。どうしてこうなる。
新は黒々とした木に凭れて、その枝を引き抜いた。貫いていたのは外側の肉だったため、痛みと血の程度は比例しなかった。直上の幹を散弾の一部が抉り飛ばしていく。
動けない。死ぬ。何もできず、何者にもなれず、普通の人間からも逸脱して死ぬ。アダチは先に死んだ。俺のせいだ。僕もショウジに嘲笑われながら死体袋に収まるのだ。
少し扉を開くだけだ。
何が扉だ。くだらない。頭を回してよく見てみればいい。銃を使える男が、調子に乗って向こうからやって来るんだぞ。それとも死にたいか。
「死にたくない」
なら生きてみろ。這い上がってみろ。おまえにはそれができる。そう仕組まれた刃だ。俺の形をやる。おまえの姿を寄越せ。名前のない名前を呼べ!
「……ジャック」
少し扉を開くだけだ。
「ジャック!!」
そうだ。そういえばこの部屋には夕陽が差していて、この部屋は家の2階じゃないか。部外者がふたりも入ってくるんじゃないよ。
「おまえはまだ死んじゃいない。そうだ。手にとれ」
感覚を失った右手が、冷たい熱を確かに掴んだ。
「さあ」
体内の爆発と瞳孔の収縮。熱の伝播と思考の遮断。 佐古田和伸が目の前にいた。
「始めようか」
佐古田は虚をつかれて後退りながらも、猟銃の引き金を瞬時に引いた。炸裂する轟音。しかし灰島新の四肢は、弾丸が発射されるより0コンマ数秒早く、本人すら意図しない非現実的な体勢で、銃身を蹴り上げていた。
「お、お前……」
右脚を軸に回転して繰り出される中段蹴りが、怯んだ佐古田を吹き飛ばす。散弾が砕いた枝葉が舞い、痛みに苦悶する佐古田の背中とそれを見下ろす新の肩に落ちた。右脚の痛みも、降るものの感触も、新には届かない。今は、全身を「ジャック」と呼ぶべき男が支配し、操っていた。
「なんなんだお前は……!」
佐古田は立ち上がり、行きがけに掴んできたと思われる鉈をビニールの鞘から引き抜いた。身体はそれを待っていたかのように口角を吊り、震え慄く食人鬼に肉迫する。
「来るな、ああっ、ジェフリィィ!」
見知らぬ腕が携えたナイフは、構えられた鉈の刃を撫でるようにいなし、そのまま持ち手の四つ指を削いだ。弾かれた鉈と指が足元に転がり、佐古田の慟哭に似た悲鳴がこだまする。
「待ってくれ、待った……」
獣の絶叫はなおも上がった。左右に一閃、佐古田の両腕をジャックが切断したのである。
「お前ら……アゾラの……人間……」
ありとあらゆる体液にまみれ、かつそれを雨で洗いながら、膝から頽れた佐古田は頭を垂れたまま絞り出すように何か言った。
「知らないな」
「……なら……どう、してこんな……。罰は……もう」
「知らないな」
ジャックの返答を佐古田が聞いたか、定かではない。なぜなら、そのとき既に佐古田の頭は胴体を離れていたからだ。ただ、最期に聞いたのは自身の生首が地に落ちる醜悪な音であったろう。
「ここから革命を始めるのだ。今は休むといい。名前のない名前を忘れるな――」
新の思考は、とうとう底無しの眠りに溺れていった。新の肉体は、主人を失った首に接吻した。
夜明けはまだ遠く暗闇の彼方である。




