第12話:季節の変わり目にはご用心
実際には季節感皆無なダンジョンですが、リアルで温度差が十度以上あったのでこんなタイトルになりました。
みなさんも風邪にはご注意ください。
たまには体調を崩す時もある。
アナスタシアは聖母と呼ばれていたことがある。
もっとも、聖母と呼ばれていた時より、ダンジョンで生活している今の方がずっと自分らしいとアナスタシアは思っている。
朝起きて、身支度を整え、座して無心に祈る。
祈る対象は特にない。目を閉じて祈る。祈り続ける。時間の無駄だとアナスタシアも分かっているが、恐らくは『自分』に祈っているのだろうと思っている。
心穏やかに日々を過ごせますようにと……自身に祈る。
かつて偶像に祈っていた時よりも充足する祈り。聖母とは程遠い祈りに内心で苦笑しながらも、朝の日課を終えた。
日課の後は朝食の時間だ。まずはアキレスの皿に、ペットフードを盛りつける。
「アナスタシア様」
「なんでしょう?」
「私としてはカリカリした飯よりも、小僧が時折持ってくる鉄の箱に入った餌の方がいいのですが……いかがでしょう?」
「こちらの方が歯と歯茎に良いと、カイネ様が仰っていましたし……」
「……むぐぅ」
歯茎が赤くなっているのをアナスタシアに指摘されてしまったアキレスは、不承不承ではあるがドライフード(カリカリした餌)を食べ始めた。
(美味い……美味いが、なんというかこう、色々と失うものがある気がする)
例えば、誇りとか狩猟本能とか、そのあたりの大事なものだ。
アキレスは老狼である。好き好んで獲物を追い回したい年頃でもないし労苦なく餌が手に入るのならそれに越したことはないと思うが、それはそれとして遊びたい時もある。
勝手に散歩に行くのではなく、誰かと連れだって歩きたい。
そういう意味では、アキレス曰くの小僧や、魔眼の少女は良い遊び相手だった。
アナスタシアも散歩に連れて行ってはくれるが、彼女の場合は自然の中で緩々と……ものすごい距離を歩くので、アキレスにとっては結構な負担だった。
ひ弱そうに見えるが、アナスタシアはかなり体力があるのだ。
「いただきます」
粉から挽いて作った手作りのパン。粗末な豆のスープ。庭で飼っているラシアと呼ばれるヤギっぽい生き物の乳から作ったチーズ。ほんの少しの果実酒。
全て、アナスタシアが自らの手で作ったものである。
質素に見えるが、この上ない贅沢だとアナスタシアは思う。『ワールド』という世界は確かに食に困ることはなく飢えることもないのだろうが……知らないということは、それを『満たす』ことに無頓着になってしまうということでもある。
命を食べる。それは普通のことだが、かけがえのないことだとアナスタシアは思う。
思ってはいるのだが……最近、少しだけ忘れがちになる。
「おはよう、アナさん。ちょっと朝食を作り過ぎちゃったからお裾分けに来たよ」
「おはようございます、カイネ様」
度々、彼は適当な言い訳を作って第二階層にやって来る。
彼……第一階層フロアボスのカイネ=ムツ。彼を見ると、ほんの少しだけ心が弾んで、その間は色々なことを忘れてしまう。
それが恋愛感情と呼ばれるモノであることを、アナスタシアは知っている。
しかし……どうして自分が彼に惹かれるのか、それは分からない。
分からないが、彼と一緒にいると楽しいのは事実だった。
「ローストビーフと海藻のサラダなんだけど、食べれるかな? 動物は食べちゃ駄目だとか、そういうことはあったっけ?」
「いえ、ありがとうございます。お返しといってはなんですが、チーズをどうぞ」
「いただきます」
カイネは笑いながら、アナスタシアが差し出したチーズをひと固まり受け取った。
と、そこでアナスタシアは異常に気付く。
「カイネ様? 少しだけ……いつもよりお顔が赤いような気がしますが……」
「え、そうかな?」
「……アキレス。どう思いますか?」
「体温が上がっていますし、汗もいつもよりかいていますな……小僧、貴様もしかして流行り病ではないのか?」
「いや……そんなことはないと思うけど……」
「少し失礼します」
「ひゃあっ!?」
アナスタシアはカイネの首筋に指を伸ばす。
赤面して驚くカイネを尻目に、首筋に指を当て脈を計り、額に手を当てて熱を計る。
