予報通りの雨の日↑ ↓期待外れの晴れの日 (後編)
「今日はいい天気だね」
深みへと沈みかけていた志樹の意識は、自身へ囁きかけるような声に覚醒した。
ゆっくりと目を開け、開けた視界に映ったのは志樹の知らない顔である。
「言うならば日傘日和だ。僕は雨の日よりずっと好きだよ」
知的だということが第一印象だった。だらしなく髪を伸ばした志樹とは対照的に、目前の彼は綺麗に整った髪を春風になびかせる。その真下にある額縁の深いメガネは、ぱっちりと開いた目元を一層強調させているようだった。結局のところ、賢そうな印象はだいたい鼻より上からきている。
そのようなことが間近で分かるほど、まさに目と鼻の先という感じで近づけられた笑顔。志樹は眉間に皺を寄せ、嫌がっているのだと露骨に表情に表わした。
「おっとごめんね。君の顔をもっと近くでみたくてさ」
その発言はどうなのか、と志樹は内心思いながら、男子生徒の顔が離れたのを確認すると、ようやく上半身を起こす。
「はじめまして、かな。僕は朝の時点で君の存在を知っていたけど、こうして話すのは初めてだね。僕の名前は冬川唯月。三年二組に所属しているよ。よろしく、傘木志樹君」
男子生徒、冬川唯月はまるで志樹に口を開く暇を与えないかのように饒舌に語った。まるで話が志樹の知らないところまで一気に進んでいるような様子である。
すると流石の志樹も、このままでは完全に唯月のペースに飲み込まれてしまうと考えたのだろう。寝起きの回らない頭で、申し訳程度の返事を考え、口にする。
「……よろしく。……ところで、なんで俺の名前を?」
「そりゃ、あれだけ朝に騒いでいれば、誰でも君のことを知りたくなるだろうさ。詰まる所、僕もその一人でね」
唯月の言葉に志樹は顔をしかめる。朝の出来事といえば、先程まで思い起こしていたこと以外にないだろう。
唯月の言うことが正しければ、学校中に志樹のことが知れ渡ったことになる。日陰者であることを好む志樹にとって、それはかなり厄介なことであった。
「いや、だからといって心配することはないと思うよ? 僕たち学生の最大の本業は、青春という暇を持て余すことだ。みんななにかにかこつけて、一時の騒ぎに乗じたいだけなのさ。僕の興味関心は、その一部でないことを切に願うけどね」
要するに、学内の生徒は志樹のことを既に忘れているということなのだろう。
言いくるめられているような感じは志樹自身も覚えていたが、とにかく唯月の話には理解と返事を強いられるような鋭さがあった。
「しかし……ご覧よ。そんなことも些細なことのように、今日の太陽は燦々(さんさん)と輝いている。素晴らしい天気だ」
ソーラーパネルの合間から太陽を覗き込み、唯月は嬉しそうに目を細める。最初に志樹が覚えた、何処か大人びた印象とは反対に、唯月の表情は青空の下で野原を駆け回る少年にも見えた。
志樹から見ても、唯月は不思議な人物だった。
そもそも普通の生徒は、このソーラーパネルが設置してある屋上に立ち入りできることを知らない。普段から此処にはダイヤル式の鍵がかかっており、番号を知らなければ入ることはできないのだ。
以上のことより、学内の生徒の大半が「この屋上は入ることが禁止されている」と錯覚している。無論、それは間違いで、校則にも屋上が立ち入り禁止とは書いていないし、入りたければ特定の人物から番号を訊き出せばいいことなのだ。志樹はそうした一人である。
だからこそ、此処での唯月の存在は志樹にとって奇妙に見えた。まさに志樹が此処にいること、あるいは来ることを最初から知っていたような気がしたのだ。
「ところで訊きたいのだけど、君にとってこの天気は、予想通りなのか、期待外れなのかどっちなんだい?」
そんなことを悟ったのか、唯月は何食わぬ顔で話題を切り出す。
一瞬話の意図が掴めなかった志樹に、唯月は説明するように続けた。
「いいや、此処は直接的に問おうか。――昨日、『君の出した予報』は当たっていたかい?」
その時、志樹の目が思わず大きく見開いた。
志樹の反応を見てか、唯月は楽しそうに笑う。
唯月の言ったことは志樹と親しい者にしか分からないはずのことだ。もし唯月が真面目に言っているのなら、本来赤の他人であるはずの彼は、志樹のあらゆることを知っていることに等しい。
「ど、どうして……?」
「いやいや、第一そんなに驚くことはないだろう? 僕の知識欲は常人のそれとは違うだけ、ただそれだけさ」
唯月の説明だけでは不十分であると志樹は思ったが、どうにも口を挟もうとする気が失せてしまう。理由は分からない。
「そんな僕の気質と同様に、君の才能も常人のそれとは違うよね。だから――」
そこまで言うと、唯月は前触れもなく志樹に顔を寄せた。表情を変える間もなく反射的に仰け反る志樹に、唯月は不敵な笑みを浮かべる。
「僕は君のことをもっと知りたいな」
志樹の目前に映えた、爛々と輝く二つの瞳。まるで夜空に光る月のように、神秘的とさえいえる光を、唯月の瞳は持っていた。
「……とりあえず、離れてくれ」
「おっと、ごめんよ」
照れ隠しのようにはにかむ顔も、何処か怪しげである。
傍から見れば唯月のそれは美少年の笑顔で、誰でも好感を持てそうな気はするのだが、今の志樹には嫌悪感しか抱けない。
「ふふっ。僕の知識欲と君の全ては、かつて詠われたアキレスと亀の競争のようだ」
