襲来
人々が自らに死を与え、黒死人と呼ばれる異形の者へと変貌させる黒い雨とそれを降らせる漆黒の雲を畏怖している世界。
その世界にあるアレド村で17歳を迎えた少年トールは、初めての狩りに出かけそこで一人の女性を発見した。
女性の名はミリアス。
黒い雨による黒痕を右手に宿した彼女は、この世界の大国であるドーナ王国の王都パルオンへの旅の途中にトールに助けられたのだと語る。
ミリアスのことが少し気になるトールは彼女を介抱するが、ミリアスは過去を語らず、目指すパルオンに思いを馳せていた。
翌朝、ミリアスは日が昇り切った後に目を覚ました。
昨晩よりも少し傷が癒えたのか、体の痛みは少なく立って歩けるようになっていたので、部屋から出て診察室らしき部屋を抜けて診療所から外に出てみた。永い眠りで暗闇に慣れ過ぎていたミリアスの眼に晴天の日差しが強く突き刺さってきたが、晴れ渡った青空と村の所々から香ってくる土や草、昼食を調理している香りが彼女を心地良い気持ちにさせてくれた。
「よお、姉ちゃん。目が覚めたか。」
太い声の男、トールと一緒にミリアスを助けたラディッツが話しかけてきた。
「トールと見つけた時にはひどく弱ってたようだが…。その分だと、ずいぶん楽になったみたいだな。」
ラディッツはそう言ってガハハと笑った。どうやらトールの言っていた、自分を助けてくれた先輩狩人なのだろうとミリアスは察した。
「すみません。ありがとうございました。」
「なになに良いってことよ。トールも奇麗な姉ちゃんを背中に担げて、ニヤニヤしながら嬉しそうだったからな。」
「ニヤニヤなんてしていないですよ。」
いつの間にかラディッツの背後で、トールがラディッツを睨みつけながら立っていた。
「おぉ!トールじゃねえか。」
「トール。おはよう。」
ミリアスは笑顔でトールに手を振った。
「おはようございます。ミリアスさん。
でももう日が昇り切る直前だから、こんにちはかもしれないですね。
ラディッツさん!変なこと言わないでくださいよ!」
「何言ってんだよ。俺がこの姉ちゃんを担ぎたかったのにお前が担ぎたがるからよぉ。
俺は泣く泣くこの巨乳が背中にあたるという役得を諦めたのに。」
そう言ってラディッツはニヤニヤしながら、清潔な薄い布をピント張り上げたミリアスの豊満な胸元を指差した。
「ちょっと!本当にいい加減にしてください!」
流石に度が過ぎると思ったのか、トールが怒りの表情でミリアスの胸を刺すラディッツの指を自分の手で抑え込んだ。
「アハハ。わりぃわりぃ。 姉ちゃんも気を悪くしないでくれ。
じゃあ俺は狩り道具の手入れに戻るからな。お前も女にかまけてないで、狩りの練習と道具の手入れに戻れよ。
明日はまた狩りに出るからな。」
ラディッツは再び豪快に笑いながら、2人の元から去っていった。
「まったく・・・すみません。普段は良い人だし、あの人がいないとミリアスさんを助けることはできなかったんですよ。」
「ううん、気にしてないよ。それより・・・。」
ミリアスは少し前屈みになり、トールに自分の胸の谷間を見せつけるように着ている上着の襟を下げてみせた。
「そんなに良かった? 私の胸。」
「ななな、なんですか!?」
「アハハ、じょうだん冗談。」
「や、やめてくださいよ! ミリアスさんまで。」
トールは耳まで真っ赤にしていた。ミリアスは上着を戻しながら、先ほどラディッツと呼ばれた男がトールをからかった気持ちが少し分かった気がした。
なるほど、いじりがいのある可愛らしい少年だ。
「ところでさ、私の荷物ってどこにある?」
「あぁ、一応僕の家に運びましたけど…荷物って言っても小さな革袋1つだけでしたよ。
服はボロボロになっていたから、医者が捨てちゃったみたいですけど。」
「え!本当に!?
