もやもやもや↑ ↓しとしとしと
翌朝、小雨が降っていた。
いつもの志樹ならば胸の内で静かに歓喜するのだろうが、今の彼の顔に浮かんでいるのは単純な焦りである。
振り返れば昨日、昼休み以降は特に何もなかった。いつも通りに不機嫌な朱音と陽気な駆が志樹の傍におり、彼は普通に授業を受けて家へ帰った。そもそも雨が降っていなかったのだから、帰りに喫茶店によろうともしなかったし、『ときあめさん』を思うことさえしなかった。
ただ、なかなか寝つけないということは彼には珍しくあった。唯月の言っていたことが記憶に残っており、考え事をしていたということならそれまでなのだが、ただ寝つけなかったというだけでは済まされない事態に志樹はさらされていた。
雨の中を傘も差さず、志樹は一目散に走る。常には使わない道を即席の近道として、死に物狂いで駆け抜ける。昨日、担任の跡部にいろいろと釘を刺されたという事実を思い出し、前に踏み出そうとする力が一層強くなった。
詰まる所、志樹は寝坊したのだ。
このまま走り続けても間に合うかどうか微妙なところではあるが、それでも歩く理由にはならない。
今の亀は前へ進んでいないんだ、と誰かが何処かから囁きかけてくる気がした。志樹はただ寝惚けているだけだと思い、感覚の底へと押し込む。
すると、突如として志樹の少し前をトラックが通りかかった。ある程度周りには気を配っていたおかげだろうか、志樹は特に危ない目には合わない。
ゆっくりと立ち止まり、道路を横断するために後続の車が通り過ぎるのを待つ。それは少しの休憩をも兼ねていたが、雨に濡れたせいかへばり付くような寒気が疲労よりも先立って嫌に感じられる。
最悪な日だ、と志樹は昨日のように心の中で呟いた。
そんな時、志樹が左右の車を確認するために首を動かした瞬間だった。
「……あ」
――何故か隣にいた『ときあめさん』と、目が合ったのは。
「あっ、えっ……えっ?」
言葉にならない疑問符を並べながら、思わず一歩退いてしまう志樹。彼の中では体を覆う寒気や遅刻するという焦りなど、既に何年前のことのように吹き飛んでしまっていた。
ただ、走っていたことからの息切れとはまた別に、心意的なことから荒くなる志樹の呼吸。全身に酸素を供給するために、先程まで強く打ち続けていた心臓はまさに張り裂けそうである。
どうして、どうして、と志樹は自問してみるが答えはでない。だいたいそのような漠然とした問いですらも、彼の意識を支える力にすらなりえない。
結果、誰が見ても志樹は、今にも卒倒してしまいそうであった。
「……え、えっと……」
その時の志樹がどのような表情をしていたのか、わざわざ描写することもないだろう。普段は冷静さを装う彼も、今は仮面が砕け散ったようにかつての面影すら残していない。
他方の『ときあめさん』は、頭を覆うフードの中でもよく分かるほどに顔面に怪訝さをくっきりと示していた。だが、それも少しのことのようで、志樹の正体に気付いたのかいつも通りの笑みを浮かべ始めた。
「……あっ。君は……『ねこつぶら』によくいるあの子だよね?」
「あ、えっと、そ、その……そうだと、思います……」
ちなみに『ときあめさん』の声は、志樹の想像していたもの通りであったらしい。大人っぽさを感じさせながらも、それでも何処か可愛らしさを覚える声である。
「良かった! 私、他の人の顔ってあんまり見ないようにしてるから、誰もうろ覚えで……たまに間違えたりしちゃうんだ。君のことはちゃんと覚えていて、なんか安心したよ」
しかし、存外に喋る人だなあと志樹は思う。言うまでもなく、志樹にとってそんなことは些細な問題であるのだが。
「私ね、あそこでずっと一人だったから、君がいることが嬉しかったんだ。勉強頑張ってる? 高校生だよね? 何処の高校なの?」
「あっ……えっと……」
『ときあめさん』の質問に何か気付いてしまったように志樹は戸惑う。確かに、喫茶店で一緒にいることが不愉快に思われていなかったり、親しく話しかけられたりと、安心すべきことはたくさんあるのだが、同時にそんなことにうつつを抜かしている状況ではないことに、志樹の意識は引き戻されていたのだ。
無論、この場から何も言わずに立ち去ってしまうことは出来ない。だからといって、このまま長話をしているわけにはいかない。
時計を見たり足踏みをし出したりして露骨に示すか、直接言って理解してもらうか、どちらも今の志樹には難易度が高いように思えた。
