その3
人々が、自らに死を与え黒死人と呼ばれる異形の者へと変貌させる黒い雨と、それを降らせる漆黒の雲に怯える世界。
その世界にあるアレド村で17歳を迎えた少年トールは、初めての狩りに出かけそこで一人の女性を助けた。
女性の名はミリアス。
黒い雨の被害者としての証である黒痕を右手に宿した彼女は、この世界の大国であるドーナ王国の王都パルオンへの旅の途中にトールに助けられたのだと語る。
ミリアスが目を覚ました次の日、2人の立つアレド村に迫り来る漆黒の雲。
漆黒の雲とともに村へ襲来した黒死人に襲われる村人達を救うべく、ミリアスは黒痕の刻まれたその右腕から黄金の輝きを放ち出し、その圧倒的な力で黒死人をなぎ倒した。
数日後、トールは村の再興を直訴しにいくため、ミリアスはまだ語らぬ目的のため、共に王都パルオンへ向かう旅客船に乗り込んだ。
そこで出会った、同じく船客である睦月という男。
東の島国から旅をしてきたというどこか怪しい、馴れ馴れしいその男はドーナ王国の女兵が同乗していることを2人に伝える。
睦月の指し示す艶らかな金髪の女性は、髪の長さがショートボブ程度のためなのかかなりの小顔に見えた。
なるほど彼が鼻の下を伸ばすのも納得な美女である。ミリアスも美女の部類だが、少し粗野っぽさのあるミリアスとは異なり、顔を含めた全体の雰囲気が透き通った清流のような、洗練された印象を与える類いの美しさがある。
遠目に見える身振り手振りから、彼女が自身を囲む3人の年上らしき兵達に何かの指示を出しているように見受けられた。細い体にフィットした鎧は所々に煌びやかな装飾が施されており、兵士の中でもかなり高い地位の、しかも特別な立場にいることが推測できる。
「ソレア=ブレイフマンって名で、なんでもドーナ王国の近衛兵様らしい。」
「へえ!私と歳が変わらなそうなのに、凄いのね。」
この世界において、最も広大な大陸を支配しているドーナ王国は事実上世界の支配国と言える。
王国は各地で志願、徴兵あわせた数千万人規模の屈強な兵士達を従え、主には領土の治安確保、また支配者の野心からくるものなのか、一部未開の地の開拓、そして支配へと力を注いでいる。
その数たる兵士達の中で、支配者たる王から勅命を授かる近衛兵の数は30人程度であるものの、武力、知力あるいはその他の才能が抜きん出ている彼あるいは彼女は、その才能をもって近衛兵という立場と数千万の兵士達を束ねるにふさわしい地位を得ているというわけだ。
ソレアも鎧を脱げばただの華奢な女性に見えなくも無いのだろうが、遠目から見たミリアスの目にも、近衛兵たる一種独特の雰囲気のようなものを持っているような感じがした。
「ところで…王直属の近衛兵様にも、私の時のように無礼を働かなかったのかしら?」
ミリアスは先ほど尻を触られたことを根に持っているらしく、睦月に冷めた視線を投げつけた。
「無礼とはなんことかな?」
睦月は素知らぬ顔で自分の無精髭をつまみ、弄んでいる。
「あのねぇ…!」
「まあまあ。 なんていうか…確かに美人ですけど、近衛兵とお茶を同席するなんて、睦月さんって凄いですね…。」
「うーん、俺にたいそう興味があるようでなぁ。 まぁこう、トール君にはまだ無いにじみ出る渋い香りっていうのが、女性を惹き付けてしまうんだろうねぇ。」
「はぁ・・・そんなものですかね。」
「何言ってんだか…。」
ミリアスの口から、あきれた溜め息が洩れた。
「失礼。」
「おぉ、ソレアさん。先ほどはどうも。」
いつの間にか、ミリアス達の側に話の種となっている近衛兵、ソレアが歩み寄ってきていた。
「睦月殿、先ほどは東の国の貴重な話を聞かせていただき感謝する。」
「あなたじゃなくて、あなたの国に興味があったようね。」
ミリアスの嫌みな耳打ちにも、睦月は素知らぬ顔だ。
「そちらのお二人、私は近衛兵としてドーナ王国に仕えているソレア=ブレイフマンと言う。失礼だがアレド村からの使者ではないか?」
ソレアの声は、容姿にふさわしい清らかな声であったが、近衛兵らしい固さも感じられた。しかし近づいて見てみると、やはりソレアの透き通るような美しさが実感させられる。
「は、はい! 僕がアレド村の者で、村の惨状をパルオンの方々へお伝えするために使者として遣わされたトール=ディオルグと言います。」
「私は…その付き添いをしているミリアス=ブレアムと言う旅人です。」
ソレアは2人の言葉に小さく頷いた。
「そうか。アレド村の悲劇はレーゲの駐屯兵から耳にしたのだが・・・ディオルグ君、今回の黒い雨によるアレド村の被害については私も心を痛めている。そして使者の任、ご苦労。」
そう言ってソレアはトールに向けて、小さく目を伏せた。
「あ、そんな。近衛兵の方からそのようなお言葉をいただくような…」
「いや、本来であれば民を守る兵として、我々が黒い雨への有効な対策を早急に講じるべきなのだが。雨という自然現象であるのもさることながら、生き残りも少なく情報が絶対的に不足している…いや、それも言い訳だな。とにかく民の命が無慈悲に奪われてしまっている現状には、兵そしてそれを束ねる近衛兵である私に責任の一端があるといえるだろう。」
ソレアはトールに向かって一歩踏み出して右手を差し出した。