「……少し熱いような気がします。今日は休んで養生した方がいいかもしれません」
「いや……その、大丈夫! 全然大丈夫ですから!」
「大丈夫ではありません。流行り病はすぐに対応しないとあっという間に蔓延します。医術の整っていない田舎の村が流行り病で滅んでしまうこともあるのですよ?」
「今は働きながら病気を治せる良い薬がげぐっ!?」
「アキレス、キィ様に連絡を。私はカイネ様を第一階層へ誘導しますので」
「御意」
アキレスの返事は簡潔なものだったが、口元は笑っていた。
言外に『今日は大人しく主に看病されるがよい』という意味が込められているのは、言うまでもない。
アキレスが出て行くのを確認してから、アナスタシアはカイネを背負った。
身長差も体格の差も当然あるのだが……ひょいっと、簡単に背負ってしまった。
「では、第一階層に移動します。不具合があったら仰ってください」
「…………と、特にねぇです……はい」
しどろもどろの声が響く。アナスタシアの位置から確認はできなかったが、カイネの顔はこれ以上なく赤くなっている。もちろん病気とは別の意味で赤いのである。
女の子におんぶされるとか、男として恥ずかしい。
アナスタシアはカイネの心中を察することなく、えっちらおっちらと歩き出す。
この判断が正しかったことをカイネが知るのは……二時間後のことだった。
「というわけで、リベンジに来たわ!」
「………………」
昼下がり。第一階層の居住区……六畳一間の僕の部屋に彼女は颯爽と現れた。
新調した制服。きちんと整えられた髪の毛。睡眠不足が解消した目元と肌。年齢相応に活発で、年齢不相応の利発さ。美少女と表現しても差し支えないが、小やかましい女の子が苦手な男にはとことん不評そうな……そんな、極々普通で邪悪な女の子。
藁葺火難ちゃんの華麗なる復活であった。
華麗に復活されても困るし、正直今の僕に対応する余力などないのだが、布団から少し体を起こす。
「くくく……敵が弱っているところを狙ってくるとは、なかなかげロロロロ」
「ぎゃあああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁっ!?」
開幕ゲロで、女子中学生は悲鳴を上げていた。そりゃそうだ。
準備はしておいたので用意したバケツに適当に吐き終えて、アナさんが用意してくれた水で口をゆすぎ、それもバケツに吐いて、脇目も振らずに布団に戻る。
熱いし寒いし頭は朦朧とするし節々は痛いし鼻水は出るし喉も痛いし、胃は固形物を受け付けないし……体の調子が悪い時の症状のオンパレードで、散々だった。
医者には行っていないが……恐らく、性質の悪い風邪だろう。これがもしも『シャンバラ』あたりの風土病だったりしたら手も足も出ずに死にそうだけど。
「くくく、よくぞこの僕を倒した。第一階層には伝えておくから、第二階層で酷い目に遭うといい。今日はニーナさんが代打で第二階層担当だから容赦ないぞ~♪」
「いや、こんな状態でトドメ刺してもなんの意味もないわよ? 今の私の目的は、調子こいたアンタを滅茶苦茶凹ませたいだけだし。ぶっちゃけ願い事はどうでもいいわ」
「……目的は既に達成されているような気がする」
吐いて喉が渇いたので、スポーツドリンクをコップに注いで口に運ぶ。
「…………おっと」
コップをテーブルに戻す際にうっかり倒し、飲み残したドリンクがテーブルにこぼれてしまうが……いやもういいや。だるい。後で片付けよう。
もぞりと布団に潜り込み、ひらひらと手を振った。
「とりあえず、今日は帰って。病気を移しちゃってもなんだし」
「は? なんで私が手ぶらで帰らなきゃいけないのよ? 私はアンタをぎゃふんと言わせるためにここまで来たのよ?」
「………………」
知るかよぅ。ぎゃふんでもなんでも言うから、帰ってくれよぅ。
たったそれだけの一言を発するにも、億劫過ぎてどうしようもない。
洒落にならない病状なので、ツッコミをする元気もないのだ。
ティッシュを取ろうとして手を伸ばし、手の届かない場所にあったので諦めた。
「いや、それくらい取りなさいよ! なんかさっきから見てると、手がぷるぷるしてて不安になるんだけど!?」
「もういいよ……いっそ殺せ」
「取ってくださいって言えば、取ってあげないこともないわよ?」
