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潜在人間(ジャックマン)①  作者: 竹橋 夢仁
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4月22日(9)

 


 遠くで何かが落着した。気がついた。目を見開くその瞬間までは、今朝までの覚醒と同じであったのに、異様なほど冴え渡った五感がそこから先のまどろみを許さなかった。身体のあちこちから鈍痛が襲い、口腔内を強い苦味が流れ、金属臭が鼻をついた。自分が横たわっていた階段の正面に真新しい玄関があり、玄関扉に嵌め込まれた磨りガラスの向こうに赤い光が回転し、その輝きから階段までの床を人型の動物2体と鮮紅色の液体が埋めている。屍体。そう見えてしまった。


 背から首、頬にかけて肌が激しく粟立ち、反射的に身体が飛び退いた。灰島新の踵が階段に叩きつけられた振動で、血溜まりに浮かんだ照明が身震いした。


「は、は、なんで? え?」


 ごく小さい叫びが口を衝いて出た。駅から帰ってて、雨が鬱陶しくて、首を絞められて、それで、どうなった?


 ランニングウエアの仰臥を見つめたまま、階段を上へ後ずさった新の臀部をぬるい感触が舐めた。血だ。見知らぬ誰かの体内を流れていたはずの。思わず振り向くと、踊り場の辺りに布で覆われた塊が見えた。


「待って……なんだこれ……」


 開け放たれた踊り場の窓から春夜の冷気が入り込み、刻々と体温を奪ってゆく。逃げ道を失い、新は階段を戻って、縮こめた身体を左腕で巻き留めた。顔を伏せ、目を閉じ、耳を閉じ、自身の内側に激情の遣り場を探した。


「……寒い」


 でもまだ、死んでるとわかった訳じゃないんだ。AEDとかそういうので、助かることもあるだろう。悪人ではあるかもしれないけど、ランニングウエアの男だって、そりゃあ。


 顔をわずかに起こすだけで、置物のようになって動かないふたつの影が視界に入った。一方の男はうつ伏せに倒れていたが、首から上はこっちを見ていた。首の側面に大きな切創があり、噴き出した血の跡が床の血溜まりと傷口を繋いでいる。ランニングウエアの男はというと、さっきから一回もまばたきをしていないので眼に後遺症が残るかもしれない。


「帰んないと……」


 あの光が救急車なら、そうか、あれは救急車の光か。救急車の光なんだから、そうすると、一度病院に行かなくちゃいけないのか。いや、早く帰りたい。大きな怪我はどこにもないんだ。親父がケーキを買ってくるし、連絡もまだ入れてない。早く、早く帰りたい。


 一瞬、赤い光の明滅が止んだ気がした、その直後である。前後左右あらゆる方向から破裂音がけたたましく襲い、新は跳ね上がる心臓につられて立ち上がった。ガラスの割れる音だ。判じる頃には、それが踏み砕かれる音に変わった。次いで玄関扉が破られ、屍体を避けて廊下に飛び出した新は、気付けば十数人の武装した男たちに拳銃を突きつけられていた。


「え、あ」


「武器を捨てろ! 抵抗するな!」


 武器? 武器って言ったか?


「俺ですか? 俺に言ってますか!?」


「右手のナイフを捨てろ!」


 右を見遣ると、確かに大振りのサバイバルナイフをきつく握った手がそこにあった。誰の手だ? 意識した途端、五指は緩んでナイフが足元の床に突き刺さった。俺の手だ。


「確保!」


 男たちが押し寄せ、ナイフが取り除かれ、両腕を掴み上げられた。その際、両手首に拘束された痕があることを知ったが、すぐに隠されてしまった。手錠が嵌められたのである。


「え、なんですか? この」


 更に布が被せられ、やに臭いジャンパーで頭も覆われた。新は上腕を掴む警官の乱暴な前進に嫌悪感を抱き踏ん張ったものの、後ろから突き転がす者もあり、何も出来ずに引き摺られ始めた。狭窄した視界に、またもランニングウエアが入り込んだ。目が合った。なんだ、死んでるんじゃないか。


「ちょっと、待って下さい! 何か間違ってますよこれ……」


 返事はなかった。かわりに外気の鋭利な歯触りが新に応えた。砂利や、コンクリートの路面に散らばった粘土質の土が、音を立てて自分を取り囲む靴の数を教え、また、置かれた状況の不可逆を教えもした。シルバーのセダンタイプ、白いバンタイプ、屋敷の玄関、コンバイン、トラクターが次々過ぎ、上腕が右に強く引かれた。下り坂になった。短い坂の終わり、ブロック塀の途切れた門外にパトカーが大口を開けて待っている。赤い光がまたひとつ回転した。


「待って下さいって! 待って!」


 叫んだ。


「やってません! やってないんですよ、何も!」


 意に反して、足は前に進んだ。奈落の咽頭に後部座席の輪郭が浮かび上がった。駄目だ。あそこだけは駄目だ。


「俺は!」


 振り上げた上半身を、癲狂てんきょうの滲んだ顔面を、夥しい数のフラッシュが照らした。網膜を灼く光の暴力のなか、新は、レンズの群れの向こうに白い男の嘲笑を見た。長身で、髪肌共に蒼白、暗褐色のコートとイヤホンを身に付け、無邪気さと嘲りの同居した蛇の微笑を浮かべるあの男が立っていた。


「俺じゃない! あいつだ! あいつがやったんだ、あいつが!」


 襟首を掴まれ、頭頂から押し潰され、舌を噛んだ。放り込まれた。ドアが閉じた。何も見えなくなった。


 

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