「パルオンに到着した際には、村の再建の件についても当然だが、生き残った者として漆黒の雲と黒い雨について詳しく話を聞かせてもらえれば、これからの救える命が増えるだろう。どうかよろしく頼む。」
「え…えぇ! もちろんです!」
トールはソレアの言葉に刺激を受けたのか、歯切れの良い言葉を返しソレアの右手を力強く握った。
「ブレアム殿も。よろしく頼む。」
ソレアがミリアスの方へ体の向きを変え、同じく右手を差し出した。
「え? あ、はい。」
ミリアスは急な申し出に戸惑いながらも、その右手を握り返した。
――ブォンッ――
「っ!?」
ミリアスとソレアが握手を交わした瞬間、ミリアスの右腕の内部で骨や血、さらに具体に言うならば細胞が震えるような感覚が走った。
(なに!? 今の感覚・・・)
「・・・」
ソレアは握った手を離した後も一瞬だがじっとミリアスを見つめていた。その視線にミリアスが気が付いたとしても、ソレアが何を感じ、何を思っているのか、表情から読み取ることはできないように思われた。
「おや?」
不意に、睦月が空を見上げ手の平を上に向けた。
「雨が降りそうだな。」
睦月の言うとおり、いつの間にか空には暗雲が立ちこめてきていた。ポツリポツリと大粒の雨雫が落ち始めており、間もなく大降りになりそうな気配を感じさせる。
トールはアレド村での黒い雨を思い出したのか一瞬ハッとした表情で上空を見上げたが、降り始めた雨が「普通の」雨であることを確認して安堵の表情を見せた。
ミリアスも空を確認したが、上空の雲は『漆黒の雲』で無いことは間違いなさそうだ。
だが四人の中で、ソレアだけは空に厳しい表情を向けていた。
先ほどソレアを囲んでいた、遠巻きに待機していた3人の兵士も厳しい表情で足早にソレアに駆け寄ってきた。ソレアは身を屈めて彼女の言葉を耳を清ませる兵士達に、小さな声で何かを指示した。
ミリアスは断片的にしか聞こえないソレアと兵士達の会話の中で、聞き慣れない単語を耳にした。
「…このくらいの暗さだと『はぐれ者』が出る…」
「はぐれ者?」
ミリアスは耳に入れたその単語を思わず口にした。ソレアがミリアスの方へ顔を向ける。
「ブレアム殿は、はぐれ者を聞いたことが無いか?」
「えぇ。初耳です。」
「僕も初めて聞きました。」
トールもミリアスに続いた。
「俺は聞いたことがあるぜ。なんでも漆黒の雲の下だけで活動するはずの黒死人が、漆黒の雲の下じゃない場所で発見されるらしい。」
「漆黒の雲からはぐれた黒死人だからはぐれ者ってわけ? でも私がアレド村で見た限りだと、黒死人って黒い雨が降っていない所だと体が無くなりそうに見えたんだけど。」
「僕にもそう見えました。」
アレド村でミリアスとトールが見た黒死人の肌は、黒く爛れ溶け落ちており、そのままでいれば1時間と体を維持できないように見えた。が、頭上から降り注ぐ黒い雨が彼等の体に触れると同時に、雨は黒いヌチャリとした固形物に変貌し、溶け落ちた黒死人の肌の代わりを果たして彼等の活動を維持する働きをしているように見えた。
その黒い雨を降らせる漆黒の雲からはぐれてしまえば、黒い雨の助けを失った黒死人の肌は一方的に溶け落ちていき、体の維持ができないように見えたのだが…。
そしてミリアスは「アレド村以外の経験」から、太陽の光の下では急速に黒死人の肌の溶解が進むことを知っていた。
「今まで寄せられた情報から、黒死人が黒い雨無しでは長時間活動できないことは間違いが無いようだ。雨無しでは、黒く染まった肌、さらには骨や内蔵までもが特に太陽の下では急速に溶け落ちて体が消滅してしまうらしい。」
ソレアがミリアスの心情を代弁するかのように語る。
「だが漆黒の雲からはぐれ、体の維持が難しくなった黒死人であっても太陽の光が全く当たらないような、例えば洞穴や夜間、そして今上空にあるような暗雲の下ではその溶ける速度が急速に落ち、黒い雨が降っていない所でもしばらくは体を維持できるらしい。」
「…なるほど。太陽があまりあたらない所だと人の気配に敏感なはぐれ者に出会う可能性があるってことね。でも例え雨雲のせいで今からひどく暗くったとしても、ここは海に浮かぶ船の上だから、はぐれ者が来ようと思っても来れないと思うんだけど?」
ミリアスの言葉に、トールもうんうんと頷く。
「船上はぐれ者に出くわす可能性がかなり高い。」
「普段、晴れていても日の光が当たらない所にいたはぐれ者どもが、人間の気配を感じとって船に這い上がってくるんだそうだ。」
ソレアの言葉に続いた睦月が、ミリアスの足下を指差した。
「晴れていても太陽の光が当たらない所って…まさか?」
「そう。」
ソレアは整然とした歩みで船縁に近づき、そこから軽く身を乗り出して海面を覗いた。
「漆黒の雲からはぐれた黒死人、はぐれ者の中には深海に身を潜めている者もいる。彼等は死人であり、もとは人でもあるから永遠に泳ぎ続けることも…まあ可能なのだろうな。」
ミリアスとトールもソレアにつられて海面を見た。空が暗くなってきたせいか、急に海の色が黒くなった気がする。
空の雲はさらにその厚みを増し始め、夕暮れ前にパルオンに到着しようとしていた船に降り注いでいた太陽の光を、急速に遮り始めていた。
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