第二十一話 一足先にお城の名前が決まりました
リフォームが始まってから一ヶ月。
朝はお婆ちゃんちから学校に行って授業が終わったら隣のビルの一階で仮営業しているお店に、そして閉店してからお婆ちゃんちに帰るというちょっと忙しい日課にもそれなりに慣れてきた。真田さんが休みの時は一緒に夕飯を食べてから送ってもらったり、私の大学が休みの時はお泊りさせてもらってご飯を作りながら真田さんが仕事から戻ってくるのを待ったりしてちょっとしたプチ若奥様気分なんてのも味わったりしたりして。
最近の芽衣ちゃんはその日によってあっちこっちに移動するから捕まえるのが大変だよとはノンちゃんの言葉で、そんな彼女の言葉がきっかけでなかなか買う気になれなかった携帯電話を持つことにした。通話料金は高いけど持って初めて便利だと気が付いた私って世間からするとかなり遅れている模様。
「もうさ、真田さんちで暮らしちゃえば良いのに。そうすればあっちこっちの三点移動を毎日しなくてもすむじゃない」
学食でご飯を食べている時にノンちゃんがそんなことを言ってきて、その言葉に他の子も頷いている。
「そんなこと言ったって……」
「真田さんは何か言ってる?」
「ん~~、移動が大変そうだからリフォームが終わるまでは俺んちに下宿する?とは言われたことはあるけど」
とは言えそれはご飯を食べていた時に冗談ぽく言ってたことだから、そこで本当に「お世話になります、よろしく」なんて言って押し掛けたらそれこそ真田さんが困ったことになると思うんだなあ。
「それにさ、それが本気だったとしても画材が入らないよ」
そうなんだよ。もし真田さんが本気だったとしても私の商売道具?である画材のあれこれが大変なことになると思うんだ。収納がそこそこあった前の私の部屋でさえ大変だったんだもの、絶対に今の真田さんの部屋には収まりきらない。今度のリフォームの時も創作用の部屋ってのを新たに作ったぐらいだし。
「お婆ちゃんちは広いし絵を描く場所には困らないからその点では楽なんだけどね」
但し、学校から遠くなったからキャンバスを持ち帰るのが結構大変な重労働で早くリフォームが終わって欲しいというのが正直なところだ。
「ところでさ、リフォームした後はどうなるの?」
「どうなるって?」
ノンちゃんの質問に首を傾げる。
「芽衣ちゃんは戻ってくるのは分かってるけどお父さんとお母さんは?」
「ああ、そのこと。なんかね、すっかりお婆ちゃんちに腰を落ち着ける気分でいるみたいでね、ヒマな時は三人であれこれリフォームもどきをしてるよ」
お婆ちゃんちは昔ながらの平屋なんだけど大家族で住んでいた時の名残でやたらと面積だけは広い。お爺ちゃんが足を悪くしてからトイレやお風呂に関しては今時のものに作り直してあって使いやすいんだけどそれ以外は昔のままだった。だから今回の我が家のリフォームで取り外した使えそうな洗面所や台所の備え付けの家具はお婆ちゃんちで使い回しが出来るんじゃないかって設計事務所の人が言っていたっけ。
そう、つまり我が家のリフォームが終わった後にお婆ちゃんちのプチリフォームが控えているってわけ。そしてそれに備えてお母さん達は休みの日にコツコツと部屋の整理をして要らないものと要るものの仕分けをしている。ただ押し入れの整理をしたりすると懐かしいものが出てくるので直ぐに作業の手が止まっちゃうのが難点らしいけど。
「ってことはこっちに戻ってくるのは芽衣ちゃんだけってこと?」
「なんかそんな感じなんだよねえ。もちろんお店は今まで通りにお母さんと私でするんだけどね」
リフォームのことにしても和室を作ってお父さんお母さんの部屋って決めていたのにいつの間にか客間扱いになってるし。いくら一国一城の主が嬉しいからっていきなり一人暮らしは寂しいんだけどなあ……。
「あ、お花屋さんの新しい名前は決まった?」
「それがねえ、まだ迷ってるんだ~」
それそれ。新しい屋号のことも何とかしなくちゃいけない。決めないと看板が作れないからそろそろ決めて下さいねって言われていてその期限が明日に迫っていた。一応地元の希望が丘の地名にあやかったネーミングにしようとは思ってるんだけどホープとかヒルとか英語を使うと何処かのマンションみたいな名前になっちゃうし正直迷っているんだよね。
「ベタなところでエスペランサは? ちなみにスペイン語ね」
「フランス語のエスポワールなんてどう? 英語よりお洒落だし柔らかい感じだと思うけど」
「確かにドイツ語みたいな堅苦しさはないね」
「柔らかいならスペラーレは? こっちはイタリア語だっけ?」
私の話を聞いていた友達はそれぞれ辞書で希望という単語を色んな言語で調べてきてくれていた。最初のそこが決まれば丘に関してはそれに合わせようって決めているので先ずは最初の一言からなのだ。
「エスペーラスってのもあったよ。これ、エスペラント語だって」
「マツマイニは?」
「それ何処の言葉?!」