「てぃっしゅを取ってくらはいうぇっぷ……おぼろロロロロロロロ」
「うわわわわっ!? どう見ても要介護状態じゃない! なんでこんなになるまで放って置いたのよ?」
「朝まではまだいけるような気がしたんだ」
「まだいける……気がした?」
「昼前にはもう駄目だったんだ」
「駄目な時はさっさと休みなさいよ! 本格的な馬鹿でしょ、アンタ!」
返す言葉もない。火難ちゃんは半分呆れ、半分怒りながらティッシュを取ってくれた。そのついでにテーブルを拭いてくれた。
ものすごく些細なことなのに、ちょっと優しくされただけで泣きそうになる。
「ま、いいわ。この際だから治るまで付き合ってあげる」
「いや……病気が移ると悪いから帰った方が……」
「嫌いな奴が醜態を晒して苦しんでいる姿を見るのは、そこそこ楽しいし?」
「………………」
その言葉は、自分が病気になった時に絶対後悔する言葉なのだが、既にツッコミをする気力を失っていた僕は、なにも言えなかった。
ごろりと布団に横になりゆっくりと息を吐く……間もなく、次の試練が訪れる。
仕方なく、渾身の力を込めて体を起こした。
「ちょっと、なにいきなり起きてんのよ? 寝てなきゃ駄目なんじゃないの?」
「いや……うん、トイレだから仕方ないね」
「今の状態で行けるの?」
「行ける。全然大丈夫。僕はこの時のために究極奥義を編み出している」
「大丈夫とは思えないわ。なんか顔色がヤバい領域に突入してるし……」
火難ちゃんの指摘は恐らく正しい。正しいのだが、今の僕に正しさは関係ない。お漏らししてしまうか否か、そういう瀬戸際まで来ている。
肘と膝を地面について、四つん這いの体勢になった。
「……ちょっといいかしら?」
「なに?」
「その究極奥義とやらは、まさかその姿勢のまま少しずつトイレに向かおうとか、そういうことじゃないわよね?」
「力が入らないんだから仕方ないでしょ」
「まだるっこしいわね……私も鬼じゃないんだから、肩くらい貸してあげるわよ」
「え」
いや待て。なんかさらっと言ったけど、体格の差とか体重の差とか、そういうものを考慮しても中学生が僕を支えるのはかなり無理があべし!
「ふぎゅっ!? ちょ……馬鹿! どこ触ってんのよっ!?」
自分で勝手に肩を貸して、勝手に転んで勝手に怒る火難ちゃん。いくらなんでも理不尽過ぎると思う。
あと、別にどこという箇所を触った記憶はないし、そんな余力もない。
これから成長するだろと思う程度だ。
「……火難ちゃん。触るとかそういうの、どうでもいいから……僕は一刻も早くトイレに行かないと今にも漏らしそうにござる」
「思いっきり胸を鷲掴みにしておいて、そういうこと言うっ!?」
「悪かったよ。悪かったし正直布団の上で死ねるとも思ってねぇけど、最低限尊厳を守る努力くらいはさせてくれねぇかな? おしっこ漏らすっつってんだろうが……あぅ」
怒る気力もない。立ち上がる力もない。うつ伏せのまま動けない。
いかん。マジでいかんぞこれ。体力を温存しながらじゃないと進めないのに、もう色々と爆発寸前である。女の子の手前、ぼかして尿意だのおしっこだの言っているが、実はお腹もゆるゆるなのである。
情けない話だが……僕はもう限界だった。
と、僕が諦めかけた、その時。
「……よいしょっと」
ぐいっと、体をひっぱり上げられた。
ふわふわとした意識の中で、僕に肩を貸してくれた人を見る。
「カイネ様。今トイレに方にお連れします。我慢できますか?」
「…………ふぇい」
「火難さん、私の反対側からカイネ様の体を支えてくれませんか?」
「仕方ないわね……能力を使うと疲れるんだけど……男がこんなに重いとは思ってなかったわ」
最初から使ってくれねぇかなと思ったが、もう突っ込む力もない。
女性二人に肩を貸し、完全にもたれかかりながら、僕はようやくトイレへの長い道のりを歩き始めたのだった。
第二階層のフロアボス、アナスタシア。
一度しか使えないズルをして、第五階層までのショートカットを使った火難にとって、アナスタシアと対面したのはこれが初めてだった。
「………………」
初めての対面ではあるが、なんとなく気に入らない。
『サブヒロイン戦鬼』と立ち会ったから分かる。過去にやらかした恥ずかしいことを丸ごと思い出して、少し前まで布団の上でごろごろ悶えていたからこそ……その『なんとなく』が自覚できる。
