執行(1)
朝に嗅いだ狼煙の煤が、鼻の内側に残っている気がした。窓外には背の高い街灯が等間隔で流れている。またも、灰島新は後部座席に押し込まれて夜の山道を移動していた。前回と違うのは、アダチを乗せた同様の車が先行していることと、手錠が前面拘束になっていることである。未だ右手首には片方だけになった輪っかが残っていたが、アダチの「今日が執行なら」という助言によれば意味のある残骸だった。「貴重な武器」らしい。
執行なるものを眼前に突きつけられた新は、ショウジら喪服数人が部落に現れ、隣接する査執協の管理棟にて待機するあいだ、アダチを質問攻めにした。査執協が神経質に「執行」と呼ぶ、儀式的な殺人の行われる刑場へ走る車中で、何度となくその際に得た回答の咀嚼を試みたが叶わなかった。新は沈黙の中で焦っていた。
管理棟を発って、すでに10時間が経過している。なぜなら、アダチから貰った時計の秒針が、アダチから貰ったパーカーのポケットで36000回鳴ったからだ。どうしてかボディチェックらしいものは無かったのである。またぞろ、新は自身に残された時間を推定して呼吸を早くした。今回の執行内容を伝える紙が手元にはある。だが、余命が分からないでは、抵抗して命を落とすというのなら、自ら舞台を降りる覚悟もつかない。
喉の奥がククッと音を立てる。
しかし、このままでは――。新はまだ死にたくなかった。動かなければ、おれはまもなく人殺しをさせられるかもしれないし、殺されてしまうかもしれない。にわかには信じ難いことだが、それが「執行官」という存在なのだ。まるで漫画、それも得意げに血と善悪を論じてみせる頭でっかちの流行り物だ。
執行官は査執協の命を受けた監督官によって使い捨てられる首くくりの縄である。査執協にとっての死刑囚、すなわち過去に殺人を犯しながらも生き続けている人間の首をくくる縄。何度切れても、厳罰化がすぐに新たな縄を生み出し、それは過去の法律の庇護で生き残った殺人者を根絶やしにするまで終わらない。二度の執行を経験したアダチいわく「延命に上限はあったとしても、当面は殺人者同士の戦いに勝つことで死なずに済む」らしいのだが……。
「勝つ」ってなんだよ。新は改めて指令書を拾い上げた。2枚あり、一方には法務大臣の捺印と諸々の警告、一方にはこれ見よがしに佐古田和伸なる男の来歴が印字されている。この男こそ、もうじき対面することになる殺人者なのであろう。
読んでみれば、確かに許せない男ではあった。留学先のニュージーランドで食人事件を起こしたにもかかわらず、心神喪失状態にあったとの診断を受け不起訴になり帰国、精神病院に入ったのも束の間、マスコミには著名人として扱われ、また人を食べたいと公言していても、今では人里離れた山中に家を買い悠々自適の生活を送っているのだ。当人の住居へ赴くのもそのためである。
だが、佐古田の凶悪さと、その命を奪うことについてはまた別の話ではないか。死んだほうがいい人間だとしても、ひとりいなくなったところで被害者が蘇るわけでなし、どうせ殺人は根絶されないであろう。あまつさえこうして執行官などという構造が生まれれば、殺人による死者が増えるだけではないのか。いや、人殺し同士で勝手に責任を取ってくれるならまだいいが、そもそも殺人者ですらないんだぞ。俺は。
「君と同じ」と言ったからにはアダチだってそうなのだ。僕らは理由もなく、何処の誰とも知れない奴らの責任を取らされようとしている。警告文を真に受けるのなら、逃げることも許されない。背を向けてショウジに殺されるか、佐古田へ向けて賭けに出るか……。ああ。ああ。なんでこんな目に合わなくちゃいけないんだ。僕は。
だめだ。頭の神経が縺れて答えが出ない。心が決まらない。いっそ眠ってしまえたら、もっと言えばそのまま来世に飛んでいけたらどんなに楽だろう。死にたくない。
がちゃん、と新のフォークが音を立てる。
「まもなく到着です。執行官は監督官の指示に従わなければなりません」
唐突にショウジが声を発した。同時に喪服の運転手もブレーキを踏んだ。新はせわしなく辺りを目で探ったが、それらしき人家はみとめられなかった。少し前までは窓の先に生活の明かりが点々と見えていたものの、今は雑木林が斜面になって落ちていくだけだ。
「……もしかして、このまま放り出されるんですか、場所だけ教えられて!」
当然のように返事はない。ショウジは手元で何かを探っているようである。人の生き死にだぞ、ふざけるな。
「どうやって殺せっていうんですか! あっ」
眼前で銃口が光った。鼻の頭が冷たい。
「黙れよ、執行官」
新はあえなくシートにへたり込んだ。ショウジはけらけらと笑った。