「……なんだ、それは」
離れていく唯月を睨みつけながら、志樹はせめての反抗といった様子で問う。
「なにって、アキレスと亀のお話だよ。わりと有名なパラドクスじゃないか。まあ、知らないのなら教えてあげよう」
そんな言葉に対して、唯月の口調に蔑むような感じはない。
むしろこれから志樹に説明できることを、ただ純粋に嬉しがっているように見えた。
「昔々、古代ギリシャにゼノンという哲学者がいたんだ。彼はこの世にある運動というものを否定するために、とある寓話をでっち上げた。それがアキレスと亀の競争、そのお話さ。簡単に言うと、二者の中で亀は最初にスタートして、ある程度スタート地点から離れる。それからアキレスが遅れてスタートして、亀を追い抜かせるのか、って思考実験だ。ちなみにアキレスと比べればずいぶんゆっくりとではあるけど、亀は確実に前へと進んでいるよ」
「……どういうパラドクスか知らないが、追い抜かせないわけがないだろ」
志樹は唯月が言ったことを頭に思い浮かべながらそう答えた。
「まあ、そう思うだろうね」
対して、志樹の率直な意見を唯月は快く思ったのだろう。大層満足げに再び話始める。
「しかしどういう理屈か、ゼノンは微小の距離までは縮むかもしれないけど、結果的にアキレスが亀に追いつけないことを証明してしまったんだ。その理屈が気になるのなら調べてみるといい。ただ、誤謬を含むことを承知しながらも、僕なりに説明するのなら、『やはりアキレスが前へ進んでいるのと同様に亀も前へ進んでいるから』かな」
「意味が分からない」
「いや、屁理屈ってだいたいそういうものだよ。本人がしたり顔で話したことは、だいたい他人にはあまり理解されないのさ」
誰に言っているのか分からないが、何故か説得力があった。
「それで、僕の知識欲と君の全ても同じだなあって思うんだ。僕がどんなに頑張ろうとも、悠々と前を歩く君の全てに追いついて、そのほんの一片すら理解できるとは思わない。知識という餌に釣られて、走り続ける獣のようなものなのかもしれないね、僕は」
唯月の顔に一瞬だけ自嘲的な笑みが映える。
「ただ、僕が間違っているとは思わない。『歩みをその人の一生とするなら、どんなことがあろうとも人は立ちどまることを知らない。常に歩き続け、変化をする』。君を含めて、誰もがそうだと思うよ」
だから、と唯月は言葉を繋ぐ。
「良いんだ。僕らは常にアキレスと亀の数直線上で歩いている。同時に、各々何かを追いかけるように走っている。それを間違っているだなんて否定しちゃ、僕ら自身を否定しているのと同じだしね。実際、手に取るように分かる、なんて思えることはなにもかも、今日までの科学の進歩が自発的に否定しちゃったよ」
「……俺には、よく分からない」
僕もだよ、とすぐに応える唯月は、まんざら嘘を言っているわけではないように志樹には見えた。
「ところで君にも心当たりはないかい? かのアキレスと亀のように、その微小の距離までは縮まれども、結果的に追いつけないような関係を」
その時、不意に思い出されるように、志樹の脳裏を過ったのは何故か一人の少女の顔、あの表情。志樹の胸の内にある何かを揺るがすように、ただ少女は彼を見つめている。
「……どうだろう」
それでも、何事もなかったかのように答える志樹。
応じて唯月が、何かを悟ったように笑みを深めるのを志樹はあえて見ないようにした。
「まあいいや。お喋りも過ぎたね。そろそろ時間だしさ」
唯月はそれだけ言うと、ゆっくりと立ち上がる。
その動作と同時に鳴り出したチャイムからは、それは唯月が生み出したものではないかという幻想的な錯覚さえ受ける、
実際はそのようなことはないようで、今鳴った現実的な鐘は、昼休み終了五分前を告げるものだ。
彼らがいる屋上は旧校舎の上にあり、教室へ戻るのには少々時間がかかることから急がなければならないかもしれない。
志樹はそんなことを考えながら、屋上の上段から下段へと軽快に飛び降りる唯月を眺めていた。
「それじゃあ、傘木志樹君。また会えることを楽しみにしているよ」
そう言い残し、一足先に屋上から立ち去る唯月。彼の姿が視界から消えたところで、志樹はふと空を見上げた。
相変わらず、見えるものといえば雲一つない晴天である。
唯月が言ったように、このことは志樹には完全に予報はできていた。また、『あのこと』は志樹にはある程度予想はできていた。
しかし、志樹の思考の中には厚い雲のように、もやもやとした何かはいまだに蔓延っている。それは今日空にかかるはずだった雲が、さながら志樹の頭の中に吸い込まれたようであった。
そのようなことを志樹は残された僅かな時間で漫然と考えると、唯月と同じように飛び降りて、屋上から出ていこうとする。
最中、志樹はふと振り返って、ソーラーパネルを見た。それは日を遮ることは出来ようとも、誰にも雨をしのがせることは出来ない。
太陽の光にきらめく長方形を志樹が一瞥すると、彼の髪を撫でるように春風が通り過ぎた。
ただ、どれも志樹の中の曇りを拭い去ることは出来ないのだ。
瞳に黒さを戻し、志樹は再び日常に身を投じてゆく。この日の授業の時間も、いつも通りに過ぎていくことだろう――。
本人は気付いていないのだろうが、その日の志樹は『ときあめさん』のことについて特に考えを巡らせることはなかったのであった。