(私という人間は『可愛い女の子』が苦手なのよね)
自分は『可愛くない』から、コンプレックスを刺激される。
例えば、てきぱきと寝床を整えたり、病人がやらかしたアレやコレの後始末をしたり、ぐったりしたカイネを寝床に運んだり、お粥を作ったり……そういう甲斐甲斐しさというものが、自分にはない。
アホらしいと思って、今までやろうとすらしてこなかった。
実際、今でもアホらしいと思っている。
「なんで私がお粥を作らなきゃいけないのよ……」
アホらしいと思っているのに、ぶつぶつ言いながら、なぜか卵おじやを作っている。
発端は、アナスタシアが作った奇妙な飲み薬だった。激烈な臭いを放つ飲み薬はとても飲めたものではなかったが、無理矢理薬を飲もうとしていたカイネを見るに見かねてフォローを入れてしまったのだった。
風邪薬なら『ワールド』のものが一番だと……そんな風に言ってしまったのだ。
病気の時の流動食なら『ワールド』のおじやが最強だとも、言ってしまった。
「ホント……私はアホか」
炊飯ジャーの米を適当に水から煮て、すりおろしたショウガ、刻んだネギを適当に放り込み、適当に塩とコショウと醤油と顆粒状のブイオンで味付けをし、といた卵を入れて煮ること数十秒。卵が程良い感じになったら出来上がり。
「はい、できたわよ。吐かないくらいにに少しずつゆっくり食べてちょうだい。食べ切れないなら残していいから」
「…………おぉ」
「なによ、その鳩が豆鉄砲を食らったような顔は? なにかご不満?」
「いや……いただきます」
余計なことは言わず、カイネは卵おじやを一口食べる。
「うん、美味しい。火難ちゃん、料理できたんだね」
「簡単なものだけね」
「はぁ……美味しい……さっきから寒くて仕方なかったけど、これはいいね」
言いながら、カイネはマグカップに入った真っ黒い液体を口に含む。
よく見なくても分かる。アナスタシアが作った飲み薬だった。
「アンタ……よくそんなもん飲めるわね?」
「やたらまずいけどメープルシロップとかブチ込んだから多少は飲めるよ。もしも僕がかかっている病気が『シャンバラ』の風土病とかだったら洒落にならないし」
「どうだか? アンタのことだからあの聖母サマに気でも使ってんじゃないの?」
「そりゃおっぱいが大きな女性に気を使うのは男の性みたいなもんだし」
「理由がサイテー過ぎるでしょっ!?」
「まぁ……この話はまた後日……ちょっと限界だからそろそろ寝るね。ごちそうさま。おやすみなさい」
卵おじやと飲み薬を完食して、カイネはごろりと布団に横になり、十秒後には眠りについてしまった。
ぶっ飛ばしてやりたい気分ではあったが、不満げに鼻を鳴らして怒りを抑えた。
(まったく……なんなのよ)
リベンジに来たはずなのに、なんとなく調子が狂ってしまう。
ぶん殴ろうとしていたはずなのに、だるそうに布団で寝転がっているのを見ると、ついつい『やっぱりこいつを殴るのはやめようか』という気分になってしまう。
カイネ=ムツは、藁葺火難にとって敵である。
敵と相対している時の闘争心が、全く湧いてこないのが問題なのだが。
「なんか……よく分からなくなってきたわね」
食器を回収して流し台に置いて、なぜか台所に脱ぎ散らかされて放置されていた普段着を風呂場に持って行く。
多少古びてはいるが、ここは『ワールド』に準拠したアパートなら、風呂場に洗濯機くらいはあるだろうと思っての……ささやかな行動だった。
洗濯機の前で、アナスタシアが手にした衣服に顔を埋めていた。
火難は、無言で風呂場の扉を閉じた。
「……えっと」
物腰丁寧で柔らかい雰囲気で、てきぱきとなんでもそつなくこなし、病人の世話もなんのその。いかにも『聖然』とした気に食わない女が……男物の衣服に顔を埋めている。
見てはいけないものを、見た気がする。
火難は父親の衣服と自分の衣服を同じタイミングで洗われることを極端に嫌うタイプの少女である。男物の衣服の匂いを嗅ぐなどという行為は『不潔』でしかない。
あの行為になんの意味があるのか? 火難の理解を完全に超えていた。
もう一度、意を決して扉を開ける。アナスタシアは扉が開いたことにまるで気づいていないのか、衣服に顔を埋めたままだった。