今までのとはちょっと違った異質な響きに驚く。
「えっと、スワヒリ語だったかな」
「音としては面白いけど芽衣ちゃんの感じじゃないよね」
「あー、そうかも」
色んな国の単語を持ち寄ってみて読めそうにないのと雰囲気的に何か違うってのを除外した結果、最終的に残ったのはフランス語のエスポワールとイタリア語のスペラーレになった。
「ちなみに丘はどんな感じ?」
「フランス語だとコリーヌだったかな」
「イタリア語だとコリーナだった」
「エスポワールコリーヌかスペラーレコリーナってことだね、文法的にあってるかどうかは別として」
ヨーロッパ圏内だから似たような単語だけど二つの単語を並べて見ると意外とハッキリと違いが出たって感じだ。ノートに並べて書いてみて口の中で何度か呟いてみる。
「希望の単語だけで見ていたらどっちにしようか迷ったけど丘をつけるんだったらエスポワールの方かな」
だけど……と、ちょっと心配なことが一つだけ。と言うのは松岡生花店から屋号が変わり過ぎなんじゃないかなってこと。こういう横文字の店名は最近じゃ珍しくないしお若い世代の人はこれでも問題ないだろうけど、昔からお世話になっているお婆ちゃん達にはもしかして読めないんじゃ?と思ったり。
「御近所さんは芽衣ちゃんの花屋さんって呼ぶだろうから問題ないんじゃないかな、お年寄りは前の屋号をそのまま使いそうだし」
「それって屋号を変える意味が無いんじゃ……」
「フルネームじゃなくてエスポワールさんって感じで定着するんじゃないかな、それなら覚えられそうじゃない?」
「そうだと良いんだけどな……」
せっかく地元の名前にあやかったんだから皆にちゃんとフルネームで覚えて欲しいなって思う。そういう訳で新しいお店の名前は【espoir colline】になった。
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「え、なに? エスポ……?」
「もう、なんでそこで途切れちゃうの~」
お若い世代でも横文字が苦手な人もいるってことを考えるべきだったかな。お店を閉めてから名前が決まったことを知らせに来たらそれを聞いた真田さんが目の前で首を傾げてしまった。何でも知っている真田さんだけどどうにもこうにも横文字だけは苦手みたいだ。
「だから、エスポワール、コリーヌ」
「……うん、分かった、なるほど。それが新しい芽衣さんのお店の名前なのか。それ英語?」
絶対に覚えられてないよね、真田さん。
「ううん、フランス語なんだって。希望の丘ってそのまま訳すとイマイチだったから単語を並べてるだけなんだけどね」
「へえ、良いんじゃないかな、芽衣さんらしくて」
「はい、じゃあお店の名前をもう一度繰り返して言ってみましょ~う」
「エ~~」
……そのうち覚えてくれるよね、きっと。
「そう言えば芽衣さん、午前中に建築現場の人に呼ばれたんだ」
「真田さんが?」
「ああ」
「何の用事? 何か事件ってこと?」
まさか床下から人骨が出たとかそんな話?もしかして迷宮入りの事件再びとかそんなの?とちょっとワクワクした顔をしたらそんなことじゃないよと先に言われてしまった。なーんだ、ちょっとガッカリ。
「それが家の中の風呂場とトイレがどうのこうのって話でさ、俺が座った時の高さと座ったままで足を伸ばした時の長さを計られたよ」
「そう言えば前に設計事務所に行った時は鴨居や天井の高さの話はしたけどお風呂やトイレの話までしなかったもんね」
「寸法は決まっていたけど実際に計ってみないと心配だったとか言われちゃってね。これで納得だってさ」
俺ってそんなに規格外の高さかなあと悩んでいる。でもさすがプロだなって思うのはトイレとかお風呂とか話をしなくてもちゃんと真田さん規格にしてくれていたところだ。やっぱり一緒に事務所に行って良かったかも。そんなことを考えているといきなり後ろから声が聞こえてきた。
「良かったな、芽衣ちゃんの親御さんがちゃんと心づもりをしてくれていて。お前さんの方もそろそろ芽衣ちゃんを自分の親に紹介しに連れて行けよ?」
ギョッとなって椅子ごと引っ繰り返りそうになる真田さん。
「うわ、酒井さん、いつの間に?!」
「芽衣さんと語学講座に一生懸命で俺が来たのに気付かなかったのか、つれない後輩だよな。それに芽衣ちゃんもつれない御近所さんだよ、まったく俺のこと眼中になかったろ?」
私と真田さんを交互に見ながらわざとらしく溜め息をついた酒井さん、いつものようにマグカップにインスタントコーヒーを入れてポットからお湯を注いでいる。今日はこれから夜勤なので夕方からの出勤なのだ。酒井さんが来たってことで真田さんはそろそろ今日のお仕事はおしまいだ。
「それで酒井さん」
「なんだい芽衣ちゃん」
「酒井さんはお店の名前、言える?」
「あー……エーなんとか?」
駄目だこりゃ……覚えてもらうのにはかなり時間がかかりそうな気がしてきた。