明らかに困ったという表情を向けることでしか、自身の気持ちを伝えられない今の志樹。彼はそんな自分を気恥ずかしく思ったのか、無意識に視線をあちこちに逸らしていた。
その時だったのだ。志樹の視界に『二つの花束』が映ったのは。
「――むっ。あ、お姉さん分かっちゃったぞ」
『ときあめさん』のちょうど足元に寝かされたものの理解が出来る前に、志樹は『ときあめさん』の言葉に気を取られてしまっていた。
「君、遅刻しそうなんでしょ。クモコーは厳しいからねー。私は少し前にあの高校通ってたから分かるんだ」
「え、ええ……まあ」
「それなら急いだ方がいいかもね。ちょうど車も通っていないようだし……スタートダッシュをするなら今のうちだよ、後輩くん」
志樹が道路の方を見ると、車は通っていないことが確認できた。今から全力で走れば間に合う、という気にもさせられる。
そうして、志樹が道路を越えた先にある雲野高校を想像していたからだろう。目前に差し出されたものを、かけられた言葉と一緒に知覚したのは。
「――だけど、例えどんなに急ぎ足でも、雨の日は傘を差して歩かなくちゃいけないよ」
同じような高さの二人の目線、その交錯する点の先で、志樹は『ときあめさん』の瞳を初めて覗いた。頭上の雨凌ぎの影に隠れようとするのは、深い青色を帯びた二つの瞳。ただ、彼女らが黒色であると自称する理由は、その奥底で確かに窺えた『僅かな誰かへの期待と、他の誰かへの悲哀』にある。
そのようなことをただ漠然と感じ取っていた志樹。胸に押し付けるように渡されたものに、慌てて視線を落とす。
異様に重い、と感じたのだ。
「そんなことを、昔の私は言われたから」
しかし、渡されたものの正体は傘だった。何処の誰でも差しているような、なんの変哲もない黒色の傘。大きさもやはり普通のようで、人二人をやっと入れられる程度であろう。
そこまで確認すると、志樹は『ときあめさん』へ顔を向けた。やはり言葉は出なかった。彼は何か言いたげに、『ときあめさん』のフードを見つめる。
「私は大丈夫だよ。……かっぱ着てるし」
彼女はそう言い、笑った。気丈であるという言葉が、何気なしに志樹の頭を掠める。
「さ、後輩くん。『雨降りの日々でも、雲より垣間見えた光が射す日でも、君は構わず前へと進め。傘を持った君に、立ち止まる理由などないのだから』」
『ときあめさん』は高校の方へと指をさした。まるで演劇のように気取られた言葉の数々に、志樹は呆気にとられるだけだ。
すると、志樹の開いた口の隙間を埋めるように、『ときあめさん』はくすりと笑った。
「――なんてね。今のはちょっとお役者さんっぽかったでしょ?」
志樹の反応を待たずに、彼女は続ける。
「ま、君には学校があるんだ。お喋りな私に構っていないで早く行くといいよ。私が長々と話してたから行けなかった……って感じなら謝るよ。ごめんね」
『ときあめさん』は申し訳なさそうな顔でそう言った。
「あ、いえ……その……傘、ありがとうございました」
彼女の謝罪を聴いた志樹は、慌てた様子で一礼するとようやく走り出す。緊張していたせいだろうか、他に浮かんだ様々な言葉を志樹は口にすることが出来なかった。
「さようなら。また雨の日、『ねこつぶら』で会おうね」
志樹をフォローするように、『ときあめさん』は彼の背中にそっと声をかける。彼女の言葉は走る志樹を後押しするように響いた。
だがそんな響きとは対照的に、何処か彼を引き止めたいと思うような寂しさが、確かに存在している。実際に耳にした志樹はそんな気がしていた。もしかすると、これは志樹の都合のいい妄想なのかもしれない。
構わない、といった様子で足は止めずに志樹は振り返る。
視線の先は、既に道路を跨いだ反対側。『ときあめさん』の淡い笑みは、薄い雨のカーテンに紛れるようにして朧気になっていた。それでも、何かを示唆しているように志樹には見えたのだ。
片手に持っていた雨傘に気付き、志樹は両手でそれを慎重に開く。すると深い暗みが志樹を覆い、心なしか体に染みついていた寒気が拭われるような気がした。
いい傘だ、と志樹は思い、感謝の意味も込めて「さようなら」を呟く。その口調に、最初の覚束なさはもうない。傘を片手に持ったまま、志樹は視線を前に戻して走り続ける。
今の雨はそのうち止むのではないか。志樹の頭にそんな根拠のない憶測が突拍子もなく浮かんだ。すると、『靴を飛ばす』ことを昨日はしなかったのを志樹は思い出す。
そんな調子の彼は、あの二つの花束をもう覚えてはいないのだ。