さらに意を決して、声をかける。
「あの……アナスタシアさん?」
「ふぇ?」
「……なにやってんの?」
「お洗濯をしています」
「へ、へぇ……そ、そうっすか……へぇ……」
思わず口調が変わってしまうほど、火難はドン引いた。
言葉とは裏腹にアナスタシアの表情は悦楽にとろけている。はっきり言って変態のそれだ。
火難が対応に困っていると、アナスタシアは火難の持っていた衣服に目を付けた。
「あ、台所の服を持ってきてくださったんですね? ありがとうございます」
「えっと……」
「カイネさんが朝ご飯のお裾分けを持ってきてくれたのですが、その時には顔色が真っ青でびっくりしちゃいました。すぐに家に帰したのですが、私が来た時には自分で着替えることもできないくらい消耗していまして……」
「ああ……うん……まぁ、それはいいんだけど」
「はい?」
「今は、洗濯をしているのよね?」
「はい」
「アナスタシアさんの育った地域では、他人の衣服を洗濯する時に……その、顔を押し付けるという風習でもあるのかしら?」
「いいえ、そのような風習はありません。これは好きでやっていることです」
「変態だーーーーーーーーーーッ!!」
火難は叫んだ。叫ばずにはいられなかった。
アナスタシアはほんの少し頬を膨らませて抗議した。
「変態ではありません。カイネ様以外の衣服でこのようなことはしません」
「人の衣服に顔を埋めて匂いを嗅ぎまくるって時点で変態じゃない!」
「重ねて言いますが、変態ではありません。とても幸せな気持ちになれるので匂いを嗅いでいるだけです。私の従者もそれは普通のことだと言っていましたし」
「その従者って……アンタが前に連れてた犬のことよね?」
「犬ではありません。狼です」
「要するに犬じゃない! 大体、人の衣服に顔を埋めて匂いを嗅ぐだなんて『ワールド』じゃ十分に変態行為よ!」
「ふむ……文化の違いというのは面白いものですね。しかし、好ましい異性の衣服の匂いを嗅ぎたいと思うのは、生物として普通のことなのではないですか?」
「理屈はどうでもいいのよ! っていうか……『好ましい』って普通に言ったわね」
その『当り前さ』加減に戦慄する。
あの男のどこをどう切り出せば好ましいなどという結論に行き着くのかは分からなかったが、それはそれとして他人の趣味に口は出さない主義の火難である。
やっぱり、男は能動的で頼りがいのあるイケメンに限る。
あんな風に、暗くて重くて優しい目をした男はごめんこうむる。
そんな火難の思惑を見透かしたように、アナスタシアは口元を緩めた。
「好ましいですよ、カイネさんは。柔らかくて優しくて可愛い人です」
「……頭のどこをどういじったらそんな発想に至るのか不思議で仕方ないわ」
「私は普通の男性が苦手なのです。まぁ……百年ほど聖母として祭り上げられて権力闘争に散々利用され続けていれば、苦手にもなるというものです」
「さらっと言ったけど……それ、凄まじく重い話よね……」
「このダンジョンにいるボスはみんな、それくらいの傷と闇は抱えていますよ」
そう言って、アナスタシアは柔らかく笑う。
思わず火難が怯んでしまう程度には、穏やかな微笑みだった。
「では、どうぞ」
「…………は?」
「いえいえ、私だけではなんなので、火難さんもどうぞ」
「やるわけないでしょ!」
「カイネ様の匂いはお嫌いですか?」
「知るかァ!」
「ならば、知ればよいのです。少し嗅いでみて、駄目そうならやめればいいだけ。……それとも、怖いのですか? 自分が信じている常識が、自分の世界が、実はちっぽけでとても矮小で貧弱なものだと……そう認めるのが、怖いのでしょうか?」
「ふざけんじゃないわよ! そこまで言うのならやってやろうじゃない!」
藁葺火難。売られた喧嘩は、どんなものであろうが買う少女である。特に自分を小さく見られるのを嫌う性質で、そのために苦境に追い込まれることもしばしばだった。
今のように、売り言葉に買い言葉で、苦境に追い込まれてきた。
(ど、どうしよう……)
ちらりと、手にした衣服を見る。
社会的、常識的に考えれば、それは一笑に伏していいことだろう。弱者の戯言だと、馬鹿のやることだと、真っ向から否定すればいいだけだ。
しかし……今回ばかりは、事情が違う。