「国民失格、人以下のクズが、こっちがマニュアル通りに扱ってやってれば、つけ上がりやがってさあ。お前みたいなのが、一番早く死ぬんだよ。生ゴミになったお前らを詰めるのは俺たちなんだ、黙ってろよなあ」
先行の車から人影が這い出た。ショウジも助手席のドアを押した。
「降りろ」
従うほかない。とうにアダチともうひとりの喪服は暗がりの中で待っていた。夜霧が古いアスファルトを濡らしている。
「法務大臣丸井幸代署名の執行命令書に基づき、5月28日」
アダチを連れた喪服が平坦に始めた。これから起こる出来事に、何ら興味関心を持たない声色である。
「足立慎二・灰島新・佐古田和伸の3名に対し、査察執行官協会の指導のもと、執行を行う。なお、直前儀礼は拘置所にて終えたものとする」
その喪服から新たな紙が手渡された。隅には「要回収」とある。他は現在地から佐古田の住居までの道順を示す図と、「執行を終えた者は監督官の指示に従うこと」の文面だけだ。紙はすぐに回収された。
「執行官は口を開けろ」
意味が分からず横を見遣ると、アダチは言葉のままに口を大きく開けて立っている。そしてこちらにも目で追従を促した。
「噛まずに飲み込みなさい。位置と温度は常に報告されます」
口中に指先大の物体が放られた。飲み込むしかない。拘束は片手錠に直された。
「それでは執行である。執行官は速やかに目的地へ向かい刑を全うせよ。行け」
事務的なショウジの号令を受けて、周囲の影はそれぞれに動き出していく。待ってくれ、と叫ぼうとして果たせず、気付けば自分だけが街灯の下に取り残されていた。ついていけないんだ、待ってくれよ。
「灰島、何やってる、こっちだ」
背後の夜の中からアダチの声がした。
「せっかく雨が強くなってきてる。夜のうちに倒してしまわないと」
「だけど俺……」
「何のために僕が一緒だと思う。次からはひとりの執行だってあるんだぞ。それに初めから選択肢はない」
くそ。新はアダチの声だけを頼りに暗中を進んだ。このままじゃ死んでしまう。
「道は覚えてるよね?」
近付いて顔の見えるようになったアダチが小声で言う。
「これを右だね」
道路は目の前で二叉に分岐していた。右は斜面をさらに上る道だ。
「もうしばらく行くと脇道がまた右に出てくるはずだ。それが佐古田の家に通じる。けど、馬鹿真面目に正面から入ってやることもないか……」
「アダチ」
「ん? 何かいい作戦でもある?」
「いや……アダチは怖くないのか?」
「何回目だよ」
「3回目じゃないのか?」
「なら平気だろ、これは戦争だ」
「戦わなければ死ぬって?」
「合法的に人を……って、それより、作戦考えないか。そうでないとふたりでいる意味がない。もうすぐ道も出てくる。おっと」
若い男女を乗せたセダンタイプが過ぎていった。よもや佐古田ではと身構えた新だったがそんなことはなく、直後現れた脇道の行き着く先にこそ、食人鬼は潜んでいるのだった。
「ショウジめ、サボったな」
「もしかして、今、助けを呼べたんじゃ」
「警告見てないのか? 今のふたりを道連れにして自殺したいならかまわないけど。僕らは囚人だってこと、忘れてないよな」
「そうだよな、ごめん……」
「死にたくなかったら、腹を括ることだね。周りの林は空いてて歩けそうだし、木に隠れながら回り込もう。行くぞ」
アダチは舗装された道を外れ、佐古田の縄張りとでも呼ぶべき林の中へ侵入してゆく。一度こちらを振り返っただけで、その姿は早々と木々の合間に溶けつつあった。
「行くのか?」
呟いたのは自身への問いである。他にやりようがないことは承知でも、しっかと引き留めるものが居るのだ。
「行かなきゃ死ぬ。死にたくないよな?」
万が一アダチのおかげで生き延びたとして、この一歩は行けば二度と引き返せない三途の川に等しい。
「行くのか」
理性はまた別の激しい理性によって説き伏せられる。
逡巡のあと、強く踏んだ枯れ枝が跳ね上げる滴に混じって、思考の残滓が「行くのか」とまばらに嘆いたが、落ち来る雨はいよいよ鋭く、ベールになって新の視界を狭めていった。靴は腐葉土の泥水を吸って重くなり、だらしなく伸びた髪が額に頬に張り付いた。アダチの足音を聞く頃には、雨音がそれを掻き消すほどに拡がっていた。前方で何かが立て続けに光った。
「隠れろ! 灰島!」
ふたりはそれぞれ手近な木の幹に身を隠した。付かず離れずアダチを追っていた新は、思い直してその隣に駆け寄った。
「来たか、よかった」
アダチは微笑して言った。
「電気が点いたのか?」
「みたいだね……心臓に悪い」
「なんで全部の部屋に電気が?」
「通告が入ったんだよ、査執協から」