一応、地図とかキャンプ道具とか色々入れたリュックを持っていたはずなんだけど…参ったなあ。」
ミリアスは青みがかった奇麗な黒髪をポリポリと掻いてみせた。少しボサボサの髪が、本格的にボサボサになった。
「まあしょうがないか。 トール、この村で旅の道具一式揃えられる店とか無いかな?」
「小さな万屋ならあの角を曲がったところにありますけど…。
でもミリアスさん、まだ体中が傷だらけだから、もう少し休んだ方が…。」
「うーん、でもちょっと急ぎたい旅だからね。」
「そう…ですか。」
トールは一瞬、残念そうな顔をしたが、すぐに表情を明るい表情に戻した。
「じゃあ旅の準備まで、お手伝いしますよ。」
「そう?じゃあお願いしようかな。」
ミリアスとトールがその万屋に歩を進めようとしたその時、万屋とは逆方向から男の叫び声が響いてきた。
「大変だーっ! 黒い雨が来るぞーっ!」
絶叫まじりのその声は少し遠方が発生源のようだが、村の全域に響き渡りそうな大声だった。その叫びの後、村のあちこちから驚きと恐怖に満ちた悲鳴が上がり始めた。
「黒い雨って・・・あの!?」
黒い雨に降られた街の住人は大半が死人から黒死人になってしまい、生き残っても黒痕を授かり一目を忍んで生きていくことが多い。そのため、雨による具体的な被害の情報は被害の受けたことの無い街や村ではあまり知られていなかった。
アレド村は今まで雨の被害を受けたことが無かったため、村人達はその詳しい情報を、その雨から生き残った僅かな者達の証言が旅人や商人経由で伝え広がった噂程度でしか聞いたことがなかった。トールもまた同様である。ただその恐ろしさは、噂だとしても十分に伝わっていた。
おそらくアレド村のような小さな村に黒い雨が降り注げば、あっという間に村は壊滅してしまうだろう。
「黒い雨だーっ! 黒い雨だーっ!」
村人達がパニックになる中、その現況を作った言葉を発した半ば半狂乱の男が、同じ言葉を繰り返しながらトール達の傍を通り過ぎようとしていた。
「ちょっと待って!本当に黒い雨が来るの!?」
ミリアスは先ほどまでの冗談を交わしていた表情から打って変わった厳しい表情で、通り過ぎようとする男の手を掴み呼び止めた。
「あぁ!そうだよ!! さっき狩りに出て丘から獲物を探していたら、南東の方角にドス黒い雲が広がって、雲の下の景色が昼なのに暗くなっているのが見えたんだ!
あれは漆黒の雲が黒い雨を降らせているに違いねえ!
だから急いで村の皆に知らせに戻ったんだよ!!」
苛立ち気味に答えた男は、ミリアスの腕を振りほどいて再び「黒い雨だ」と叫びながら走り去った。
(早く屋根のある所に避難しなくちゃ。)
当面の解決策として、黒い雨を浴びないように屋根のある家屋に避難をし、やり過ごせば助かるという噂がまことしやかに広がっていた。
「ミリアスさん、早く診療所の中に避難しましょう。」
トールは避難を促したが、ミリアスは厳しい表情で空を見上げていた。
「・・・だめよ。」
「え?」
「黒い雨と一緒に、今まで黒死人になってしまった死人が押し寄せてくるの。
あいつらは自分の仲間を増やすためなのか分からないけど、建物に避難している人間も引きずり出して襲ってくるわ。
とんでもない力を持っているから、ちょっとした建物の壁なんて簡単に破壊して侵入してくるわ。」
「そ、そんな・・・そんなの聞いたことないですよ。」
「黒い雨の生き残りなんて少ないし、生き残っても実際に黒死人が襲ってきた混乱時だと何がどうなったのか覚えている人なんてなかなかいないからね。
でも、本当よ。」
(じゃあ、ミリアスさんはやっぱり生き残り…?)
トールがその疑問をぶつけようとしたが、ミリアスはなおも緊迫した口調で続ける。
「大勢が生き残る可能性が高いのは、この村で一番頑丈な建物に皆を避難させることよ。
黒死人は黒い雨の下でだけ活動をするから、そこで立て篭ってじっと静かに漆黒の雲が流れ去るのを待つのよ。」
「一番頑丈な建物・・・」
小さな村なので、普通の家屋以上の強度を持つ建物は自ずと限られた。
「丘の中腹あたりに、駐屯兵の詰め所があります。そこなら周りに壁や土嚢もあるし、建物そのものもかなりしっかりしていると思います。
あとはその隣に少し大きな教会があるので…その2カ所でなら、なんとか村人全員を受け入れることができると思います。」
「じゃああの叫んでいった人みたいに、その2カ所どちらかに避難するように村中の人に知らせて回って。」
「で、でも。あんまり時間が無いかもしれないし、僕の言うことを信じるかどうか…」
「ここから見る限り、まだ南東の空にそんな気配は無いし、漆黒の雲の速度はかなり遅いから多分大丈夫。
あと信用されるかどうかは、「生き残りが言っている」とでも言っておけば信じてもらえるでしょ。」