意識していなかっただけで、頭を掠めたことはあるのだ。火難とていっぱしの中学生女子である。父親を蛇蝎のごとく嫌っているし、好きなアイドルもいるし、結局口に出さないまま終わったが横恋慕したこともある。異性への興味は……絶対に『ある』のだ。
その興味が心の弱い部分に囁いている。
いいからやっちまえよ。興味あるんだろ? ここなら誰にもばれないし。
その好奇心は弱さである。惰弱であり軟弱である。
しかし……どうだろう? 確かにそう思う自分がいる一方で、それを変態だと律する自分もいる。自分はきちんとなにがしていいことか、なにをすべきかを把握している。それなのに、この変態聖母は『怖いのですか?』と挑発をしている。この女を黙らせるには、チョッピリ服の匂いを嗅いでやって、大したことないと言ってやればそれでいいだけ。
簡単な戦いだ。負ける要素がない。
これは受けて立たねばならない。私は弱くないし自分を律することができるのだ。
(と……そんな風に思っているんでしょうね)
負けず嫌いが行き過ぎて墓穴を掘り続けている火難を、アナスタシアは微笑ましく見つめていた。
実際のところ、カイネの服の匂いを嗅いでいたのはアナスタシアの趣味ではない。嗅覚を研ぎ澄まし相手の体調を探るという、アキレスから学んだ秘伝を実践していただけである。もちろんカイネの匂いは嫌いではないが……むしろ好きだが、趣味ではない。
人の弱さを見続けてきたアナスタシアにとって、火難の負けん気の強さが……なによりの弱さに見える。断固たる決意で戦わねばならない時よりも、柔らかく受け流すことが必要な時の方が、圧倒的に多いのだ。
(ただ……少しだけ、いじわるでしたね)
自分もザッハーク相手には意固地になってしまうことを思い出し、フォローのために口を開く。
が、言葉を発する前に、火難は手にしたカイネの衣服を自らの顔に押し付けた。
「ふがふが……ふぁぅ……ぜ、全然大したことないわね……なんか、変な匂いだし……くんくん……ふへ……ふがふが……へんなにおい……えへへ……」
「あの、火難さん?」
「ふぇぃ!? ……ぜ、全然大したことないわね! 変な匂いだし!」
「………………」
「ほ、本当に全然大したことないんだから!」
あくまで大したことがないと言い張る火難の顔は、耳まで真っ赤に染まっていた。
小さく息を吐き、アナスタシアはほんの少し口元を緩める。
(なるほどなるほど。これは実に分かりやすいですね)
聖母と呼ばれていた時代に、たくさんの弱さを見てきた。
藁葺火難という少女は、たしかに強い。強さが弱さになってしまうくらい強い。
そして……それゆえに、分かりやすく、純情な乙女である。強い拒絶は、強い興味の表れでもあるのだ。
(そういう女の子にアレを使うとは……カイネ様も酷い人ですねぇ)
自分の価値観が完全にひっくり返る時がある。受け止め切れないものを投げつけられることがある。生きていれば、そんなこともある。
藁葺火難は、それでもダンジョンにやって来た。それは間違いなく強さだろう。
だから、アナスタシアはなにも口にしなかった。
思うままに、わがままに、自らの魂の叫びに沿って行動するのは、決して間違いではないし、負けた相手に再度挑戦するというのは……本当に強い人間にしかできない。
ひょい、と火難の手から衣服を取る。自覚はないだろうが、とても残念そうな表情を浮かべた火難の今後が、少しだけ心配だった。
「では、戯れはここまでにして洗濯をしましょう。カイネ様はああ見えて結構無精な方なので、手伝ってもらえると助かります」
「は? 洗濯なんて、メイドがやるものじゃないの?」
「……私が一人でやります」
「あ、今ちょっと見下したでしょ! 洗濯くらい、私にもできるんだからね!」
容易い少女と、容易くない聖母は、大騒ぎしながら男物衣類の洗濯に興じる。
(……心配することもなかったかな)
まるで共通点はない二人だったし、二人とも特に仲良くしているつもりはないのだろうが、こっそりと様子を見に来ていたカイネには、とても仲良しに見えた。
熱で朦朧とすることもなく、意識ははっきりしているのだが、流れてくる汗がひたすらに鬱陶しい。
枕元に用意したスポーツドリンクで喉を潤しながら、僕は寝返りを打っていた。