佐古田和伸の住居は、その所有者の経歴にそぐわぬ立派なものであった。木造と思われる三角屋根の下にはウッドデッキまでこしらえてあり、金持ちの別荘だとかコテージの類にも見える。そして壁面の窓すべてから、今はオレンジ色の明かりが煌々と漏れていた。そこだけ円く開けた家屋の周囲は砂地になっていて、玄関を斜めに観察するふたりの位置からは裏手に置かれた材木や倉庫の影も確認できた。新は狼狽した。
「待ち構えてるってことだよな? どうしろっていうんだ」
「査執協が手立てを講じないってことは、僕らで何とかしろってことなんだ。窓を破るとか、入り口を破るとか。それは最後の手段にしたいけど」
「他の手を探さないと……」
「とにかく最優先は武器の確保だ。こっちが攻撃できないってことは向こうもこっちに手が届かない。素手で対面することになる前に武器を」
「武器? 石とかそういう?」
「最悪それも考えたほうがいい。でも先にあの倉庫が使えるかどうか探ってみる価値はある。僕が行くよ」
言うなり、アダチは中腰になって前進を再開しようとした。そのとき、状況の急転を察知した新は、咄嗟にアダチの腕を掴んでいた。
「止まって!」
ポーチライトが玄関扉に落とした影が動いて見えたのだ。ほどなく、玄関からはまた別の影が現れ揺らめいた。離れていても新には判った。雨粒の向こうで細く立ち上がったのは、紛れもなく写真で見た佐古田和伸の輪郭である。アダチは弾かれたようにこちらへ引き返した。
「ごめん……助かったよ……」
こちらを向いたアダチの息は上がっている。新の心臓もまた、いつの間にか早鐘を打っていた。
「気付けてよかった、なんとか」
「でもまさか、自分から出てくるなんて……。通告が行ったなら、どうしてわざわざ危険な手に出る?」
オレンジに照らされた佐古田の影は奇妙な形で静止していた。長い筒を正面に構えた見覚えのある体勢、それは。
「銃だ」
目を凝らせば凝らすほど、絶望的な気分が膨らんでいく。
「あいつ、銃を持ってるんだ……」
これには、流石のアダチも耳を疑ったようだった。自ら佐古田邸を睨めつけてみて、凝然とした。
「だから出て来れたのか……。灰島、本当ついてないよ」
「ごめん」
「なんで謝るんだ」
即座に逃げ出したい衝動が湧き起こっていたが、先刻の決断が足を土に縛りつけていた。少しの間を置いて、アダチが静かに口を開いた。
「こうしよう。今の奴を見る限り、警戒しているのか家を背にしたまま動く気配がない。だから、新が、先に家の裏手に回り込んで奴の気を引く。窓を割るとか、叫ぶとかね。そこで僕が奴に仕掛ける」
「でもそれじゃ、アダチのタイミング次第で俺は……」
「お互いさまだよ、信じてくれ。僕も灰島を信頼する」
そんな。それは言葉じゃないか。
「俺が怖気づいたら、アダチはひとりで銃を持った奴とやり合うんだぞ? 危険だ」
「そう思うんなら急いで助けに来てくれ。幸い、佐古田自身は腕っぷしが立つ様子でもなさそうだ。……とにかく時間がない。この雨と夜が終わる前に仕掛けないと余計に危険だ。やるぞ」
「い、いま、すぐに?」
「そうだよ。後に引けない以上、待っていても状況は何も好転しないんだ」
「俺が……先に……」
やらざるを得ないのだ。やらざるを。悔しいけど、アダチのために、自分の命のために、やるしかないのだ。動け。
「……行ってくる。頼んだ、アダチ」
「こっちこそ、灰島」
新は一旦後退し、大回りに佐古田邸の裏手へ回り込んだ。再び林の終わりまで接近してみると、例の倉庫が数メートルの目前であった。そうすると、ここからさらに近寄ればアダチの目にも映るのではないか。佐古田は、まだ玄関に張り付いているのだろうか。
「……死にたくなければ、やるしかない」
何度も言わせるな、やるしかないんだ。新は草木の隠れ蓑を脱ぎ捨てた。代わりにざあざあという雨音を纏って、倉庫の横を抜け、佐古田邸の壁に肩を擦った。胃袋が口から溢れそうになる。
「次は」
頭上に差す光があった。1階の窓である。これを割るのだ。これを割れば、その先が始まる……。いや、終わる?
わざとらしく格好だけ見回して、倉庫には鍵がかかっていることに気付いた。武器はどうやっても見つかりそうにない。最悪でもと考えていた石ですら、手入れされた砂地の上には見当たらない。どうする?
「次は」
濡れた指先が冷えてきてしまった。と、パーカーのポケットに突っ込んだ左手に、硬く重さのある物が触れた。時計だ。これしかない。
「次は……」
窓を破るときが来た。何度も言わせるな。やるしかないんだ。何度覚悟した。何度決意した。冤罪の果てにこんな場所まで来てしまった自分を生かして誇りを取り戻すためには。諦められないのなら。やれ。今だ。
「佐古田ぁぁぁぁぁ!!」