「じゃ、じゃあ やっぱりミリアスさんは…」
「もう分かったわね。
私はこっち側から知らせて回るから、皆を避難させたら教会の方で落ち合いましょう。」
そう言ってミリアスは先ほど男が叫び立ち去った方向とは逆方向に向かって「詰め所か教会へ避難するように」と叫びながら走り去った。
トールはミリアスが去ってからしばし呆然としていたが、ハッと我に返り、ミリアスと同じ言葉を発しながら彼女とは逆方向に走り始めた。
途中、苛立った村人に「どういうことだ。」と呼び止められることもあったが、ミリアスの言った通りに「生き残りが言っていた。」と伝えると急に目を輝かせ、詰め所と教会のある丘の方向へ走り去った。
小さな村なので、さほど時間もかからずに避難を促すことができた。みな黒い雨がよほど恐ろしいのか、通路や家屋につい先ほどまであった村人達の気配はすぐに無くなってしまった。
立ち止まり南東の方向を見ると、少しだけ黒い雲が見えた。一見するとただの雨雲に見えなくも無いが、雲の下も異常な薄黒さを放っていることで、黒い雨を降らせている漆黒の雲だということが推測できる。
トールは念のため避難し遅れた村人がいないか確認をしながら、教会へと急いだ。
教会へ辿り着くと、そこには半分足らずの村人が避難しているようだった。
足の速い男や若者達は我先にとより安全そうな詰め所の方に避難したのか、教会には避難が遅れたらしき老人と女子供ばかりが避難していた。
聖堂に供えてある神の偶像や、天に向かって祈りを捧げている者、互いに抱擁しあっている者達、不穏な気配を感じて泣き叫ぶ赤子、各々が不安に耐えているようだった。
その中にミリアスの姿は無い。
(ミリアスさん、もしかして教会の場所が分からないんじゃ。)
そう言えば詰め所と教会の場所を教えていないと気が付き、トールはミリアスを探しに外に出ようと教会の扉に手をかけた。その瞬間ーガチンーと錠が外れ、続けて―ギギ―と軋んだ音を立ててその扉が開いた。
「ミリアスさん! 良かった、心配したんですよ。」
「はあっ、はあっ、はあっ…トール、皆の避難は終わった?」
ミリアスはよほど走り回ってきたのか、肩で息をしながら教会の聖堂の中に入り、扉をしっかりと閉めた。
「え、えぇ。ここには半分足らずってところですけど、残りは詰め所に入り切るでしょうから。 多分全員どちらかに避難し終わったと思います。」
「そう。
もうかなり雲が近づいて来ているから、どっちにしろ限界ね。
じゃあここの入り口の扉と窓、あと外から入れそうな所を全部塞ぎましょう。」
「分かりました。」
ミリアスとトールは、教会へ避難した割と力のありそうな女達と協力をして入り口と裏口、1階の全ての窓、通風口まで、外に繋がる開口部を塞ぐことにした。
「ここまでしないと、黒死人が入り込んできてしまうんでしょうか?」
窓に板を貼付けながら、トールはミリアスに尋ねる。
「さあ、正直そこまで詳しくは分からないけど。
人の気配って感じることあるじゃない? あいつらも建物の中にそれを感じると、入ろうとしてきたりするみたいよ。
それに黒死人は黒い雨が降る所でしか活動しなくって、漆黒の雲の流れに沿って行きずりの町を片っ端から襲って回っているみたい。
だから最悪黒死人に気が付かれても、こういう板とかを張っておいて雲が流れていくまでの時間を稼げれば、うまくやり過ごせる…のかもね。」
「そう、ですか…」
トールはミリアスが黒い雨や黒死人について詳しく語るのを聞いて、先ほどミリアスが言った『生き残り』という言葉を思い出した。
「そう言えば、ミリアスさんがさっき言っていた「生き残り」って…」
「あー、そうだ。 少しは中から外の様子を探れた方が良いから、窓の板は少しだけずらして張り付けようか。」
「…はい。」
トールはミリアスが自分の言葉を遮ったのを感じ、それ以上その言葉を発するのをやめた。
黒痕のこともあるし、おそらく色々触れられたく無い過去があるのだろう。
その後、一部の窓の隙間を残した全ての開口部を塞いだ一同は、その残った隙間から外を伺いながら、じっと息を潜めた。
「私が合図をしたら、蝋燭の明かりを全部消して。
いい? 絶対に声を出したりしないでね。」
ミリアスとトールは同じ窓の別の覗き穴から外を探った。ちょうど隣に立つ詰め所を正面に捉える位置にある窓だ。
外の景色は、最初は強い雨が降る前のように少しずつ暗くなっていったが、やがて南東の方から少しずつ、日が沈みきった時のような、昼間ではあり得ないほどの闇が沈み始めた。
漆黒の雲が、ミリアス達の上空に流れ着いたのである。
表現の誤り、誤字脱字等ありましたら
ご助言とあわせてご連絡いただけると幸いです。