枕元にはニーナさんが用意してくれた薬湯やら師匠が持って来た真っ黒い液体の入った小ビンが置いてあるが、なんとなく飲む気がしないので飲んでいない。
カンナさんとザッハは見舞いにすら来ていないが……たぶん、師匠にこき使われているのだろう。
外を見ると日は落ちて真っ暗になっている。
一日寝て休んで、多少は良くなってきたような気もするが、まだ油断はできない。体はだるいし、動くのも億劫だし、トイレに行くのも一苦労だ。
病気なんてろくなもんじゃない。自分も周囲も迷惑ばかりかかる。
痩せっぽちな誰かがいた。やつれている誰かがいた。噛み殺したような苦笑いが板についた彼女は、開き直ったふりをして、ごめんなさいと嘆きながら死んでいった。
治らない病を抱えて、悲劇のヒロインのように、なにを成すこともなく。
なにもできずに、死んだ。
(それを迷惑だと思ったことは……一度もねぇんだけどな)
昔のことを少しだけ思い出し、ゆっくりと体を起こす。
汗が気持ち悪いので、なんとか処理したい。さすがに体は洗えないけど、今の体調なら濡れたタオルで体を拭うくらいはできるだろう。
「はい、それじゃあ上着を脱いでください。着替えも用意しました」
「……アナさん。いつの間に……」
「隣の部屋で待機していました。普段、動き回っている人が病気になった時は、目を離してはいけないのです」
「隣の部屋って……台所じゃ……」
「テーブルを移動して、床を掃除して、ベッドを持ち込みました。今は火難ちゃんが使っていますが、もう少しで交代する予定です」
「………………」
ベッドを持ち込みましたというくだりで、僕の口元は大いに引きつった。
アナさんは非力そうに見えてかなり力がある。男一人くらいなら楽勝で抱えられる。アトラスの旦那を片手で持ち上げた時は、なにかの冗談かと思ったが。
奇跡の力なのかとも思ったが、アキレス卿に聞いても苦笑いを浮かべるだけで、なにも語ってくれやしない。
まぁ……細かいところはいいや。さすがに考えるのもだるい。
背中だけささっと拭いてもらおう。
「んじゃ、よろしくお願いします」
「はーい♪」
……心なしか、声が弾んでいるのは気のせいだろうか?
パシャリという水音が響き、背中によく暖められた濡れタオルが当てられた。
うん……気持ちいい。
「加減はいかがですか?」
「ちょうどいいよ」
「それなら良いのですが……カイネ様はしょっちゅう嘘を吐くので、私としては少し……かなり……ものすごく、心配です」
「……そこまでか。結構自分に正直に生きているつもりなんだけど……」
「今日のように倒れられてしまうと、みんなが迷惑します。なるべく健康には気を付けてお体を大切にしていただかないと」
「うん、次からは気を付けるよ」
「そうしてください。病気で簡単に人は死にますから」
それは、淡々とした言葉だった。
当たり前のことを当たり前に語っているような、感情のこもっていない言葉。
あまりに多くの『死』に触れ過ぎた者の『当然』だった。
「私としてはカイネ様を見送りたくはありません。私を見送って欲しいくらいです」
「心底嫌だなぁ」
「……私では嫌ですか?」
「いや、もう四人ほど死に目を看取ってるから、これ以上はちょっと……ね」
「では、私が看取ることにしましょう。カイネ様の骨は、私が拾います」
「どっちにしろ重い!」
「カイネ様より私の方が圧倒的に年上なので、それくらいはしていただかないと♪」
「……まぁ、年上って言われりゃ、そうッスけどね」
なんだか楽しそうなアナさんだった。
しかし、今更だが全然年上という気がしない。無邪気なのはいいけど、心臓が爆裂四散するんじゃねぇかってくらいに無防備なのはやめていただきたい。
「むしろ、私の方が年上なんですから、もっと頼ってくれてもいいんですよ?」
「心臓に悪いから、ザッハともっと仲良くして欲しいなぁ」
「無理です。アレは敵です」
背中を向けていたので表情は分からなかったけれど、声の硬さから察するに、どうやらアナさんとしては絶対に譲れない部分らしい。
まぁ、これに関しては確かに無理だ。嫌いなものは嫌いなのだ。
「そういえば、カイネ様」
「なに?」
「火難ちゃんって、面白い子ですね」
「あー……確かにね。なんであんな目に遭ってダンジョンに来られるんだろうね……勝ち組なんだから、根に持つのはやめてくんねぇかなぁ」
徹底的に痛め付けたつもりだったのに、復帰が尋常じゃなく早い。
そういうのも『強者』の条件なのだろう。自分に都合の悪いことはさっさと忘れて、気持ちをあっさり切り替えて次に進む。
今の目的はダンジョンの踏破じゃなく、僕を痛い目に遭わせることみたいだけど。
僕が首を捻っていると、不意にアナさんの手が止まった。
「んー……たぶん、全部言い訳なんじゃないでしょうか?」
「へ?」
「私やカイネ様には分からない感覚ですが……年頃の子には家に帰りたくないとか、どこでもいいから家族の顔を見たくないとか、そういうことがあるんですよ」
「………………」
ああ、そうか。それは全く考えていなかった。
そういう経験がないし、そういう風に考えたこともないけど、確かにそうだ。
「なら、仕方ないか。野郎の家に泊まるのは感心しないけど……アナさんもいるし、今日くらいはいいかな」
「いいんですか?」
「敵に塩を送るってわけじゃないけどね、才能があるのならその才能のぶんだけ苦労してもらわないと困るし……安全な逃げ場所くらいはあってもいいと思う」
「自分に与えられなかったものだから、ですか?」
「うん」
素直に応える。
僕にはよく分からない感覚だけど……家に帰るという感覚が希薄だし、家族なんてモノには縁がなくて、大切な人はずっと一緒にいないと駄目になる人たちばかりだったから、本当によく分からないけど……分からないからこそ、いいと思う。
今は敵じゃないし、逃げたいのなら逃げてもいいと、思っているから。
逃げる場所が必要なら、敵にすがらなきゃいけない状態なら、別にいいだろう。
「はい、背中は拭き終わりました。前を向いて下さい」
「いや、前は自分で拭くからいいよ。ありがとう、さっぱりした」
「前を向いて下さい」
「いきなり強制イベントになりやがっただと!?」
「私の方が年上なのですから、頼ってもらわないと困ります」
「年上とか関係ないから! っていうか下半身とかも拭くし着替えるから!」
「着替えくらいなら聖母時代に何万回繰り返したか分からないので大丈夫ですよ?」
「僕が大丈夫じゃないんだよ!」
「はいはい、分かってます分かってます。男の子はみんなそう言うのです。明日の朝一で洗濯をしたいので、早く脱いでください」
「ぎゃああああああああああああああああぁぁぁぁぁぁぁぁぁッ!?」
かくて、僕の羞恥心は破壊されることとなる。
アナさんの献身的な介護によって、翌朝には熱は下がったけど、散々な有様だった。
やっぱり、病気なんてするもんじゃない。
健康が一番だと、心の底から痛切に、実感したのだった。
●登場人物紹介&裏設定
・カイネ=ムツ
ダンジョンの管理人。今回は苦労性。
この物語のラスボス。
描写はしていないがプライベートはそこそこぐだぐだ。片付ける時は片付けるが、散らかしっぱなしというコトも多い。
終始アナさんに押されっぱなしだが、誰に看病されても大体こうなる。守勢に回ると途端に弱体化するのは攻勢生物によくありがちな現象である。
・アナスタシア
第二階層のボス。一時の蘇生を使用し数の暴力で圧倒する昨今に流行しているボス。
知識としては色々知っている無邪気な聖母。
なお、彼女の用いる奇跡では病気までは治療できない……というか、この世界観ではどのような神々の奇跡を用いたとしても『人の力』で病魔を退散させることだけはできない。人間にできるのは食って寝て最善の薬を飲んで抵抗力を上げることだけである。
・藁葺火難
元挑戦者。これから挑戦するか否かは分からない。
今回は家出して、友達の家に泊まれなかったのでダンジョンにやって来た。
完全無欠の中二病丸出しの少女は、敗北を経験して、今まで向き合ってこなかった『みっともない自分』と対峙する。
みっともない自分その1、実は匂いフェチ。
初っ端からラスボス級の相手と戦う羽目になってしまったが、仕方ないね。
キャラは崩壊させてなんぼ(持論)。
次は恐らくアリアちゃんのお話になる……うん、なったらいいな。
また色々とごちゃごちゃ描きたいものがふわふわと浮かんでは潰れていくという厄介な症状に見舞われているので、更新速度はお察しになるかもしれません。




